今回は、奈良の大仏を建立したことで有名な聖武天皇についてわかりやすく丁寧に紹介していきます。
特に以下の点を中心に聖武天皇について迫ってみようと思います。
この記事を最後まで読めば、聖武天皇がどんな人だったのかバッチリわかるはず!
聖武天皇即位の背景
最初に、聖武天皇が即位するまでの流れを確認しておきます。
先に結論だけを簡単にまとめておくと、聖武天皇が即位したのは「天武天皇の皇統を守るため」でした。
しかし、皇統を維持するのは容易ではなく、聖武天皇が即位するまでの間、壮大な皇位継承ラリーが行われます。
- 672年
大友皇子VS大海人皇子による皇位をめぐる争い勃発。
大海人皇子の勝利!
- 673年大海人皇子、即位して天武天皇に。
- 690年持統天皇、即位
次期天皇になるはずだった息子の草壁皇子が689年に若くして他界。草壁皇子の遺児だった軽皇子もまだ幼かったため、ピンチヒッターとしてその母の持統天皇即位。(天武天皇は686年に崩御していた)
- 697年文武天皇、即位
軽皇子が成長してきたので、皇位を軽皇子にバトンタッチ。これが文武天皇。
701年、文武天皇の息子の首皇子が生まれる。(これが後の聖武天皇!)
- 707年〜724年元明天皇・元正天皇、即位
707年、文武天皇が崩御。その息子の首皇子がまだ子供のため、その母の元明天皇が即位。
715年に元明天皇が譲位すると、次は文武天皇の姉だった元正天皇が即位。聖武天皇が成長するまで皇位のバトンリレーが続く。
- 724年聖武天皇、即位
成人した首皇子が聖武天皇として即位。十年以上の歳月を要してやっと天武系の正式な後継者が天皇に・・・!
・・・登場人物が多すぎますよね(汗。というわけで、天皇を中心に関係人物を系図にまとめておきました。記事を読み進める際の参考にしてください!
壬申の乱の勝者である天武天皇が即位した後、当初の予定では上の系図の天武天皇から繋がる赤い線、
天武天皇→草壁皇子→文武天皇→聖武天皇
が、皇位継承の順番となるはずでした。
・・・が、草壁皇子と文武天皇が若くして亡くなったことでこの計画は狂います。そして、その狂いを正すため、後継者が成長するまでのつなぎ役として女帝が次々と即位します。
と3人の女帝に守られながら、ようやく即位したのが聖武天皇(24歳)でした。壮年の天皇が即位するのは天武天皇以来であり、聖武天皇の即位によって数十年ぶりに皇位継承が安定することになります。
皇族と藤原氏の政争
多くの人の苦難の末に即位した聖武天皇ですが、聖武天皇自身にもまた、多くの試練が待ち受けていました・・・。
最初に聖武天皇が直面したのが、皇族VS藤原氏の政争(権力争い)です。
争いの構図はこんな感じ
728年、聖武天皇が溺愛していた皇太子(次期天皇)の基王が乳飲み子のまま亡くなります。そして、藤原氏はこの聖武天皇の傷んだ心を政争にうまく利用しました・・・。
翌年(729年)、朝廷にこんな密告があったのです。
長屋王が(皇位簒奪を狙って)聖武天皇の命を奪うために呪詛をしています。昨年、基王が亡くなったのもこの仕業に違いありません。
この密告を受け、藤原宇合らが長屋王の邸宅を包囲。追い詰められた長屋王はその場で自害することになります。
長屋王は藤原氏を母に持つ基王を良く思っていなかったと言われています。
古来から現在まで天皇の血統は「天皇の父が天皇家かどうか」(男系)に重きが置かれていますが、当時は母にも天皇家の血が求められていました。
しかし、基王の母は藤原光明子。藤原氏です。長屋王は前例を無視する基王の即位を良く思っていなかったと言われています。
さらに言えば、聖武天皇の母も藤原氏です。当時、これは前代未聞の出来事であり、聖武天皇の即位の際にも反対意見が多くあったと言われています。(だからこそ、幼い聖武が成長するまでの間、女帝によって皇位を守る必要があった。)
これに藤原氏が警戒感を抱き、長屋王を謀反の疑いで亡き者にしたわけです。しかし、これは当時から「藤原氏の策略であり、長屋王は冤罪だった・・・!」と考えられており、今もなおその説が有力となっています。
当時の聖武天皇の心境は不明ですが、いずれにせよ長屋王が冤罪によって葬られたことは聖武天皇の心に深く刻まれることになります。
仏教大好き聖武天皇
長屋王が亡くなると、上で紹介した4人の藤原氏(藤原四兄弟)が天下を握るようになります。
・・・が735年〜739年にかけて、天然痘が大流行。平城京でバタバタと人が倒れ、藤原四兄弟も含めた朝廷の重鎮たちも次々と死亡します。
これは「無実の罪で長屋王を葬った祟りだ」と噂されるようになり、人々を恐怖に陥れます。(おまけに、当時は不作が続いて民衆も苦しんでいた)
しかし、聖武天皇はこれに屈しません。仏教の力を頼りに平穏を取り戻そうとしました。
私は平城京の邪気を払うため、宮中に700人の僧侶を集めてお経を読ませたのだ。
この時読んだお経の1つが「金光明最勝王経」というお経。
このお経には『金光明最勝王経を世に広め読経すれば、国は富み、四天王をはじめとする守護神によって守られるだろう』と書かれていて、私は国を守る効力を深く信じていたのだ。
ちなみに、仏教の力で国を守る・・・という考え方は鎮護国家と呼ばれているぞ。
739年、天然痘による恐怖に追い討ちをかけるように九州地方で反乱が起こります。反乱を起こしたのは藤原広嗣という男。上で登場した藤原宇合の長男です。
藤原広嗣は、素行の悪さと朝廷での政争により太宰府へ左遷させられ、これに強い不満を持ち、740年、藤原広嗣は聖武天皇に対して文書で訴えます。
最近起こった飢饉や大地震、天然痘という天変地異は、全て今の政治が良くないから起こったものです。
特に吉備真備や玄昉といった身分の低い出自のよくわからぬ者を重用するのがよくありません。一刻も早くこの2人をクビにするのです。
要するに「出自のよくわからん奴が出世してるのに、藤原氏の俺が左遷させられているのはおかしい!」と言っているのです。
【吉備真備と玄昉】
唐の制度・文化を参考に国を運営していた朝廷は、唐について博識なであれば身分によらず重用する方針を取っていました。その中でも特に徴用されていたのが吉備真備と玄昉でした。
藤原広嗣は文書で訴えると同時に、不測の事態に備えて九州で挙兵の準備まで進めていました。当時、右大臣で朝廷の実質TOPだった橘諸兄(たちばなのもろえ)はこれを宣戦布告と判断。
広嗣よ、それは脅しか?
・・・わかった。天皇への謀反とみなし、こちらも兵力を持ってこれに対抗しよう。
740年9月、朝廷VS藤原広嗣による内乱が勃発します。これが藤原広嗣の乱と呼ばれるものです。
怒涛の遷都ラッシュ!
広嗣の乱が続いていた740年10月、聖武天皇は突如として平城京を離れ、12月には恭仁京への遷都を宣言します。
・・・もう平城京にはいたくない。
理由?そんな野暮なこと聞かないでくれよ。もう辛いんだ。疲れんだよ・・・。
730年代は飢饉に疫病、大地震に反乱と、まさに不幸の連続でした。当時、自然災害の原因は「政治の行いが悪いから」と考えられており、聖武天皇はこれに深く心を悩ませていたと言われています。
おまけに自然の脅威に仏教の力により対抗するも効果はなし。聖武天皇が
仏法も効かないとか、もう平城京は呪われてるから遷都した方がよくね?(長屋王の祟りか・・・?)
と考えたとしても不思議ではありません。
しかも、話はこれだけでは終わりません・・・!
【742年】
離宮として紫香楽宮を造るぞ〜
【744年】
う〜ん、恭仁京はなんか違い。私に合わない。
ひとまず紫香楽宮に滞在して、次は難波宮に遷都するかぁー!
・・・と、住む場所を転々とし、その度に官僚や農民たちは新しい都の建設のため負担を強いられます。
財政難から745年になっても難波宮の建設は進まず、聖武天皇のいた紫香楽宮では不自然なほど山火事が多発(人々の遷都反対運動っぽい)。官僚の反対もあり、結局平城京に戻ることになりました。
聖武天皇「仏教の力で国を救うのだ・・・!」
聖武天皇は遷都ラッシュを続ける一方で、仏教への信仰をますます深めていきます。
【741年】
最近、災いばかり起こるのは仏教への信仰が浅いからに違いない。だから、全国に寺院を建てることにする・・・!
そして、それぞれの寺院には四天王による御加護が得られる金光明最勝王経を安置する。これで完璧!
こうして出された詔(天皇からの命令)が国分寺・国分尼寺建立の詔でした。
【743年】
もちろん、平城京に建てる国分寺は壮大なお寺にしなければいけない。
まずはこの世の全て(宇宙)を象徴する仏様、毘盧遮那仏の仏像を造立する。
ただし、平凡な仏像ではダメだ。宇宙を象徴するにふさわしい超ビックな仏像でなければならない・・・!!
こうして743年、紫香楽宮で大仏造立の詔が出されます。
当初、大仏は紫香楽宮に造立する予定でしたが、745年に聖武天皇が平城京に戻ったのに合わせて、平城京に造立されることになります。
遷都の話が白紙になると、聖武天皇はその情熱の全てをこの大仏造立に捧げるようになります。専用の部署が設けられて、多くの人と財が大仏造立のために投入されました。
745年には、天皇自ら現地に赴き民衆と共に土を運んだとも言われています。(しかし、その後病に倒れる・・・!)
大仏が完成したのは大仏造立の詔から数えて9年後の752年。この大仏こそが、有名な奈良の大仏(正式名称:毘盧遮那仏)となります。
上の写真が奈良の大仏。とにかく巨大で、当時の技術でこれを完成させるには想像を絶する困難があったであろうことが容易に想像できます。
話が終わらなくなるのでこの記事では触れませんが、興味のある方は以下の記事も読んでみてください。大仏造立に大貢献した行基(ぎょうき)という偉大な僧侶のお話です。
おまけで東大寺の歴史も紹介しています↓
聖武天皇、崩御
745年、大仏に命を賭けていた聖武天皇が病に倒れ、危篤状態に陥ります。この時は幸いにも死は免れますが、聖武天皇が体調を崩したことで次期天皇の話が浮上するようになります。
748年、聖武天皇は娘の孝謙天皇に譲位。自らは太上天皇となりますが、この女帝即位は後に大問題となります。
752年、奈良の大仏が完成。壮大な儀式が開かれます。この儀式は、多くの人々が集まる前で大仏の目を描くというセレモニーだったので開眼供養の儀と呼ばれます。インドや中国の僧も参加し、1万人以上の僧が集まった・・・と言われています。
この日ほど、聖武天皇の心が晴れた日は他になかったことでしょう。しかし、大仏の完成も虚しく、聖武天皇は病に蝕まれ756年に崩御してしまいます・・・。
そして後を託された孝謙天皇の時代は、皮肉にも聖武天皇の愛した仏教によって政治が腐敗し、女帝ゆえに皇位継承争いが複雑化しカオスの時代を迎えることになります。
聖武天皇の性格を考えてみる
聖武天皇は、実に複雑な家庭環境の中、幼少期を過ごします。
まず、聖武天皇は実の母(藤原宮子)と30年間会っていません。真相は謎ですが、藤原宮子がメンタルを病んで、実家(父の藤原不比等の家)に閉じこもっていたからだと言われています。
当時は、「天皇の母は皇族の血筋でなければならない」と言うルールがありましたが、藤原宮子はそれを破りました。もちろん、宮子の意思ではなくその父である藤原不比等の意思で・・・です。
そして、周囲からの批判と父の意向に挟まれる中でメンタルが崩壊してしまったのだろう・・・と思います。ただ、この話は闇が深いので、別な真実があるかもしれません。
そして、父の文徳天皇も早く亡くしており、乳母や祖母によって育てられました。そんな複雑な事情のせいなのかわかりませんが、聖武天皇はめちゃくちゃ几帳面な性格だったんじゃないか・・・と言われています。
その根拠となるのが、聖武天皇の書いた文字です。
細く繊細な線が目立ち、1つ1つの文字が綺麗に並んでいます。嫁さん(皇后)の藤原光明子の文字と比べると、光明子の方が線が太くて豪快さがあります。
そして、その几帳面さや藤原氏を母に持つ出自ゆえに、青年だった聖武天皇はこんなことも考えたかもしれません。
周りからは私と母への批判の声ばかりが聞こえる。おばさん(元正天皇)は隠しているけど、知っているんだ。
私のせいで母は精神を追い詰められた。そこまでして私は、生まれてくる必要があったのだろうか。
・・・答えはわからない。だから、せめて天皇として民たちのために死力を尽くそうと思う。その中できっと答えが見えてくると思うんだ。
そして、天皇として困難を極める治世を経験し、見つけ出した答えが仏教だったのかもしれません・・・。
聖武天皇の生涯年表まとめ
本当に簡単にですが、最後に聖武天皇の生涯を簡単にまとめておきます。
- 701年聖武天皇、生まれる
同じ年、祖父の藤原不比等が中心となり大宝律令が完成
- 707年父の文武天皇、亡くなる
- 724年聖武天皇即位
皇位を他の皇族に奪われないよう元明天皇(祖母)と元正天皇(おば)による皇位バトンリレーを経て即位
- 727年皇后(藤原光明子)との間に息子(基王)が生まれる
・・・が、わずか1歳になる前に没する。
- 729年長屋王、藤原氏に嵌められて死亡
- 737年
- 739年藤原広嗣、九州で大反乱を起こす
低い身分のくせに橘諸兄に重用された吉備真備、玄昉にブチギレ。
災いの連続に聖武天皇、遷都を決意。(恭仁京へ)
- 741年国分寺・国分尼寺建立を命令
この頃から、仏教の力で国を守ろうとする動きが大きくなる。
- 743年大仏造立を命令
平城京に巨大ない大仏を造ることを宣言。これが東大寺の大仏になる。
同じ時期、墾田永年私財法が制定。
- 745年遷都ラッシュ終了
重い負担に反対する官僚らの声により恭仁京から始まった度重なる遷都(恭仁京・紫香楽宮・難波宮)を断念。
- 749年聖武天皇譲位。娘の孝謙天皇即位
- 752年悲願だった大仏遂に完成!開眼供養の儀が行われる
- 756年聖武天皇、病に倒れ崩御
仏教腐敗、政争だらけのドロドロの奈良時代末期へ突入・・・。
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聖武天皇はすごい人なんですね