寛政の改革をわかりやすく解説!松平定信の目的・政策・結果・失脚の理由まで完全まとめ

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寛政の改革とは?わかりやすく解説

もぐたろう
もぐたろう

今回は江戸時代の三大改革のひとつ、寛政の改革について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!松平定信がいつ・何のために・どんな政策を行い、なぜたった6年で失脚したのかまで完全まとめ!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 寛政の改革とは何か(いつ・誰が・何のために行った改革か)
  • 主な政策の内容(囲米・旧里帰農令・棄捐令・寛政異学の禁・七分金積立・倹約令)
  • 松平定信ってどんな人?(徳川吉宗の孫・出自と人物像)
  • 改革が失敗した理由(失脚の背景・庶民の反感・狂歌)
  • 三大改革の比較(享保・寛政・天保の違いをまとめて整理)

「松平定信は清廉で有能な政治家だった」——そう習った人も多いと思います。ところが実は、定信が行った寛政の改革は庶民からひどく嫌われ、「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼こひしき」という痛烈な狂歌まで詠まれていました。「キレイすぎる川(=定信の政治)には魚(=庶民)が棲めない。あの濁った田沼の川(=田沼意次の政治)のほうがマシだった」という、まさかの大ブーイング。

理想を高く掲げた優等生の改革者が、なぜわずか6年で失脚するに至ったのか——この記事では、寛政の改革の年号・政策・人物・失敗の理由を、ゼロからわかりやすく解き明かしていきます。

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寛政の改革とは?わかりやすく一言で

3行でわかるまとめ
  • 老中・松平定信が1787年〜1793年に行った江戸幕府の政治改革
  • 天明の大飢饉と田沼時代の乱れを立て直すため、農村の復興・倹約・朱子学重視を断行
  • 厳しすぎる理想主義が庶民・将軍から嫌われ、定信はわずか6年で失脚。改革は徹底されなかった

寛政の改革かんせいのかいかくとは、1787年から1793年にかけて、老中首座の松平定信まつだいらさだのぶが中心になって行った江戸幕府の政治改革です。

江戸時代には、幕府の財政や社会の立て直しをねらった大きな改革が3回行われました。これを江戸の三大改革えどのさんだいかいかくといいます。寛政の改革は、その2番目にあたる改革です。

当時の幕府は、天明の大飢饉による大混乱と、前任の老中・田沼意次の時代に広がった政治の乱れに苦しんでいました。そこで定信は、初代の改革である享保の改革を手本に、「農村を立て直し、ぜいたくをやめ、武士の学問を引きしめる」という方針で幕府の再建をめざしたのです。

もぐたろう
もぐたろう

三大改革をざっくり言うと、①享保の改革(吉宗)→②寛政の改革(定信)→③天保の改革(水野忠邦)の順番だよ。寛政の改革は「マジメすぎて空回りした改革」ってイメージで覚えるとわかりやすいよ!

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改革の背景:天明の大飢饉と田沼政治の反動

天明の大飢饉の様子を描いた絵
天明の大飢饉の惨状を描いた当時の絵(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

寛政の改革が始まる直前、日本は深刻な危機に見舞われていました。天明の大飢饉てんめいのだいききんです。

1782年から数年間続いたこの飢饉は、冷害に加えて1783年の浅間山の大噴火が重なり、東北地方を中心に全国で大量の餓死者を出しました。食べるものを失った農民は、土地を捨てて江戸などの都市へ流れ込みます。さらに各地では、米の買い占めに怒った人々が米屋などを襲う打ちこわしが多発しました。社会全体が、まさに崩れる寸前だったのです。

天明3年(1783年)の浅間山大噴火
1783年(天明3年)の浅間山大噴火——この噴火が飢饉に追い打ちをかけた(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

このとき幕府の政治を握っていたのが、老中の田沼意次でした。田沼は商業や貿易を活発にして幕府の収入を増やそうとする、当時としては先進的な重商主義じゅうしょうしゅぎの政治家でした。しかし、わいろが横行したことや、飢饉への対応が後手に回ったことで批判が集中。1786年に将軍が亡くなると、田沼は失脚してしまいます。

あゆみ
あゆみ

田沼意次って悪い政治家ってイメージだったけど、定信とはどう違うの?

もぐたろう
もぐたろう

ざっくり言うと正反対!田沼は「商売でガンガン稼ごう(重商主義)」タイプ、定信は「農業を立て直して、ぜいたくは禁止(重農主義)」タイプなんだ。定信は田沼時代の乱れた政治を全部リセットしようとした、いわば“反田沼”の改革者だったんだよ。

こうして、飢饉でゆらいだ社会と、田沼時代に乱れた政治の両方を立て直すという重い使命を背負って登場したのが、松平定信でした。

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松平定信ってどんな人?徳川吉宗の孫だった

松平定信の肖像画
松平定信の肖像画(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

松平定信(1759〜1829年)は、実は8代将軍・徳川吉宗の孫にあたる人物です。吉宗の子である田安宗武たやすむねたけの子として生まれ、御三卿ごさんきょう(将軍家に近い名門)の出身でした。

幼いころから学問に優れ、将来は将軍候補とも目される存在でしたが、政治的な事情から白河藩しらかわはん(現在の福島県白河市)の養子に出されます。そして藩主となった定信は、天明の大飢饉のさなか、領内から一人の餓死者も出さなかったと伝えられるほど見事な農政改革を行いました。

定信は飢饉の前から米を備蓄させ、凶作とわかると藩費を切り詰めて粥の炊き出しを実施。逃げ出そうとする農民を引き止め、隣接する藩から米を調達してでも領内の食糧を確保しました。この「備えと救済をセットで動かす」実体験こそが、老中就任後に全国規模で展開した囲米政策の原点とも語られています。

この実績が高く評価され、田沼意次が失脚した翌1787年、定信は幕府の最高責任者である老中首座ろうじゅうしゅざに抜擢されました。こうして寛政の改革が始まったのです。

松平定信
松平定信

そうだ、おじいちゃん(徳川吉宗)の享保の改革を見習うのだ!農村を立て直し、倹約を徹底すれば、幕府は必ず立ち直る。乱れきった田沼の政治とは、私が決別させてみせる!

📌 定信の家系:徳川吉宗(8代将軍)→ 田安宗武(吉宗の子)→ 松平定信。吉宗の孫にあたるため、「享保の改革の再現」を政治の目標に掲げていた。テストでは「定信=吉宗の孫」がよく問われる。

寛政の改革の主な政策をわかりやすく解説

寛政の改革の政策は、大きく分けると「①農村・農民を立て直す」「②武士の暮らしと学問を引きしめる」「③江戸の都市と庶民をしめつける」の3方向に整理できます。代表的な政策を6つ、順番に見ていきましょう。

■ 囲米(かこいまい)

政策①:囲米 ── 飢饉に備えて各地に米を備蓄させる

囲米かこいまいは、天明の大飢饉のような事態を二度と起こさないために、各藩(大名)や町に対して、米をあらかじめ蓄えておくよう命じた政策です。具体的には、大名には1万石につき50石の米を5年間ためさせ、いざというときの非常食・救済米としました。「飢饉対策の備蓄」が囲米だと覚えておけば十分です。

囲米の具体的な仕組み

大名には領地の石高1万石につき50石の米を5年間積み立てさせました。たとえば10万石の藩なら500石(約75トン)の備蓄になります。これだけあれば数ヶ月の凶作でも領内の食糧を確保できる計算です。

定信自身が白河藩主時代に飢饉対策として米を事前備蓄した「成功体験」がこの政策の原点で、それを全国規模に拡大したものです。ただし管理コストの問題もあり、実施が不徹底な藩もありました。

■ 旧里帰農令(きゅうりきのうれい)

政策②:旧里帰農令 ── 江戸に流れ込んだ農民を農村へ帰す

旧里帰農令きゅうりきのうれいは、飢饉のときに田畑を捨てて江戸へ出てきた農民に対し、もとの農村に帰ることをすすめた政策です。旅費や農具を支給するなどして帰農をうながしました。江戸に人が集まりすぎて農村が荒れ、年貢(米の税収)が減ってしまうのを防ぐねらいがありました。

ゆうき
ゆうき

テスト前なんだけど…旧里帰農令って、農民を無理やり農村に帰したの?それでうまくいったの?

もぐたろう
もぐたろう

いいところに気づいたね!実はあくまで「帰ることをすすめた」だけで、強制ではなかったんだ。だから効果はうすくて、あまりうまくいかなかった。テストでは「旧里帰農令=農民を農村に帰そうとした(でも効果は限定的)」って押さえておけばバッチリだよ!

なぜ農民は江戸に出てきたの?

天明の大飢饉(1782〜1788年)で東北・関東の農村は壊滅的な被害を受けました。田畑を失った農民は生きるために江戸へ流入し、一方で農村の労働力が不足して年貢(税収)が激減するという悪循環に陥っていました。

旧里帰農令では旅費・農具・種もみを支給して帰農を促しましたが、「帰っても田畑がない」「江戸のほうが稼ぎになる」と考える農民も多く、効果は限定的でした。

📌 旧里帰農令 → 人返し令へ:のちの天保の改革(1843年)でも老中・水野忠邦が同様の政策「人返し令ひとがえしれい」を出します。こちらは「農村に帰れなかった者は強制送還する」とより強硬な内容でしたが、やはり効果は上がらず幕府の限界を示す結果になりました。同じ問題に対して「すすめる→強制する」と強化した流れを比べて覚えておきましょう。

■ 棄捐令(きえんれい)

政策③:棄捐令 ── 旗本・御家人の借金を帳消しにする

棄捐令きえんれいは、生活に困っていた旗本はたもと御家人ごけにん(幕府直属の武士)の借金を帳消しにした命令です。武士たちは札差ふださしという米の売買を仲介する商人にお金を借りて生活していましたが、その借金を一定の条件で免除しました。武士の暮らしを救うのがねらいでしたが、貸し倒れを恐れた札差が新たに金を貸さなくなり、かえって武士が困るという副作用も生まれました。

📌 棄捐令と室町時代の徳政令:棄捐令は「武士の借金を帳消しにする」という点で、室町時代の徳政令とくせいれいと発想が似ています。徳政令は主に農民・庶民の借金を免除したものですが、「国家権力が民間の債務を強制的に無効にする」という構造は共通です。ただし徳政令が繰り返されるたびに金融業者が萎縮したように、棄捐令も札差の貸し渋りを招くという同じ副作用を生みました。「免除するほど貸してもらえなくなる」という皮肉な結末は、時代を超えた教訓と言えます。

ゆうき
ゆうき

借金を帳消しにしてもらえるなんてラッキーじゃないの?なんで失敗なの?

もぐたろう
もぐたろう

そう思うよね!でも貸した側の札差ふださしが「貸しても踏み倒されるかも」と判断して、次からお金を貸さなくなっちゃったんだ。結局武士はもっとお金に困ることに。室町時代の徳政令が繰り返されるたびに金融業者が萎縮したのと全く同じ構造だよ!

■ 寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)

政策④:寛政異学の禁 ── 朱子学だけを正式な学問とする

寛政異学の禁かんせいいがくのきんは、幕府の学問所において、朱子学しゅしがくだけを「正学(正式な学問)」と定め、それ以外の学問(古学・陽明学など)を「異学」として講義や試験で禁じた政策です。朱子学は身分の上下や秩序を重んじる学問だったため、定信はこれを幕府の支配を支える思想として重視しました。

📌 昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ):寛政異学の禁にともなって、幕府の正式な教育機関として整備された学校。のちに幕府直轄の学問所となり、朱子学を学ぶ役人の養成所となった。「異学の禁」とセットで覚えよう。

「異学」って何が禁止されたの?

禁じられたのは主に古学(こがく)陽明学(ようめいがく)折衷学(せっちゅうがく)などです。

古学こがくは孔子の原典を直接読む学問で朱子学の解釈に縛られないのが特徴。陽明学ようめいがくは「行動こそが大事」という実践的な学風で、幕府への反抗心につながると危険視されていました。定信はこれらを「秩序を乱す異端の学問」とみなし、幕府直轄の学問所からすべて排除したのです。

松平定信
松平定信

国を統治するには、上下の秩序を重んじる朱子学こそが正しい学問だ。勝手な解釈や行動を促す学問は、人々の心を乱すだけ。幕府の学問所は朱子学一本で統一する!

■ 七分金積立(しちぶきんつみたて)

政策⑤:七分金積立 ── 町費の節約分を積み立てて貧民救済にあてる

七分金積立しちぶきんつみたて(七分積金)は、江戸の町の運営費(町費)を節約させ、その節約できた分の7割(七分)を積み立てさせた制度です。集まったお金は、飢饉や災害のときの貧民救済の資金にあてられました。この積立金を管理するために江戸町会所えどまちかいしょが設けられ、寛政の改革のなかでは数少ない、後世まで効果が続いた政策として知られています。

📌 七分金積立の後日談:この制度で設けられた江戸町会所えどまちかいしょは、寛政の改革が終わった後も機能し続けました。1837年(天保8年)の天保の大飢饉でも積立金が貧民救済に活用され、「数少ない成功した寛政の政策」として後世の歴史家から評価されています。

もぐたろう
もぐたろう

6つの政策のなかで、七分金積立だけは寛政の改革が終わった後も長く機能し続けたんだ。「失敗した改革」と呼ばれがちな寛政の改革のなかで、数少ない成功例として覚えておいてほしいポイントだよ!

■ 倹約令(けんやくれい)

政策⑥:倹約令 ── ぜいたく・遊びをきびしく取りしまる

倹約令けんやくれいは、武士から庶民まで、ぜいたくをやめて質素に暮らすよう命じた政策です。とくに庶民への取りしまりは厳しく、はなやかな衣服や髪型、料理屋での遊びなどが規制されました。さらに風俗の乱れにつながるとして出版にも統制が加えられ、人気の洒落本しゃれぼん作家の山東京伝さんとうきょうでんや、出版人の蔦屋重三郎らが処罰を受けました。

京伝は問題とされた洒落本3作品を絶版にさせられ、手鎖50日という屈辱的な刑(両手を鎖でつないで外出を禁じる自宅謹慎)を受けます。版元の蔦屋重三郎も財産のほぼ半分を没収される身上半減しんじょうはんげんの処分を下されました。江戸随一の人気作家と版元がそろって処罰されたこの衝撃は、当時の文化人に深く刻み込まれ、自由な表現を求めていた江戸の出版・文芸界は一気に萎縮していきます。

松平定信
松平定信

ぜいたくは敵だ!遊んでばかりの本など、もってのほか!この国を立て直すには、武士も庶民も質素倹約あるのみ。みな、心を入れかえるのだ!

尊号一件:光格天皇との対立

定信の「先例(前例)を重んじ、規則を曲げない」という厳格な姿勢は、ついに朝廷との対立まで引き起こします。それが尊号一件そんごういっけんです。

当時の天皇である光格天皇こうかくてんのうは、天皇の位についていない自分の実父・閑院宮典仁親王かんいんのみやすけひとしんのうに、太上天皇だじょうてんのう(上皇)の尊号(敬称)を贈りたいと幕府に願い出ました。父を敬いたいという、人としては自然な願いです。

光格天皇
光格天皇

実の父に上皇の尊号を贈りたい——息子として、これほど自然な願いがほかにありましょうか。幕府がこれを認めぬとは、いったいどういうことですか!

松平定信
松平定信

なりませぬ。天皇の位につかれていない方に上皇の尊号を贈るなど、前例のないこと。先例なきことは認められません。たとえ天皇の願いであろうとも、規則は規則です。

定信は「前例がない」という理由でこの要求をきっぱりと拒否し、賛成した公家を処罰しました。結果として光格天皇の願いは退けられ、幕府が朝廷の上に立つことを改めて示す形になりました。しかしこの一件は、定信の融通のきかなさを象徴する出来事として、朝廷だけでなく幕府内にも不満を残すことになります。


寛政の改革はなぜ失敗した?失脚の理由

松平定信の改革は、たしかに飢饉に備える備蓄を整え、幕府の財政を引き締める一定の成果をあげました。ところが、改革はわずか6年で終わってしまいます。1793年、定信は老中首座を辞任し、政治の表舞台から去ることになりました。なぜ、これほど早く挫折してしまったのでしょうか。理由は大きく分けて2つあります。①厳しすぎる倹約と統制への庶民の反感、そして②将軍・徳川家斉との対立です。

「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼こひしき」

これは、寛政の改革の最中に庶民のあいだで詠まれたとされる狂歌です。「白河」は白河藩主だった松平定信のこと、「田沼」は前任の田沼意次のことを指しています。意味は「定信さまの政治はあまりに清らかすぎて(=厳しすぎて)、魚(=庶民)も棲めないほどだ。あれほど嫌われた田沼さまの濁った政治のほうが、まだ住みやすかったよ」というもの。改革で取り締まりを受け、贅沢も娯楽も禁じられた庶民の、痛烈な皮肉が込められています。

あれほど批判された田沼政治のほうがマシだった——そう詠まれてしまうほど、定信の改革は人々の生活を息苦しくしていたのです。倹約令で華美な着物や髪型が制限され、出版物まで取り締まられ、農民は故郷へ帰るよう促される。理想は立派でも、当事者である庶民にとっては「窮屈で、楽しみのない世の中」になってしまいました。

そしてもうひとつの大きな要因が、将軍徳川家斉とくがわいえなりとの関係悪化でした。定信は将軍を厳しく諫め、生活も政治も「あるべき姿」を強く求めます。しかし、成長した家斉にとって、口うるさく倹約を説く定信は次第にうとましい存在になっていきました。前述の尊号一件で朝廷と対立した際、定信は将軍家斉が実父・一橋治済ひとつばしはるさだに「大御所」の称号を贈ろうとした動きにも反対したとされ、これが家斉の不興を買ったとも言われています。こうして将軍の信頼を失った定信は、1793年に辞職へと追い込まれました。

徳川家斉
徳川家斉

定信さん、もうちょっと緩くてもいいんじゃない…?こんなに何もかも厳しくされたら、将軍の自分まで窮屈で息が詰まっちゃうよ…。

もぐたろう
もぐたろう

定信は「正しいこと」をやろうとしすぎたんだよね。理想が高すぎて、庶民も将軍もみんなが息苦しくなっちゃった。改革って、正しいだけじゃダメで、人がついてこられるかどうかも大事なんだ。結局、定信は誰の支持も得られないまま、たった6年で失脚してしまったんだよ。

定信の失脚後、政治の実権は将軍家斉が握り、その後は大御所おおごしょ時代と呼ばれるゆるやかな時代へと移っていきます。定信が築いた質素倹約の路線は引き継がれず、やがて再び幕府は財政難に苦しむことになりました。寛政の改革は「一時的な引き締めには成功したが、長続きはしなかった改革」と評価されています。なお、定信が掲げた政策の一部(囲米や七分金積立など)は、その後も制度として残り、後の天保てんぽうの飢饉の際に江戸の人々を救う備えとして役立ったとも言われています。

📌 ラクスマンの来航(1792年):寛政の改革のさなか、ロシアの使節ラクスマンらくすまんが蝦夷地(現在の北海道)の根室ねむろに来航し、通商を求めてきた。定信はこれを拒絶しながらも長崎への入港許可書を渡して対応した。国内では尊号一件・庶民の反感・将軍との対立、国外からは外国船の接近——定信は複数の難題を同時に抱えながら改革を推し進めていたのである。

三大改革の比較:享保・寛政・天保をまとめて覚える

江戸時代の中後期には、幕府の財政立て直しを目指した大きな改革が3回行われました。これをまとめて江戸の三大改革と呼びます。享保きょうほうの改革・寛政の改革・天保の改革の3つです。テストでは「誰が・いつ・何をした改革か」をセットで問われることがとても多いので、ここで一気に整理しておきましょう。

比較項目享保の改革寛政の改革天保の改革
時期1716〜1745年1787〜1793年1841〜1843年
実施者徳川吉宗(8代将軍)松平定信(老中)水野忠邦(老中)
主な政策上げ米・足高の制・目安箱・公事方御定書囲米・旧里帰農令・棄捐令・寛政異学の禁・七分金積立株仲間の解散・人返しの法・上知令
特徴新田開発と増税で財政を再建農村復興・倹約・朱子学重視物価対策と幕府権力の強化
結果三大改革で最も成功6年で失脚約2年で失脚(最も短命)

こうして並べてみると、3つの改革には共通点があります。いずれも農村の立て直し倹約を柱にしていること、そして実施者が「将軍自身か、その将軍を支える老中」であることです。一方で、享保の改革だけが将軍・吉宗自身による改革で最も成功し、寛政・天保は老中による改革で短命に終わった、という違いも押さえておきましょう。

もぐたろう
もぐたろう

三大改革は「吉宗→定信→忠邦」の順番でまず覚えるのがコツだよ!しかも定信は吉宗のお孫さん。「おじいちゃんの享保の改革を真似した孫の改革が寛政」ってつなげて覚えると、人物も時代もごちゃごちゃにならないよ◎

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 寛政の改革の年号(1787〜1793年)と実施者が松平定信であること
  • 松平定信:老中首座・徳川吉宗の孫・もとは白河藩主
  • 囲米・旧里帰農令・棄捐令:農村と武士を立て直す3政策を区別できるようにする
  • 寛政異学の禁:朱子学のみを正学とし、昌平坂学問所を整備
  • 七分金積立:江戸の町費節約分の7割を積み立て、貧民救済に充当
  • 「白河の清きに〜」の狂歌:定信への庶民の反感を示す史料として出題される

📌 暗記のコツ:三大改革はまず「吉宗・定信・忠邦」の順番を覚える。寛政の改革の主な政策は「囲・旧・棄・禁・七(かこい・きゅうり・きえん・きん・しちぶ)」とリズムよく唱えると、5つまとめて思い出しやすいよ。

ゆうき
ゆうき

テストで「三大改革の人物を答えよ」って出たとき、いつも誰がどの改革か混乱しちゃう…。間違えない覚え方ってある?

もぐたろう
もぐたろう

順番で覚えるのが一番だよ!「享保(吉宗)→寛政(定信)→天保(忠邦)」の流れを時代順にセットで頭に入れておけば、バラバラに問われても迷わない。さらに「将軍がやったのは享保だけ、あとは老中がやった改革」って区別しておくと完璧だよ◎

寛政の改革の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

寛政の改革・松平定信についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

①三大改革を1冊でまとめて整理したいなら|山川出版の定番入門書

②松平定信という人物を深掘りしたいなら|中公新書の人物伝

よくある質問

寛政の改革とは、老中・松平定信が1787年から1793年にかけて行った江戸幕府の政治改革です。天明の大飢饉と田沼時代の乱れを立て直すため、農村の復興・質素倹約・朱子学重視などを断行しました。江戸の三大改革の2番目にあたります。

1787年から1793年にかけて行われました。松平定信が老中首座に就任した1787年に始まり、将軍・徳川家斉との対立により定信が失脚した1793年に事実上終わりました。期間はおよそ6年間です。

松平定信(まつだいらさだのぶ)は、8代将軍・徳川吉宗の孫にあたる人物です。陸奥白河藩の藩主として飢饉を乗り切る農政改革に成功し、その実績を買われて老中首座に抜擢されました。祖父・吉宗の享保の改革を手本とし、清廉で理想主義的な政治家として知られています。

主な理由は2つです。①倹約や農村回帰を厳しく求めすぎたため庶民・商人の反感を買ったこと、②将軍・徳川家斉との対立で信頼を失ったことです。「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼こひしき」という狂歌が詠まれたほど、厳しすぎる理想主義が人々を息苦しくさせ、定信はわずか6年で失脚しました。

三大改革はいずれも農村の立て直しと倹約を掲げた点で共通します。享保の改革(1716〜)は8代将軍・吉宗が自ら実施し、最も成功した改革です。寛政の改革(1787〜)は老中・定信が吉宗の方針を引き継いだものの6年で挫折。天保の改革(1841〜)は老中・水野忠邦が行いましたが、約2年で失脚し最も短命に終わりました。

棄捐令(きえんれい)とは、生活に困っていた旗本・御家人(幕府直属の武士)の借金を帳消し・軽減する命令です。当時の武士は「札差(ふださし)」という業者にお金を借りていたため、その債務を免除しました。武士の救済にはなりましたが、貸し手の札差が打撃を受け、その後は武士が金を借りにくくなるという副作用もありました。

まとめ:寛政の改革のポイント

寛政の改革のポイントまとめ
  • 1787〜1793年、老中首座・松平定信が実施した江戸幕府の改革
  • 天明の大飢饉と田沼時代の乱れを立て直すため、農村復興・倹約・朱子学重視を断行
  • 主な政策:囲米・旧里帰農令・棄捐令・寛政異学の禁・七分金積立(倹約令も)
  • 厳しすぎた改革への庶民の反発と将軍・家斉との対立により、1793年に定信は失脚
  • 江戸三大改革の2番目に位置づけられ、祖父・吉宗の享保の改革を手本とした

もぐたろう
もぐたろう

以上、寛政の改革のまとめでした!「正しさ」を追い求めすぎて失敗した、ちょっと切ない改革なんだよね。三大改革はセットで問われることが多いから、下の関連記事の享保の改革・田沼意次の政治もあわせて読んでみてね!

寛政の改革 関連年表
  • 1782年
    天明の大飢饉が始まる(〜1788年)
  • 1786年
    田沼意次が失脚、老中を罷免される
  • 1787年
    松平定信が老中首座に就任。寛政の改革が始まる
  • 1789年
    棄捐令を発布。旗本・御家人の借金を帳消し。尊号一件が始まる(〜1793年)
  • 1790年
    寛政異学の禁を発布。昌平坂学問所を朱子学専門に整備
  • 1791年
    七分金積立の法を制定(江戸町会所は翌1792年に設立)
  • 1793年
    松平定信が老中首座を辞任(失脚)。寛政の改革終了
  • 1841年
    天保の改革が始まる(三大改革の最後)

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「寛政の改革」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「松平定信」(2026年5月確認)
コトバンク「寛政の改革」「松平定信」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』

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