
今回は清仏戦争について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「清がフランスに負けた戦争」ってイメージが強いけど、実は陸戦では清がかなり善戦していたんだ。その意外な真相と、清がそれでもベトナムを手放した本当の理由まで、しっかり解説するね!
📚 この記事のレベル:高校世界史
📖 山川出版『詳説世界史』準拠
🎯 共通テスト・大学受験対応
「清仏戦争」と聞くと、近代化に乗り遅れた清がフランスにボロ負けした戦争——そんなイメージを持つ人が多いかもしれません。
でも実は、清仏戦争(1884〜1885年)で清は陸戦ではむしろ善戦していました。それどころか、フランスの首相を辞任に追い込んだほどです。それなのに、なぜ清はベトナムを諦めてしまったのでしょうか——。じつはそこには、朝鮮半島をめぐる日本との緊張関係という、教科書では語られにくい隠れた理由がありました。
この記事では、清仏戦争の原因から経過、天津条約という結果、そして日清戦争への伏線までを、はじめての人でもわかりやすいように順を追って解説していきます。
清仏戦争とは?【3行でわかる】
① 1884〜1885年、ベトナムの支配権をめぐって起きたフランスと清(中国)の戦争。
② 海戦ではフランスが圧勝、陸戦では清が善戦したが、最終的に清が講和に応じた。
③ 天津条約(1885年)で清はベトナムへの宗主権を放棄し、フランスのインドシナ支配への道が開かれた。
清仏戦争とは、1884年から1885年にかけて、ベトナムの支配権をめぐって戦われたフランスと清の戦争です。フランスはベトナムを保護国にしようとし、清は「ベトナムは昔からうちの朝貢国(属国のようなもの)だ」と主張して、これに真っ向から対立しました。
当時の清は、太平天国の乱を乗り越えて「洋務運動」という近代化政策を進めていた最中でした。新しい軍艦も買い揃え、「これで列強にも対抗できる」と自信をつけていた時期だったのです。清仏戦争は、その自信が本物かどうかを試される戦いでもありました。

清仏戦争って、世界史と日本史のどっちで勉強するの?なんだか混乱しそう……。

メインは高校世界史だよ!でも、ほぼ同じ時期に朝鮮で起きた甲申政変や、10年後の日清戦争ともつながってくるから、日本史を学ぶうえでも知っておくと得をするんだ。共通テストでは「天津条約」とセットで覚えておくといいよ!
では、そもそもなぜフランスと清はベトナムをめぐって争うことになったのでしょうか。次の章で、戦争の原因をさかのぼって見ていきましょう。
なぜ清仏戦争は起きたのか?原因をさかのぼる
■ フランスのインドシナ進出
清仏戦争の根っこにあるのは、フランスの東南アジアへの進出でした。19世紀のヨーロッパ列強は、こぞってアジアに植民地を求めていました。フランスもその一つだったのです。
きっかけは、ベトナムでのキリスト教宣教師の迫害でした。フランスはこれを口実に軍を送り、1862年のサイゴン条約でベトナム南部(コーチシナ)の一部を獲得します。さらに隣のカンボジアも保護国とし、じわじわと支配地域を広げていきました。

そして1883年、フランスはフエ条約を結んでベトナム全体を保護国としました。ベトナムを支配下に置いたフランスは、いよいよ北部のトンキン(現在のベトナム北部)にまで手を伸ばそうとします。ところが、このトンキンこそが清との衝突を生む火種となったのです。
■ 清の立場——ベトナムへの宗主権
清がベトナム問題に強くこだわったのには、深い理由がありました。ベトナムは長いあいだ、清を「親分」と仰ぐ冊封体制のもとにあったからです。
※冊封体制:中国の皇帝が周辺国の王を「臣下」として認め、その代わりに周辺国が貢ぎ物を送る、という東アジア独特の国際秩序のこと。

冊封体制っていうのは、ザックリいうと「東アジア版の親分・子分の関係」みたいなものなんだ。清が親分で、ベトナム・朝鮮・琉球なんかが子分。だから清からすると、子分のベトナムをフランスに横取りされるのは「メンツ丸つぶれ」だったんだよ。
清はベトナムを直接守る代わりに、ベトナム北部で活動していた黒旗軍という武装集団をひそかに支援しました。表向きは「清は関係ない」という顔をしながら、裏でフランス軍に抵抗させたのです。この曖昧な関わり方が、やがて全面戦争へとエスカレートしていきます。
■ 開戦の引き金——天津協定とバクレ事件
フエ条約のあと、清とフランスは一度、話し合いで決着をつけようとしました。1884年5月11日、天津で李鴻章とフランス側代表フルニエのあいだに結ばれたのが、天津協定(李・フルニエ協定、簡明条約)です。
内容はごくシンプルで、「清軍はトンキンから引き上げる」「清はフランスとベトナムのあいだの条約を認める」というものでした。これで戦争は避けられる——はずでした。
ところが、協定には肝心の撤退期限が書き込まれていませんでした。そのため1884年6月23日、トンキンのバクレ(北黎)へ進駐しようとしたフランス軍が、まだ現地に残っていた清軍と鉢合わせしてしまいます。両軍は撃ち合いとなり、双方に死傷者が出ました。これがバクレ事件(清側の呼び名で観音橋事件)です。
フランスは「協定違反だ」として謝罪と賠償金を要求し、清はこれを拒否しました。交渉は決裂し、両国は全面的な戦闘へと突き進んでいきます。

じゃあ、ここで正式に宣戦布告したってこと?

それが清仏戦争のヘンなところなんだ。フランスは最後まで正式な宣戦布告をしていない。「これは戦争ではなく報復措置だ」という建前を押し通したんだよ。清の側は皇帝が対仏戦を命じる上諭を出したとされるけど、国際法上のきちんとした手続きは踏まれなかった。だから清仏戦争は「宣戦なき戦争」と呼ばれているんだ。
では、その戦いは実際にどのように展開したのでしょうか。海と陸でまったく異なる結末をたどった戦争の流れを、次の章で見ていきましょう。
戦争の流れ——海では完敗、陸では善戦

■ 黒旗軍と劉永福の抵抗
清仏戦争の「前哨戦」を担ったのが、黒旗軍を率いた劉永福です。黒旗軍はもともと、太平天国の乱の後にベトナム北部へ流れ込んだ中国人の武装集団でした。
彼らはトンキンの山岳地帯でフランス軍を相手に奮闘し、フランスの将校を戦死させるなど、たびたびフランス軍を苦しめました。清はこの黒旗軍を裏で支援することで、自分たちは表に出ないまま、フランスの進出を食い止めようとしたのです。

我らは清の正規軍ではない。だが、この山と川はわれらの庭だ。大砲を積んだ船が入れぬ場所で、フランス兵を待ち伏せてやる。
しかし、ゲリラ戦で通用した黒旗軍も、正面からの大規模な戦闘では苦戦します。1883年12月のソンタイ(山西)の戦いでは黒旗軍が主力となって激しく抵抗しましたが、フランス軍の集中砲火の前に拠点を明け渡しました。続く1884年3月のバクニン(北寧)の戦いでは、守りについていた清の広西軍がほとんど持ちこたえられず、あっけなく敗走してしまいます。
近代的な大砲と砲艦をそろえたフランス軍に、装備で劣る黒旗軍と清軍は正面から対抗できなかったのです。
劉永福は、清仏戦争のあとも歴史の表舞台に姿を見せます。講和によってトンキンを離れて清に戻ったのち、1895年、日清戦争の講和で台湾が日本に割譲されると、台湾へ渡って南部の抵抗軍を指揮しました。
このとき台湾では「台湾民主国」を名乗る抵抗政権が立てられており、指導者が島から逃げたあと、劉永福は事実上の指導者となります。しかし日本軍に敗れ、最後は大陸へ脱出しました。フランスと戦った男が、清仏戦争が終わった1885年から10年後の1895年には台湾で日本と戦っていた——清仏戦争と日清戦争が、一人の人物のなかでつながっていたことがわかります。
しかし、こうした「代理戦争」的なやり方はやがて限界を迎えます。フランスがしびれを切らし、清の本体へ直接攻撃を仕掛けてきたからです。その舞台となったのが、海でした。
■ 馬江海戦——1時間足らずで艦隊壊滅
1884年8月23日、フランスの極東艦隊は、中国南部の福州にある馬尾(マーウェイ)の港を奇襲しました。これが世界史でも有名な馬江海戦(馬尾海戦)です。

1884年8月23日、福州の馬尾(馬江)港で起きた海戦です。アメデ・クールベ提督ひきいるフランス極東艦隊が、清の福建水師(福建艦隊)を奇襲しました。清の主力艦は1時間足らずのあいだにつぎつぎと沈められ、艦隊はほぼ壊滅。近くにあった官営の造船所・福州船政局も砲撃を受け、大きな損害を出しました。
なお、沈んだ艦の数や戦死者の人数は資料によって大きく食い違っており、はっきりした数字は定まっていません。
清はせっかく洋務運動で近代的な軍艦を整えていたのに、それがほとんど役に立たなかったのです。この一戦は、清の海軍がまだ「形だけの近代化」にとどまっていたことを世界に知らしめる結果となりました。

清の軍艦は港に停泊したままだ。こちらは河口の内側にすでに入っている。合図とともに一斉に撃て——勝負は最初の数分で決まる。
この海戦を指揮したアメデ・クールベは、フランス海軍の極東艦隊を率いた提督です。馬江海戦での圧勝で本国の英雄となりましたが、その後も台湾・澎湖諸島での作戦を指揮し続け、講和が成立した直後の1885年6月11日、占領先の澎湖諸島に停泊していた旗艦の上で病死しました。当時の澎湖では疫病が流行しており、その犠牲になったとされています。勝ちつづけた提督が、故国に凱旋する前に力尽きたのです。

あっという間に艦隊が壊滅したって……。清は近代化を進めていたんじゃなかったの?高いお金を出して軍艦を買ったのに、どうして勝てなかったんですか?

そこが洋務運動の限界だったんだ。兵器は買えても、それを使いこなす訓練や戦い方、指揮の仕組みまでは近代化されていなかった。いわばハード(装備)だけ最新にして、ソフト(戦術や組織)が旧式のまま……。これじゃあ勝てないよね。
■ 台湾戦線——もうひとつの主戦場
清仏戦争というと「ベトナムの戦争」という印象が強いのですが、実はもうひとつ、激しい戦場がありました。台湾です。
フランスの狙いはシンプルでした。ベトナムの山の中で清軍と泥沼の戦いを続けるより、清にとって痛い場所を海から押さえて、講和のテーブルに引きずり出そうというわけです。そこで目をつけられたのが、石炭の産地であり、大陸への海の玄関口でもあった台湾でした。
1884年8月5日、フランス艦隊は台湾北部の基隆を砲撃し、10月1日には基隆の占領に成功します。ところが、続く10月8日に仕掛けた淡水(滬尾)への上陸作戦では、清軍と現地の義勇兵の激しい反撃にあい、フランス軍は海岸から押し返されてしまいました。

上陸に失敗したフランスは作戦を切り替え、10月23日に台湾の海上封鎖を宣言。物資と兵員の輸送を断つ長期戦に持ち込みます。清側で台湾の防衛にあたったのは、のちに台湾の近代化を進めることになる劉銘伝でした。淡水で実際にフランス軍を押し返したのは、劉銘伝の指揮のもとで戦った孫開華らの部隊です。さらにフランスは1885年3月末、台湾海峡に浮かぶ澎湖諸島も占領しました。


ベトナムの戦争なのに、どうして台湾まで巻き込まれてしまったんでしょう……。

海軍が強い国は、「相手の弱いところを海から叩く」のが定石なんだ。ベトナムの山岳地帯ではフランスの大砲も軍艦も活かせないけど、海の上ならフランスの独壇場。だから戦場が清の本土や台湾にまで広がったんだよ。
■ 鎮南関の戦い——陸戦での清の反撃
海では完敗した清でしたが、陸戦の様子はまったく違いました。1885年2月、フランス軍はベトナム北部の要地ランソン(諒山)を攻め落とし、勢いに乗って清との国境へ迫ります。世界史で「ランソンの戦い」というときは、ふつうこの2月の戦いを指します。
ところが、ここで流れが変わりました。1885年3月23〜24日、国境の関所鎮南関で、老将馮子材がひきいる清軍がフランス軍を撃退したのです(鎮南関の戦い)。敗れたフランス軍は3月28日にランソンを放棄して退却し、清軍は3月末にランソンを取りもどしました。


関を破られれば、次は広西だ。ここから先へは一歩も通さぬ。わしが先に塁を出る。老いぼれが前に出るのだ、若い者が下がっていられるか。
ランソンからの撤退という知らせがパリに伝わると、フランスの世論は爆発しました。植民地拡大を強引に進めてきた首相ジュール・フェリーへの批判が一気に高まり、1885年3月30日、フェリー内閣は総辞職に追いこまれます。「負けたのはフランスの政権のほうだった」と言えるほどの出来事でした。
フェリーはこのあと「トンキン野郎(ル・トンキノワ)」という不名誉なあだ名で呼ばれるようになり、その呼び名は生涯ついて回ったといわれています。

なんと……ランソンで我が軍が後退しただと?議会も世論も大荒れだ。これでは内閣がもたない……。植民地政策を急ぎすぎたか。
つまり清仏戦争は、「海では清の惨敗、陸では清の善戦」という、勝者がはっきりしない不思議な戦争だったのです。それなのに、最終的に講和に踏み切ったのは清のほうでした。その意外な結末を、次の章で見ていきましょう。
天津条約(1885年)と戦争の終結
戦争に決着をつけたのが、1885年6月に結ばれた天津条約です。陸戦で押し気味だった清が、フランスの要求をほぼ受け入れる形で講和しました。
講和への道をひらいたのは、意外にも第三者でした。清の海関(税関)を取りしきっていたイギリス人ロバート・ハートが、ロンドン駐在の部下キャンベルをパリへ送り、水面下で話をまとめていたといわれています。この交渉が実り、1885年4月4日にパリで停戦の議定書が結ばれ、6月9日、天津で正式な講和条約が調印されました。正式名称は中仏新約(中仏会訂越南条約)といい、清側の全権は李鴻章、フランス側の全権は公使のパトノートルでした。
📜 天津条約(1885年6月/清仏間)の主な内容
① 清はベトナムへの宗主権(朝貢関係)を放棄する
② フランスのベトナム保護権を承認する
③ 清仏の国境地帯に通商地を開く
④ フランスは賠償金の要求を取り下げる(清の賠償金支払いはなし)
※ 清軍のトンキン撤退は、前年1884年の李・フルニエ協定ですでに取り決められていた内容です。
この条約によって、清は数百年にわたって続いてきたベトナムへの宗主権をついに手放しました。長く「親分」であり続けた清にとって、これは大きな転換点です。同時に、フランスがインドシナ全体を支配下に置く道が完全に開かれることになりました。

「陸では勝ち始めていたのに、なんでここで講和したの?」って疑問が出てくるよね。実はここに、この記事でいちばん面白いポイントが隠れているんだ。次の章でその本当の理由を掘り下げるよ!
清がベトナムを諦めた本当の理由
清が陸戦で巻き返しながらも講和を選んだ最大の理由——それは、ベトナムとは正反対の方角、つまり朝鮮半島にありました。
清仏戦争のさなかの1884年12月、朝鮮で甲申政変というクーデターが起きます。日本の支援を受けた開化派が政権を奪おうとし、清軍がこれを鎮圧したのです。清はベトナム(南)でフランスと戦いながら、朝鮮(北)でも日本とにらみ合うという、二正面作戦を強いられる事態になりました。
この難しい局面で清の外交を取り仕切ったのが、洋務運動の中心人物でもあった李鴻章です。彼は冷静に天秤にかけました——遠いベトナムと、すぐ隣の朝鮮。どちらの安全を優先すべきか、と。

朝鮮が危うい……。すぐ隣で日本と事を構えている今、遠いベトナムの戦争を続けている場合ではない。ここは一度引いて、朝鮮の安定を最優先せねば。
清にとって朝鮮は、日本やロシアと直接ぶつかる「国防の最前線」です。一方ベトナムは、すでにフランスに深く食い込まれていて、守りきるのが難しい状況でした。そこで李鴻章は、ベトナムを手放してフランスと早く手を打ち、戦力を朝鮮に集中させる道を選んだのです。
つまり清仏戦争は、単独の事件ではなく、朝鮮をめぐる日本との緊張と深くつながっていました。その日本との関係を、次の章でさらに掘り下げます。
ベトナムから見た清仏戦争——阮朝と勤王運動
ここまで清とフランスの動きを追ってきましたが、忘れてはいけないのが、戦場にされた当事国——ベトナムの視点です。
当時のベトナムを治めていたのは阮朝という王朝でした。1883年、フランスはフエ条約(アルマン条約)でベトナムを保護国とし、翌1884年には内容を手直しした第二次フエ条約(パトノートル条約)を結ばせます。
このとき象徴的な出来事が起こりました。かつて清の皇帝が阮朝の初代・嘉隆帝に与えた冊封の印が、フランスとベトナム双方の代表が見まもるなかで溶かされたと伝えられているのです。「ベトナムはもう清の子分ではない」ことを、目に見える形で突きつける場面でした。

冊封の印っていうのは、冊封体制の「会員証」みたいなものなんだ。それを溶かすというのは、「あなたの親分はもう清ではなくフランスですよ」と宣言するのと同じ。フランス側はこの場面を大きく宣伝したと伝えられているよ。
とはいえ、ベトナムの人々がそれを黙って受け入れたわけではありません。清仏戦争が終わった直後の1885年7月、フエの宮廷で実権をにぎっていた尊室説(トン・タット・トゥエット)がフランス軍を攻撃します。しかし失敗し、幼い咸宜帝(ハムギ帝)を連れて山中の拠点タンソーへ逃れました。
山にこもった咸宜帝の名で全国に発せられたのが、「王を助けて外敵を追い払え」という勤王運動(カンヴオン運動)の呼びかけです。各地の儒学者や村の指導者が武器をとり、フランスへの抵抗がつぎつぎと起こりました。咸宜帝は1888年に捕らえられて流刑となりますが、抵抗運動そのものは1890年代なかばまで消えませんでした。

ベトナムからすると、清が助けてくれるかと思ったら結局フランスに譲られてしまった、ということですよね……。なんだか切ないです。

そうなんだ。ベトナム側から見ると、清仏戦争は「親分が清からフランスに入れ替わった戦争」だったともいえる。でも、このとき始まった抵抗の記憶が、のちにホー・チ・ミンたちの独立運動へとつながっていくんだよ。東南アジアの植民地化の流れも合わせて読むと、地域全体の動きが見えてくるよ!
清仏戦争が日本に与えた影響
■ 甲申政変と清仏戦争の同時進行
清仏戦争と甲申政変が「ほぼ同じ時期」に起きたことは、日本にとって思わぬチャンスを生みました。甲申政変では日本が支援した開化派が清軍に鎮圧され、日本側はいったん面目を失います。しかし、清がベトナム方面に手を取られていたことで、朝鮮での日本の立場は完全には潰されずに済んだのです。
そして甲申政変の後始末として、1885年4月に日本と清のあいだで天津条約(清仏間のものとは別の条約)が結ばれます。これは「朝鮮から日清両軍が撤兵し、今後出兵するときは互いに事前通告する」という取り決めでした。
⚠️ 混同注意:1885年には「清仏間の天津条約(6月・ベトナム)」と「日清間の天津条約(4月・朝鮮)」の2つが結ばれています。同じ「天津条約」でも内容がまったく違うので、試験では取り違えに注意しましょう。
■ 日清戦争への伏線
清仏戦争で露わになった清の弱さは、日本に大きなヒントを与えました。「あれほど近代化を進めたはずの清でも、列強相手にはあっけなかった」——この事実は、日本が清を強く意識し、軍備拡張を進めていく一つの動機になります。
ただし、戦争が終わったあとの朝鮮情勢は、日本にとってむしろ厳しくなりました。南の戦線を片づけた清は、あらためて朝鮮に力を注ぎます。1885年、李鴻章は袁世凱を朝鮮に駐在させ、内政にも外交にも深く口を出させました。日清戦争が起きる1894年まで、この状態がおよそ10年続きます。
つまり日本は、清仏戦争で「清は思ったより弱い」と見抜きながら、目の前では清に押され続けたわけです。この落差こそが、日本の軍備拡張を急がせる燃料になりました。
そして1885年の日清間の天津条約で取り決められた「相互通告」のルールが、のちに守られなかったことが、1894年の日清戦争の引き金の一つとなっていきます。清仏戦争は、日清戦争へとつながる長い導火線の出発点でもあったのです。

清仏戦争と甲申政変がほぼ同時期だったってこと、意外と知られていないんだよね。日本にとって追い風になったのは「戦争中」のほうなんだ。清が南に手を取られているあいだに、日本は対等な条件の天津条約にこぎつけられた。でも戦争が終わると、清は今度こそ朝鮮に本腰を入れてくる。だから日本はここから、清と張り合うための準備を進めていくことになるんだよ。
日本だけでなく、清仏戦争はアジア全体の秩序も大きく揺さぶりました。最後に、その広い影響を見ておきましょう。
清仏戦争がアジア史に与えた影響
清仏戦争がもたらした影響は、ベトナム一国にとどまりませんでした。ここでは大きく4つのポイントに整理します。
① 冊封体制の崩壊
ベトナムが清の宗主権から外れたことで、東アジアの「親分・子分」の秩序が大きく崩れました。これに琉球の日本編入や朝鮮をめぐる対立も重なり、清を中心とする冊封体制は急速に解体へ向かいます。
② 仏領インドシナ連邦の誕生
1887年、フランスはベトナム(トンキン・アンナン・コーチシナ)とカンボジアをまとめて仏領インドシナ連邦を成立させました。さらに1893年にはラオスも加わり、この地域は20世紀半ばまでフランスの支配下に置かれることになります。
③ 洋務運動の限界の露呈
馬江海戦での惨敗は、清の近代化政策である洋務運動が「装備の輸入」にとどまり、軍の組織や戦術までは近代化できていなかったことを示しました。
この反省から、清は1885年に総理海軍事務衙門(海軍衙門)を設けて海軍の建設に本腰を入れ、イギリスやドイツに軍艦を発注していきます。こうして整えられた艦隊が、1888年に北洋海軍として正式に発足しました。ところがその北洋海軍も、6年後の1894年に始まる日清戦争であっけなく敗れてしまうことになります。
④ フランス国内政治への波及
ランソンからの撤退の報でフェリー内閣が倒れたように、戦争の影響は「勝者」とされるフランス側にも及びました。植民地拡大の是非をめぐる議論は、このあともフランス国内でくすぶり続けることになります。

清が負けたことで、アジアの秩序ってそんなに変わったんですね。日本にとってもチャンスになった、ということなんでしょうか?

そうなんだよ。長くアジアの中心だった清の権威がぐらつき始めて、その隙間を日本やロシアが埋めていくことになる。清仏戦争は、東アジアの「パワーバランスが動き出した転換点」のひとつだといえるね。
🌏 このころ世界では:清仏戦争と同じ1884〜1885年、ヨーロッパではベルリン会議(1884〜85年)が開かれ、列強によるアフリカ分割のルールが話し合われていました。アジアでもアフリカでも、列強の植民地争奪が一気に加速していた時代だったのです。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:1885年には「清仏の天津条約(ベトナム)」と「日清の天津条約(朝鮮)」の2つがあります。「清仏→ベトナム」「日清→朝鮮」とセットで覚えると混同しません。どちらか問われる問題が頻出です。

天津条約が2種類あるなんて……こんがらがりそう。どこを一番気をつければいいの?

ポイントは「相手国とテーマ」だよ。清仏なら相手はフランスでテーマはベトナム、日清なら相手は日本でテーマは朝鮮。どちらも1885年だから、年号だけで区別しようとすると引っかかるんだ。中身で覚えよう!
清仏戦争の理解を深めるおすすめ本

清仏戦争のあとベトナムがどうなったのか、そして清はなぜベトナムを手放したのか。もっと深く知りたい人におすすめの2冊を紹介するよ!
清仏戦争は、ベトナムにとって「宗主国が清からフランスへ入れ替わった戦争」でした。この本は、その前後を含めたベトナム2000年の歩みを1冊にまとめた中公新書の定番です。中国の支配を受けた時代、阮朝の成立、フランス植民地時代、そしてベトナム戦争へ——という長い流れのなかに清仏戦争を置きなおすと、なぜこの戦争がベトナム人にとって特別な意味を持つのかが見えてきます。
清仏戦争の「その後のベトナム」まで一本の線で知りたい人。ベトナム戦争や現代ベトナムまで通史でつかみたい社会人。
清仏戦争そのものの戦闘経過を細かく追いたい人。本書は2000年の通史なので、1884〜85年の記述は限られています。
清仏戦争で講和を決断した張本人、李鴻章の評伝です。太平天国の乱で頭角をあらわし、洋務運動と海防を引っぱり、そして列強との交渉のたびに「譲る側」に立たされた——その生涯を追うことで、「なぜ清は陸で押しながらベトナムを手放したのか」という本記事の問いに、人物の側から答えが見えてきます。日清戦争の下関条約まで一続きで理解したい人にも向いています。
清の外交判断の内側を知りたい人。洋務運動・清仏戦争・日清戦争を一人の人物を軸につなげて整理したい受験生・社会人。
ベトナム側の事情を知りたい人。本書の主役はあくまで清の政治家なので、阮朝や勤王運動の記述は多くありません。
よくある質問
1884〜1885年にフランスと清(中国)の間で起きた、ベトナムの支配権をめぐる戦争です。フランスはベトナムを保護国化しようとし、清はベトナムへの宗主権を主張して対立しました。
フランスがベトナム(阮朝)を保護国化する過程で、北部のトンキンに進出したことが直接の原因です。清はベトナムを伝統的な朝貢国として守る立場にあり、黒旗軍を支援して抵抗しました。
1884年8月23日、福州の馬尾(馬江)港で起きた海戦です。フランス極東艦隊が清の福建水師(福建艦隊)を奇襲し、1時間足らずで主力艦を失わせました。清の近代海軍のもろさを世界に示し、洋務運動の限界を露呈した戦いとして知られています。
清仏間の天津条約(1885年6月9日)の主な内容は、①清がベトナムへの宗主権を放棄する、②フランスのベトナム保護権を承認する、③清仏の国境地帯に通商地を開く、の3点です。フランスは賠償金の要求を取り下げたため、清の賠償金支払いはありませんでした。なお同じ1885年に日清間の天津条約(4月)も結ばれており、内容がまったく異なるため混同に注意しましょう。
清仏戦争の最中の1884年12月、朝鮮で甲申政変が起きました。清は南(ベトナム)と北(朝鮮)の二正面に対処を迫られ、李鴻章は朝鮮問題を優先してフランスとの早期講和を決断しました。これが清がベトナムを諦めた大きな理由です。
清仏戦争での清の苦戦は、洋務運動による近代化の限界を示しました。日本はここで清の軍事的な弱さを見抜きます。一方の清は、戦後はむしろ朝鮮への関与を強めました。日本は朝鮮をめぐるこの対立に備えて軍備を拡張していきます。また甲申政変後に結ばれた日清間の天津条約(1885年)が、後に日清戦争(1894年)へとつながる伏線になりました。
戦場での勝敗と、条約での勝敗が食い違っている戦争です。海戦ではフランスが圧勝し、台湾や澎湖諸島も占領しました。一方、陸のトンキンでは戦争末期に清軍が反撃し、フランス側の後退が本国の内閣を倒すほどの衝撃を与えています。それでも講和条約ではフランスの要求が通ったため、「外交的にはフランスの勝利」と整理されるのが一般的です。試験でも「清がベトナムの宗主権を失った」という結果で押さえておけば大丈夫です。
台湾も主要な戦場のひとつになりました。1884年10月にフランス艦隊が北部の基隆を占領しましたが、同月の淡水への上陸には失敗し、その後は台湾を海上封鎖する作戦がとられます。1885年には澎湖諸島も占領されました。講和により台湾は清に返されましたが、この経験から清は台湾の防衛を重く見るようになり、1885年に台湾を独立した省に格上げしています。
黒旗軍は、太平天国の乱ののちベトナム北部へ移った中国人の武装集団で、劉永福が率いていました。清の正規軍ではありませんが、清の支援を受けてフランス軍と戦い、ゲリラ戦でたびたびフランス軍を苦しめています。劉永福は清仏戦争後にトンキンを離れて清に戻り、1895年に台湾が日本へ割譲されると、台湾に渡って南部の抗日の戦いを指揮しました。
まとめ
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1862年サイゴン条約:フランスがコーチシナ東部を獲得
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1883年フエ条約:フランスがベトナムを保護国化
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1884年5〜6月天津協定(李・フルニエ協定)→ バクレ事件で破綻し全面戦争へ
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1884年8月馬江海戦:フランス艦隊が清の福建艦隊を壊滅
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1884年10月台湾戦線:フランス軍が基隆を占領/淡水では上陸に失敗
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1884年12月甲申政変(朝鮮):清が南北二正面の対処を迫られる
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1885年3月鎮南関の戦い:清軍がフランス軍を撃退/フェリー内閣が総辞職
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1885年4月天津条約(日清):朝鮮への共同撤兵を取り決め
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1885年6月天津条約(清仏):清がベトナム宗主権を放棄・停戦
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1885年7月ベトナムで勤王運動が始まる(咸宜帝の呼びかけ)
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1887年仏領インドシナ連邦成立(ベトナム・カンボジアを統合)
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1894年日清戦争勃発(清仏戦争での清の弱体化が伏線に)
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1895年下関条約:日清戦争が終結し清の弱体化が決定的に

以上、清仏戦争のまとめでした!「陸では清が善戦していた」という意外な側面と、甲申政変との連動という視点をしっかり押さえておこう。下の記事で日清戦争・甲申政変も合わせて読むと、東アジアの動きがもっとクリアに見えてくるよ!
📅 最終確認:2026年9月 / 参照:山川出版『詳説世界史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「清仏戦争」「馬江海戦」「天津条約 (1885年6月)」「劉永福」「勤王運動」(2026年9月確認)
Wikipedia英語版「Sino-French War」「Battle of Fuzhou」「Keelung Campaign」「Battle of Bang Bo」「Treaty of Tientsin (1885)」「Cần Vương」(2026年9月確認)
コトバンク「清仏戦争」「天津条約」「劉永福」(日本大百科全書・世界大百科事典)(2026年9月確認)
山川出版社 ヒストリスト「清仏戦争」(2026年9月確認)
山川出版社『詳説世界史』(2022年版)
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