竹崎季長ってどんな人?その生涯や蒙古襲来絵詞についてわかりやすく紹介するよ【とある下級御家人の生々しすぎる生き様】

今回は、蒙古襲来絵詞で有名な竹崎季長(たけざきすえなが)について紹介してみたいと思います。

 

 

竹崎季長は、肥後国(今でいう熊本県あたり)の弱小御家人の一人。今でいう小さな会社の平凡なサラリーマン

 

 

 

歴史の話って、権力者や大きな業績を残した人物の話が多いんですが、竹崎季長は下級御家人。竹崎季長が蒙古襲来絵詞を残してくれたおかげで、今の私たちでも当時の下級御家人の有り様をしっかりと知ることができます。

 

 

天皇とか北条氏とか偉い人たちの話は置いといて、この記事では竹崎季長の生涯を追いながら、当時の身分の低い御家人たちがどのようなことを考えて日々を過ごしていたのか・・・というのを見ていきたいと思います。

 

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人生どん底!没落した竹崎季長

鎌倉時代中期になると、土地を失い没落する御家人が増えていきます。これにはいくつかの理由があって

1 貨幣経済の波に乗れず、借金して土地売って没落
2 御家人同士の争いに破れて没落
3 遺産の分割相続続けている間に所領が減って没落

 

竹崎季長の場合は、2番の理由っぽいと言われています。

 

 

おそらくギリギリの生活をしていたであろう竹崎季長ですが、人生逆転のワンチャン狙える大きな大きな事件が起こります。それが1274年に起こった蒙古との戦い、文永の役です。

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戦いで功績を残し、恩賞を貰えればワンチャン狙えるってわけ。

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竹崎季長「先駆けして人生逆転狙うで!!」

竹崎季長は5騎を引き連れ、文永の役に参戦します。この5騎という規模から竹崎季長が弱小御家人であることがわかります。

 

 

御家人にとって、戦いでの大きな功績あげる1つの方法に「真っ先に敵へ襲いかかる」というものがありました。「先駆け」というやつです。

 

 

源平合戦では、宇治川の戦いという戦いで先駆けを競い合う場面が有名なシーンとして描かれています。

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竹崎季長もまた、そんな先駆けを目指す御家人の1人。竹崎季長からすれば、この戦いに将来がかかっていると言っても過言ではなく、おそらく死に物狂いだったはずです。

 

当時、竹崎季長は20代後半の若者でした。

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竹崎季長と元寇

文永の役において竹崎季長は、総大将の少弐景資(しょうにかげすけ)と共に行動し、先駆けを目指して率先して敵陣へ特攻していきます。

 

 

ところが敵陣に向けて馬を走らせていると、向かい側から敵兵の首を持った御家人がやってきました。なんと!他の御家人に先を越されてしまったんです!

【竹崎季長を越して敵を討ち取った菊池武房】

 

 

竹崎季長は、次なる戦地での先駆けを目指して馬を走らせます。そして遂に、先駆けに成功!その時を再現した絵がコレ↓

ボロックソにやられてますww

 

 

先駆けには成功したものの、5騎のうち竹崎季長含む3騎が負傷。何もできないまま、後続の御家人に助けられ一命を取り留めます。

 

 

その後、元軍は敗走し、文永の役は終わります。文永の役の詳細については以下の記事をどうぞ。

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竹崎季長の恩賞物語

文永の役が終わると、御家人たちの功績を確認して恩賞を与える作業が始まります。幕府に功績を報告する責任者は総大将だった少弐景資。

 

 

少弐景資の報告では、竹崎季長の先駆けの功績は忘れ去られてしまい、竹崎季長は恩賞を全く与えられないまま文永の役を終えてしまいます。おそらく少弐景資に悪意はなくて、本当に忘れただけだと思います。

 

 

 

しかし、今後の生活とか一族の命運がかかっている竹崎季長はこれに納得できません。

 

 

竹崎季長「少弐資景が報告してくれないのなら、俺が直々に幕府に訴えて何としても恩賞を貰ってやる!!!!!!これでダメならもう出家して、俗世から離れよ・・・」

 

 

こう決心した竹崎季長は、単身鎌倉へ向かうことを決意します。

 

 

竹崎季長の一族はこれに反対したようで、竹崎季長は旅費の支援も受けることもなく、自らの馬を売り、送り出す人もいないまま、寂しく鎌倉へ向かいます。まさに背水の陣です。もう後戻りはできません。

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竹崎季長と安達泰盛

竹崎季長が当てにしたのは幕府の重鎮の1人、安達泰盛(あだちやすもり)

【左:安達泰盛、右:竹崎季長】

 

名もなき弱小御家人の竹崎季長が、いきなり幕府の重鎮に会えるはずがないので、とある人脈から安達泰盛に辿り着いたと言われています。竹崎季長が安達泰盛邸に到着したのは1275年の10月3日。

 

 

竹崎季長は、懸命に自らの功績について安達泰盛に説明。そして安達泰盛もそれを真剣に聞き、時に鋭い質問をしたと言います。

 

 

竹崎季長は、やはり先駆けの話をたくさんしたようで「もし先駆けの話が嘘なら、私は首を召しても良い覚悟です。もし功名が得られないのなら、私は武士の面目を失ってしまいます。」と安達泰盛に迫ります。

 

 

安達泰盛は田舎武士の気迫に押され、とうとう竹崎季長に恩賞として所領を与えます。それどころか、竹崎季長に自らの馬と鞍まで与えています。安達泰盛は、よほど竹崎季長の必死の懇願に感服したのでしょう。

 

 

 

それにしても、武士の世界では先駆けというのは本当に重要だったことがわかります。竹崎季長の場合、先駆けと言っても悪意を持って言えば「勝手に特攻して、敵にやられただけ」とも言えなくもありませんからね。

 

 

それで恩賞を貰えるんですから、先陣というのは私たちの想像する以上に武士にとって意味のあるものだったのだと言えます。

 

 

ちなみに、1281年に起こった弘安の役では竹崎季長はガチの大活躍をし、再び恩賞を貰ったと言います。

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こうして竹崎季長は、元寇によって人生一発大逆転に成功したのです!!

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竹崎季長と蒙古襲来絵詞

竹崎季長は、文永の役後の安達泰盛とのやり取りの経過や戦いの様子などを蒙古襲来絵詞という絵巻物に残しました。(この記事に使われている画像も全て蒙古襲来絵詞の画像)

 

 

蒙古襲来絵詞は1293年に竹崎季長が絵師に書かせたもので、なぜ竹崎季長がこんな行動をしたのかははっきりとはわかっていません。

 

 

自分の元寇での活躍を書かせた・・・って話もありますが、蒙古襲来絵詞には竹崎季長が安達泰盛・盛宗親子に軍功を報告する場面が多く登場します。

 

 

このことから、亡くなった安達泰盛・盛宗親子に恩義を感じ、その弔いのために蒙古襲来絵詞を作ったのでは?なんて言われています。

 

 

安達泰盛・盛宗親子は、1285年に政争(霜月騒動)によって無念の死を遂げていますので、安達一族に恩義のある竹崎季長にも何か想うところがあったのかもしれません。

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竹崎季長「愛国心?なにそれおいしいの?」

さて、竹崎季長の行動を追ってみるとわかるのは、竹崎季長が命を懸けて戦ったのは「国を守るため!」ではなく、「恩賞を貰うため!」だったことです。

 

 

竹崎季長にとっての勝利とは文永の役の勝利ではなく、1275年に安達泰盛から恩賞を貰ったことこそが勝利だったのです。

 

 

なぜそこまで恩賞にこだわるのか?それはもちろん、日々の生活、さらには一族を守るためです。

 

 

竹崎季長からすれば、敵なんて誰でもいいんですよ。幕府が「あいつは敵だから倒せよな。活躍したら褒美やるわ」って言ったら、その敵を倒すのみ。そして褒美さえ貰えればいいんです。

 

 

竹崎季長にとって最も重要なのは、国よりも何よりも家族や一族、近くにいる守るべき人たちだったのです。

 

 

そして、この竹崎季長の行動原理は、竹崎季長のみ限らず当時の御家人の行動原理そのものでもあります。

 

 

ちなみに、この竹崎季長の行動を愛国心のない自己中な行為と考える人がいるかもしれませんが、私はそう思いません。

 

 

愛国心って、その国に守りたいものがある時に湧き上がってくる本能みたいなものです。そして、ほとんどの場合、その守りたいものとは妻子を始めとした家族やその一族、身近な人たちです。

 

 

つまり、家族や一族を大事に思う気持ちの延長線上に愛国心はある・・・と私は考えます。そう考えてみると、現代とは形こそ全く違えど、竹崎季長にだって愛国心の片鱗みたいなものはちゃんとあったとは思うんですよね。

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竹崎季長まとめ

ちょっと話がそれてしまったので、このまま竹崎季長についてまとめておきます。

竹崎季長は、下級御家人だったけど自らの活躍と安達泰盛らのおかげで人生一発大逆転に成功した。
当時の御家人にとって最も大切なのは家族や一族。「国を守る!」的な考え方はおそらくなかった。
蒙古襲来絵詞は自分の活躍を残すのと同時に、恩賞を与えてくれた安達一族への弔いの意味もあったかもしれない。そんな鎮魂の願いがこもった絵巻物が今でも多くの人に見られ続けているとかマジ胸熱。

 

ちなみに、蒙古襲来絵詞はあくまで竹崎季長が主役。だからあの有名な神風の話も一切登場しません。だって、神風が元寇を追い払ったことにしたら、竹崎季長の英雄伝が残せなくなってしまいますからね。

 

 

竹崎季長に限らず、当時の御家人にとって神風など眼中にすらなくて、あるのはあくまで「敵を倒して恩賞ゲットだぜ!!」という非常にシンプルな信念のみ。神風神風と騒いでいたのは、実は神社の関係者とか信仰心の強い一部のひとたちだけです。

 

 

竹崎季長は、蒙古襲来絵詞を残したのと同じ1293年、出家。その後は、安達泰盛から恩賞としてもらった所領で余生を過ごしたと言います。その場所は熊本県の宇城市と言われており、宇城市には今でも竹崎季長のお墓が残されています。



鎌倉時代
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