

今回はプラザ合意について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「円高不況ってなに?」「なんで日本はプラザ合意に同意したの?」という疑問にも、しっかり答えていくね!
📚 この記事のレベル:高校日本史 / 高校公共・政治経済
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・共通テスト・大学受験対応
プラザ合意は、日本を円高不況に叩き込み、その後の「失われた20年」の引き金になった——そんなふうに、日本にとって”損な合意”だったとよく言われます。
でも実は——プラザ合意は、日本側が当時のはげしい貿易摩擦を回避し、円高を”ビジネスチャンス”に変えようとした、戦略的な判断でもありました。アメリカに一方的に押しつけられた不平等条約のようなイメージは、実は事実の半分しか伝えていないのです。
この記事では、プラザ合意とは何かという基本から、なぜ行われたのか・なぜ日本は同意したのか・日本経済に何が起きたのかまでを、順番にわかりやすく解説していきます。
プラザ合意とは?
- いつ・どこで:1985年9月22日、アメリカ・ニューヨークのプラザホテルで開かれたG5(先進5か国)の会議
- 何をした:高すぎたドルの価値を下げる(ドル安・円高に誘導する)ことで5か国が合意した
- なぜした:アメリカの貿易赤字(双子の赤字)を、行きすぎたドル高を直すことで改善するため
プラザ合意とは、1985年9月22日に、先進5か国(アメリカ・日本・西ドイツ・イギリス・フランス)が、高くなりすぎたドルの価値を引き下げることで合意した国際的な取り決めのことです。
会議が開かれたのが、ニューヨークにあるプラザホテルという有名なホテルだったため、「プラザ合意」と呼ばれています。
当時、アメリカのドルは世界の通貨に対して「高すぎる」状態でした。ドルが高いと、アメリカ製品は海外で割高になって売れにくくなります。そこで5か国が協力して、ドルの価値を下げよう(=ドル安・円高に誘導しよう)と取り決めたのがプラザ合意です。

「合意」って、結局なにを合意したのかしら?5か国で集まって、具体的になにをすることにしたの?

ざっくり言うと「みんなで一斉にドルを売って、ドルの値段を下げよう!」って約束だよ。5か国がそれぞれの中央銀行を使って、外国為替市場で「ドル売り」をやることにしたんだ。次の章でくわしく見ていくよ!
円高とは、円の価値がほかの通貨に対して高くなることです。たとえば「1ドル=240円」から「1ドル=120円」になると、1ドルを買うのに必要な円が少なくて済むので、円の価値が上がった=円高ということになります。
円高になると、海外旅行や輸入品は安くなって有利になります。一方で、日本から輸出する商品は海外で値上がりして売れにくくなるため、輸出で稼ぐ会社にとっては不利になります。
双子の赤字とレーガノミクス:なぜプラザ合意が行われたのか
そもそも、なぜG5は「ドルの価値を下げよう」と決めたのでしょうか。その答えを知るカギが、1980年代前半のアメリカが抱えていた双子の赤字という深刻な経済問題です。
当時のアメリカは、レーガン大統領のもとで進められた経済政策によって、結果的に「ドル高」という状態に陥っていました。この章では、その背景を順番に見ていきます。
■ アメリカの双子の赤字とは?
1980年代のアメリカは、2種類の大きな赤字を同時に抱えていました。これを双子の赤字と呼びます。「双子」というのは、2つの赤字がそろって膨らんでいたことを表した言葉です。
双子の赤字①:財政赤字(国の支出>収入。減税と軍備拡大で国の借金が膨らんだ)
双子の赤字②:経常赤字(貿易赤字)(輸出<輸入。ドル高で米国製品が海外で売れなくなった)
1つ目の財政赤字は、国の財布の赤字です。レーガン政権は大幅な減税と軍事費の拡大を進めたため、国の支出が収入を大きく上回り、借金が急増しました。
2つ目の経常赤字は、外国との貿易などで生じた赤字です。アメリカは輸入が輸出を大きく上回り、日本やドイツなどから大量の製品を買い続けていました。とくに日本の自動車や電化製品が、アメリカ市場でよく売れていたのです。

2つの赤字って、それぞれ別の問題じゃないの?なんで「双子」ってまとめて呼ぶの?

いい質問だね!実はこの2つ、つながっているんだ。財政赤字を埋めるためにアメリカは高い金利でお金を集めた→世界中のお金がアメリカに集まってドル高になった→ドル高で輸出が不利になって貿易赤字が膨らんだ……という流れ。だから「双子」って一緒に語られるんだよ。
■ レーガノミクスとドル高是正
双子の赤字を生み出すきっかけになったのが、レーガノミクスと呼ばれる経済政策です。これは、1981年に就任したアメリカのレーガン大統領が進めた経済政策の総称で、レーガン(Reagan)とエコノミクス(economics)を合わせた言葉です。
レーガノミクスの柱は、大幅な減税・規制の緩和・軍事費の拡大・インフレを抑える金融引き締めでした。とくに物価上昇を抑えるために金利を高く保ったことが、思わぬ結果を招きます。金利が高いと、世界中の投資家が「アメリカでお金を運用すればもうかる」と考えてドルを買い集めるため、ドルの価値がどんどん上がっていったのです。
ドル高是正とは、高くなりすぎたドルの価値を、意図的に下げて適正な水準に直すことです。「是正」は「正しく直す」という意味なので、ドル高是正=「ドル高という困った状態を直すこと」と覚えればOKです。
ドルが高すぎるとアメリカ製品が海外で売れず、貿易赤字が膨らみます。そこで政府や中央銀行が為替市場でドルを売るなどして、わざとドルの値段を下げる——これがドル高是正です。プラザ合意は、まさにこのドル高是正を5か国で協力して行うための取り決めでした。

「ドル高」ってよく聞くけど、いまいちピンとこない…。円安とどう違うの?

実は「ドル高」と「円安」は、ほぼ同じことを別の角度から言っているだけなんだ。円とドルを比べたとき、ドルが上がれば自動的に円は下がる関係だからね。プラザ合意の前は1ドル=約240円というドル高(=円安)の時代。「Made in Japan」がアメリカで安く売れて飛ぶように売れていた、そんなイメージだよ。
日本はなぜプラザ合意に同意したのか?
ここで、ひとつ大きな疑問がわいてきます。円高は日本の輸出産業にとって不利になるはず。それなのに、なぜ日本はプラザ合意に同意したのでしょうか。
実はここに、冒頭でふれた「プラザ合意は日本の戦略的判断でもあった」という話のカギがあります。日本側の事情を見ていきましょう。
■ 日米貿易摩擦の激化
1980年代の日本は、自動車や半導体、鉄鋼などをアメリカに大量に輸出し、「貿易黒字大国」になっていました。よく売れること自体はいいことのように思えますが、これがアメリカ側の強い反発を招きます。
日本製品が売れるほど、アメリカの工場は仕事を奪われ、労働者は失業します。アメリカ国内では「日本が輸出しすぎだ」「アメリカの産業を守れ」という声が高まり、日本とアメリカのあいだで激しい日米貿易摩擦が起きていました。
日米貿易摩擦の主な争点:自動車・半導体・鉄鋼・農産物。「日本が輸出しすぎだ」とアメリカが激しく反発していた時代
📌 貿易摩擦とは:国どうしの貿易で、一方が大量に輸出しすぎて相手国の産業や雇用に打撃を与え、対立が生じることです。アメリカは日本に対し、輸出を自主的に減らすよう求めたり、関税で対抗しようとしたりしました。

製品がよく売れているのに反発されるなんて、ちょっと理不尽な気もするわ。日本としては、放っておくとどうなっていたのかしら?

当時のアメリカ議会では「日本製品に高い関税をかけろ」「輸入を制限しろ」という保護主義的な法案がどんどん出ていたんだ。もしそれが本格的に通っていたら、日本製品はアメリカ市場から締め出されていたかもしれない。日本にとっては、貿易摩擦をこじらせるほうがずっと怖かったんだよ。
■ 竹下登・大蔵大臣の決断
プラザ合意の会議に、日本の代表として出席したのが、当時の大蔵大臣(いまでいう財務大臣)竹下登でした。竹下登はのちに内閣総理大臣にもなる実力者で、プラザ合意は彼にとって大きな決断のひとつでした。
大蔵大臣として、竹下登は難しい二択をせまられていました。円高を受け入れれば日本の輸出産業は痛む。しかし円高を拒んでアメリカとの貿易摩擦をこじらせれば、日本製品そのものがアメリカ市場を失いかねない——。

円高は痛い…。輸出で稼いできた日本にとって、これは大きな試練だ。だが、貿易摩擦でアメリカとの関係そのものが壊れてしまえば、もっと多くを失う。ここは一歩引いて、円高を受け入れる。それが日本の長い目で見た国益になると、私は判断した。
こうして竹下登は、円高という痛みを受け入れてでも、アメリカとの貿易摩擦を回避する道を選びました。日本がプラザ合意に同意したのは、単に「アメリカに押し切られた」からではなく、貿易摩擦という、より大きなリスクを避けるための戦略的な判断だったのです。

アメリカ側も、レーガン大統領は本当は「強いドル」が好きだったんだ。でも議会から「日本に強く出ろ!」というプレッシャーが強くて、ドル高を放っておけなくなっていた。つまりプラザ合意は、アメリカも日本も、それぞれの国内事情を抱えながら、ギリギリのラインで折り合った合意だったんだよ。
プラザ合意の内容:G5はどう合意したのか?
1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルに、G5と呼ばれる先進5か国の蔵相(財務大臣)と中央銀行総裁が集まりました。G5とは、アメリカ・日本・西ドイツ・イギリス・フランスの5か国のことです。
この会議で5か国が合意したのが、「ドルが高すぎる。協力してドル安に誘導しよう」という方針でした。具体的には、各国がそろって為替市場に働きかける——つまり協調介入を行うことで一致したのです。
■ 協調介入の仕組み
協調介入とは、複数の国の中央銀行が、足並みをそろえて同時に外国為替市場に介入することです。「介入」とは、政府や中央銀行が為替相場を動かすために通貨を売買することを言います。
1つの国だけで介入する単独介入よりも、複数の国が一斉に行う協調介入のほうが、市場に与えるインパクトが大きくなります。「世界の主要国が本気でドルを下げにきた」というメッセージになるからです。
プラザ合意で5か国が決めた協調介入の中身は、シンプルに言えば「みんなでドルを売る」ことでした。各国の中央銀行が、保有しているドルを為替市場で売り、代わりに自国の通貨を買います。ドルを売る人が増えれば、ドルの値段は下がる——この力を5か国がそろって使ったのです。
その効果はすぐにあらわれました。プラザ合意の前に1ドル=約240円だった円相場は、わずか1年あまりで1ドル=150円台まで急上昇します。さらに数年のうちに120円台にまで進み、まさに「歴史的な円高」が一気に進行しました。

1年で240円から150円台って、すごい変化ね。これって、5か国がドルを売っただけでそんなに動くものなの?

実は、介入そのもの以上に「市場の予想」が大きく動いたんだ。世界中の投資家が「主要国が本気でドル安にする気だ」と察知して、いっせいに自分たちもドルを売り始めた。だから政府の介入をはるかに超えるスピードで円高が進んだんだよ。
プラザ合意が日本に与えた影響:円高不況へ
プラザ合意によって、円の価値はわずか1年あまりで大きく跳ね上がりました。あまりにも急激な円高は、日本経済に深刻な影響を与えます。ここから日本は円高不況と呼ばれる景気の落ち込みに突入していきました。
■ 急激な円高と輸出産業の打撃
円高は、日本の輸出産業を直撃しました。円高になると、海外で売る日本製品の値段が上がってしまい、売れにくくなります。たとえば、これまでアメリカで安く買えていた日本車が、円高で一気に値上がりしてしまうイメージです。
自動車・電機・鉄鋼といった、輸出で稼いできた産業ほど大きな打撃を受けました。輸出が伸び悩み、工場の生産は減り、なかには人員を減らさざるをえない企業も出てきます。こうして日本経済全体が一時的に冷え込んだのが、円高不況です。
円高不況(1985〜1986年ごろ):プラザ合意後の急激な円高で輸出産業が打撃を受け、日本経済が一時的に失速した不況

円高って、海外旅行や輸入品が安くなるんだよね?それなら、いいことも多いんじゃないの?

そうなんだ、円高は消費者にとってはうれしい面もある。問題だったのは「スピード」なんだよ。1年で240円→150円台なんて急変化に、輸出企業は値段や生産の調整が間に合わなかった。ゆっくりした円高なら適応できても、急すぎる円高はショックが大きいんだ。
■ 円高不況脱出策:内需拡大政策
円高不況に対して、日本政府と日本銀行はさまざまな対策を打ち出しました。その柱となったのが、内需拡大政策です。
輸出(外需)で稼ぐのが難しくなったのなら、その分、日本国内の消費や投資(内需)を増やして経済を支えよう——というのが内需拡大の考え方です。具体的には、日本銀行が金利を下げて企業や個人がお金を借りやすくしたり、政府が道路や公共施設などへの公共投資を増やしたりしました。
1986年には、こうした内需中心の経済への転換を提言した前川リポートもまとめられました。輸出に頼りすぎてきた日本経済の体質を、内需主導へと変えていく必要がある——という方向性が示されたのです。
📌 前川リポートとは:1986年に、元日本銀行総裁の前川春雄を座長とする研究会がまとめた報告書です。輸出主導から内需主導の経済へ転換することを提言し、内需拡大政策の方向性を示しました。

「内需拡大」ってことばが難しい…。かんたんに言うとどういうこと?

ざっくり言うと「海外にモノを売って稼ぐ」のをいったん休んで、「日本の中でモノを買ったり使ったりして経済を回す」ってことだよ。海外頼みをやめて、国内消費を元気にしよう!という作戦だね。ただ……このとき日本銀行が金利をぐっと下げたことが、次の章で出てくる”バブル”の引き金にもなっていくんだ。
こうした内需拡大政策、とくに日本銀行による大幅な金利引き下げは、円高不況からの回復に一定の効果を上げました。しかしその一方で、世の中に大量のお金があふれ出すことになり、やがてバブル景気という、もうひとつの大きな波を生み出していきます。次の章では、その流れを見ていきましょう。
バブル景気の発生と崩壊:失われた20年へ
円高不況を乗り越えるために政府と日銀がとった対策は、思わぬ「副作用」を生み出します。
それが、1980年代後半に日本を熱狂させたバブル景気です。
そして、そのバブルがはじけたあとに待っていたのが「失われた20年」と呼ばれる長い不況でした。プラザ合意から始まった一連の流れが、どうやってここまでつながっていくのかを見ていきましょう。
■ 低金利政策とバブル発生
円高不況に苦しむ日本経済を立て直すため、日本銀行は超低金利政策を進めました。
具体的には、銀行がお金を借りるときの金利の基準となる公定歩合を、当時としては史上最低の2.5%まで引き下げたのです。
金利が低いと、企業も個人も銀行からお金を借りやすくなります。世の中にお金がジャブジャブとあふれた状態になりました。
ところが、円高で輸出が伸び悩んでいたため、その大量の資金は工場や設備への投資ではなく、株式や土地の購入に向かいました。
「土地や株を買えば、値上がりして儲かる」——そう信じた人々が次々と買いに走った結果、地価と株価がみるみる急騰していきました。これがバブル景気(1986年末〜1991年)です。
バブル景気:実体経済以上に株価・地価が異常に高騰した好景気。泡(バブル)のようにふくらんだことからこう呼ばれる
📝 バブル期の地価は今では信じられないほど高騰しました。「東京23区の地価総額でアメリカ全土が買える」「皇居の土地でカナダ全土が買える」と言われたほどです。当時の熱狂ぶりがうかがえます。
■ バブル崩壊と失われた20年
異常な地価の高騰は、マイホームを買えない人々の不満を高め、社会問題になっていきました。
そこで日本銀行は1989年から一転して金融引き締めに踏み切ります。公定歩合を引き上げ、土地取引への融資も制限しました。
すると1990年、株価が暴落し、続いて地価も下落に転じます。「値上がりするはず」という前提が崩れた瞬間、バブルは一気にはじけました。これがバブル崩壊です。

バブルって、何で急にはじけて崩壊しちゃったの?

バブルは「値上がりし続ける」っていうみんなの思い込みで支えられていたんだ。だから日銀が金利を上げて「もう値上がりしないかも…」とみんなが気づいた瞬間、一斉に売りに走って、価格がガタ落ちしたんだよ。風船を急に針で刺したようなイメージだね。
バブル崩壊の傷は深く、長く残りました。値上がりを見込んで多額のお金を貸していた銀行には、回収できない不良債権が大量に積み上がります。
その結果、企業の倒産や金融機関の破綻が相次ぎ、日本経済は長い停滞期に入りました。物価が下がり続けるデフレも深刻化します。
この長期停滞は「失われた10年」、さらに不況が長引いたことで「失われた20年(30年)」とも呼ばれるようになりました。バブルの後遺症は、それほど長く日本経済を苦しめたのです。
バブル景気の発生から崩壊までの詳しい流れは、バブル経済の解説記事でくわしく取り上げています。あわせて読むと理解が深まります。

整理すると「プラザ合意→円高不況→低金利政策→バブル発生→バブル崩壊→失われた20年」という流れだね。ただし注意したいのは、プラザ合意がバブルを”直接”引き起こしたわけではないってこと。低金利を長く続けすぎたことや、それ以外の要因も重なって生まれたんだ。プラザ合意はあくまで「遠いきっかけ(遠因)」だと考えるのが正確だよ。
プラザ合意の世界への影響:他の国はどうなったのか?
プラザ合意で影響を受けたのは、日本だけではありません。
合意に参加したG5には、アメリカ・日本のほかに西ドイツ・フランス・イギリスが含まれていました。これらの国も、ドル安にともなって自国通貨が上がる影響を受けることになります。
■ ドル安とマルク・円の上昇
プラザ合意のおもな狙いは、ドル高を是正してアメリカの輸出競争力を回復させることでした。
そのため、ドルに対して特に上昇したのが日本の円と、西ドイツの通貨マルクです。日本と西ドイツは、当時いずれもアメリカ向けに製品を大量に輸出していた「輸出大国」だったからです。
西ドイツでもマルク高によって輸出産業が打撃を受けましたが、日本ほど深刻な不況にはなりませんでした。インフレを警戒して安易な低金利政策をとらなかったことなどが、日本との違いとしてよく指摘されます。
フランスやイギリスもドル安の影響を受けましたが、両国は輸出規模が日本・西ドイツほど大きくなかったため、受けた影響は比較的限定的でした。
同じプラザ合意でも結果は違った:日本は円高不況からバブルへ。西ドイツはマルク高でも低金利に頼らず、バブルを回避した
■ ルーブル合意とは?プラザ合意のその後
プラザ合意による協調介入は、思った以上にうまくいきました。むしろ「効きすぎた」と言ってもよいほどです。
ドル安が止まらず行き過ぎてしまい、今度は「ドルが下がりすぎて世界経済が不安定になる」という新たな心配が生まれました。
そこで1987年2月、今度はドル安にブレーキをかけるための国際合意が結ばれます。それがルーブル合意です。
ルーブル合意とは、1987年2月にフランスのパリ(ルーブル宮殿)でG7が結んだ為替安定の合意です。プラザ合意で進みすぎたドル安を止め、為替相場をこれ以上動かさず安定させることを各国が確認しました。「ルーブル」はフランス語読みで、英語読みでは「ルーヴル」と表記されることもあります。
つまり、プラザ合意とルーブル合意は「ドルをめぐる2つの調整」としてセットで理解するとわかりやすくなります。プラザ合意でドル高を直し、その反動で進みすぎたドル安をルーブル合意で止めた、という流れです。

ルーブル合意ってプラザ合意と何が違うの?名前が似てて混ざっちゃうよ…。

ざっくり言うと「目的が逆」なんだ。プラザ合意(1985年)はドルを”下げる”ための合意で、ルーブル合意(1987年)はドルがこれ以上”下がらない”ようにするための合意。アクセルを踏んだのがプラザ、ブレーキを踏んだのがルーブル、って覚えると混ざらないよ!
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:プラザ合意は「1985年・プラザホテル・G5・ドル高是正」の4点セットで覚えると確実です。論述問題では「円高不況→バブル景気→バブル崩壊」の流れまで書けると高得点。プラザ合意(ドルを下げる)とルーブル合意(ドル安を止める)の違いも頻出なので混同に注意しましょう。

テストで「プラザ合意の内容を説明せよ」って問われたら、何を書けばいいの?

模範解答の例はこんな感じ。「1985年、G5がニューヨークのプラザホテルで、ドル高是正のための協調介入を合意した。これにより急速な円高が進み、日本は円高不況に陥った後、内需拡大政策をきっかけにバブル景気を迎えた」。この流れで書ければバッチリだよ!
よくある質問(FAQ)
プラザ合意についてよく検索される疑問を、Q&A形式でまとめました。気になる質問をタップして答えを確認してください。
プラザ合意とは、1985年にG5(アメリカ・日本・西ドイツ・フランス・イギリス)が結んだ、ドル高を是正するための為替の国際合意です。各国の中央銀行が一斉にドルを売る「協調介入」を行うことを決めました。これにより、それまで高すぎたドルの価値が下がり、日本では急激な円高が進みました。
プラザ合意は、1985年9月22日にアメリカ・ニューヨークのプラザホテルで行われました。G5の蔵相(財務大臣)と中央銀行総裁が集まる会議の場で合意されたものです。日付・場所・参加メンバーはテストでもよく問われるので、セットで覚えておくと安心です。
この合意が結ばれた会議の会場が、ニューヨークにある「プラザホテル」だったからです。歴史上の国際合意は、会議が行われた場所の名前がそのまま呼び名になることがよくあります。1987年の「ルーブル合意」も、パリのルーブル宮殿で行われたことが名前の由来です。
プラザ合意後、1ドル=240円ほどだった円相場が1年ほどで150円台まで急騰しました。この急激な円高で輸出産業が打撃を受け、日本は「円高不況」に陥ります。その後、政府と日銀が低金利政策などの対策をとった結果、バブル景気が発生し、やがてバブル崩壊と「失われた20年」へとつながっていきました。
当時のアメリカは、財政赤字と経常赤字という「双子の赤字」に苦しんでいました。ドルが高いとアメリカ製品が海外で割高になり輸出が伸びず、逆に輸入が増えてしまいます。そこで、ドルの価値を下げて輸出競争力を回復させるため、ドル高是正が必要とされたのです。
プラザ合意(1985年)はドル高を「下げる」ための合意で、ルーブル合意(1987年)は下がりすぎたドル安を「止める」ための合意です。目的がちょうど逆になっている点がポイントです。プラザ合意でドル安への舵を切り、その反動を抑えたのがルーブル合意、という流れで覚えるとわかりやすくなります。
はい、よく出ます。高校日本史では1980年代の経済の重要テーマとして、公共・政治経済では為替や国際経済の代表例として登場します。「1985年・プラザホテル・G5・ドル高是正」の4点と、「円高不況→バブル景気→バブル崩壊」の流れを押さえておけば、定期テストも共通テストも対応できます。
まとめ
最後に、この記事で解説したプラザ合意のポイントを振り返っておきましょう。

プラザ合意からバブル・失われた20年まで、「お金の流れ」で昭和〜平成を読み解きたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

以上、プラザ合意のまとめでした!円高・バブル・失われた20年が、ひとつながりの流れとして理解できたんじゃないかな。関連記事もぜひ読んでみてね!
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1971年ニクソンショック(ドルと金の交換停止)
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1981年レーガン政権発足、レーガノミクス開始
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1985年9月プラザ合意(G5・ドル高是正の協調介入)
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1985〜1986年急激な円高が進み、円高不況に陥る
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1987年2月ルーブル合意(G7・ドル安行き過ぎを止める)
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1987〜1990年低金利政策を背景にバブル景気が発生
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1990年株価暴落をきっかけにバブル崩壊
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1990年代〜不良債権・デフレで「失われた10年」へ

下の記事では、バブル経済やオイルショック、中曽根政権など昭和後期の経済史をくわしく取り上げているよ。プラザ合意とあわせて読むと、戦後経済の流れが一気にわかるよ!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「プラザ合意」(2026年5月確認)
コトバンク「プラザ合意」(デジタル大辞泉・ブリタニカ国際大百科事典)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。





