
今回は高山右近について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!領地も財産も全部捨てて信仰を守り続けた、戦国時代でも超レアな武将なんだ。なぜそこまでできたのか、その生涯に迫っていこう!
戦国時代、織田信長や豊臣秀吉のもとで活躍した有能な武将のひとりに、高山右近という人物がいます。築城の名手であり、優れた茶人としても知られた、まさに「文武両道」の名将でした。
……ですが、右近の本当のすごさは、その武勇や教養ではありません。
実は高山右近は、領地6万石・武将としての地位・家臣たちの暮らし、そのすべてを「たった一つの信仰」のために手放した、日本史上でも稀有な存在なのです。豊臣秀吉から「キリスト教を捨てれば領地を安堵する」と迫られても、彼は信仰を選びました。これほど自分の信念に忠実に生き抜いた戦国武将は、ほかにほとんどいません。
では、なぜ右近はそこまでして信仰を守り通したのでしょうか。その生涯を、最初からたどっていきましょう。
高山右近とは?信仰のために全てを捨てた武将
① 戦国〜江戸初期のキリシタン大名で、領地6万石を捨ててまで信仰を守り抜いた武将。
② 豊臣秀吉のバテレン追放令・徳川幕府の禁教令で次々と追い詰められ、最後はマニラへ国外追放された。
③ 2017年、カトリック教会から「福者」に列福された、日本を代表するキリシタンのひとり。
高山右近は、1552年(または1553年)頃に摂津国(今の大阪府北部)で生まれた戦国武将です。父・高山飛騨守がキリスト教に入信した影響で、右近自身も少年時代に洗礼を受けました。そのときに授かった洗礼名がジュスト(Justo)。ラテン語で「公正・正義」を意味する名前です。
武将としての右近は、織田信長・豊臣秀吉に仕え、高槻城・明石城の城主を務めた一流の人物でした。茶の湯では千利休に学び、「利休七哲」と呼ばれる高弟のひとりにも数えられています。
しかし右近の人生を決定づけたのは、武勇でも茶道でもなく、そのゆるぎない信仰でした。権力者に「信仰を捨てよ」と迫られるたびに、彼は地位や領地のほうを手放したのです。次の章からは、その人生を順を追って見ていきましょう。
少年右近、キリストに出会う——洗礼と信仰の目覚め
右近とキリスト教の出会いは、まだ少年だった頃にさかのぼります。きっかけをつくったのは、父の高山飛騨守でした。
飛騨守はもともと熱心な仏教の信者でしたが、あるときロレンソ了斎という日本人修道士と宗教論争をすることになります。ロレンソは、もともと琵琶法師(琵琶を弾いて物語を語る盲目の芸能者)だったという、異色の経歴を持つキリスト教の伝道者でした。

論争で言い負かそうとしたのに、逆に入信しちゃったの?

そうなんだ!飛騨守はロレンソの話にすっかり感動して、自分から洗礼を受けてしまったんだよ。そして家族や家臣にもキリスト教を勧めたんだ。こうして1563年頃、まだ11〜12歳くらいだった右近も洗礼を受けることになったんだよ。
このとき右近が授かった洗礼名が、先ほど紹介したジュストです。「公正・正義」を意味するこの名前は、のちの右近の生き方を予言するかのように、彼の人生にぴたりと寄り添っていくことになります。

ジュスト――「公正であれ、正しくあれ」。わたしはこの名とともに生きていく。
幼い頃に芽生えた信仰は、右近の心に深く根を下ろしました。武士の世界では、主君が変われば信じる神も簡単に変えるのが当たり前だった時代です。しかし右近にとって、信仰は「都合で変えられるもの」ではなく、自分という人間の芯そのものになっていったのです。
ロレンソ了斎は、戦国時代に活躍した日本人のイエズス会修道士です。もとは盲目の琵琶法師でしたが、宣教師フランシスコ・ザビエルと出会って入信。流暢な語り口と深い知識で多くの人々をキリスト教に導き、高山右近の父・飛騨守を入信させたのもこの人物だと伝えられています。日本人による布教の草分け的存在でした。

高槻城主として活躍した高山右近——”伴天連の大旦那”と呼ばれた武将
成長した右近は、武将として頭角を現していきます。1573年頃、父とともに高槻城(今の大阪府高槻市)の城主となり、摂津国の有力な大名のひとりになりました。やがて織田信長の家臣として認められ、戦場でも数々の武功をあげていきます。
城主となった右近が力を入れたのが、領内でのキリスト教の布教でした。教会(当時は「南蛮寺」とも呼ばれました)を建て、宣教師を手厚く保護し、自らも領民に信仰を勧めたのです。その熱心さから、右近は人々に伴天連の大旦那と呼ばれるようになりました。
右近はさらに、高槻城下にイエズス会の学校「セミナリオ」を設立しました。セミナリオとは、ラテン語や音楽・絵画などを教える初等・中等教育の学校で、いわば戦国時代の「ミッションスクール」です。高槻のセミナリオでは日本各地から集まった子どもたちが学び、右近が高槻を去ったのちも、多くの卒業生が信仰のために命がけで生きた記録が残っています。

「伴天連(バテレン)」って、よく聞くけど何のこと?

「伴天連(バテレン)」は、ポルトガル語の「パードレ(padre=神父)」がなまった言葉で、キリスト教の宣教師のことだよ。だから「伴天連の大旦那」っていうのは、今でいえば「宣教師たちのいちばんの大スポンサー」みたいなイメージだね!
右近の布教はとても効果的で、高槻の領内では領民の多くがキリスト教徒になったと伝えられています。教会を支援するだけでなく、自ら信仰を実践する右近の姿勢が、人々の心を動かしたのでしょう。武将でありながら、ひとりの宣教者のように生きていたのです。
■荒木村重の謀反と右近の選択
右近の信仰が最初に大きく試されたのが、1578年に起こった荒木村重の謀反でした。
荒木村重は、当時の右近にとって主筋にあたる人物(摂津国の支配を任されていた織田家の重臣)です。その村重が、突然主君・織田信長に反旗をひるがえしたのです。右近は、信長に従うべきか、それとも恩のある村重につくべきか、苦しい決断を迫られました。
このとき信長は、右近を従わせるために強烈な手を打ちます。「もし従わなければ、領内のキリシタンや宣教師たちに危害を加える」とほのめかしたのです。信仰を盾に取られた右近は、深く悩みました。

たとえ城を失っても、信仰の仲間を危険にさらすわけにはいかない……。わたし自身が城を出よう。
悩んだ末、右近は信仰を守る道を選びました。伝えられるところによれば、右近は武装を解き、紙の衣をまとった姿で信長のもとへ出向き、城を明け渡したといいます。武士の意地よりも、信仰の仲間の命を優先したのです。この決断によって右近は一時的に領地を失いましたが、のちに信長から許され、ふたたび高槻城主に返り咲きました。

このとき荒木村重についてた人たちって、どうなったの?

謀反は失敗して、村重は最後には城を捨てて逃げ出してしまったんだ。残された村重の一族や家臣たちは、信長によってきびしく処罰されたと言われているよ。右近が「信長につく」と決めたのは、結果的に多くのキリシタンの命を救う選択だったとも言えるね。
■本能寺の変後、秀吉のもとで活躍
1582年、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、右近はいち早く豊臣秀吉の側に参陣しました。直後の山崎の戦いでは先鋒として奮戦し、光秀を破る大きな功績をあげています。
秀吉のもとでも右近は武将として重用され、1585年には明石(今の兵庫県明石市)に6万石(諸説あり)の領地を与えられ、明石城(船上城)の城主となりました。武将としての右近は、まさに順風満帆。誰もが「右近はこのまま大大名へ出世していくだろう」と思ったことでしょう。しかし、その絶頂のときに、彼の人生を一変させる出来事が起こります。
バテレン追放令——秀吉の前に全てを捨てた
1587年、九州を平定した豊臣秀吉は、突如としてバテレン追放令を発令します。これは、キリスト教の宣教師(バテレン)を国外へ追放し、布教を禁止する命令でした。それまでキリスト教に寛容だった秀吉が、なぜ態度を一変させたのでしょうか。
背景には、キリシタン大名が領民に強引に改宗を迫ったり、教会へ寺社の土地を寄進したりする動きが広がり、秀吉が「これは天下の支配を脅かしかねない」と警戒したことがあったとされます。長崎がイエズス会に寄進されていた事実なども、秀吉を刺激しました。
このとき秀吉は、家臣であるキリシタン大名たちに「信仰を捨てるか、領地を捨てるか」の二者択一を迫りました。多くの大名は、領地や地位を守るために、表向きは信仰を捨てる道を選びます。ところが――。

「信仰を捨てるフリだけ」って大名もいたんでしょ?なのに右近は、なぜ本当に領地のほうを捨てちゃったの?

そこが右近のすごいところなんだ。今でいえば、会社から「その信念を捨てれば役員のままでいい」と言われても、収入も地位も全部投げ捨てて自分の信じることを貫く人、みたいなイメージだよ。右近にとって信仰は「フリ」でごまかせるものじゃなかったんだね。
右近は、信仰を捨てるフリをすることすら拒みました。秀吉が「キリスト教を捨てれば領地を安堵する」と直接迫っても、右近の答えは変わりません。彼は自ら明石6万石の領地を返上し、武将としての地位も家臣も、すべてを手放したのです。

領地も財産も地位も、すべてお返しいたします。それでもわたしは、ジュストであることをやめません。
一国一城の主が、信仰のために何もかも投げ捨てる――この潔さに、秀吉も処刑まではためらったと言われています。領地を失った右近はしばらく、キリシタン大名・小西行長に保護されて小豆島に身を寄せました。そしてその翌年(1588年頃)、加賀(今の石川県)の大名・前田利家のもとへ迎えられることになりました。利家は右近の人柄と才能を高く評価し、客分(賓客としての家臣)として金沢で暮らすことを許したのです。
📌 豆知識:バテレン追放令は出されたものの、秀吉は南蛮貿易(ポルトガルとの貿易)の利益は手放したくなかったため、布教の取り締まりは実際にはそれほど徹底されませんでした。本格的なキリスト教弾圧が始まるのは、徳川幕府の禁教令(1612〜1614年)以降のことです。
前田家での高山右近——加賀での26年間と茶道

1588年頃から、右近は前田利家のもとで暮らすことになります。加賀百万石で知られる前田家は、当時最大級の大名家。右近はその客分として手厚くもてなされ、金沢を拠点におよそ26年間という長い歳月を過ごしました。
領地こそ失いましたが、右近の能力が衰えたわけではありません。前田家では築城や町づくりの面でその才能をいかんなく発揮し、金沢城の改修や城下町の整備に大きく貢献したと伝えられています。また、利家の跡を継いだ前田利長からも厚く信頼され、軍事の相談役としても重んじられました。

金沢での右近にまつわる、心あたたまる逸話があります。あるクリスマスの夜、右近は親しい武将たちを自宅に招き、ともに祝宴を開いたというのです。これは記録に残る、日本のごく初期のクリスマスパーティーのひとつとも言われています。信仰を公に表すことが難しくなりつつあった時代でも、右近は静かに、しかし変わらずキリストを信じ続けていました。

前田家は、キリシタンの右近をかくまって秀吉に怒られなかったの?

さっき話した通り、バテレン追放令はそこまで厳しく取り締まられなかったんだ。それに右近は領地を持たない「客分」だったから、大名としてキリスト教を広める立場ではなくなっていた。前田家としても、優秀な右近を手放したくなかったんだろうね。
■利休七哲の一人として——茶人・高山右近
武将としての顔とは別に、右近にはもうひとつ、卓越した「茶人」としての顔がありました。右近は茶聖と呼ばれた千利休に学び、利休の高弟の中でもとくに優れた7人「利休七哲」のひとりに数えられています。茶の湯の世界で「南坊」という名でも知られ、その腕前は当代一流と評されました。
利休七哲とは、千利休の弟子の中でとくに優れた7人の武将茶人を指す呼び名です。高山右近のほか、蒲生氏郷・細川忠興・古田織部らが数えられます(メンバーには諸説あります)。当時、茶の湯は武将のたしなみであると同時に、人と人とをつなぐ大切な社交の場でもありました。
右近にとって茶の湯は、単なる趣味ではありませんでした。静かな茶室で心を見つめる時間は、彼の信仰生活とも深く結びついていたと言われます。また、蒲生氏郷・黒田孝高(如水)らの入信を右近が勧めたことは記録に残っており、同じ利休七哲の細川忠興の弟も右近のすすめでキリスト教に改宗するなど、右近のキリシタンとしての影響力は茶の湯の交友にも広がっていました。信仰と茶道は、右近の中でしっかりと結びついていたのです。
徳川幕府による国外追放——マニラへの最後の旅
金沢で穏やかな日々を送っていた右近に、ふたたび大きな試練が訪れます。豊臣の世が終わり、徳川家康が天下を握ると、キリスト教への締め付けは秀吉の時代とは比べものにならないほど厳しくなりました。
1614年、徳川幕府は本格的な禁教令を出し、信仰を捨てない宣教師や有力なキリシタンを国外へ追放することを決定します。このとき追放の対象に選ばれたのが、日本を代表するキリシタンとして名高かった高山右近でした。
幕府は右近に、最後までこう迫りました。「信仰を捨てれば、日本に残ることを許す」と。しかし、若き日に「ジュスト」の名を授かってから半世紀。62歳前後になっていた右近の答えは、少しも揺らぎませんでした。彼は信仰を選び、住み慣れた日本を去る道を受け入れたのです。
同じ年、右近は家族や300人を超えるキリシタンたちとともに長崎から船に乗り、ルソン島のマニラ(今のフィリピン)へと旅立ちました。これが、右近の祖国・日本との永遠の別れとなりました。

故郷を離れるのはつらい。だがようやく、誰にはばかることなく信仰のまま生きられる土地に来られたのだ。
マニラに到着した右近は、現地のスペイン人たちから「信仰のためにすべてを捨てた高潔な武士」として、まるで国賓のような大歓迎を受けました。長い船旅の末にようやくたどり着いた、信仰の自由な地。しかし、その喜びもつかの間でした。

ようやくたどり着いたのに……右近はマニラでどうなってしまったの?

長く厳しい船旅と慣れない土地の暑さで、右近はすっかり体調を崩してしまったんだ。そしてマニラに着いてからわずか40日ほどで、熱病のため亡くなってしまった。1615年のことだよ。享年は63歳と伝えられているんだ(生年に諸説があるため62〜64歳とする史料もあるよ)。
異国の地でこの世を去った右近を、マニラの人々は深く悲しみました。スペイン人たちは右近のために盛大な葬儀を行い、その死を悼んだと伝えられています。領地も財産も、最後には祖国さえも失った右近。それでも彼は、生涯ただ一つ、信仰だけは決して手放しませんでした。「ジュスト=公正」という名のままに生き抜いた、その人生がここに幕を閉じたのです。
なぜ高山右近は信仰を捨てなかったのか?——その動機と信念
ここまで右近の生涯を見てきて、誰もがこう思うはずです。「なぜ右近は、領地も財産も、最後は祖国までも捨ててまで、信仰を守り通せたのか」と。同じ時代を生きた多くのキリシタン大名が、命や地位を守るために信仰を捨てた中で、右近だけがそれをしなかった。その理由を、ここで少し深く掘り下げてみましょう。
第一の理由は、右近にとって信仰が「あとから身につけた教養」ではなく、少年時代に心の芯まで染み込んだ生き方そのものだったことです。右近が洗礼を受けたのは11歳前後。物心ついたころからキリストの教えとともに育ち、修道士ロレンソの言葉を浴びるように聞いて大人になりました。彼にとって信仰は、武士でいることや日本人であることと同じくらい、自分という人間の根っこにあるものだったのです。
第二の理由は、洗礼名「ジュスト(Justo)」が示す通り、右近が「公正であること」「正しくあること」に人一倍こだわる人格だったことです。信仰を捨てるフリをして領地にしがみつくことは、右近にとって「ジュスト=公正」の名を裏切る、もっとも恥ずべき行為でした。本心では信じているものを「捨てた」と偽る――それは右近の生き方の根本に反することだったのです。
右近の洗礼名「ジュスト(Justo)」は、ラテン語で「正しい人・公正な人」を意味する言葉に由来します。英語の「ジャスティス(justice=正義)」と同じルーツの言葉です。地位や財産のために信念を曲げず、最後まで「正しいと信じる道」を歩み続けた右近の生き方は、まさにこの名前そのものでした。名は体を表す――右近ほどこの言葉がぴったりくる人物も、そう多くはありません。
そして第三に、右近は「自分一人の信仰」ではなく「多くの人を導く立場の信仰」を生きていた点も見逃せません。右近を見て信仰を持った武将や領民は数多く、蒲生氏郷や黒田孝高(如水)らへの入信を右近が勧めたことは史料にも残っています。「自分が信仰を捨てれば、自分を信じてついてきた人々をも裏切ることになる」――その責任感もまた、右近を最後まで支えたのでしょう。

でもさ、信仰を守るって、ほかのキリシタン大名はやらなかったの?右近だけが特別だったの?

いい質問だね。実は、キリシタン大名の多くは「表向きは信仰を捨てて領地を守る」道を選んだんだ。小西行長のように信仰を貫いた大名もいたけど、領地・財産・地位をすべて自分から進んで投げ捨てたのは右近くらい。だから右近は「信仰のために全てを捨てた、ほぼ唯一の大名」として語り継がれているんだよ。
領地を守るか、信仰を守るか。多くの人が「現実的な選択」をする中で、右近はただひたすらに「正しいと信じる道」を選び続けました。それは決して頑固さや意地ではなく、自分の名「ジュスト」に恥じない生き方を貫こうとした、ひとりの誠実な人間の姿だったのです。
高山右近の列福(2017年)——日本初のキリシタン大名、福者となる
右近の死から、およそ400年後――。2017年2月7日、大阪城ホールに約1万人が集まり、ある特別な式典が行われました。それが、高山右近の列福式(れっぷくしき)です。この日、右近はカトリック教会から正式に「福者」と認められました。これは、日本人として、そして日本のキリシタン大名として初めての列福でした。
列福とは、カトリック教会が、信仰のために模範的な生涯を送った人を「福者(ブレッシド)」として公式に認める手続きのことです。福者は、人々から尊敬を集める「聖人(せいじん)」の一段手前の位置づけにあたります。福者になった人は、教会から「この人にならって生きましょう」と公に示される、いわば信仰の手本として認められた存在なのです。
右近が列福された理由は、彼が「信仰のために、地位も財産も、そして命までも惜しまなかった生き方」を貫いたと認められたからです。実際に処刑されたわけではありませんが、領地・財産・祖国のすべてを失い、追放先の異国で生涯を終えた右近は、自らの信仰のために殉じた「証聖者(しょうせいしゃ)」として評価されました。

400年も経ってから認められるなんて……。今を生きる私たちにとって、右近の列福にはどんな意味があるのかしら?

右近の生き方は「自分が信じるもの・大切にしたいものを、まわりに流されずに守り抜く強さ」を教えてくれるよね。これって、信仰の話だけじゃなく、現代を生きる僕たちにとっても大事なメッセージだと思うんだ。「信じる自由」「良心の自由」の尊さを、右近の人生は400年たった今も語りかけてくれているんだよ。
戦国の世に「すべてを捨ててでも信念を貫いた武将」として生き、400年の時を超えて「福者」として認められた高山右近。その生涯は、ただの歴史上の人物にとどまらず、「自分の信じる道をどう生きるか」という問いを、今を生きる私たちにも投げかけてくれているのです。
よくある質問(FAQ)
高山右近(1552年頃〜1615年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍したキリシタン大名です。摂津・高槻城主として織田信長・豊臣秀吉に仕えた有能な武将でしたが、1587年のバテレン追放令を受け、信仰を守るために領地・財産・地位のすべてを自ら手放しました。利休七哲に数えられる優れた茶人でもあり、2017年には日本初のキリシタン大名としてカトリック教会から「福者」に列福されています。
右近の父・高山飛騨守がキリスト教に入信したことが大きなきっかけです。父にならって右近も11歳前後で洗礼を受け、「ジュスト(公正・正義の意)」という洗礼名を授かりました。少年期に修道士ロレンソらの教えを受けて育ったため、信仰は右近にとって「あとから身につけた教養」ではなく、人格の根っこにある生き方そのものとなりました。
右近にとって信仰は少年時代から心の芯に染み込んだものであり、信仰を「捨てたフリ」をすることは、洗礼名「ジュスト=公正」に恥じる行為でした。また、右近を見て信仰を持った武将や領民も多く、「自分が信仰を捨てれば、信じてついてきた人々を裏切ることになる」という責任感も彼を支えました。こうして右近は明石6万石の領地を自ら返上し、武将としての地位もすべて手放したのです。
高山右近は茶聖・千利休に学んだ弟子で、利休の高弟の中でもとくに優れた7人「利休七哲」のひとりに数えられています。茶の湯の世界では「南坊(なんぼう)」の名でも知られ、その腕前は当代一流と評されました。右近にとって茶の湯は単なる趣味ではなく、心を見つめる時間として信仰生活とも深く結びついていたとされます。
列福とは、カトリック教会が、信仰のために模範的な生涯を送った人を「福者(ふくしゃ)」として公式に認める手続きのことです。福者は聖人の一段手前の位置づけにあたります。高山右近は2017年2月7日、大阪城ホールで行われた列福式で、日本のキリシタン大名として初めて福者と認められました。信仰のために地位も財産も惜しまなかった生き方が評価されたものです。
高山右近は、1614年の徳川幕府による国外追放を受けてマニラ(現在のフィリピン・ルソン島)へ渡り、到着からおよそ40日後の1615年、熱病のため亡くなりました。享年は63歳と伝えられています(生年に諸説あり)。マニラの人々は右近のために盛大な葬儀を行い、その死を深く悼んだとされています。
まとめ:高山右近の生涯
-
1552年頃摂津国に生まれる(生年には1552年・1553年など諸説あり)
-
1563年頃11歳前後でキリスト教の洗礼を受ける。洗礼名「ジュスト」
-
1573年頃高槻城主となり、領内でキリスト教の布教を保護する
-
1578年荒木村重の謀反に際し、信仰のため織田信長側につく
-
1585年明石に6万石(諸説あり)を与えられ城主となる
-
1587年豊臣秀吉のバテレン追放令。領地を返上し信仰を守る道を選ぶ
-
1587〜1588年頃小西行長に保護されて小豆島に身を寄せ、その後前田利家の客分として金沢(加賀)へ。以後約26年間を過ごす
-
1614年徳川幕府の禁教令により国外追放。マニラへ出発
-
1615年マニラ到着から約40日後に熱病で死去。享年63歳(生年に諸説あり)
-
2017年カトリック教会が列福(大阪城ホール)。日本初のキリシタン大名の福者となる
高山右近についてもっと詳しく知りたい人へ

高山右近についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!学術書から小説・マンガまで難易度別にそろえたから、自分に合ったものを選んでみてね。

以上、高山右近のまとめでした。領地も財産も、最後は祖国までも捨てて、たった一つの信仰を守り抜いた——戦国時代でも本当に異色の生き方だよね。「ジュスト=公正」の名のまま生き抜いた右近の人生は、400年たった今も僕たちに大切なことを教えてくれる。下の記事で、信長・秀吉やキリスト教伝来についてもあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「高山右近」(2026年6月確認)
コトバンク「高山右近」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
カトリック中央協議会 高山右近列福関連資料(2026年6月確認)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
📚 戦国・安土桃山時代の記事をもっと読む → 戦国・安土桃山時代の記事一覧を見る







