今回は、1930年に結ばれたロンドン海軍軍縮条約について、わかりやすく丁寧に解説していくよ
ロンドン海軍軍縮条約とは
ロンドン海軍軍縮条約とは、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五カ国の間で結ばれた海軍の軍縮に関する条約です。
本題に入る前に、まずは、1922年に同じ五カ国の間で結ばれたワシントン海軍軍縮条約の話をしておきます。
ロンドン海軍軍縮条約は、ワシントン海軍軍縮条約と深い関係を持っているから、少し時間を遡って説明をする必要があるんだ。
ワシントン海軍軍縮条約は、五カ国が持つ主力艦隊の保有量を制限することで、軍縮を図ろうとした条約でした。
しかし、ワシントン海軍軍縮条約で決められたのは、あくまで主力軍艦の制限だけ。
排水量(船の重さ)が1万トン以下またはの軍艦であれば、これまでどおり制限なく保有することができます。
この条約の隙を狙って、各国は軍艦や大砲を小型化した上で、これまでどおり軍備拡張を進めるようになりました。
結果的に、ワシントン海軍軍縮条約は、軍縮の効果はあまりなく、海軍の戦法を大型軍艦を前提とするものから、中・小型軍艦を前提とした戦法に変えただけでした。
・・・そこで!「主力軍艦の制限だけだと意味がなかったから、中・小型軍艦の保有量についても制限を設けようぜ!」ってことで結ばれたのが、今回紹介するロンドン海軍軍縮条約になります。
ここまでのお話がピンとこなかった方は、まずはワシントン海軍軍縮条約の記事を読んでみてくださいね。
ロンドン海軍軍縮条約が結ばれた時代背景
ワシントン海軍軍縮条約が結ばれると、条約を結んだ五カ国は、海軍の主戦力を主力艦から補助艦へと移行させた上で、軍備拡張競争を続けました。
各国は、船の重量や大砲を大きさの制約の中で、さまざまな工夫を行います。
日本は、船の居住区画を縮小して魚雷装備を強化。アメリカは、魚雷装備を縮小して砲撃装備を強化し、イギリスは、長期航海できるよう居住区画を充実させて攻撃装備を減らしました。
・・・さて、ここまでのお話で、次のような疑問を持った方もいるのではないでしょうか。
ワシントン海軍軍縮条約って、五カ国が軍縮をしたいから結んだんだよね?
それなのに、条約の穴を狙うかのように、すぐに補助艦の増強を始めるなんて変じゃない?もともと軍縮なんてする気がなかったってこと??
この疑問に対する答えは、YESです。
実は、ワシントン海軍軍縮条約の目的な軍縮そのものではないのです。
海軍強国のイギリスや日本では、他国に負けないように軍艦をたくさん造って競争を続けていくうちに、海軍の予算が国家財政を圧迫するようになりました。
要するに、たくさん軍艦を造っていたら、お金が足りなくなってしまったのです。
しかし、お金がないからと言って軍備拡張をやめることもできません。特に島国のイギリス・日本では、他国に海軍力で劣ることはそのまま国家侵略のリスクを高めることになります。
「お金がないけど、軍拡もやめれない・・・」この詰んだ状況を打破しようとしたのが、ワシントン海軍軍縮条約でした。
要するに、「話し合いによって各国の軍艦の保有量を制限すれば、他国と競争する必要もなくなって、国のお金も節約できて、みんなwin-winだよね!」と言うのが軍縮の目的です。
軍縮の目的というのは、軍縮そのものではなく、軍縮よって国家財政の負担を軽くすることだったですね。
しかし、主力艦の保有量を制限しても、補助艦をめぐる軍拡競争が激化してしまっては、根本的な問題の解決にはなりません。
軍拡競争には、終わりがありません。(なんせ、現代では、核兵器が開発されてもなお軍事競争が続いているぐらいですからね・・・)
一方で、国家財政には限界があります。
そこで、ワシントン海軍軍縮条約では解決できなかった軍拡競争の問題を、補助艦の保有量に制限を設けることで解決しようと開かれたのが、ロンドン海軍軍縮会議でした。
そして、ロンドン海軍軍縮会議で話し合われた結果、新たに結ばれた条約こそがロンドン海軍軍縮条約です。
ロンドン海軍軍縮条約の交渉経過
1929年、補助艦の問題を解決するため、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五カ国がロンドンに集まり、軍縮について話し合うことが決定します。
ロンドン海軍軍縮会議の対応に当たったのは、1929年7月に発足した浜口雄幸内閣。
当時、浜口雄幸は、列強国との関係改善に頭を悩ませていました。
というのも、前内閣の田中義一内閣が、山東出兵や張作霖爆殺事件など、中国に対して強硬な姿勢を採っていたからです。この強硬姿勢は、列強国から「日本は中国を乗っ取る気なのでは?」と疑惑の目で見られるようになり、中国はもちろんのこと、列強国との関係もギクシャクし始めました。
そこで、浜口雄幸は、田中内閣以前に「幣原外交」と呼ばれる協調外交で成果を上げていた幣原喜重郎を外務大臣に再抜擢して、列強国との関係を改善しようと考えていました。
おまけに浜口雄幸は、1917年に中止していた金本位制を復活させたいとも考えていたので、国家の支出を抑える必要がありました。
金本位制を再開させると、国家の金保有量を超えて通貨を発行することはできません。当時の日本は、日本国内に流通する通貨量が金の量を超えていたので、国内に流通する通貨量を減らす必要がありました。
政府予算は巨額なため、政府が支出を減らせば、国内の通貨量を減らすことができたのです。
詳しい事情を知りたい方は、金輸出解禁の記事を合わせて読んでみてくださいね。
つまり、ロンドン海軍軍縮会議は、列強国との関係を改善し、国家支出も減らせる一石二鳥の絶好の大チャンスだった・・・ということです。
そのため浜口雄幸は、交渉内容が日本に不利だったとしても、許せる程度であるのなら、ある程度のことは妥協する腹づもりで会議に臨みました。
日本海軍「軍縮するなら条約を破棄しろ」
一方で、海軍の軍縮に反対する人々もいました。・・・そうです、日本の海軍たちです。
1921年のワシントン会議では、海軍が「日本の主力艦の保有比率はアメリカ・イギリスの7割を維持できなければ国防に支障が生じる・・・!」と主張したのに、交渉の末、日本は保有比率6割でワシントン海軍軍縮条約を締結してしまいました。
海軍は、この教訓を活かし、補助艦の保有比率を最低でもアメリカ・イギリスの7割を維持するよう、ワシントン会議の時以上に強く政府に迫りました。
日露戦争を勝利に導いた海軍の英雄東郷平八郎までもが、7割維持を主張し、海軍は「7割を維持できないなら条約は破棄すべき!」と政府に圧力をかけたのです。
ロンドン海軍軍縮条約の内容
海軍の意向もあり、政府は「補助艦の保有比率をアメリカ・イギリスの7割を確保する!」という目標を持って、交渉をスタート。
会議は1930年1月に始まり、日本は粘り強い交渉を続けた結果、1930年3月になるとアメリカが日本に譲歩して、こんな提案をしてきます。
日本が7割をどうしても主張するというのならわかった。アメリカの6.975割で譲歩しようじゃないか。
この条件なら、アメリカ・イギリスも条件を受け入れるよ。
もちろん、譲歩したのには理由があって、アメリカの本音はこんな感じでした↓
本当は、ワシントン海軍軍縮条約と同じように6割に抑え込みたいんだけど、1929年に世界恐慌が起こっちゃって、それどころじゃないんだよなぁ・・・。
国家財政がヤバいから早く軍縮を決めたいんだけど、日本が7割を強硬に主張してくるし、ある程度の譲歩は認めて、早く条約を結んでしまいたい・・・。
日本政府も、アメリカの提案に賛成する者がほとんどであり、日本はアメリカの案を受け入れることにしました。
目標の7割には0.025割足りないが、わずかな割合を譲歩するだけで、列強国との関係を改善でき、国家支出も減らせるのであれば、この交渉は大成功と言えるだろう。
この政府の決定に対して、海軍内では批判の声もありましたが、4月22日、この案でロンドン海軍軍縮条約が調印されました。
1930年10月には、国内での手続きも完了して、条約が批准されました。
ロンドン海軍軍縮条約を結んだ結果
アメリカとの関係が回復する
日本が独断行動をせず、条約締結に向けて前向きに交渉してくれたため、アメリカでは外務大臣の幣原喜重郎が高く評価され、アメリカとの関係が回復しました。
※世界恐慌の影響を受けていたアメリカは、早く条約を調印したがっていたので、協力的だった日本の姿勢はとても印象が良かったのです。
浜口雄幸が狙っていた「ロンドンでの会議を通じて協調外交を復活させる!」という目標は、ひとまず達成されたということです。
統帥権干犯問題
海軍の中には、政府が0.025割を妥協したことや、主力艦の保有比率を7割に引き上げれなかったことに対して、強い不満を抱いていました。
そこで海軍は、政府に対して抗議します。
海軍の意向を無視して、条約を結ぶとは何事だ!!
そもそも、大日本帝国憲法では、天皇が陸・海軍を命令する権限(統帥権)を持っているんだぞ。
つまり、海軍は天皇の命令で動いているわけだ。それなのに、浜口内閣は、軍事に関する条約を海軍を無視して決定した。
これは明らかに、天皇の持つ統帥権に政府が干渉している(干犯している)ということ。許されることではないぞ!
統帥権の解釈が曖昧だったことを利用して、「政府は統帥権を干犯している。だから、軍艦保有比率7割を維持できないのに条約を結ぶことは、憲法違反だし、天皇を侮辱する行為だ!」と反論したのです。
ロンドン海軍軍縮条約をきっかけに統帥権干犯問題が浮上したことで、陸・海軍は次第に「統帥権を拡大解釈すれば、俺たちは政府を無視して好きなように行動できるぜ!」と考えるようになり、政府は軍部の動きをコントロールできなくなっていきます。
ロンドン海軍軍縮会議の終わり
政府が軍部をコントロールできなくなると、陸・海軍が政治に深く関与するようになり、戦争によって領土拡大を目指す軍国主義(ファシズム)化が進みました。
1931年には満州事変が起こり、国内では1932年に海軍青年によって犬養毅首相が暗殺されました。(五・十五事件)
戦争への道を進む日本は、1935年12月に開かれた2回目のロンドン海軍軍縮会議で軍縮を拒否し、1936年1月には会議を退席。交渉は決裂しました。
軍縮のルールがなくなると、再び列強国による軍艦の製造競争が始まり、世界は第二次世界大戦へと突入していくことになります。
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