今回は、1930年に起きた昭和恐慌について、わかりやすく丁寧に解説していくよ
昭和恐慌とは
昭和恐慌とは、1930年〜1931年にかけて日本を襲った深刻な不況のことを言います。
昭和恐慌が起こった原因は大きく2つ。
原因その1:1929年に起きた世界恐慌の影響を受けた
原因その2:1930年に金本位制と再開させた(金輸出解禁)
世界恐慌と金輸出解禁がなぜ昭和恐慌を招くことになったのか、しっかりと解説していくね!
日本を襲った世界恐慌
1929年、アメリカのニューヨーク株式市場での株価大暴落をきっかけに、世界が大不況に見舞われました。(世界恐慌)
世界恐慌による不況の波は、アメリカから遠く離れた日本にまで波及します。
世界各国の経済活動が停滞してしまったため、日本からの輸出品が全然売れなくなってしまったのです。
輸出品が売れなくなると、売れ残った商品を売り切るため、商品の値段が急激に下がり始めました。
値段が下がると買う側は嬉しいですが、売る側は利益が減ってしまうので大問題です。
商品価格が下がって会社の利益が減ると、会社はリストラをしたり設備投資を中止したりして、節約するようになります。
すると、リストラによって収入を失った人々は物を買えなくなり、会社の設備投資が減れば、それを請け負う別な会社の商品やサービスも売れなくなってしまいます。
そうすると、輸出品に関係のない商品・サービスまでもが、買ってくれる人を増やそうと商品・サービスの値下げを始めます。
そしたら、また別の会社の業績が悪化してリストラ&設備投資縮小を行う・・・といった負のスパイラルが起こり、大不況が日本を襲うことになりました。
特にアメリカへの最大の輸出品だった生糸産業は、世界恐慌で大ダメージを受けることになったよ。
金輸出解禁とデフレ
デフレ→不況という流れにさらなる追い討ちをかけたのが、1930年1月に実施された金輸出解禁(金本位制の再開)です。
第一次世界大戦の余波で列強国が次々と金本位制を停止したため、日本も年に年金本位制を停止していました。(金輸出禁止)
第一次世界大戦が終わると、金本位制の再開に向けて議論が行われ、1930年1月にようやく金本位制が再開することになったのです。
ちなみに、金本位制とは「国家が金を保有して通貨との交換を認めることで通貨の信頼性を担保する制度」のことです。
※金本位制の話は説明すると長くなってしまうので、詳細を知りたい方は以下の記事を読んでみてくださいね。
金本位制を維持するためには、国が保有している金の保有量が世に出回っている通貨より必ず上回らないといけません。(「国が保有する金保有量」>「通貨量」ということ)
もしも逆に「国が保有する金保有量」<「通貨量」の状態になったとしたら、金に交換できない通貨が存在することになります。
これでは通貨の信頼性が担保されません。信頼性のない通貨は、そのうち誰も使わなくなる可能性もあるので、安心して使うことができなくなります。
そこで日本政府は、金本位制の再開(金輸出解禁)に向けて、国家が保有する金の保有量に通貨量を合わせるため、世に出回っている通貨の量(マネー=ストック)を減らすことにしました。
この日本政府の政策が、世界恐慌で傷ついた日本経済にトドメを刺してしまいます。
問題なのは、『世に出回っている通貨の量(マネー=ストック)を減らす』って部分です。
世の中のお金を減らすと、みんな今まで以上にお金を使わなくなります。そうなれば、ますますデフレ(商品価格が下がる)になって、景気はさらに悪くなっていきます。
世界恐慌&金輸出解禁のダブルショックによって、日本は昭和恐慌と呼ばれる大不況時代に突入していったのです。
農民たちの惨状〜農業恐慌〜
昭和恐慌は、日本のあらゆる産業にダメージを与えましたが、特に農業へのダメージが深刻でした。
そのため、昭和恐慌のうち農業分野に及んだ不況だけをピックアップして農業恐慌と呼ぶことがあります。
昭和恐慌の一部が農業恐慌ってことです!昭和恐慌と農業恐慌がそれぞれ独立して起きたわけじゃないから注意してね!
農作物の価格が大暴落したことによって農民たちの収入はガタ落ち。農民たちは貧困のどん底に突き落とされました。
もちろん、工場で働く労働者たちもリストラされて生活に苦しみましたが、農民たちはそれ以上に厳しい生活を強いられました。
農村地域では、若い女性の身売りが公然と行われるようになり、役所の前に身売りの案内看板が堂々と立っていた地域もあったと言われています。
身売りと同時に、栄養不足の子供の数も1930年代に入ると急激に増加。中には、山菜を採りに行くため、子供たちが学校へ行けなくなり、欠席する児童が多くいた学校もあったとか・・・。
農村地域が凄惨な状況に陥ったことは分かったけど、なぜ農村だけそんな悲惨なことになってしまったの?
理由の1つは、農村の主力商品だった米・生糸の価格の暴落が激しかったためです。
生糸の価格下落の理由はすでに紹介しましたが、実は米の価格も大暴落していました。
米の価格下落は、もちろん世界恐慌の影響も大きかったけど、植民地(台湾・朝鮮)からの輸入米が1920年代から増え続けていたことにも原因があったと言われているよ。
台湾・朝鮮の農業効率が上がって安い輸入米が国内に入ってきたので、国産米も競争に勝つため値下げを強いられました。
そして、昭和恐慌によるトドメの一撃で米価格は大暴落することになったのです。
もう1つの理由は、出稼ぎで都会に出ていた労働者がリストラにあって、一気に農村に出戻りしていったためです。
ただでさえ生活に苦しいのに、農村ではリストラされた労働者をも受け入れる結果となり、困窮に拍車がかかったのです。
もっと言えば、もともと農家の人は、農業だけで稼げないので他の仕事もする兼業農家が多かったんだけど、昭和恐慌で兼業する仕事を失って収入を失ったという側面もあったんだ。
要するに、いくつものマイナス要因が重なって、農村だけが異常な貧困に陥ってしまったんだね・・・。
昭和恐慌に向けた4つの対策
危機的な状況のなか、日本政府はどんな対策をとったのかしら?
日本政府は、昭和恐慌でボロボロになった経済を回復させるため、大きく4つの政策を打ち出しました。
1つ1つ、順番に解説していくね!
対策1:金輸出再禁止
1931年12月に犬養内閣が成立すると、大蔵大臣になった高橋是清という人物が中心となり、本格的な経済対策が始まります。
先ほど紹介したように、金本位制の再開によるマネー=ストックの減少が昭和恐慌の一因でした。
金本位制を再開するためにマネー=ストックの減少が必要であるのなら、いっそのこと金本位制をまた中止しちゃえば良くない?
と考えた高橋是清は、大臣就任直後の12月に金輸出再禁止を決定。
その代償として、金による担保を失った日本円の価値は大暴落し、為替相場は大幅な円安で推移してしまいます。
・・・が、円安には輸出品の国際競争力を高める効果があります。世界恐慌によって急減した輸出品ですが、大幅な円安によって息を吹き返すことになります。
もともと昭和恐慌の要因の1つが金本位制だったから、その要因を取り除く金本位制の停止(金輸出再禁止)はとても有効な経済対策となりました。
おまけに円安による輸出増も見込めるのですから、まさに一石二鳥の対策でした。
対策2:マネー=ストックの増加
金輸出再禁止によって金の保有量に合わせてマネー=ストックを減らす必要がなくなると、高橋是清は逆に、マネー=ストックを増やすため世の中に一気にお金をばら撒きました。
先ほどマネー=ストックの減少が昭和不況の一因になったという話をしましたが、逆にマネー=ストックが増えれば、世の中に出回るお金が増えて、人々は値段が高くても物を買うようになります。
物が高く売れれば、企業の業績も良くなって企業活動が活発になったりお給料がUPしたりして、さらに高くても物が売れる・・・という好循環が期待できます。
高橋是清は、マネー=ストックを増して正の好循環を生み出すことによって、昭和恐慌を乗り切ろうと考えたのです。
完全に余談ですが、2013年〜2021年にかけて行われたアベノミクスも似たような考え方で行われた経済対策です!
金本位制から解き放たれた政府は大量のお金を刷って、そのお金を政府支出として世間にどんどんばら撒きました。
※刷ったお金は、将来返済すべき借金である赤字国債として発行されました。
支出先は大きく2つあって、軍事費と農村経済を復興させるための公共事業に多額のマネーが投じられました。
対策3:重要産業統制法
1931年、政府は商品価格の下落を防止するため、重要産業統制法という法律を制定しました。
重要産業統制法は、企業のカルテルを政府が公認する法律で、カルテルを通じて商品価格の下落を防ごうとしたのです。
対策4:農村経済の立て直し(農山漁村経済更生運動と事業)
特に被害の深刻だった農村に対しては、ざっくり2つの政策を打ち出します。
1つは、時局匡救事業と呼ばれる公共事業です。
政府は公共土木事業をたくさん実施することで、農村の人々に仕事を与えました。
対策2のところでマネー=ストックを増やすため軍事費と公共事業を増やした・・・って話をしたけど、その公共事業が時局匡救事業ってわけです。
もう1つは、農山漁村経済更生運動という取り組みです。
農山漁村経済更生運動では、農民たちに補助金を与えたり借金の返済期間を延長することによって、農民たちに立ち直りのチャンスを与えました。
さらに、各町村ごとに経済立て直し計画が策定され、町村の有力者を中心として人々が一致団結する体制が出来上がりました。
昭和恐慌が日本に与えた影響
結論から言うと、日本政府が打ち出した上記1〜4の対策は大成功しました。
政府の対策は、輸出の大幅増加、軍事産業の発展を招き、1933年には日本は不況から脱出することができたのです。
世界恐慌で世界中が大ダメージを受ける中、日本は世界最速の速さで不況を脱したと言われています。(ただし、農村地域の回復にはもう少し時間を要しました)
この成功に伴って、日本経済にも大きな変化が見られます。
重化学工業の大発展
軍需拡大による景気回復を目指した政府の対策は、軍需に関連する金属・機械・化学分野の大成長を促すことになりました。
明治に設立された八幡製鉄所は、各財閥が経営する他の製鉄会社と合併して、日本製鉄会社へと生まれ変わりました。
このほかにも、軍需拡大の流れに乗っていくつかの新興財閥が登場します。
特に有名なのが、鮎川義介が立ち上げた日産コンツェルンと、野口遵が立ち上げた日窒コンツェルンです。
日産コンツェルンは、満州に進出して重化学工業の分野で勢力を伸ばし、日窒コンツェルンは朝鮮北部で水力発電所や化学工場の建設などで力を伸ばしました。
これまでは繊維業が日本の主力産業でしたが、1933年には重化学工業の規模が繊維業を抜くことになり、昭和恐慌によって日本の産業構造が大きく塗り替えられることになります。
西欧列強国との貿易摩擦
円安にして輸出を増やしまくる政策は、イギリスやフランスから強い批判を受けることになります。
イギリス・フランスは、世界恐慌対策としてブロック経済をしていましたが、急な円安で日本の商品が激安になると、日本製品がイギリス・フランスの植民地へ入り込むようになってきたのです。
わざと自国通貨の価値を下げて輸出を拡大する行為(ソーシャル=ダンピング)は卑怯だ!と日本は批判を受けることになり、西欧列強国からの輸入品が減少しました。
そして、その代わりとして日本は次第にアメリカからの輸入品に依存するようになります。
第二次世界大戦の際、日本は敵対しつつあったアメリカから石油等の輸出を禁止する経済制裁を受けますが、アメリカの輸入品に依存していた日本経済へのダメージは深刻でした。
この経済制裁をきっかけに、日本は東南アジアへの侵略を開始し、1941年12月には真珠湾攻撃を実施し、アメリカとの本格的な戦争へと突入していくことになります。
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