徳川家定とは?病弱な13代将軍の素顔・篤姫との夫婦仲・将軍継嗣問題をわかりやすく解説

特集 | 詳しく見る 2026年 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」 登場人物まとめ

徳川家定

もぐたろう
もぐたろう

今回は江戸幕府第13代将軍・徳川家定とくがわいえさだについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「病弱なだけの暗君」というイメージは本当なのか?篤姫との夫婦仲・将軍継嗣問題の真相も含めて掘り下げていくね!

この記事を読んでわかること
  • 徳川家定の生涯と人物像(脳性麻痺・疱瘡を抱えた第13代将軍の素顔)
  • 篤姫との夫婦仲の真実(大河ドラマとの違いも含めて)
  • 将軍継嗣問題のポイント(一橋派 vs 南紀派・なぜ家茂を選んだのか)
  • 安政の大獄と家定の決断(井伊直弼登用の背景)
  • 「暗愚」説の真実(菓子作りを愛した人間的な素顔・再評価の視点)

「病弱で何もできなかった暗愚な将軍」——そんなイメージで語られることが多い徳川家定。けれども、それは本当の姿なのでしょうか。

実は家定は、脳性麻痺と見られる障害を抱えながら将軍職を全うし、篤姫に心を開いた優しさと、南紀派をみずから選んだ政治的な決断力をあわせ持っていた人物でした。菓子作りを趣味とし、側近に心を許した家定の等身大の姿は、教科書にはほとんど載っていません。この記事では、知られざる第13代将軍の素顔に迫っていきます。

スポンサーリンク

徳川家定とは?江戸幕府第13代将軍の素顔

3行でわかる徳川家定
  • 江戸幕府第13代将軍(在職1853〜1858年)。脳性麻痺と疱瘡の後遺症を抱えながら、黒船来航という歴史的危機に直面した
  • 篤姫(天璋院)を正室に迎え、短い結婚生活のなかで心を通わせた。後継ぎは残せなかった
  • 将軍継嗣問題で南紀派・徳川慶福(家茂)を選び、井伊直弼を大老に登用。安政の大獄が本格化する直前に35歳で死去した

徳川家定は、1824年(文政7年)、江戸城で生まれました。父は江戸幕府第12代将軍・徳川家慶とくがわいえよし、母は側室の本寿院です。

家慶には20人を超える子どもがいたとされますが、その多くが幼くして亡くなってしまいます。成人まで生き残ったのは家定ただ一人でした。つまり家定は、「数多くの兄弟姉妹のなかで唯一生き残った跡継ぎ」という立場で、半ば必然的に次の将軍候補になったのです。

ゆうき
ゆうき

徳川家定って、教科書にはあまり名前が出てこないけど、何をした将軍なの?

もぐたろう
もぐたろう

家定が将軍だった時期には、黒船来航・将軍継嗣問題・安政の大獄と、幕末の大事件が立て続けに起きたんだ。自分でガンガン政治を動かしたというより、激動の時代のど真ん中に立たされた将軍、というイメージだね。でも、それだけの人じゃないんだよ!

家定の在職期間は、黒船来航くろふねらいこうに始まり、安政五カ国条約の調印、そして井伊直弼による安政の大獄へと突き進む、まさに幕末の入口にあたります。次の章からは、その生涯を順番に見ていきましょう。

スポンサーリンク

病弱な将軍の誕生――脳性麻痺と疱瘡に苦しんだ幼少期

徳川家定の肖像画
徳川家定の肖像画(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

家定は幼いころから体が弱く、たびたび病に苦しみました。なかでも大きかったのが疱瘡ほうそう(天然痘)です。命は取り留めたものの、顔には深いあばたが残ったと伝えられています。

さらに家定には、首がたえず揺れる・言葉が出にくいといった症状があったことが、外国の使節が残した記録から知られています。こうした症状から、後世の研究者は脳性麻痺などの神経系の障害があった可能性を指摘しています。当時の人々はその姿を見て、「うつけ者(愚か者)」と陰口を叩くこともありました。

📌 「脳性麻痺」はあくまで後世の推測:当時の医学に正確な診断名は残っていません。ハリス(米国総領事)らの記録に書かれた症状をもとに、現代の研究者が脳性麻痺の可能性を指摘しているにすぎない点に注意が必要です。

とはいえ、家定は障害を抱えながらも、将軍に求められる礼儀や式典を一つひとつこなしていきました。側近たちのあいだでは、むしろ穏やかな人柄で知られていたといいます。そして家定には、人知れず夢中になっていた趣味がありました。それが「菓子作り」です。この意外な一面については、後の章でくわしく紹介します。

あゆみ
あゆみ

大河ドラマ「篤姫」では、家定が奇妙な言動をするキャラとして描かれていたけど、史実はどうだったの?

もぐたろう
もぐたろう

ドラマの家定は、けっこう脚色されているよ。史実でも首が揺れる・言葉が出にくいといった障害はあったけど、それは知性がなかったということとは別の話。むしろ落ち着いて判断できた場面もあったと言われているんだ。

スポンサーリンク

第13代将軍就任――黒船来航の嵐の中で

ペリー来航を描いた当時の浮世絵
ペリー来航を描いた当時の浮世絵(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

1853年(嘉永6年)、父・家慶が亡くなり、家定が第13代将軍に就任しました。ところが、その直前にとんでもない事件が起きていました。アメリカの提督ペリーが、4隻の軍艦(黒船)を率いて浦賀沖に現れたのです。いわゆる黒船来航です。

「開国するのか、それとも拒むのか」——日本中が騒然とするなかで将軍の座に就いた家定。しかし病弱だったため、日々の政務の多くは老中たちに任せていました。とはいえ、外交や人事の最終的な決定は、あくまで将軍の名のもとに下されます。家定は、激動の時代の「最終決裁者」という重い役割を背負うことになったのです。

ゆうき
ゆうき

政務を老中に任せていたなら、家定将軍は実際にはどんな仕事をしていたの?

もぐたろう
もぐたろう

細かい実務はやらなくても、「誰を大老にするか」「どの方針でいくか」という一番大事な決定は将軍の役目なんだ。後で出てくる井伊直弼を大老に選んだのも家定。つまり、ハンコを押す人=最後に責任を取る人だったんだよ。

📌 ハリス引見(1857年):アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが江戸城で家定に謁見しました。ハリスの日記には、家定が頭を後ろにのけぞらせるような動作を繰り返したと記されており、これが家定の障害を伝える有名な記録になっています。

篤姫との出会いと夫婦仲の真実

天璋院篤姫の写真
天璋院(篤姫)(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

家定は生涯で3度、正室を迎えています。1度目・2度目の正室はいずれも早くに亡くなってしまい、3度目に迎えたのが、薩摩藩・島津家の出身である篤姫あつひめ(のちの天璋院)でした。篤姫が江戸城に輿入れしたのは1856年(安政3年)のことです。

あゆみ
あゆみ

篤姫って薩摩出身なのに、なぜわざわざ江戸の徳川将軍家に嫁ぐことになったの?

もぐたろう
もぐたろう

これは政治的な思惑があったんだ。薩摩藩主の島津斉彬が、次の将軍に一橋慶喜を推すために、篤姫を将軍の正室として送り込んだんだよ。今でいう「大物を味方につけるための政略結婚」だね。でも篤姫は、江戸城に入ってからは徳川家の人間として強く生きていくことになるんだ。

こうして政略結婚として始まった2人の関係。けれども、家定と篤姫の結婚生活は、わずか2年足らずで終わってしまいます。家定が若くして亡くなってしまうからです。子どもには恵まれませんでした。

大奥に入った篤姫は、はじめて目にした家定の姿に驚いたと伝えられています。首がたえず揺れ、言葉が出にくい夫の姿は、薩摩育ちの篤姫には想像外のものでした。しかし日々の生活のなかで、家定が大奥の女性たちに自ら作った菓子を配って回る穏やかな優しさや、物事の本質を鋭く見抜く観察眼を持っていることを知っていきます。「この方は、見た目だけで判断してはいけない」——篤姫がそう確信したのは、ほどなくのことだったといわれています。

大河ドラマ「篤姫」(2008年)では、家定は内面に複雑なものを抱えた人物として描かれました。史実においても、篤姫に関わる記録からは、家定が彼女に心を許していた様子がうかがえます。政略から始まりながらも、2人のあいだには確かな信頼が育っていたのかもしれません。

徳川家定
徳川家定

篤とは、ようやく心が通じた気がした。本当は、もっと一緒に菓子でも作って、ゆっくり過ごしたかったのだがな…。

将軍継嗣問題――一橋派 vs 南紀派の対立

一橋派が推した徳川慶喜の肖像画
一橋派が推した徳川慶喜の肖像画(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

家定には子どもがいませんでした。そのため、「次の将軍を誰にするのか」をめぐって幕府内が真っ二つに割れます。これが幕末史の重要キーワード、将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだいです。対立は、大きく2つの陣営に分かれました。

一橋派(改革・雄藩連合派)徳川慶喜(一橋家)を推す。松平慶永・島津斉彬ら有力大名が支持

南紀派(幕府主導・保守派):紀州藩の徳川慶福(のちの家茂)を推す。井伊直弼・彦根藩らが支持

一橋派が推した徳川慶喜は、英明な人物として評判が高く、「この国難を乗り切るには慶喜こそふさわしい」と考える大名が多くいました。一方の南紀派は、年若い徳川慶福(家茂)を推します。血筋のうえでは慶福のほうが家定に近く、「将軍家の正統な血を継ぐべきだ」というのが彼らの主張でした。

では、最終決定権を持つ家定はどちらを選んだのでしょうか。意外なことに、家定が選んだのは南紀派の徳川慶福(家茂)でした。実子のいない家定が、有能とされた慶喜ではなく、年若い慶福を後継に指名したのです。

ゆうき
ゆうき

有能って言われてた慶喜じゃなくて、なんでわざわざ年下の慶福を選んだの?

もぐたろう
もぐたろう

これには諸説あるんだ。「一橋派にしつこく迫られて反発した」「血筋の近い慶福のほうが正統だと考えた」「井伊直弼ら南紀派のほうが幕府の権威を守ってくれると信頼した」などだね。なかには「うつけのふりをして、一橋派の圧力を巧みにかわしたんじゃないか」という再評価まであるんだよ。

徳川家定
徳川家定

わしを愚かと侮る者ほど、足元をすくわれる。誰を跡継ぎにするか——それだけは、わし自身が決めねばならぬのだ。

安政の大獄と家定の死――激動の幕末に散った35年

1858年(安政5年)、家定は井伊直弼を大老に任命しました。大老とは、必要なときにだけ置かれる臨時の最高職で、いわば老中たちの上に立つ「将軍の代理人」のような存在です。

大老・井伊直弼の肖像画
大老に任命された井伊直弼の肖像画(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

ゆうき
ゆうき

大老になった井伊直弼って、このあと何をしたんだっけ?

もぐたろう
もぐたろう

直弼は天皇の許可(勅許)を得ないまま日米修好通商条約を結んじゃうんだ。これを「違勅調印」っていうよ。そして、反対した大名や志士を次々に処罰する安政の大獄を始めるんだ。

井伊直弼は、家定が後継に指名した慶福(家茂)の体制を固めるため、反対勢力をきびしく弾圧していきます。これが安政の大獄あんせいのたいごくです。一橋派の大名や、吉田松陰・橋本左内といった志士たちが処罰され、なかには命を落とした者もいました。

ところが、その安政の大獄が本格化していくまさにその時期、家定は急死してしまいます。1858年(安政5年)7月、享年35歳という若さでした。死因については脚気説・コレラ説などがあり、現在もはっきりと特定されていません。あまりにタイミングが重なったため、後世には毒殺説もささやかれましたが、これは史料的な裏付けに乏しく、学術的には認められていません。

📌 家定の死因は「諸説あり」:脚気・コレラなどが挙げられますが、確定はしていません。毒殺説もありますが史料的根拠は薄く、一般には病死とされています。なお、安政の大獄は家定の死後も継続した点に注意が必要です。

あゆみ
あゆみ

家定が亡くなったあと、残された篤姫はどうなったの?

もぐたろう
もぐたろう

篤姫は天璋院と名を改めて、徳川家の人間として生き抜いていくんだ。のちの戊辰戦争では、生まれ故郷の薩摩を相手に、最後まで徳川家を守ろうと奔走したんだよ。短い夫婦生活だったけど、家定が遺したものは確かに篤姫のなかに生きていたんだね。

暗愚だったのか?徳川家定の再評価

ここまで見てきたように、家定は「病弱でなにもできなかった暗君」というイメージで語られがちです。たしかに、ハリスの記録に残る奇妙な動作や、言葉が出にくかったという話だけを聞けば、そう思ってしまうのも無理はありません。しかし、近年では家定を「ただの暗愚」と片づける見方を見直す動きが出てきています。

家定は本当に「暗愚」だったのか?
  • 「うつけのふり」説:将軍継嗣問題で家定は南紀派を選びました。これを「あえて愚かを装い、一橋派のしつこい圧力をかわした」ととらえる再評価があります。実子のいない自分の後継だけは譲らなかった点に、芯の強さを見る見方です。
  • 菓子作りという素顔:家定は手づから菓子をこしらえ、家臣にふるまうことを好んだと伝えられています。将軍が台所に立つのは異例のことで、ここには肩書を離れた人間らしい一面がのぞきます。
  • 役割を全うした事実:障害を抱えながらも、家定は江戸城での式典や外国使節の引見といった将軍の務めをこなし続けました。黒船来航という未曾有の危機のなかで、最終決裁者の座に座り続けたこと自体が、ひとつの「仕事」だったといえます。

もちろん、「うつけのふり」説はあくまで一つの見方であり、決定的な史料があるわけではありません。家定が本当はどこまで状況を見通していたのか、その内心を正確に知ることはできません。それでも、「病弱だから無能」という単純な図式では、家定という人物をとらえきれないことは確かでしょう。

徳川家定
徳川家定

菓子を作っているあいだは、わしは将軍でも病人でもない。ただの一人の人間でいられる。それが、何よりの安らぎだったのだ。

あゆみ
あゆみ

大河ドラマで描かれる「変わり者の家定」のイメージが強かったけど、こうして知ると印象がだいぶ変わるね。

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだ。脳性麻痺という障害を抱えながら将軍職を全うし、篤姫に心を開き、菓子作りに喜びを見出した家定。「暗愚」のひと言で片づけるには、あまりにも惜しい人物だと思わない?

書籍紹介:徳川家定・幕末を知るためのおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

徳川家定・篤姫・幕末にもっと興味が湧いてきた人に、おすすめの本を3冊紹介するよ!フィクションから学術書まで、目的に合わせて選んでみてね!

①篤姫・家定の人間ドラマを小説で楽しみたいなら|大河ドラマ原作の名作

新装版 天璋院篤姫(上)

宮尾登美子 著|講談社文庫

NHK大河ドラマ「篤姫」の原作となった歴史長編小説。薩摩藩主・島津斉彬の養女として江戸城に入り、第13代将軍・徳川家定とくがわいえさだの正室となった篤姫の生涯を、圧倒的な筆力で描き出した名作です。家定との夫婦仲や、幕末の激動に翻弄される天璋院の姿を、史実に沿いながらも人間ドラマとして堪能できます。


②幕末を「将軍の視点」で体系的に学びたいなら|家定・家茂の実像に迫る学術書

幕末の将軍

久住真也 著|講談社

幕末史の専門家・久住真也が、11代家斉から15代慶喜まで幕末期の将軍たちの実像を丹念に描いた学術書。将軍継嗣問題で翻弄された家定・家茂の姿も詳しく論じられており、「なぜ南紀派が勝ったのか」「幕末の将軍は何をしていたのか」を深く知りたい人に最適です。高校生・大学受験生にもおすすめ。


③黒船来航から明治維新まで流れを一気につかみたいなら|語り口が抜群の幕末通史

幕末史

半藤一利 著|新潮文庫

30万部を超えるベストセラー幕末通史。黒船来航(1853年)から西南戦争(1877年)まで、25年間の激動を半藤一利独特の語り口でわかりやすく解説。「難しい歴史書は苦手だけど幕末をまるごと知りたい」という人にぴったりです。家定が活きた時代の「大きな流れ」をつかむ入門書として最適。


よくある質問

徳川家定(1824〜1858年)は江戸幕府の第13代将軍です。第12代将軍・徳川家慶の子として生まれ、1853年の黒船来航と同じ年に将軍となりました。脳性麻痺や疱瘡の後遺症を抱えながら、将軍継嗣問題や日米修好通商条約の承認といった幕末の激動に直面し、35歳で亡くなりました。

理由には諸説あります。血筋のうえで慶福(のちの家茂)のほうが家定に近く「正統な血を継ぐべき」という考え、一橋派の強い圧力への反発、井伊直弼ら南紀派への信頼などが挙げられます。なかには「うつけを装って一橋派をかわした政治的判断だった」とする再評価もあります。いずれにせよ、後継だけは家定自身が決めたとされています。

当時の医学では正確な診断名は残っていません。ハリスの記録などに「頭を後ろにのけぞらせる動作を繰り返す」「言葉が不明瞭」といった症状が記されており、これをもとに後世の研究者が脳性麻痺の可能性を指摘しています。あくまで推定であり、確定した事実ではない点に注意が必要です。

篤姫(のちの天璋院)は家定の3番目の正室で、1856年に薩摩藩から輿入れしました。結婚生活は2年足らずと短く、子どもには恵まれませんでしたが、篤姫に関わる記録からは家定が彼女に心を許していた様子がうかがえます。政略結婚から始まりながらも、2人のあいだには信頼が育っていたと考えられています。

1858年(安政5年)7月に急死しました。享年35歳です。死因は脚気説・コレラ説などがありますが、はっきりとは特定されていません。安政の大獄が本格化していく時期に亡くなったため毒殺説もささやかれましたが、史料的な裏付けに乏しく、学術的には病死とされています。

子のいなかった家定の後継者をめぐる争いです。英明と評判の徳川慶喜を推す一橋派と、血筋の近い紀州藩の徳川慶福を推す南紀派が対立しました。最終的に家定は南紀派を選び、慶福が第14代将軍・徳川家茂となりました。この対立はのちの安政の大獄へとつながっていきます。

まとめ:徳川家定――障害を抱えた将軍が幕末に刻んだ足跡

徳川家定は、脳性麻痺や疱瘡の後遺症を抱えながら、黒船来航・将軍継嗣問題・安政の大獄という幕末の大波が立て続けに押し寄せるなかで将軍職を全うした人物でした。「病弱な暗君」という評価の裏には、篤姫に心を開いた優しさや、後継だけは譲らなかった意志、そして菓子作りを愛した素朴な人間味がありました。最後に、その35年の生涯を年表で振り返っておきましょう。

徳川家定の生涯年表
  • 1824年(文政7年)
    江戸城にて誕生。父は第12代将軍・徳川家慶
  • 1837年頃
    疱瘡を患い後遺症を負う。脳性麻痺とみられる症状もあったとされる
  • 1853年(嘉永6年)
    第13代将軍に就任。同年、ペリーが浦賀に来航(黒船来航)
  • 1854年(安政元年)
    日米和親条約締結。下田・箱館が開港される
  • 1856年(安政3年)
    篤姫(のちの天璋院)が正室として輿入れ。3度目の縁組
  • 1857年(安政4年)
    米国総領事ハリスが江戸城で家定に謁見
  • 1858年(安政5年)4月
    井伊直弼を大老に任命。これにより徳川慶福(南紀派)を後継とする方針が固まる
  • 1858年(安政5年)6月
    徳川慶福を将軍継嗣に決定し公表。同月、日米修好通商条約に調印(違勅調印)
  • 1858年(安政5年)7月
    急死。享年35歳。後継は徳川家茂(第14代将軍)
  • 1858〜1859年
    安政の大獄。井伊直弼が一橋派・尊攘派を弾圧(家定の死後も継続)

もぐたろう
もぐたろう

以上、徳川家定のまとめでした!「病弱な暗君」という評価の裏にある等身大の人物像、伝わったかな?下の記事で、慶喜・井伊直弼・幕末の流れもあわせて読むと、家定が生きた時代がもっと立体的に見えてくるよ!

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「徳川家定」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「将軍継嗣問題」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「安政の大獄」(2026年6月確認)
コトバンク「徳川家定」(日本大百科全書・世界大百科事典)(2026年6月確認)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

スポンサーリンク
【大事なお知らせ】YouTube始めました!!

2024年2月、YouTubeチャンネル「まなれきドットコムちゃんねる」を開設しました。

まだ動画は少ないですが、学生や大人の学び直しに役立つ動画をたくさん増やしていくので、ぜひ下のアイコンからチャンネル登録、よろしくお願いいたします。

チャンネル登録する

この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

もぐたろうをフォローする
未分類