

今回は五・一五事件について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!1932年に海軍の青年将校たちが首相官邸を襲って、犬養毅首相が暗殺されたこの事件——なぜ起きたのか、当日何があったのか、そして日本政治にどんな影響を与えたのかまで、一緒に見ていこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史 / 山川準拠 / 共通テスト対応
実は、五・一五事件の実行犯たちは裁判で死刑になりませんでした。それどころか、全国から「彼らは善意で行動した」と減刑を求める嘆願書が数十万通も裁判所に届いたのです。首相を殺したテロリストが、なぜ国民から英雄のように扱われたのでしょうか——?
その裏側を知ると、昭和初期の日本がどれだけ深刻な危機を抱えていたかが見えてきます。この記事では、事件の原因・当日の様子・裁判・そしてその後の日本への影響までを、中学生にも大人にもわかりやすく解説していきます。
五・一五事件とは?わかりやすく3行でまとめると
① 1932年(昭和7年)5月15日に起きたクーデター未遂事件。
② 海軍の青年将校を中心とするグループが首相官邸を襲い、首相・犬養毅(いぬかい つよし)を暗殺。
③ この事件をきっかけに政党内閣(憲政の常道)が終わり、日本は軍部主導の時代へと突き進んでいった。
五・一五事件とは、1932年5月15日に東京で起きた軍人たちによるクーデター事件のことです。海軍の青年将校を中心に、陸軍の士官候補生や民間右翼が加わった一団が首相官邸・警視庁・立憲政友会本部などを襲撃し、首相の犬養毅を射殺しました。
事件そのものは半日ほどで鎮圧されましたが、その後の影響は計り知れませんでした。犬養首相の死によって日本の政党政治は事実上の終わりを迎え、軍部が政治の主導権を握る「軍国主義の時代」へとまっしぐらに進んでいくことになります。

「五・一五」って数字だけ聞いてもピンとこないんだけど、そもそも何の数字なのかしら?

そう、5月15日に起きた事件だから「五・一五事件」って呼ばれてるんだよ。同じように「二・二六事件」っていうのも2月26日に起きたクーデターのことで、昭和初期は日付で事件の名前をつけることが多いんだ。
なぜ起きた?五・一五事件の原因と背景

五・一五事件は、ある日突然起きたわけではありません。その背景には、昭和初期の日本が抱えていた4つの深刻な問題がありました。ひとつずつ見ていきましょう。
原因①:昭和恐慌と農村の疲弊
1929年のアメリカから始まった世界恐慌は、翌1930年に日本を直撃します。いわゆる昭和恐慌です。都市では失業者があふれ、農村では米や繭(まゆ)の値段が大暴落しました。
特に東北地方の農村では、冷害も重なって欠食児童(学校に弁当を持ってこられない子ども)や、生活に困った家庭が娘を売りに出す「娘の身売り」という痛ましい事態まで発生していたのです。

娘の身売りって……それが本当に昭和で起きてたんですか?

本当の話なんだ。青年将校たちの多くは農村出身だったから、「自分の故郷が飢えているのに、政治家は何をやっているんだ!」という怒りが彼らの行動の大きな動機になったんだよ。
原因②:ロンドン海軍軍縮条約と統帥権干犯問題
1930年、浜口雄幸(はまぐち おさち)内閣はロンドン海軍軍縮条約に調印しました。海軍の軍艦保有量をアメリカ・イギリスの約7割に抑えるという内容で、「軍縮によって財政を立て直そう」という狙いがあったのです。

しかし海軍の一部や野党はこれに猛反発。「軍隊の編制は天皇の統帥権に属するのに、内閣が勝手に決めたのは統帥権の干犯だ!」と攻撃したのです。浜口首相は右翼の青年に銃撃されて翌年死亡し、海軍内部では「政府は軍を軽んじている」という不満が燃え広がっていきました。
原因③:満州事変と政府の不拡大方針
1931年9月、中国東北部(満州)で関東軍が独断で軍事行動を起こしました。これが満州事変です。陸軍は「満州は日本の生命線だ」として勢力拡大を目指しましたが、当時の若槻礼次郎(わかつき れいじろう)内閣、そして後を継いだ犬養内閣は、「これ以上戦線を拡大しない」という不拡大方針を取ろうとしました。
しかし軍人たちから見れば、これは「せっかくの成果に水を差す行為」。政府への不満はさらに高まり、「軟弱な政党内閣を叩き潰さなければ日本は救えない」という過激な思想が広がっていきました。
原因④:政党政治への不信・腐敗批判
当時の二大政党(立憲政友会・立憲民政党)は、それぞれ三井・三菱といった財閥と結びついていました。政治資金をめぐる汚職事件も頻発し、国民の間には「政党は財閥の代弁者にすぎない」という冷たい視線が広がっていたのです。
特に1932年3月には、三井財閥の団琢磨(だん たくま)が血盟団によって暗殺される事件も発生(血盟団事件)。「財閥・政党・特権階級を潰して、天皇中心の新しい国を作るべきだ」という国家改造思想が、軍人や右翼の若者たちを熱狂させていきました。

農村の子どもたちが飢えているのに、政治家や財閥は私腹を肥やすばかり……!もはや話し合いでは日本は変わらん。直接行動あるのみだ!

4つも原因があるけど、テストで聞かれたらどれが一番の理由って答えればいい?

ひとつに絞るなら「昭和恐慌による農村の疲弊と、それに対して無策だった政党政治への不満」かな。そこに軍縮・満州事変・汚職がのっかって、将校たちの怒りが爆発した——そう覚えておけばバッチリだよ!
1929年から1931年にかけて、米価はおよそ半値、繭(まゆ)価は3分の1以下に暴落したと言われています。1931年の東北地方は冷害と凶作に見舞われ、欠食児童は全国で20万人を超えたとも伝えられます。娘の身売りは東北6県で数万件に及んだとする報告もあり、青年将校たちの多くが「このままでは日本が滅ぶ」という危機感を共有していました。
五・一五事件の当日——青年将校たちの班別行動
1932年5月15日、日曜日の夕方。東京の空気が一変しました。海軍中尉の三上卓(みかみ たく)、古賀清志(こが きよし)らを中心に、陸軍士官候補生・民間右翼(大川周明のグループら)を加えた総勢20名ほどが、複数の班に分かれて東京市内の要所を同時多発で襲撃したのです。
彼らが狙ったのは単なる首相暗殺ではありませんでした。首相官邸・警視庁・立憲政友会本部・変電所などを同時に襲うことで、東京を混乱状態に陥れ、戒厳令を発動させて軍部主導の新政権を樹立する——そんな壮大な国家転覆計画だったのです。

■第1班:首相官邸を襲撃
首相官邸に突入したのは、三上卓・山岸宏ら海軍将校を中心とする第1班。午後5時半ごろ、彼らは正面から拳銃を構えて官邸に乱入し、日曜を官邸で過ごしていた犬養毅首相と対面します。
このとき犬養首相が放ったとされるのが、あまりにも有名な「話せばわかる」という言葉。しかし将校たちはこれに「問答無用!」と応じ、引き金を引いたと伝えられています。銃弾を浴びた犬養首相は数時間後、官邸内で息を引き取りました。享年76歳。現職の首相が暗殺される、日本近代史上きわめて重い事件となりました。
■第2班:牧野伸顕邸・その他拠点への突入
他の班は、首相官邸と同時並行で別の標的を襲いました。内大臣の牧野伸顕(まきの のぶあき)邸には手榴弾が投げ込まれ、警視庁にも別の班が乱入。さらに政友会本部や三菱銀行、東京周辺の変電所までもが爆破を狙われました(変電所を爆破して東京を停電させ、戒厳令につなげる狙いだったとされます)。
ただし、首相暗殺以外の襲撃はほとんど成功しませんでした。牧野邸は軽傷者を出しただけ、変電所の爆破も失敗。計画全体としては首相を殺せただけの「失敗したクーデター」だったといえます。
補足:襲撃目標は首相官邸・牧野内大臣邸・警視庁・立憲政友会本部・日本銀行・三菱銀行・変電所など多岐にわたった。当日夜のうちに全員が憲兵隊に自首し、事件そのものは短時間で収束した。

なんで首相ひとりじゃなくて、わざわざ警視庁や変電所まで同時に襲ったの?

狙いは国家転覆だったからだよ。首相を殺して、首都を混乱させて、軍が「これは大変だ!」って戒厳令を出すきっかけを作る。そのまま軍部主導の政権に切り替える……という筋書きだったんだ。
「話せばわかる」——犬養毅とはどんな人物だったのか
犬養毅(1855〜1932)は、岡山県出身の政治家で、立憲政友会の総裁を務めた人物です。慶應義塾で学んだジャーナリスト出身で、明治・大正・昭和の3時代にわたって衆議院議員を務め続けた、まさに「政党政治の生き証人」のような存在でした。

1931年12月、若槻内閣の総辞職を受けて76歳の犬養は第29代内閣総理大臣に就任します。普通選挙の導入や軍縮に尽力してきた彼は、当時暴走しつつあった満州事変の収拾と、軍部の抑制を最重要の政治課題と考えていました。

話せばわかる。まあ、待て……。なぜ問答無用で撃つのか——。
この有名なエピソードは、犬養首相が襲撃者に銃を向けられた際に発した言葉として語り継がれています。政党政治家として「対話で解決できないことはない」と信じ続けた犬養らしい一言でした。しかし将校たちの返答は「問答無用!」の一言のみ。拳銃の引き金は引かれ、犬養は官邸の日本間で倒れ、数時間後に息を引き取りました。

なお、「話せばわかる」というセリフについては将校側の後年の証言や記録によって伝わったもので、同時代の一次資料で完全に確定しているわけではないとする研究もあります。ただ、国民の間ではこの言葉が事件を象徴するフレーズとして強く刻まれ、現在の教科書にも掲載されています。

「話せばわかる」って、テストでよく出るやつですよね?

そう、絶対覚えてほしい!「話せばわかる」=犬養毅、そして将校側の「問答無用」もセット。さらにこの一言が政党政治の終わりを象徴するって押さえておくと、記述問題でもバッチリだよ。
裁判の結末と世論の動向——なぜ国民は犯人に同情したのか
現職の首相を殺したのだから、犯人たちは当然重い罰を受ける——誰もがそう思いました。しかし、実際の判決は世間の予想とは大きく違ったのです。
海軍将校らは海軍軍法会議、陸軍士官候補生は陸軍軍法会議、民間人は東京地裁と、それぞれ別々の場所で裁判が行われました。判決が出たのは1933年〜1934年。主犯格の海軍将校・三上卓らでも禁錮15年、陸軍側の被告も重くて禁錮4年程度、民間人の大川周明らは禁錮5年(橘孝三郎は無期懲役)という、首相暗殺の首謀者とは思えない軽い量刑に留まりました。死刑判決は誰ひとり出なかったのです。

その背景には、国民世論の強烈な「犯人擁護」の嵐がありました。裁判所や新聞社には、全国から「彼らは私利私欲ではなく、純粋な憂国の情で立ち上がったのだ」「どうか死刑にしないでほしい」という減刑嘆願書が殺到します。その数は数十万通にのぼったと伝えられています。
全国から数十万通にのぼる減刑嘆願書が裁判所に集まったとされます(確実な通数は史料により諸説あり)。嘆願書は東北の農村・軍人遺族・主婦・青年団など幅広い層から寄せられ、中には小指を切って血判を押した「血書」も数千通あったと伝えられます。マスコミも将校たちの動機を美談として報じ、世論はほぼ完全に「犯人擁護」に傾いていました。

国民がテロを支持するって……ちょっと信じられない。当時の人たちはどんな気持ちだったの?

それだけ政党政治への絶望と不満が爆発寸前だったってことなんだ。「財閥と癒着した政治家よりも、農村を思って命がけで動いた若者のほうがよっぽどマシだ!」——そんな空気が社会全体を覆っていたんだよ。結果的に、この世論が軍部をますます調子づかせていくことになるんだ……。
軽い量刑と世論の同情は、軍部にとって「軍人がテロを起こしても国民が味方になってくれる」という危険な成功体験となりました。実際、この空気がその後の二・二六事件(1936年)へとつながっていくことになります。五・一五事件は単なる一日の事件ではなく、戦前日本の進路を大きく変える分岐点だったのです。
五・一五事件の影響と結果——政党政治の終わり
五・一五事件の最大の歴史的インパクトは、政党政治(憲政の常道)がここで事実上終わったことにあります。1924年の加藤高明内閣から続いてきた「衆議院で多数を占める政党の総裁が内閣総理大臣になる」という慣例は、犬養毅の死とともに崩壊してしまいました。
事件後、後継首相の選定を任された元老・西園寺公望は、政党のトップを選ぶことをあきらめ、海軍大将の斎藤実を首班に指名します。
※当時の日本では、次の首相候補を天皇に推薦(奏薦)するのが元老の役割でした。首相は選挙で選ばれるのではなく、元老の判断が実質的に首相を決める仕組みです。1932年当時、西園寺は最後の一人となっており、政変のたびにこの重責を一手に担っていました。
こうして成立した斎藤実内閣は、政党・軍部・官僚の代表者を寄せ集めた挙国一致内閣と呼ばれました。形のうえでは政党も閣僚を出していましたが、首相が軍人になった時点で「政党政治」とは呼べない性格の内閣です。
覚えるポイント:五・一五事件 → 憲政の常道が終わる → 斎藤実の挙国一致内閣が成立。これ以降、戦後までずっと政党内閣は復活しない。
■政党政治から軍部主導へのシフト
斎藤実内閣以降、首相は海軍・陸軍の出身者が多く選ばれるようになります。陸軍大臣・海軍大臣は軍人でなければ務まらないため、軍部が「大臣を出さない」と突っぱねれば内閣は立ち行かなくなります(現役に限らず予備役でも可でしたが、候補者の人選は軍が握っていました)。軍部はこの構造を切り札として、内閣の人事や政策に強い影響力を持つようになっていきました。
さらに、五・一五の犯人に軽い判決が下ったことで、「軍人がテロを起こしても国民が味方してくれる」という空気が軍内部に広がります。この成功体験が、4年後の二・二六事件(1936年)や、日中戦争・太平洋戦争への道を準備していくことになるのです。

先生、「憲政の常道が終わった」ってどのくらい大きい出来事なの?

めちゃくちゃ大きい出来事だよ。1932年から戦後の1945年まで、約13年間も政党内閣が復活しなかったんだから。選挙で選ばれた政治家より、軍人や官僚が日本の舵を握る時代がここから始まるんだ。
📌 テストに出る:五・一五事件の後に成立したのは斎藤実内閣(挙国一致内閣)。これにより憲政の常道(政党内閣の慣例)が終わった——この2点はセットで覚えよう。
五・一五事件と二・二六事件——何が違うのか?
昭和初期に起きた軍人によるクーデター未遂として、五・一五事件と並んでよく登場するのが、1936年の二・二六事件です。どちらも「青年将校が暴発した事件」として混同されやすいのですが、性格はかなり違います。ポイントごとに比較してみましょう。
五・一五事件(1932年):海軍青年将校中心 / 参加者約20名 / 標的は首相犬養毅 / 最高でも禁錮15年
二・二六事件(1936年):陸軍青年将校中心 / 参加兵力約1,500名 / 高橋是清ら重臣多数を殺害 / 首謀者は死刑
■違い①:犯行主体(海軍 vs 陸軍)
五・一五事件を起こしたのは海軍の青年将校を中心とするグループで、陸軍士官候補生や民間右翼(大川周明・橘孝三郎ら)が加わる構成でした。対して二・二六事件は陸軍の青年将校(皇道派)が中心で、海軍はほとんど関わっていません。昭和初期の軍内部の派閥対立を理解するうえでも重要な違いです。
■違い②:規模(約20名 vs 約1,500名)
五・一五事件の実行犯はわずか20名前後で、しかも拳銃と手榴弾による短時間の襲撃でした。一方、二・二六事件は歩兵第1連隊・第3連隊など正規の部隊約1,500名を動員し、4日間にわたって永田町・霞が関一帯を占拠する本格的な軍事クーデターでした。規模はまったくの別物です。
■違い③:結末(軽い刑罰 vs 死刑)
五・一五では、世論の同情を背景に全員が禁錮刑・懲役刑にとどまり、死刑はゼロ。ところが二・二六では、昭和天皇が「朕自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たらん」と激怒したこともあり、非公開の特設軍法会議で審理され、首謀者17名が死刑に処されました。わずか4年で、軍人テロに対する国家の姿勢が180度変わったのです。
■違い④:影響(政党政治の終焉 vs 軍部独裁の強化)
五・一五の結果は「政党内閣の終わり」でしたが、二・二六の結果は「軍部の政治支配の完成」です。二・二六後に成立した広田弘毅内閣では、陸軍が軍部大臣現役武官制を復活させ、軍部が内閣をコントロールする仕組みが制度的に固まりました。五・一五は幕開け、二・二六は決定打——という関係です。
陸海軍大臣を軍人に限定する制度。1900年に制定された当初は現役軍人のみが就任できましたが、1913年(山本権兵衛内閣)に予備役でも可能なよう緩和されました。
五・一五事件(1932年)時点では「現役限定」の縛りはすでに外れており、1936年の二・二六事件後、広田弘毅内閣が現役限定を復活させました。これにより「軍が大臣を出さなければ内閣が倒れる」という構造が制度的に固定されました。

つまり、五・一五で開いた扉を、二・二六で完全に軍部がくぐり抜けたイメージね。

まさにそのイメージ!だから教科書でも、五・一五 → 二・二六 → 日中戦争 → 太平洋戦争って一本の流れで覚えると理解しやすいよ。
テストに出るポイント
定期テスト・共通テストで狙われやすい五・一五事件の超重要ポイントを、覚えやすい形で整理しました。ここだけ押さえれば、記述・選択どちらでも対応できます。
📌 年号:1932年(昭和7年)5月15日
📌 実行犯:海軍の青年将校、陸軍士官候補生、民間右翼(大川周明・橘孝三郎ら)
📌 暗殺された首相:犬養毅(立憲政友会総裁・第29代首相)
📌 有名なセリフ:犬養「話せばわかる」/将校側「問答無用!」
📌 事件後の内閣:斎藤実内閣(挙国一致内閣)
📌 最大の影響:憲政の常道(政党政治)の終焉
📌 関連事件:血盟団事件(1932年2月)→ 五・一五事件(1932年5月)→ 二・二六事件(1936年)

記述問題だとどんな形式で出るの?

定番は「五・一五事件が政党政治に与えた影響を説明しなさい」だね。キーワードは「犬養毅・憲政の常道の終焉・斎藤実挙国一致内閣」の3点。この3つを1〜2文でつなげれば満点だよ!
よくある質問(FAQ)
読者の方からよく寄せられる質問をまとめました。気になるところだけチェックしてみてください。
1932年(昭和7年)5月15日、東京で発生しました。首相官邸で犬養毅首相が暗殺されたほか、牧野伸顕内大臣邸・警視庁・日本銀行・立憲政友会本部・変電所など東京市内の複数箇所がほぼ同時に襲撃されました。
海軍の青年将校(三上卓・古賀清志ら)が中心で、そこに陸軍士官候補生と民間右翼(大川周明・橘孝三郎・愛郷塾の塾生ら)が加わった混成グループです。参加者は合計で20名前後とされています。
首相・犬養毅が襲撃者に銃を向けられたときに発したとされる言葉です。これに対して青年将校は「問答無用!」と答えて引き金を引いたと伝えられています。なお、このやりとりは将校側の後年の証言などから広まったもので、一次史料で完全に確定しているわけではありません。
犬養首相の暗殺後、元老・西園寺公望が「これ以上政党に政権を任せると軍部が暴発する」と判断し、後継首相に海軍大将の斎藤実を推したためです。こうして成立した斎藤実の挙国一致内閣によって、1924年以来続いてきた「衆議院で多数を占める政党の党首が首相になる」という憲政の常道の慣例が崩れ、戦後まで政党内閣は復活しませんでした。
昭和恐慌で疲弊した農村や、政党政治に絶望していた国民の間で「彼らは私利私欲ではなく国を思って立ち上がった」という同情論が広がり、裁判所には数十万通におよぶ減刑嘆願書が届きました。また、軍部の圧力もあり、軍法会議では動機の「純粋さ」が強く考慮された結果、最高でも禁錮15年(民間人は懲役15年)にとどまり、死刑判決は一人も出ませんでした。
大きな違いは4点あります。①主体:五・一五は海軍、二・二六は陸軍。②規模:五・一五は20名前後、二・二六は約1,500名。③結末:五・一五は軍人は禁錮刑・民間人は懲役刑(死刑なし)、二・二六は首謀者17名が死刑。④影響:五・一五は政党政治の終焉、二・二六は軍部独裁の完成。
血盟団事件(1932年2月〜3月)は、前蔵相・井上準之助と三井合名理事長・団琢磨が暗殺された事件で、五・一五事件の約3か月前に起きました。計画の裏では海軍青年将校と民間右翼が連携しており、五・一五事件の実行犯とも人脈が重なります。血盟団事件→五・一五事件→二・二六事件の流れで、テロ・クーデターが段階的にエスカレートしていったと理解するとよいでしょう。
まとめ
最後に、五・一五事件のポイントをもう一度整理しておきましょう。
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1929年世界恐慌が発生。翌年から日本にも波及し昭和恐慌へ
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1930年ロンドン海軍軍縮条約調印・統帥権干犯問題/昭和恐慌の深刻化
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1931年満州事変勃発。政府は不拡大方針を掲げるが、軍部は無視して戦線拡大
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1932年2月〜3月血盟団事件——井上準之助・団琢磨が暗殺される
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1932年5月15日五・一五事件——犬養毅首相が暗殺される
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1932年5月26日斎藤実の挙国一致内閣が成立——憲政の常道(政党政治)の終焉
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1933〜34年五・一五事件の判決——最高でも禁錮15年(民間人は懲役15年)、死刑なし
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1936年二・二六事件——陸軍青年将校によるクーデター。軍部独裁が決定的に

以上、五・一五事件のまとめでした。昭和初期の日本がどれだけ不安定な状況にあったか、伝わったかな?下の関連記事で二・二六事件や満州事変・昭和恐慌もあわせて読んでみてください!
五・一五事件の理解を深めるおすすめ本

五・一五事件をきっかけに昭和初期の歴史をもっと深く知りたい人には、半藤一利さんの『昭和史』がおすすめだよ。講義録スタイルで語りかけてくれるから、読みやすくてスラスラ読めるんだ!
📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「五・一五事件」(2026年4月確認)
コトバンク「五・一五事件」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
半藤一利『昭和史 1926-1945』平凡社、2004年
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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