今回は、北条泰時が設置した評定衆について、わかりやすく丁寧に解説していくよ
そもそも評定衆って何?
鎌倉幕府のさまざまな問題について話し合う(合議する)ために選ばれた11人の有力御家人のことを言います。
3代目執権の北条泰時の時代に設置されました。話し合いは、評定衆11人に執権・連署を合わせた計13人によって行われ、この話し合いのことを評定と呼びました。
※江戸時代の評定所と紛らわしいので注意!!
評定で決められた事項はそのまま幕政に反映されたので、評定は幕府の最高意思決定機関として強い権限を持っていました。
評定衆が合議する話題は、幕府の政策・人事、訴訟の裁決など重要な問題が多かったため、評定衆は執権・連署に次いで強い影響力を持つ存在でもありました。
話を進める前に、執権・連署についてよくわからないという方は、合わせて次の2つの記事も読んでみてくださいね。
評定衆が設置された理由
なぜ北条泰時は、わざわざ物事を話し合いで決めようとしたの?
2代目執権の北条義時みたいに、権力を持っている執権がリーダーになって物事を決めてしまったほうが、好きなようにできて良いのでは?
という疑問もあるかもしれません。
なぜ北条泰時は評定衆を設置したのか、見ていきたいと思います。
事の発端は、1224年、2代目執権の北条義時が急死したことから始まります。
権力者が不在となった鎌倉幕府には、不穏な空気が漂い始め、次の執権の座をめぐって北条義時の2人の息子たち(北条泰時と北条政村)が争いを始めます。
この争いに勝利したのは、北条泰時でした。勝因は、幕府の裏の最高実力者だった北条政子が北条泰時を支援してくれたからです。
3代目執権になった北条泰時に課せられた問題は、北条義時の死をきっかけに、これまでの不満を爆発させかねない傍流の北条一族や有力御家人たちを抑え込むことでした。
しかし、北条泰時には、父の義時のように、強権と謀略によって不穏分子を鎮圧していく実力がありません。そこで北条泰時は、祖母であり幕府の裏の権力者でもあった北条政子の影響力を利用することで、鎌倉幕府を安定に導こうと考えました。
・・・が1225年、その北条政子が亡くなってしまいます。(さらに同年、北条政子に次ぐ実力者だった大江広元という人物も亡くなっています。)
マズいことになった。祖母(北条政子)が亡くなってしまっては、みんな私の言うことを聞かなくなるだろう。
そうすれば、鎌倉幕府の秩序が乱れ、争いが起こりかねないぞ・・・。
強力なリーダシップとカリスマを持っていた源頼朝が亡き後も鎌倉幕府が存続できていたのは、将軍や執権の裏で、北条政子や大江広元といった誰もが認める実力者が活躍してくれていたからです。
冷静に状況を理解していた北条泰時は、これまでのやり方で鎌倉幕府を治めるのは不可能だと悟り、鎌倉幕府の仕組みを根本的に変えてしまうことを考えました。
具体的には、裏の権力者に依存しなければ存続できない鎌倉幕府のあり方を改めて、裏の権力者不在でも鎌倉幕府が安定するような新しい仕組みを模索したのです。
こうした動きの中で北条泰時が考え出したのが評定衆という仕組みでした。
人々の不満を権力によって強引に抑圧してしまうから、権力者が亡くなる都度、鎌倉幕府は不安定になるのだ。
大事なのは、適度に不満をガス抜きすることだ。そのためには、幕政を有力者たち(評定衆)が話し合いで決める仕組みにしてしまえば良い。
もちろん、執権として権力を振るう場面もあるだろうけど、基本的には評定の決定を幕府の最終決定とする。
こうすることで、執権が誰であろうとも安定した幕政を行えるはずだ!
評定衆の初期メンバー
1225年に北条泰時が抜擢した評定衆の初期メンバーは以下のとおり。有力御家人と、エリート官僚たちから11人が抜擢されました。
名前 | 区分 |
---|---|
三浦義村 | 有力御家人 |
二階堂行村 | 有力御家人 |
中条長家 | 有力御家人 |
佐藤業時 | 有力御家人 |
中原師員 | エリート官僚 |
三善康俊 | エリート官僚 |
斎藤長定 | エリート官僚 |
矢野倫重 | エリート官僚 |
後藤基綱 | エリート官僚 |
二階堂行盛 | エリート官僚 |
太田康連 | エリート官僚 |
有力御家人の意見にエリート官僚の知識・経験を加えることによって、御家人たちの不満を抑え、かつ、実現可能で効果的な政策を打ち出すことが、評定衆の狙いです。
評定衆と御成敗式目
評定衆の設置目的は、裏の権力者(北条政子)不在でも安定した鎌倉幕府を運営を実現することです。
しかし、評定衆の設置だけではこの目的を達成することは困難です。というのも、合議制という仕組みには、「意見がまとまらず、政策を決定できない」「皆の意見を反映しすぎたあまり、中身のない妥協的な政策になってしまう」というデメリットがあるからです。評定衆だけに政策を委ねるのは、あまりにもリスキーなのです。
このデメリットを解決するためには、評定の中に強力なリーダーシップを持つも者が必要不可欠です。
評定は、評定衆+執権・連署の13人で行われるので、普通に考えればリーダーシップを発揮すべきは執権の北条泰時です。しかし、すでにお話ししたように、北条泰時は人々の不満を抑えるため、自らが全面に出ることを極力避けたいと考えていました。
では、強力なリーダーシップなしにどう評定衆をまとめていくのか・・・、北条泰時が導き出した答えは、御家人であれば誰もが公平・公正に従うべき絶対的なルール(法典)を定めることでした。
評定の重要な仕事の1つに、御家人同士の所領争いに判決を下す仕事があります。
複雑な利害関係が絡む所領争いを合議によって判決するには、誰もが納得する公平・公正なルールが求められていた・・・という時代背景も法典の制定を強く後押ししました。
法典の制作準備は、評定衆が設置されてからすぐに開始され、1232年に御成敗式目として制定されることになります。
この御成敗式目の制定の際に活躍したのが、評定衆の中でもエリート官僚枠として選ばれた人々でした。ここでも評定衆に、有力御家人とエリート官僚を抜擢した利点が活きています。
評定衆は、御成敗式目と組み合わせることで初めてその真価を発揮し、評定衆を中心に幕政を決めていた北条泰時の時代は、鎌倉時代でも最も安定していた執権政治の全盛期と築くことになります。
評定衆の仕組み
鎌倉幕府での評定衆の位置付けを図で整理してみました。
鎌倉幕府の将軍は、3代目将軍の源実朝以降は実権を失い、当初は2代目執権の北条義時が実権を握っていました。
評定衆が設置されても、執権が鎌倉幕府No1の権力者であることには変わりありません。しかし、執権が単独で物事決めることはせず、基本的に評定の決定を鎌倉幕府の政策としました。
そして、評定での決定事項を、政所・侍所・問注所が役割分担をして処理しました。
※政所は政務全般、侍所は軍事・警察、問注所は訴訟問題(特に所領問題)を担っています。
評定衆のその後
評定衆は、5代目執権の北条時頼の時代(1246年〜1256年)までは順調に機能し続けます。
北条時頼は、大量の訴訟案件を効率的にこなすため、評定衆の下に新しく訴訟問題に特化した引付衆を設置して、評定衆の改良を行っています。
しかし、北条時頼の時代以降、鎌倉幕府の政治を北条氏本家(得宗)のみで決めてしまうことが多くなり、鎌倉時代末期になると評定衆は権力を持たない形だけの組織に変わってしまいます。そして、この流れに呼応するかのように、評定衆のメンバーも北条氏が独占するようになり、北条泰時の理念は次第に失われてゆくことになるのです・・・。
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