今回は、1930年代に登場した陸軍内の二大派閥『皇道派』と『統制派』について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
皇道派・統制派とは?
皇道派・統制派とは、1933年頃から生まれた陸軍内の2大勢力のことを言います。
陸軍では1930年頃から、満蒙の危機やソ連から日本への共産主義思想の流入に対処するため、『日本に軍事政権を築いて、将来起こるであろう戦争に備えるべきだ!』という考え方が強くなっていきました。
『軍事政権を築くべき!』という点については陸軍内で大きな異論はありませんでしたが、『軍事政権をどうやって築くか?』という点では意見が大きく2つに割れ、陸軍内の2つの勢力が生まれました。
この勢力が、皇道派と統制派です。
それぞれの思想はおおむね次のような思想でした。
両者のイメージは、幕末の状況にとても似ているよ。
皇道派の思想は幕府を倒して新政権樹立(明治維新)を目指した倒幕派で、
統制派は、江戸幕府の刷新を通じて政治改革を目指した親幕派に当てはまります。
倒幕派と親幕派が、『日本を列強国から守るためには改革が必要』と同じ目標を持ちつつ、『どうやって日本を改革すべきか?』という点で対立したように、皇道派・統制派も同じ目標を掲げて、その手法について対立したってことなんだ。
皇道派・統制派が生まれた時代背景
話は1920年頃まで遡ります。
1920年頃、陸軍を裏で支配していたのは陸軍出身の元老、山県有朋でした。
山県有朋は、長州出身者を中心に自らの息のかかった軍人・官僚を要職につけ、長州閥と呼ばれる派閥を作ります。
しかし、陸軍の中には長州閥を嫌う者も多く、その代表人物の一人が永田鉄山という男でした。
永田鉄山は陸軍随一の秀才で、1920年当時は将来有望な中堅としてヨーロッパに海外赴任をしていました。
1921年、永田鉄山は、ドイツで同志たちと会い、国家を外敵から守るため、既得権益だらけの長州閥を倒して軍を改革することを密約します。
この密約の内容は、次のようなものでした。
この時の密約の内容は、皇道派・統制派に共通する『日本に軍事政権を築いて、将来起こるであろう戦争に備えるべき』という思想の原点となります。
ここまでに登場した人物のうち、
荒木貞夫・真崎甚三郎はのちに皇道派、永田鉄山はのちに統制派に属することになる重要人物です。
1920年代の頃はまだ皇道派・統制派は存在していません。この時はみんな、日本のため軍や国を変えようとしていた同志でした。
皇道派・統制派が登場した経過
1922年、山県有朋が亡くなると、田中義一が長州閥を受け継ぎ、1925年になると、次は宇垣一成という人物が長州閥を受け継ぎました。
宇垣一成は、陸軍の主要ポストを自らの派閥(宇垣閥)で固め、体制を盤石なものに整えます。
永田鉄山ら軍部改革を目指す同志たちがまず最初の標的にしたのが、この宇垣閥です。
1929年、軍の改革を目指す同志たちは一夕会という会を結成し、宇垣閥に抵抗します。
一夕会は、人事への圧力でジワリジワリと同志を要職に就けることに成功していましたが、1931年3月、大きな事件が起こります。
それが三月事件です。
宇垣は、クーデターへの関与を疑われたことで大臣としての信用を失い、1931年4月、浜口内閣の解散に合わせて陸軍大臣を辞任することになります・・・。
一夕会から見れば、宇垣が勝手に自滅してくれたことになります。一夕会はこのチャンスを利用して、陸軍の宇垣閥を一掃。
満州事変前夜の1931年9月には、陸軍の主要ポストのほとんどを一夕会で占めました。
永田鉄山らが1921年に掲げた密約のうち、長州閥(1931年当時は宇垣閥)の排除がようやく成功したわけです。
3月事件はあまりにも稚拙な計画だったので、実は宇垣を失脚させたい一夕会の陰謀だった・・・とも言われているよ。
長州閥を排除したことで、一夕会はいよいよ軍・国家改革に取り掛かる準備を始めます。
改革を進めるには、まず政府や議会の中に味方をつくる必要があります。
そこで永田鉄山ら一夕会は、、立憲政友会との連携を深めることにしました。
※当時は立憲改進党が政権を握っていて立憲政友会は野党だったので、政権交代を望む立憲政友会と、政治改革を望む一夕会は、「打倒!立憲改進党」という点で利害が一致していたのです。
1931年当時、政権を握っていたのは立憲民政党でしたが、1931年12月、満州事変への対応ミスによって内閣(第二次若槻内閣)が解散。
憲政の常道に沿って、次は立憲政友会が犬養毅を首相として政権を握りました。
一夕会は、この政権交代を利用して、立憲政友会に働きかけ、陸軍大臣に荒木貞夫を就任させることに成功。
さらには真崎甚三郎を参謀本部の要職に就かせることにも成功し、一夕会は着実に改革の下準備を整えました。
皇道派VS統制派
しかし、軍部・国家改革が現実味を帯びるにつれて、次第に『改革をどう行うべきか?』という点について一夕会内で意見対立が起こるようになります。
陸軍大臣になった荒木貞夫は、既存の国家制度を破壊して、天皇親政による軍事政権の樹立を目指していました。
この荒木の思想が、皇道派の原点となります。
ちなみに、皇道派の名前は、荒木が日本軍のことを皇軍と呼ぶことを口癖にしていたことが由来になっています。
一方の永田は、急進的なやり方ではダメで、すでにある国家制度を利用しながら軍事政権を樹立すべき・・・と考えていました。
皇道派の荒木貞夫は、自分の意に反する人物はとことん左遷させる強硬人事を行なったため、陸軍の中には荒木に恨みを持つ人物が増え始めていきます。
そうした人たちの受け皿になったのが永田鉄山でした。反荒木派(反皇道派)の人たちは次第に、永田の元に集まるようになります。
こうして皇道派に対抗する形で登場した勢力が統制派です。
統制派の名前は、永田の思想が、軍の規律を重視して、陸軍大臣を通じて合法的に軍事政権を樹立しようとする統制のとれたものだったことに由来しているよ。
1933年6月、永田が昇進して発言力が増すようになると、皇道派と統制派の争いがついに表面化します。
きっかけは、とある会議でのソ連や中国への対応について議論が行われたことでした。
皇道派のとある人物が『将来的にまずはソ連と戦争をすべきだ!』と主張するのに対して、永田鉄山は『ソ連と戦うためには、まず中国を味方につけるべきだ』と反論。
この口論をきっかけに、皇道派VS統制派の対立がついに表面化します。
相沢事件
当初、有利な立場だったのは皇道派でした。
陸軍大臣の荒木貞夫は、過激な人事で要職を皇道派で占めることに成功し、さらには若手たちからも高い人気を得て、陸軍の人事を支配します。
そんな荒木ですが、致命的な欠点がありました。
それは政治力に欠けていて、改革後の明確な国のビジョンを持っていなかったことです。これでは、政府や大蔵省を説得することができず、軍改革に必要な予算を確保することができません。
皇道派の中には、荒木の手腕に失望する声が挙がるようになり、若手からもそっぽを向かれ、1934年1月、陸軍大臣を辞職してしまいます。
荒木はとても気さくな性格で、若手軍人にとても人気があったから、若手の多くが皇道派の思想を持つようになったんだ。
しかし、若手の思想があまりにも過激すぎたため、荒木は若手たちがテロ行為などを起こさぬよう、行動を抑えるようになります。
この抑制は、若手から見れば一種の裏切り行為に映り、荒木は若手からの人望を失うことになってしまったのです。
人事って難しいね・・・。
この後陸軍大臣になったのは、林銑十郎という男。林は、皇道派にも統制派にも所属しない中立を主張しつつも、軍部から皇道派を排除する人事を次々と行なっていきます。
※林は裏で永田鉄山と連携していて、統制派に有利になる人事を行なっていたのです・・・!
1935年7月、林は、荒木貞夫の後継者とされていた皇道派のエース、真崎甚三郎を教育総監という要職から反対意見を無視して強引にクビにしてしまいました。
陸軍の幹部人事は、陸軍大臣・参謀総長・教育総監の三人の合意に基づいて決めることことが習慣になっていました。
ところが林は、教育総監だった真崎の反対を無視して、合意のないまま真崎を教育総監からクビにしたのです。
皇道派のエースを要職から排除することに成功すると、統制派の逆転大勝利はいよいよ目前となりました。
このルールを無視した強行人事に、多くの皇道派が憤怒しましたが、その中の一人に相沢三郎という男がいました。
相沢は、林陸軍大臣が真崎甚三郎がクビにした背後には永田鉄山の存在があると考え、これを抹殺することを考えます。
1935年8月、相沢は陸軍省を訪れ、白昼堂々と永田鉄山を斬殺。(相沢事件)
皇道派の中には、相沢三郎の勇姿を見て、『このまま皇道派にやられてしまうぐらいなら、俺たちも立ち上がって国家改革を実行すべきだ!』と奮い立つ者が現れ始めました。
そして、二・二六事件へ・・・
統制派は、相沢事件に感化された危険な皇道派を満州へ送り込んで、日本国内から皇道派を一掃しようと試みます。
しかし、皇道派は逆に「それなら満州へ出向させられる前に、日本で改革を実行してやる!」と最後の大博打に出ます。
こうして1936年2月26日、皇道派の軍人たちが首相官邸や警視庁を襲撃し、要人たちを殺害した二・二六事件がおきました。
・・・が、二・二六事件はわずか4日で鎮圧され、皇道派は壊滅状態に。
二・二六事件の後、陸軍内は統制派が支配するようになり、永田の代わりとして東條英機という人物が、その後を継ぐことになります。
二・二六事件の後、統制派は、既存の国家体制を維持したまま軍事政権を樹立することに成功して、日中戦争・太平洋戦争へと突入していくことになるよ。
皇道派・統制派まとめ
- 1921年永田鉄山、同志とともに軍・国家の改革を決意
- 1929年3月改革を目指すメンバーが一夕会の結成
当時はまだ皇道派・統制派は存在せず、永田・荒木・真崎・東條たちは同じ目標を目指す同志でした。
- 1931年3月三月事件
改革の邪魔になっていた陸軍大臣の宇垣一成が失脚
- 1931年12月荒木貞夫が陸軍大臣に就任
この頃から、一夕会メンバーの中で改革の手法について意見対立が起こるようになる。
- 1933年6月永田鉄山、皇道派に異論を唱え、皇道派VS統制派の争いが鮮明に・・・
- 1934年1月皇道派の荒木貞夫が人望を失い、陸軍大臣から失脚する
- 1935年7月荒木を継ぐ皇道派のエースだった真崎甚三郎が、統制派の策略で要職を失う
この時点で、陸軍内の要職は統制派で占められ、皇道派は力を失う。
- 1935年8月真崎の失脚に激怒した皇道派の青年によって、統制派の主導者だった永田が殺害される(相沢事件)
- 1936年2月二・二六事件
追い詰められた皇道派が国家改革を実行。要人数名を殺害するも、4日で鎮圧され失敗。
皇道派は総崩れとなり、二・二六事件以後、陸軍は統制派が支配することになる。
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