魏志倭人伝の原文と現代語訳を全文でわかりやすく解説【書き下し文つき】

特集 | 詳しく見る 2026年 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」 登場人物まとめ
魏志倭人伝
もぐたろう
もぐたろう

今回は、歴史の教科書に必ず出てくる史料「魏志倭人伝」を、原文(漢文)・書き下し文・現代語訳の3点セットで最初から最後まで読んでいくよ!どの本をもとにしたのか(底本)もきちんと示しながら、一段落ずつ一緒に読み解いていこう。

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版社『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 魏志倭人伝とは何か(実は独立した書物ではなく『三国志』の一部であること)
  • 魏志倭人伝の原文(漢文)全文(武英殿二十四史本を底本として明示)
  • 書き下し文と現代語訳(原文と対応させながら一段落ずつ読み解く)
  • 倭人の風俗・卑弥呼の統治・魏との外交(原文に書かれている内容の要点)
  • テストに出るポイント(親魏倭王・邪馬台国など頻出キーワード)

実は、魏志倭人伝ぎしわじんでんという書名の本は、この世に一冊も存在しません。

教科書で当たり前のように登場するこの言葉は、中国の歴史書『三国志』のうち、倭人(当時の日本人)について書かれたごく一部の記述につけられた通称です。その分量は、本記事が底本とした『三国志』で数えておよそ2,000字(句読点を除いた漢字の数で1,984字)。原稿用紙にすれば5枚ほどしかありません。

この記事では、その約2,000字を最初の一文から最後の一文まで、原文 → 書き下し文 → 現代語訳 → もぐたろうの解説という順番で通して読んでいきます。

📝 この記事では史料そのもの(原文・書き下し文・現代語訳)をじっくり読み解きます。卑弥呼や邪馬台国そのものについての詳しい人物解説・所在地論争は、下記の記事で扱っているので、あわせて読んでみてください。
「魏志」倭人伝の内容解説(卑弥呼・邪馬台国)

スポンサーリンク

魏志倭人伝とは?

3行でわかる魏志倭人伝
  • 『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝の中の「倭人」についての記述であり、独立した書物ではない
  • 3世紀の倭(当時の日本)について書かれた、現存する最古級の文字史料
  • 邪馬台国までの道のり・倭人の風俗・卑弥呼の統治・魏との外交が記されている

魏志倭人伝とは、中国の歴史書『三国志』の中の烏丸鮮卑東夷伝うがんせんぴとういでんという部分に置かれた、「倭人」についての記述のことです。正式な呼び方をするなら「『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」となります。

編者は、西晋に仕えた歴史家の陳寿ちんじゅです。魏・呉・蜀という三つの国が争った時代の記録をまとめた人物で、その仕事の一部として、魏と交流のあった周辺の民族についても書き残しました。倭人の記述は、その周辺民族のパートに収められています。

もぐたろう
もぐたろう

つまり「魏志倭人伝」っていうのは、正式な書名じゃなくてニックネームなんだ。長い本の中の1章の、そのまた一部分。図書館で『魏志倭人伝』を探しても見つからないのは、そういう理由だよ。

ゆうき
ゆうき

えっ、テスト範囲に「魏志倭人伝」って書いてあるんだけど……書物の名前じゃないなら、テストではなんて答えたらいいの?

もぐたろう
もぐたろう

安心して、テストでは「魏志倭人伝」でまったく問題ないよ!ただ記述問題で「どんな史料か説明せよ」と聞かれたら、「『三国志』魏書の烏丸鮮卑東夷伝にある、倭人について記した部分」と答えられると強いね。

この記事が原文として掲げるのは、武英殿ぶえいでん二十四史本『三国志』です。清の宮廷が整えた版本で、中國哲學書電子化計劃(ctext.org)にスキャン画像つきで公開されているため、誰でも同じ字面を確かめることができます。あわせて維基文庫(ウィキソース)の「三國志/卷30」と一字ずつ照合し、両者で食い違う箇所は本文中で注記しました。

もぐたろう
もぐたろう

版本はんぽんっていうのは、同じ本でも「いつ・どこで刷られたか」がちがう刷り物のことだよ。むかしの本は手で書き写したり、版木を彫り直したりしながら伝わってきたから、その途中で字が入れかわってしまうことがあるんだ。だからどの版本を読むかで、文章が一字二字ちがってくる。この記事が「底本はこれ」とはっきり示しているのは、そのためなんだよ。

魏志倭人伝が描いているのは3世紀の倭、つまり日本の弥生時代の終わりごろの姿です。この時代の日本には、まだ自分たちで書いた文字の記録がありません。だからこそ、中国側が残したこの2,000字ほどの文章が、当時の列島を知るほとんど唯一の手がかりになっています。

なお、同じように中国の正史から倭を読む史料としては『漢書』地理志もあります。こちらは魏志倭人伝より前の時代(紀元前後)の倭を伝える短い記述で、あわせて読むと倭の姿がどう変わっていったかが見えてきます。

※正史:中国の王朝が公式に編さんした歴史書のこと。次の王朝が前の時代をまとめる形で書かれるのがふつうで、『三国志』も『漢書』もそのひとつです。

スポンサーリンク

帯方郡から邪馬台国までの道のり

ここからは原文を実際に読んでいきます。各段は【原文】→【書き下し文】→【現代語訳】→もぐたろうの解説の順に並べているので、漢文が苦手な人は現代語訳だけを追っていっても内容がつかめるようになっています。

この記事の原文と現代語訳について

掲げている原文は、《武英殿二十四史》本『三國志』を底本とし、中國哲學書電子化計劃(ctext.org)と維基文庫の2つのテキストを一字ずつ突き合わせて確定したものです。両者で字が違う箇所は、本文中の「版本によって字が違います」の注で示しています。

現在ひろく読まれている『三国志』には裴松之の注が本文に混ざっていることがあるため、この記事では注を取り除いた本文だけを掲げています。また読みやすさのために原文の掲載順を2箇所だけ入れ替えており、その箇所では本文で断っています。

書き下し文と現代語訳は、当サイトが原文から作成したものです。既刊の翻訳を転載したものではありません。漢文の読み方には学説が分かれる箇所が多く、この記事の訳が定説と異なっている可能性があります。解釈が定まっていない箇所は本文で「諸説あります」と書き添えていますが、お気づきの点はお問い合わせからご指摘ください。確認のうえ修正します。

■ 帯方郡から対馬国・一大国まで

【原文】

倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里,始度一海,千餘里至對海國。其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。所居絕島,方可四百餘里,土地山險,多深林,道路如禽鹿徑。有千餘戶,無良田,食海物自活,乖船南北巿糴。又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國,官亦曰卑狗,副曰卑奴母離。方可三百里,多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,亦南北巿糴。

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝(武英殿二十四史本/ctext.org・維基文庫で照合)

【書き下し文】

倭人は帯方たいほうの東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時朝見する者有り、今、使訳通ずる所三十国なり。郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓国を歴て、乍ち南し乍ち東し、其の北岸狗邪韓国くやかんこくに到る、七千余里。始めて一海を度ること千余里、対海国たいかいこくに至る。其の大官を卑狗ひこと曰ひ、副を卑奴母離ひなもりと曰ふ。居る所は絶島にして、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り、良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴してきす。又南に一海を渡ること千余里、名づけて瀚海かんかいと曰ふ、一大国いちだいこくに至る。官を亦卑狗と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。方三百里ばかり、竹木叢林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有るも、田を耕せども猶ほ食するに足らず、亦南北に市糴す。

【現代語訳】

倭人は帯方郡の東南、大海の中に住んでおり、山がちな島々に分かれて国やムラをつくっています。もとは100あまりの国があり、漢の時代には中国の皇帝に会いに来る者もいました。いま使者や通訳が行き来しているのは30の国です。

帯方郡から倭へ行くには、海岸に沿って船で進み、朝鮮半島の韓の国々を通り、南へ東へと進路を変えながら、倭の北岸にあたる狗邪韓国に着きます。ここまでで7,000余里。

そこから初めて海を渡ること1,000余里で、対海国に着きます。長官を卑狗、次官を卑奴母離といいます。

人々が住むのは離れ島で、広さは四方400里ほど。土地は山が険しく深い林が多く、道は獣道のようです。

1,000余戸ありますが良い田がなく、海の幸を食べて暮らし、船で南北へ渡って米などを買い入れています。

さらに南へ海を渡ること1,000余里、この海を瀚海といいます。渡った先が一大国です。長官はやはり卑狗、次官は卑奴母離。

広さは四方300里ほどで、竹や木の茂った林が多く、3,000ばかりの家があります。いくらか田畑はあるものの、耕しても食べるには足りず、やはり南北へ渡って買い入れています。

もぐたろう
もぐたろう

「対海国」は今の対馬、「一大国」は今の壱岐にあたると考えられているよ。どちらも「田んぼが足りなくて、船で買い出しに行っている」と書かれているのが面白いよね。島の暮らしのリアルが1,800年近く前(3世紀)の文章から伝わってくるんだ。

🔍 ここは版本によって字が違います。本記事の底本(武英殿本)は「對海國」「一大國」ですが、別系統の本では「對馬國」「一支國」となっています。対馬・壱岐という現在の地名からすると「對馬」「一支」のほうが自然だとする見方が有力ですが、どちらが本来の字かは決着していません。また「乖船南北巿糴」の「」は、文意(船に乗って南北へ買い出しに行く)から「(乗)」の彫り間違いとみられており、本記事の書き下し文でも「船に乗りて」と読んでいます。

📏 「里」の数字はそのまま距離になりません。魏で公式に使われた1里は約435メートルとされ、この値で帯方郡からの1万2,000余里を計算すると 435m × 12,000 = 約5,220キロメートルとなり、実際の距離とはまったく合いません。そのため「この史料では1里がもっと短い(短里)」とする説など、さまざまな解釈が出されていますが、いずれも決着していません。この記事では里数を換算せず、原文の数字のまま示します。

■ 末盧国・伊都国・奴国・不弥国

【原文】

又渡一海,千餘里至末盧國,有四千餘戶,濵山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沉沒取之。東南陸行五百里,到伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。東南至奴國百里,官曰兕馬觚,副曰卑奴母離,有二萬餘戶。東行至不彌國百里,官曰多模,副曰卑奴母離,有千餘家。

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝(武英殿二十四史本/ctext.org・維基文庫で照合)

【書き下し文】

又一海を渡ること千余里、末盧国まつろこくに至る。四千余戸有り。山海にひんして居り、草木茂盛して、行くに前人を見ず。魚鰒ぎょふくを捕ふるを好み、水の深浅と無く、皆沈没して之を取る。東南に陸行すること五百里、伊都国いとこくに到る。官を爾支にきと曰ひ、副を泄謨觚せもこ柄渠觚へきこと曰ふ。千余戸有り。世々王有るも、皆女王国に統属す。郡使の往来、常に駐まる所なり。東南、奴国なこくに至ること百里。官を兕馬觚しまこと曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。二万余戸有り。東行して不弥国ふみこくに至ること百里。官を多模たもと曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。千余家有り。

【現代語訳】

さらに海を渡ること1,000余里で末盧国に着きます。4,000余戸があり、人々は山と海のあいだに住んでいます。

草木が生い茂っていて、道を歩いても前を行く人の姿が見えないほどです。魚やアワビを捕るのが得意で、水の深い浅いに関係なく、みな水にもぐって取ります。

そこから東南へ陸を500里行くと伊都国に着きます。長官を爾支、次官を泄謨觚・柄渠觚といいます。

1,000余戸があり、代々王がいますが、みな女王の国に従っています。帯方郡からの使者が行き来するとき、いつも滞在する場所です。

東南へ100里行くと奴国。長官は兕馬觚、次官は卑奴母離で、2万余戸があります。

東へ100里行くと不弥国。長官は多模、次官は卑奴母離で、1,000余家があります。

伊都国について、原文は「郡使の往来、常に駐まる所」と書いています。帯方郡から来た使者がいつも滞在する場所、いわば当時の外交の窓口だったわけです。のちに登場する「一大率」という役所も、この伊都国に置かれることになります。

■ 投馬国・邪馬台国、そして女王国の南

【原文】

南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戶。南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘戶。自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕,不可得詳。次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,次有鬼國,次有為吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,次有躬臣國,次有巴利國,次有支惟國,次有烏奴國,次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國,男子為王,其官有狗古智卑狗,不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝(武英殿二十四史本/ctext.org・維基文庫で照合)

【書き下し文】

南、投馬国とうまこくに至るは水行二十日。官を弥弥みみと曰ひ、副を弥弥那利みみなりと曰ふ。五万余戸ばかり。南、邪馬壹国やまいちこくに至る、女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬いきま有り、次を弥馬升みましょうと曰ひ、次を弥馬獲支みまかきと曰ひ、次を奴佳鞮なかてと曰ふ。七万余戸ばかり。女王国より以北は、其の戸数・道里、ほぼ載するを得べきも、其の余の旁国ぼうこくは遠絶にして、詳らかにするを得ず。次に斯馬国しまこく有り、次に已百支国いはきこく有り……(中略、二十一の国名が並ぶ)……次に奴国有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。其の南に狗奴国くなこく有り、男子を王と為す。其の官に狗古智卑狗くこちひこ有り、女王に属せず。郡より女王国に至る万二千余里。

【現代語訳】

南へ船で20日行くと投馬国です。長官を弥弥、次官を弥弥那利といい、5万余戸ほどあります。

さらに南へ行くと邪馬台国やまたいこくに着きます。女王が都を置いている国で、船で10日、陸を1か月かかると書かれています。

伊支馬という長官がおり、その下に弥馬升・弥馬獲支・奴佳鞮という役人が続きます。戸数は7万余戸ほどです。

女王の国より北にある国々は、戸数や距離をだいたい書き記すことができますが、それ以外の周りの国は遠く離れていて、詳しいことはわかりません。斯馬国から奴国まで、21の国の名前だけが並べられ、「ここが女王の勢力範囲の尽きるところだ」と結ばれています。

その南には狗奴国があり、男子が王となっています。狗古智卑狗という役人がいて、女王には従っていません。帯方郡から女王の国までは1万2,000余里です。

ここに書かれた道のりの数字こそ、後世の邪馬台国の位置をめぐる議論の出発点になりました。「南へ水行十日、陸行一月」をどう読むかで、行き着く先は九州にも近畿にも変わってしまうからです。

ただし、この記事はあくまで史料そのものを読むことが目的なので、所在地論争そのものには立ち入りません。九州説と畿内説の中身を知りたい人は、邪馬台国の場所論争(九州説・畿内説)の記事を読んでみてください。

この論争は江戸時代から今日まで決着していない大テーマです。まずは「原文にはこう書いてある」というところを正確に押さえておくと、どの説の話を聞いても自分で判断できるようになります。

原文は「邪馬壹國」―「邪馬台国」ではないの?

上の原文をよく見ると「邪馬國」と書かれています。教科書でおなじみの「邪馬國(=邪馬台国)」ではありません。

実は、現在まで伝わっている『三国志』の版本は、いずれも「壹」の字になっています。「臺」は、『後漢書』など他の史書の書き方や倭の言葉の音との対応から、後の時代の学者が「壹は臺の誤りだろう」と直したもので、その校訂が定着した結果が、いま私たちの使う「邪馬台国」という表記です。

この点をとらえて「原文どおり邪馬壹国と読むべきだ」と主張した研究者もおり(古田武彦の邪馬壹国説)、議論は今も続いています。どちらが本来の字なのかは確定していないため、この記事では原文は「壹」のまま示し、現代語訳では通用表記の「邪馬台国」を使うという方針をとっています。

なお原文では、このあと卑弥呼の記述をはさんだ先に、女王国の周りにある国々の話が出てきます。地理の話としてまとまっているので、ここで続けて読んでおきましょう。

【原文】

女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南,船行一年可至。參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里。

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝(武英殿二十四史本/ctext.org・維基文庫で照合)

【書き下し文】

女王国の東、海を渡ること千余里、復た国有り、皆倭種なり。又侏儒国しゅじゅこく有りて其の南に在り、人の長三、四尺、女王を去ること四千余里。又裸国らこく黒歯国こくしこく有りて復た其の東南に在り、船行一年にして至るべし。倭の地を参問さんもんするに、絶えて海中洲島の上に在り、或いは絶え或いは連なり、周旋五千余里ばかり。

【現代語訳】

女王の国から東へ海を渡ること1,000余里のところにも、また国があります。そこもみな倭人の仲間です。

またその南には侏儒国という、身長3〜4尺の人々が住む国があり、女王の国から4,000余里離れているといいます。さらにその東南には裸国・黒歯国があり、船で1年かかって着くと伝えられています。

倭の土地についてあちこち尋ねてまとめると、海の中の島々の上に遠く離れて存在し、途切れたりつながったりして、ひとまわり5,000余里ほどになります。

あゆみ
あゆみ

身長3〜4尺の人が住む国とか、裸の国とか……これって本当のことなんですか?

もぐたろう
もぐたろう

ここは魏の役人が現地で見てきた話ではなく、「そういう国があるらしい」と人づてに聞いた話として書かれているんだ。中国の古い地理書にはこの手の遠い国の記述がよく出てくるから、実在の国と結びつけるのは難しいとされているよ。逆にいうと、対馬や壱岐の描写がどれだけ具体的だったかが引き立つよね。

ちなみに、倭人が使者を送った先である帯方郡は、もともと漢が朝鮮半島に置いた楽浪郡から分かれた出先機関です。この郡が置かれた背景については前漢・後漢の記事もあわせて読むと、東アジア全体の流れがつかみやすくなります。

スポンサーリンク

倭人の風俗・習慣

道のりの記述が終わると、原文はここから倭人の暮らしぶりの描写に入ります。入れ墨・衣服・農業・食事・葬式・占いと、話題が次々に移っていくのがこの部分の特徴です。

吉野ヶ里遺跡に復元された弥生時代の竪穴建物
吉野ヶ里遺跡(佐賀県)に復元された弥生時代の竪穴建物。魏志倭人伝が描く倭人の暮らしと重ねて語られることが多い遺跡です/出典:国立歴史民俗博物館/まなれきドットコム掲載

■ 衣服と入れ墨(黥面文身)

【原文】

男子無大小皆黥面文身。自古以來,其使詣中國,皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沉沒捕魚蛤,文身亦以厭大魚水禽,後稍以為飾。諸國文身各異,或左或右,或大或小,尊卑有差。計其道里,當在會稽、東冶之東。其風俗不淫,男子皆露紒,以木緜招頭。其衣橫幅,但結束相連,略無縫。婦人被髮屈紒,作衣如單被,穿其中央,貫頭衣之。

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝(武英殿二十四史本/ctext.org・維基文庫で照合)

【書き下し文】

男子は大小と無く、皆黥面文身げいめんぶんしんす。古より以来、其の使ひの中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后少康かこうしょうこうの子、会稽かいけいに封ぜられ、断髪文身して以て蛟竜こうりゅうの害を避く。今、倭の水人は好んで沈没して魚こうを捕ふ。文身は亦以て大魚・水禽をはらふなり。後、やうやく以て飾りと為す。諸国の文身は各々異なり、或いは左に或いは右に、或いは大に或いは小に、尊卑に差有り。其の道里を計るに、当に会稽・東冶とうやの東に在るべし。其の風俗は淫ならず。男子は皆露紒ろかいし、木緜もめんを以て頭に招く。其の衣は横幅、但だ結束して相連ね、ほぼ縫ふこと無し。婦人は被髪屈紒ひはつくっかいし、衣を作ること単被の如く、其の中央を穿ちて、頭を貫きて之を衣る。

【現代語訳】

男は大人も子どもも、みな顔や体に入れ墨をしています。昔から、倭の使者が中国へ来るときは、みな自分のことを「大夫」と名乗ってきました。

中国では、夏王朝の少康の子が会稽に封じられたとき、髪を切り体に入れ墨をして、水中の竜による害を避けたと伝えられています。いま倭の海に潜る人たちも、好んで水にもぐって魚や貝を捕ります。

入れ墨はもともと大きな魚や水鳥を退けるためのものでしたが、しだいに飾りへと変わっていきました。国ごとに入れ墨は異なり、左に入れる国もあれば右に入れる国もあり、大きいものも小さいものもあって、身分の高い低いによって違いがあります。

距離を計算すると、倭の地は会稽・東冶の東にあたるはずです。

その風俗は乱れておらず、男はみな髪を結わずに垂らし、木綿の布を頭に巻いています。衣は幅の広い布で、ただ結んでつなぎ合わせるだけで、ほとんど縫っていません。女は髪を垂らして曲げて結い、一枚布のような衣をつくり、その中央に穴をあけて頭を通して着ています。

このように顔や体に入れ墨をすることを、原文の言葉で黥面文身といいます。また、布の中央に穴をあけて頭を通す衣は、のちに貫頭衣かんとういと呼ばれるようになりました。

もぐたろう
もぐたろう

入れ墨は、もともとおしゃれじゃなくて海に潜るときのお守りだった、と原文には書いてあるね。大きな魚や水鳥に襲われないように、という発想。それが時代とともに飾りになって、しかも国ごと・身分ごとにデザインが違っていた……というところまで書いてあるのがすごいところだよ。

■ 農業・食事・葬送・占い

【原文】

種禾稻、紵麻,蠶桑、緝績,出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上,竹箭或鐵鏃或骨鏃,所有無與儋耳、朱崖同。倭地溫暖,冬夏食生菜,皆徒跣。有屋室,父母兄弟卧息異處,以朱丹塗其身體,如中國用粉也。食飲用籩豆,手食。其死,有棺無槨,封土作冢。始死停喪十餘日,當時不食肉,喪主哭泣,他人就歌舞飲酒。已葬,舉家詣水中澡浴,以如練沐。其行來渡海詣中國,恒使一人,不梳頭,不去蟣蝨,衣服垢污,不食肉,不近婦人,如喪人,名之為持衰。若行者吉善,共顧其生口財物;若有疾病,遭暴害,便欲殺之,謂其持衰不謹。出真珠、青玉。其山有丹,其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香,其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷,不知以為滋味。有獮猴、黑雉。其俗舉事行來,有所云為,輒灼骨而卜,以占吉凶,先告所卜,其辭如令龜法,視火坼占兆。

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝(武英殿二十四史本/ctext.org・維基文庫で照合)

【書き下し文】

禾稲かとう紵麻ちょまを種ゑ、蚕桑・緝績しゅうせきし、細紵さいちょ縑緜けんめんを出だす。其の地に牛・馬・虎・豹・羊・かささぎ無し。兵には矛・たて・木弓を用ふ。木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或いは鉄ぞく、或いは骨鏃なり。有無する所は儋耳たんじ朱崖しゅがいと同じ。倭の地は温暖にして、冬夏生菜を食し、皆徒跣とせんなり。屋室有り、父母兄弟臥息するに処を異にす。朱丹しゅたんを以て其の身体に塗ること、中国の粉を用ふるが如きなり。飲食には籩豆へんとうを用ひ、手食す。其の死するや、棺有りてかく無く、土を封じてちょうを作る。始め死するや喪を停むること十余日、当時肉を食はず、喪主は哭泣し、他人は就きて歌舞飲酒す。已に葬れば、挙家水中に詣りて澡浴そうよくし、以て練沐れんもくの如くす。其の行来して海を渡り中国に詣るや、恒に一人をして、頭をくしけずらず、蟣蝨きしつを去らず、衣服は垢污し、肉を食はず、婦人を近づけず、喪人の如くならしむ。之を名づけて持衰じさいと為す。若し行く者吉善なれば、共に其の生口せいこう・財物を顧み、若し疾病有り、暴害に遭へば、便ち之を殺さんと欲す。其の持衰謹まざればなりと謂ふ。真珠・青玉を出だす。其の山には丹有り、其の木にはだんちょ豫樟よしょう楺櫪じゅうれき投橿とうきょう烏号うごう楓香ふうこう有り、其の竹には篠簳しょうかん桃支とうしあり。きょうきつしょう蘘荷じょうか有るも、以て滋味と為すを知らず。獮猴せんこう・黒有り。其の俗、事を挙げ行来するに、云為する所有れば、すなはち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占ふ。先づ卜する所を告ぐ。其の辞は令亀れいきの法の如く、火坼かたくを視て兆を占ふ。

【現代語訳】

稲や麻を植え、蚕を飼って糸をつむぎ、目の細かい麻布や絹織物をつくっています。

この地には牛・馬・虎・豹・羊・カササギがいません。

武器には矛・盾・木の弓を使います。木の弓は下が短く上が長い形で、竹の矢には鉄のやじりのものと骨のやじりのものがあります。

あるもの・ないものは、中国南方の儋耳や朱崖(現在の海南島のあたり)と同じです。

倭の地は暖かく、冬でも夏でも生野菜を食べ、みな裸足です。家があり、父母と兄弟は寝る場所を分けています。

体には朱や丹を塗りますが、これは中国で白粉を使うようなものです。食事には高坏のような器を使い、手で食べます。

人が死ぬと、棺はありますが、その外側を包む槨はなく、土を盛って墓をつくります。亡くなるとまず10日あまり喪に服し、そのあいだ肉を食べず、喪主は泣き、ほかの人は集まって歌い踊り酒を飲みます。埋葬が終わると、家じゅうで水に入って身を清めます。

中国へ渡る旅では、いつも一人だけを選び、髪をとかさず、しらみも取らず、衣服を汚れたままにし、肉を食べず、女性を近づけず、喪に服す人のようにさせます。この役目の人を持衰と呼びました。

旅が無事に済めば、みなで奴隷や財物を贈ってねぎらいますが、病気になったり災難に遭ったりすると、持衰が慎まなかったせいだといって殺そうとするのです。

真珠や青玉を産出します。山では丹(赤い顔料のもとになる鉱物)がとれ、山にはクスノキやカシの仲間などの木々が、竹にはシノダケの類が生えています。

ショウガ・タチバナ・サンショウ・ミョウガもありますが、それを味つけに使うことを知りません。サルや黒いキジもいます。

なお、ここに挙げられた木や竹が現在のどの植物にあたるかは、はっきり特定できないものも多いとされています。

何かを始めるときや旅立つときには、そのつど骨を焼いてひび割れを見て、吉凶を占います。まず占う内容を告げてから焼き、その言い方は中国で亀の甲羅を使って占う作法と同じで、焼けてできた裂け目のかたちを見て吉凶を判断します。

もぐたろう
もぐたろう

骨を焼いて、そのひび割れで吉凶を占う――これは、のちに日本で太占と呼ばれる占い(鹿の肩甲骨などを焼いて使う)にあたるとみられているものだよ。今でいうと、大事な決断の前におみくじを引くような感覚に近いかもしれないね。ただし当時は、旅に出るかどうかまでこれで決めていたんだから、重みがぜんぜん違うよ。

あゆみ
あゆみ

持衰の人、旅がうまくいかなかったら殺されるかもしれないなんて……ずいぶん重い役目ですね。

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだ。航海の無事を一人の人間の身の慎み方に賭けている、ということだよね。裏を返せば、海を渡ることがそれだけ命がけだったということ。この一節は倭人の宗教観がよく出ている部分として、よく取り上げられるよ。

■ 身分制度と市の様子

【原文】

其會同坐起,父子男女無別,人性嗜酒。見大人所敬,但搏手以當跪拜。其人壽考,或百年,或八九十年。其俗,國大人皆四五婦,下戶或二三婦。婦人不淫,不妬忌。不盜竊,少諍訟。其犯法,輕者沒其妻子,重者沒其門戶。及宗族尊卑,各有差序,足相臣服。收租賦。有邸閣國,國有市,交易有無,使大倭監之。

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝(武英殿二十四史本/ctext.org・維基文庫で照合)

【書き下し文】

其の会同・坐起には、父子・男女の別無し。人性酒を嗜む。大人の敬する所を見るに、但だ手をちて以て跪拝きはいに当つ。其の人は寿考じゅこうにして、或いは百年、或いは八、九十年なり。其の俗、国の大人たいじんは皆四、五婦、下戸げこも或いは二、三婦あり。婦人は淫ならず、妬忌ときせず。盗窃せず、諍訟そうしょう少なし。其の法を犯すや、軽き者は其の妻子をぼつし、重き者は其の門戸を没す。宗族の尊卑に及びては、各々差序有り、相臣服するに足る。租賦を収む。邸閣ていかく有り。国々に市有り、有無を交易し、大倭だいわをして之を監せしむ。

【現代語訳】

集まって座るときは、父子・男女の区別なく同じ場に座ります。人々は酒を好みます。

身分の高い人に敬意を示すときは、ひざまずくかわりに手を打ち合わせます。長生きの人が多く、100年、あるいは80〜90年生きる人もいると記されています。

この国の風習では、身分の高い人はみな4〜5人の妻をもち、身分の低い者でも2〜3人の妻をもつ者がいます。女性はみだらでなく、やきもちも焼きません。盗みもなく、争いごとや訴訟も少ないといいます。

法を犯した場合、軽い罪ならその妻子を没収し、重い罪なら一族もろとも没収されます。一族のあいだにも身分の上下があり、それぞれ順序が定まっていて、たがいに従い合っています。

税を集めるしくみがあり、税を納める倉が置かれていました。国々には市が開かれ、あるものとないものを交換しています。その市は大倭という役人に監督させています。

大人と下戸という身分の差、税と倉、そして市の監督役――ここには、集落が単なる村ではなく国としてのしくみをもっていたことがはっきり書かれています。考古学の側から見ると、この時期の集落は堀や柵をめぐらせた環濠集落・高地性集落へと発展していました。

その代表例が、佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。二重の環濠と物見やぐらの跡が見つかっており、魏志倭人伝の描く「城柵を厳かに設け、常に人が武器を持って守っている」という記述と重ねて語られることの多い遺跡です。

ただし、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国そのものだと確定したわけではありません。「魏志倭人伝に書かれているような集落が実際に存在した」ことが確かめられた、というのが正確なところです。

卑弥呼と邪馬台国の統治のしくみ

風俗の記述が終わると、原文はいよいよ倭の政治の話に入ります。この記事では読みやすさを優先して、先に卑弥呼が王になるまでの経緯を読み、そのあとで統治のしくみを見ていきます。

■ 卑弥呼の共立と鬼道

【原文】

其國本亦以男子為王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼,事鬼道,能惑衆,年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞。

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝(武英殿二十四史本/ctext.org・維基文庫で照合)

【書き下し文】

其の国、本亦男子を以て王と為し、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰ふ。鬼道に事へ、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫壻ふせい無し。男弟有りて佐けて国を治む。王と為りしより以来、見る者少なし。千人を以て自ら侍せしめ、唯だ男子一人有りて飲食を給し、辞を伝へて出入す。居処は宮室・楼観ろうかんにして、城柵厳かに設け、常に人有りて兵を持して守衛す。

【現代語訳】

この国はもともと男子を王としていて、その状態が70〜80年続きました。ところが倭国が乱れ、何年ものあいだ国どうしが攻め合ったため、諸国が話し合って一人の女性を共同で王に立てました。その名を卑弥呼ひみこといいます。

卑弥呼は「鬼道」に仕え、よく人々の心をつかんでいました。ただし原文の「衆を惑はす」という言い方には、中国側から見て「人々を惑わせている」という響きがある点にも注意が必要です。

すでに年配でしたが夫はおらず、弟が政治を補佐しています。王になってからは、その姿を見た者はほとんどいません。

1,000人の侍女を仕えさせ、ただ一人の男子だけが食事を運び、言葉を取り次いで出入りしていました。住まいは宮殿と物見やぐらを備え、城柵が厳重にめぐらされ、いつも武器を持った人が守っていたのです。

卑弥呼という人物そのものの生涯や、その人物像をめぐる議論については、卑弥呼の記事で詳しく解説しています。ここでは、原文がどこまでを記し、どこから先を書いていないのかに注目してください。

もぐたろう
もぐたろう

注目してほしいのは「共立」という言葉。誰かが力ずくで王になったのではなく、争っていた国々が話し合って一人の女性を担ぎ出したということだよね。なぜ女性だったのか、なぜ卑弥呼だったのかまでは、原文には書かれていないんだ。

🔎 「鬼道」の正体はわかっていません。原文にはただ「鬼道に事へ、能く衆を惑はす」とあるだけで、具体的な内容の説明がありません。中国側が道教的な信仰を指して使った言葉だとする説、シャーマン(巫女)としての祭祀を指すとする説などがありますが、いずれも推測の域を出ないとされています。

■ 一大率と検察のしくみ

つづいて、女王の国がどのように国々を束ねていたのかを伝える一節です。原文ではこの部分は卑弥呼の記述より前に置かれていますが、内容としては統治のしくみを説明した箇所にあたります。

【原文】

自女王國以北,特置一大率檢察,諸國畏憚之。常治伊都國,於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯。下戶與大人相逢道路,逡巡入草。傳辭說事,或蹲或跪,兩手據地,為之恭敬。對應聲曰噫,比如然諾。

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝(武英殿二十四史本/ctext.org・維基文庫で照合)

【書き下し文】

女王国より以北には、特に一大率いちだいそつを置きて検察せしむ。諸国之を畏憚いたんす。常に伊都国に治す。国中に於て刺史ししの如き有り。王、使を遣はして京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、及び郡の倭国に使ひするや、皆津に臨みて捜露そうろし、文書・賜遺しいの物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。下戸、大人と道路に相逢へば、逡巡しゅんじゅんして草に入る。辞を伝へ事を説くには、或いはうずくまり或いはひざまずき、両手を地に拠りて、之が恭敬を為す。応対の声をあいと曰ふ。比ぶるに然諾ぜんだくの如し。

【現代語訳】

女王の国より北には、とくに一大率という役職を置いて、国々を検察させています。国々はこれを恐れはばかっています。一大率はいつも伊都国に役所を置いており、その働きは中国でいう刺史(地方を監督する官)のようなものです。

女王が使者を魏の都・帯方郡・韓の国々へ送るときや、帯方郡の使者が倭国へ来るときには、いずれも港でその荷を開いて調べ、文書や贈り物を女王のもとへ間違いなく届けるようにしています。

身分の低い者が道で身分の高い人に出会うと、後ずさりして草むらに入り、道をゆずります。言葉を伝えたり用件を話したりするときは、うずくまるかひざまずくかして、両手を地面につき、うやうやしくします。返事の声は「あい」といい、中国でいう「承知しました」に近い言い方です。

もぐたろう
もぐたろう

一大率は、今でいえば地方に置かれた監察官のような役職だね。しかも港で荷物を開けて中身を確認する、という税関のような仕事までしていたことが書かれている。女王の国が、ただの連合ではなくチェック機能をもつ組織だったことがわかる一節なんだ。

あゆみ
あゆみ

卑弥呼って、呪術で人心をつかんだ女王というイメージだったんですけど、税や検察のしくみまで整っていたんですね。

もぐたろう
もぐたろう

そこがこの史料のすごいところなんだ。租税を集める倉があり、市を監督する役人がいて、国々を検察する一大率がいる。3世紀の倭には、すでに国家のかたちの原型があった――それが原文から読み取れるんだよ。

魏との外交 ― 親魏倭王の詔書と朝貢

ここから原文の性格ががらりと変わります。これまでは倭の様子を伝える見聞録でしたが、以下は年号つきの外交記録です。魏の側に残っていた公文書がもとになっているとみられ、詔書の文面までそのまま引かれています。

神原神社古墳から出土した三角縁神獣鏡
神原神社古墳(島根県雲南市)から出土した三角縁神獣鏡。詔書にみえる「銅鏡百枚」との関係が長く議論されてきた種類の鏡です(島根県立古代出雲歴史博物館展示)/著作者:Saigen Jiro/出典:Wikimedia Commons/ライセンス:Public domain

■ 景初年間の朝貢と難升米の派遣

【原文】

景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝(武英殿二十四史本/ctext.org・維基文庫で照合)

【書き下し文】

景初けいしょ二年六月、倭の女王、大夫難升米なしめ等を遣はして郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏りゅうか、吏を遣はして将ゐ送りて京都に詣らしむ。

【現代語訳】

景初2年6月、倭の女王は大夫の難升米たちを帯方郡へ送り、魏の皇帝のもとへ行って貢ぎ物を献上したいと願い出ました。帯方郡の太守だった劉夏は、役人をつけて彼らを魏の都(洛陽)まで送り届けさせました。

景初年間は、三国時代(魏・呉・蜀)のまっただ中にあたります。魏が公孫氏を倒して朝鮮半島へ勢力を伸ばした、まさにその時期に倭の使者がやってきたことになります。

📅 「景初二年」か「景初三年」かは決着していません。本記事の底本を含む現在の『三国志』は「景初二年」(西暦238年)と記していますが、『日本書紀』が引く文や『梁書』などをもとに「景初三年」(西暦239年)の誤りだとする説も古くから唱えられてきました。景初2年6月の時点で帯方郡が魏の支配下に入っていたかどうかが論点のひとつです。山川出版社の用語辞典類は「239年」で記述しており、学習上は239年で押さえるのが無難です。ただし原文そのものは「景初二年」であり、どちらが本来かは決着していません。

■ 親魏倭王の詔書

【原文】

其年十二月,詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利奉汝所獻男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈,以到。汝所在踰遠,乃遣使貢獻,是汝之忠孝,我甚哀汝。今以汝為親魏倭王,假金印紫綬,裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人,勉為孝順。汝來使難升米、牛利涉遠,道路勤勞,今以難升米為率善中郎將,牛利為率善校尉,假銀印青綬,引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟𦋺十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹,荅汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華𦋺五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鈆丹各五十斤,皆裝封付難升米、牛利還到錄受。悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也。」

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝(武英殿二十四史本/ctext.org・維基文庫で照合)

【書き下し文】

其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔せいしょうす。帯方太守劉夏、使を遣はして汝が大夫難升米・次使都市牛利としごりを送り、汝が献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布はんぷ二匹二丈を奉じて以て到る。汝が在る所ははるかに遠きに、乃ち使を遣はして貢献す。是れ汝の忠孝なり。我甚だ汝をあわれむ。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬きんいんしじゅを仮し、装封して帯方太守に付し、仮りて汝に授けしむ。其れ種人しゅじん綏撫すいぶし、勉めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路に勤労す。今、難升米を以て率善中郎将りつぜんちゅうろうしょうと為し、牛利を率善校尉りつぜんこういと為し、銀印青綬ぎんいんせいじゅを仮し、引見労賜して遣り還す。今、絳地交竜錦こうちこうりょうきん五匹・絳地縐粟𦋺すうぞくけい十張・蒨絳せんこう五十匹・紺青こんじょう五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直こうちに答ふ。又特に汝に紺地句文錦こんちこうもんきん三匹・細班華𦋺さいはんかけい五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹えんたん各五十斤を賜ふ。皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らばろくして受けよ。悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜ふなり」と。

【現代語訳】

その年の12月、皇帝の詔書が倭の女王に届けられました。そこにはこう書かれています。

親魏倭王しんぎわおう卑弥呼に詔を下す。帯方太守の劉夏が使者をつけて、そなたの大夫である難升米と副使の都市牛利を送り、そなたが献上した男の奴隷4人・女の奴隷6人・まだら模様の布2匹2丈を持って到着した。

そなたのいる場所ははるかに遠いのに、わざわざ使者を送って貢ぎ物をした。これはそなたの忠義と孝心である。私はそなたをたいそういとおしく思う。

そこで今、そなたを『親魏倭王』とし、金印と紫のひもを授ける。それを封じて帯方太守に預け、そなたに授けさせよう。同じ倭の人々を安んじ、努めて(魏に)従順であるように。

そなたの使者である難升米と牛利は、遠い道のりを苦労してやって来た。そこで難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とし、銀印と青いひもを授け、皇帝みずから引見してねぎらい、褒美を与えて帰らせる。

そなたの献上品への返礼として、赤地に竜を織り出した錦5匹、赤地の縮み織りの毛織物10張、茜染めの赤い織物50匹、紺青の織物50匹を与える。

さらに特別に、紺地に曲線模様の錦3匹・細かいまだら模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺の刀2振り・銅鏡100枚・真珠・鉛丹(赤い顔料)各50斤を与える。すべて封じて難升米と牛利に預けるので、帰り着いたら目録と照らして受け取りなさい。

これらをすべて国じゅうの人々に見せ、わが国がそなたをいとおしく思っていることを知らせるがよい。だからこそ、心をこめて良い品々を与えるのである。」

もぐたろう
もぐたろう

「親魏倭王」というのは、今でいえば魏が公式に発行した外交上の肩書きだね。しかも金印と紫のひもというのは、当時の中国では最上級クラスの待遇なんだ。同じ「親魏〇王」という称号を与えられた例は、西域の大月氏くらいしか知られていないとされている。魏が倭をかなり重く扱ったことがうかがえるね。

ゆうき
ゆうき

「親魏倭王」って、テストで漢字まるごと書かされそう……絶対に覚えないとまずいやつだ。

もぐたろう
もぐたろう

その通り!しかも「銅鏡百枚」もセットで狙われやすいよ。この鏡がどれにあたるのかは長く議論されていて、三角縁神獣鏡だとする説と、そうではないとする説がある。ここも「諸説あり」で押さえておこう。

■ 正始年間の使者往来と狗奴国との対立

【原文】

正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,并齎詔賜金、帛、錦𦋺、刀、鏡、采物,倭王因使上表荅謝恩詔。其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。其八年,太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝(武英殿二十四史本/ctext.org・維基文庫で照合)

【書き下し文】

正始せいし元年、太守弓遵きゅうじゅん建中校尉けんちゅうこうい梯儁ていしゅん等を遣はし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣り、倭王を拝仮はいかせしむ。并せて詔をもたらし、金・帛・錦𦋺・刀・鏡・采物さいぶつを賜ふ。倭王、因りて使をして上表せしめ、恩詔に答謝す。其の四年、倭王、復た使大夫伊声耆いせいき掖邪狗やくやこ等八人を遣はし、生口・倭錦・絳青縑こうせいけん緜衣めんい帛布はくふ・丹木・𤝔・短弓矢を上献す。掖邪狗等、いつに率善中郎将の印綬を拝す。其の六年、詔して倭の難升米に黄幢こうどうを賜ひ、郡に付して仮授せしむ。其の八年、太守王頎おうき官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ひみここと素より和せず。倭の載斯さいし烏越うえつ等を遣はして郡に詣り、相攻撃する状を説かしむ。塞曹掾史さいそうえんし張政ちょうせい等を遣はし、因りて詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、げきを為りて之を告喩こくゆす。

【現代語訳】

正始元年(240年)、帯方太守の弓遵は建中校尉の梯儁たちを送り、詔書と印綬を持たせて倭国へ行かせ、倭王(卑弥呼)に授けさせました。あわせて詔を届け、金・絹・錦・毛織物・刀・鏡・飾り物を贈っています。倭王は使者に上表文を持たせ、皇帝の恩に感謝しました。

正始4年(243年)、倭王はふたたび大夫の伊声耆・掖邪狗ら8人を送り、奴隷・倭錦・赤と青の絹織物・綿入れの衣・布・丹木・短い弓矢などを献上しました。掖邪狗たちはそろって率善中郎将の印綬を授けられています。

正始6年(245年)には、詔によって倭の難升米に黄幢(黄色い軍旗)が贈られ、帯方郡に預けて授けさせました。

正始8年(247年)、王頎が新しい帯方太守として着任します。

このころ倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王である卑弥弓呼ともともと仲が悪く、載斯・烏越らを帯方郡へ送って、たがいに攻撃し合っている状況を報告させました。

そこで郡は塞曹掾史の張政たちを派遣し、詔書と黄幢を持たせて難升米に授け、檄文をつくって(倭を)諭させました。

ここで押さえておきたいのは、倭と魏のやりとりが一度きりではなかったという点です。最初の朝貢から正始8年まで、使者は何度も行き来しています。しかも終わりのほうでは、狗奴国との争いを帯方郡へ報告するという、軍事的な相談にまで発展しています。

卑弥呼の死と壱与の即位

魏志倭人伝は、卑弥呼の死とその後の混乱、そして次の女王の即位で幕を閉じます。ここが史料の最終部分です。

■ 卑弥呼の死と大きな墓

【原文】

卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝(武英殿二十四史本/ctext.org・維基文庫で照合)

【書き下し文】

卑弥呼すでに死す。大いに冢を作る。けい百余歩、徇葬じゅんそうする者奴婢百余人。

【現代語訳】

卑弥呼が死にました。大きな墓がつくられ、その差し渡しは百余歩、ともに葬られた奴婢は百余人であったと記されています。

もぐたろう
もぐたろう

たった20字(句読点を除く)。あれだけ詳しく書かれてきた女王の最期が、これだけなんだ。しかも原文の「以死」という言い方が独特なんだ。いまは「すでに死んでいた」と読むのが有力で、のちの『通志』がこの部分を「已死」と書いていることが根拠になっている。ほかに「そのために死んだ」と読む説もあって、原文が短いぶん解釈の余地が大きく残されているところだよ。

⚖️ 「径百余歩」の大きさも確定していません。魏の1歩を約1.4メートルとみれば直径140メートルほどの巨大な墓になりますが、そもそも里の数字が実際と合わないこの史料で、歩だけを額面どおり換算してよいのかという問題があります。「卑弥呼の墓はどの古墳か」という議論は所在地論争と直結するため、この記事では立ち入りません。

■ 男王擁立の失敗と壱与の即位

【原文】

更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺,獻上男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹。

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝(武英殿二十四史本/ctext.org・維基文庫で照合)

【書き下し文】

更に男王を立つるも、国中服せず、更々相誅殺し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女そうじょ壹与を立つ。年十三にして王と為り、国中遂に定まる。政等、檄を以て壹与に告喩す。壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣はして政等を送り還らしむ。因りてだいに詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千・孔青大句珠こうせいたいこうしゅ二枚・異文雑錦いもんざっきん二十匹を貢す。

【現代語訳】

そのあと改めて男の王を立てましたが、国じゅうが従わず、たがいに殺し合いになり、このとき1,000人あまりが殺されたと記されています。

そこでふたたび卑弥呼の一族の娘である壱与いよを王に立てました。壱与は13歳で王となり、国はようやく治まりました。

張政たちは檄文によって壱与を諭しました。壱与は倭の大夫で率善中郎将である掖邪狗たち20人をつけて張政たちを送り帰らせ、そのついでに魏の都の役所へおもむいて、男女の奴隷30人を献上し、白い珠5,000個・穴のあいた青い大きな勾玉2枚・さまざまな模様の錦20匹を貢ぎました。

ここで魏志倭人伝の記述は終わります。

この女王のその後や、「壱与」「台与」という二通りの呼び方については、壱与(台与)の記事で詳しく扱っています。

🔍 「壱与」か「台与」かも、版本の字の違いから生まれた問題です。底本を含む現存の『三国志』はいずれも「壹與」ですが、邪馬壹國を邪馬臺國と直す立場からは、ここも「臺與」の誤りだとされます。日本語で「いよ」「とよ」の両方の読み方が並び立っているのは、この一字をどちらに読むかで音が変わるためです。どちらが本来の字かは決着していません。

もぐたろう
もぐたろう

卑弥呼が亡くなったあと、男の王ではまとまらず、また女性の王を立てたら国が治まった――この一節は、倭の王がどうやって支えられていたのかを考えるうえで、とても重要な手がかりになるんだ。そしてこのあと、中国の史書から倭についての記事が長いあいだ姿を消す、いわゆる「空白の4世紀」へとつながっていくよ。

🔍 「会稽・東冶の東」も版本で字が割れます。武英殿本は「東」、別の系統では「東」となっています。東冶は現在の福建省あたり、東治とすると別の場所を指すことになるため、「倭はどのあたりにあると中国側は考えていたのか」という議論にも関わってきます。なお、この一文は魏の使者が実測した距離ではなく、中国側が机上で計算した推定である点にも注意が必要です。

🔍 刑罰の一文も版本で字が違います。武英殿本は「重き者は其の門戸をす」ですが、別の系統では「す」となっています。「沒」なら一族の財産や人身を取り上げる(没収する)意味、「滅」なら一族を滅ぼす意味になり、刑の重さの受け取り方が変わります。どちらが本来の字かは決まっていません。
また「其の人は寿考にして、或いは百年」という長寿の記述は、魏の使者が確かめた数字ではなく伝聞とみられ、そのまま事実として扱うことはできないとされています。

🔍 ここも版本で読みが変わります。武英殿本は「特置一大率檢察」ですが、別の系統では「特置一大率檢察諸國」と「諸国」の2字が入ります。「諸国」があれば「諸国を検察させた」と目的語がはっきりしますが、なければ「(女王国以北を)検察させた」と読むことになり、一大率の権限がどこまで及んだのかの解釈が変わってきます。

🔍 人名の字にもゆれがあります。武英殿本は「掖邪」ですが、別の系統では「掖邪」と書かれています。また献上品のうち底本で1字だけ字形が特殊な箇所(「丹木」の次の字)は、ここでは対校本にあわせて「𤝔」と表記しました。倭の人名や品名は中国側が音を漢字に写したものなので、写本のたびに字が入れ替わりやすかったと考えられています。

なぜ「魏志倭人伝」という書物は存在しないのか

いま読み終えた倭人条は、全65巻からなる『三国志』のうち、魏書の最後の巻30烏丸鮮卑東夷伝の、そのまた末尾に置かれた一節にすぎません。では、そんな片隅の記述が、なぜ書き残されたのでしょうか。

『三国志』ってどんな歴史書なの?

『三国志』は、魏・呉・蜀が争った時代の記録を国ごとにまとめた歴史書です。魏書30巻・蜀書15巻・呉書20巻の、あわせて全65巻からなります。

このうち魏書の最後の巻が、巻30烏丸鮮卑東夷伝です。魏の周辺にいた民族――烏丸うがん鮮卑せんぴ・そして東方の夫余ふよ高句麗こうくり・韓・倭など――をまとめて扱ったパートで、倭人についての記述はその巻末に置かれています。

『三国志』が置かれているのは、あくまで魏を中心とした歴史の枠組みです。周辺の民族が記されるのは、その民族が魏と関係を持ったからにほかなりません。倭が巻30に入っているのも、卑弥呼が使者を送り、皇帝から称号を授けられた相手だったからです。

言いかえれば、この記述は日本を紹介するために書かれた文章ではありません。魏の外交記録の一部として、必要なかぎりで倭のことが書き留められた――そう考えたほうが、里数のあいまいさや風俗描写の偏りも理解しやすくなります。

もぐたろう
もぐたろう

しかも書いた本人は、倭へ来ていないんだ。もとになったのは帯方郡に届いた報告や、使者が持ち帰った見聞だと考えられている。伝え聞きを都でまとめた文章だから、距離が合わなかったり、南の島国のイメージが混ざったりする。それを踏まえたうえで読むのが、この史料とのつきあい方だよ。

■ 今読める『三国志』には「注」が混ざっている

もうひとつ、原文を自分で読むときに必ずつまずくポイントがあります。裴松之はいしょうしの注です。

裴松之は5世紀の南朝宋に仕えた人物で、『三国志』の記述が簡潔すぎるとして、当時残っていた別の書物を大量に引用した注をつけました。この注つきの形が広く読まれてきたため、現在ネット上で見られる『三国志』の本文にも、注がそのまま混ざっていることがあります。

🔍 倭人条にも注が2箇所まぎれています。「魏略ぎりゃくに曰く…」で始まる暦についての一文と、「臣松之以為えらく…」で始まる織物の字についての一文です。前者は魚豢ぎょかんが著したとされる『魏略』からの引用、後者は裴松之自身の意見であり、どちらも陳寿が書いた本文ではありません。この記事に掲げた原文は、この2箇所を取り除いた本文だけを載せています。

あゆみ
あゆみ

日本側の史料には、卑弥呼のことは出てこないんですか? テレビで「卑弥呼=神功皇后」という説を見たことがあるんですけど……。

もぐたろう
もぐたろう

『日本書紀』が神功皇后の記事のところに『魏志』を引用しているんだ。そこから「この女王は神功皇后のことでは?」という見方が生まれたんだよ。ただしあくまで一つの説で、定説にはなっていない。卑弥呼を誰に重ねるかという議論は今もいくつも並び立っているよ。

日本側に同時代の文字記録がないからこそ、この短い一節が3世紀の列島を知るほとんど唯一の手がかりになっている――魏志倭人伝が史料として重んじられてきた理由は、まさにここにあります。

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 魏志倭人伝:『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝の倭人条につけられた通称(独立した書物ではない)
  • 陳寿:『三国志』を編んだ西晋の歴史家
  • 邪馬台国:卑弥呼が都とした国。所在地は九州説・畿内説などがあり決着していない
  • 親魏倭王:卑弥呼が魏の皇帝から授けられた称号。金印紫綬もあわせて与えられたと記される
  • 一大率:女王国より北の国々を検察するため、伊都国に常駐したと記される役職

📌 暗記のコツ:「魏志倭人伝=『三国志』魏書の一部」「親魏倭王=卑弥呼が授かった称号」の2つはセットで覚えると、記述問題でそのまま使えます。朝貢の年は景初2年説・景初3年説が並び立っているので、数字を単独で丸暗記せず「景初年間」と押さえるのが安全です。もう一つ狙われやすいのが史料の順番で、『漢書』地理志 →『後漢書』東夷伝 →『魏志』倭人伝の並びで整理しておくと並べ替え問題に強くなります。これは書かれている内容の年代順で、書物が成立した順番ではありません(『後漢書』の成立は『三国志』より後の5世紀です)。

ゆうき
ゆうき

原文って全部覚えなきゃダメ……? 量が多すぎて無理なんだけど。

もぐたろう
もぐたろう

大丈夫、丸暗記はいらないよ。試験で引用されるのは「乃共立一女子為王,名曰卑彌呼,事鬼道,能惑衆」あたりの数行にほぼ限られる。上の5語を押さえたうえで、その数行が何を言っているかを言葉で説明できれば十分だよ!

魏志倭人伝の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

ここまで読んで、原文と書き下し文をもっとじっくり読み比べたくなった人へ。注釈つきで一冊にまとまった本を紹介するよ!

①原文・書き下し文まで読み込みたいなら|注釈付きで安心の一冊

『現代語訳 魏志倭人伝』は、本記事で扱った原文・書き下し文・現代語訳の3点セットに、詳しい注釈を加えた文庫本です。

『魏志』倭人伝の記述だけでなく、後の時代に書かれた中国正史に残る倭国関連の記事(『宋書』『隋書』など)もあわせて収録されており、卑弥呼の時代から後の時代までの倭国の記述を通して読める構成になっています。

現代語訳 魏志倭人伝

松尾光 著|KADOKAWA(新人物文庫)

✓ こんな人におすすめ

原文の意味を自分で確かめながら読みたい人。本記事で触れきれなかった細かい注釈まで踏み込みたい人。

△ こんな人には向かない

現代語訳だけをさらっと読みたい人。原文・書き下し文も一緒に載っているぶん、文庫としてはやや骨太な構成です。

よくある質問(FAQ)

存在しません。中国の歴史書『三国志』は魏書・蜀書・呉書の三部からなり、その魏書の巻30「烏丸鮮卑東夷伝」の末尾に、倭人について記した一節が置かれています。この部分だけを取り出して呼ぶ通称が「魏志倭人伝」です。「魏志」は魏書の別名、「倭人伝」はその中の倭人の条を指します。答案では「魏志倭人伝」と書いて問題ありませんが、説明を求められたら「『三国志』魏書の一部」と答えられると確実です。

この記事では武英殿二十四史本『三国志』を底本として、裴松之の注を取り除いた本文を全文掲げています。原典そのものは中國哲學書電子化計劃(ctext.org)にスキャン画像つきで公開されており、維基文庫の「三國志/卷30」でも読むことができます。ただし版本によって字が異なる箇所があるため、複数の本を照らし合わせて読むのが安全です。この記事でも主な異同はそのつど注記しました。

決着していません。九州にあったとする説と、近畿(大和)にあったとする説が代表的で、ほかにも多くの比定地が唱えられています。原文に書かれた方角と里数を額面どおりにたどると、日本列島を通り越して南の海上に出てしまうため、方角と距離のどちらを重んじるかで結論が変わってしまうのです。この記事は史料の読解に絞っているため、論争そのものには立ち入っていません。

実在した人物とみる見方が有力です。中国側の史料である魏志倭人伝に、名前・統治のようす・魏とのやりとりが具体的に書き留められているためです。ただし日本側には同時代の文字記録がなく、墓も特定されていないため、考古学的に裏づけられているわけではありません。「実在した可能性が高いが、確定はしていない」というのが、史料に忠実な言い方になります。

扱う時代と情報量が違います。『漢書』地理志が伝えるのは紀元前後の倭で、「百余国に分かれ、定期的に使いを送ってきた」という20字ほどの短い記述にとどまります。いっぽう魏志倭人伝は3世紀の倭を扱い、道のり・風俗・卑弥呼の統治・魏との外交までが書き込まれています。倭が小さな国の集まりから女王をいただく連合へと変わっていく流れは、この2つを並べて読むとつかみやすくなります。

「魏に親しむ倭の王」という意味の称号です。中国の皇帝が周辺の君主へ称号と印を与えて臣下として認める、冊封という仕組みのなかで出された肩書きにあたります。『三国志』には、同じころ西域の大月氏の王へ「親魏大月氏王」の号が与えられたことも見えます。魏が倭を、東方の重要な相手として扱っていたことがうかがえる称号だといえます。

中学の歴史では、卑弥呼・邪馬台国・親魏倭王という用語と、「30ほどの国を従えていた」「まじないによって人々をまとめた」といった内容の理解が問われます。高校日本史になると史料そのものが引用され、空欄補充や、どの史料からの引用かを選ばせる問題が定番です。『漢書』地理志・『後漢書』東夷伝との並べ替えも頻出なので、時代順で整理しておくと安心です。

まとめ

最後に、魏志倭人伝が伝える倭と魏のやりとりを、時系列で整理しておきます。

魏志倭人伝が伝える倭国外交の年表
  • 景初年間
    卑弥呼が難升米らを帯方郡へ送り、魏への朝貢を願い出る(景初2年説・景初3年説があり諸説あり)
  • 景初年間
    魏の皇帝より「親魏倭王」の称号と金印紫綬・銅鏡百枚などを授けられる
  • 正始元年(240年)
    魏の使者が倭国へ渡り、詔書と印綬を倭王に授ける。以後、正始年間を通じて使者の往来が続く
  • 正始8年(247年)
    狗奴国との争いを帯方郡へ報告し、張政らが派遣される。このころ卑弥呼が死去し、大きな墓が築かれたと記される(没年は諸説あり)
  • 卑弥呼の死後
    男王の擁立が失敗して内乱となり、卑弥呼の一族の少女・壱与が13歳で王に立てられて国が治まる
もぐたろう
もぐたろう

以上、魏志倭人伝の原文・書き下し文・現代語訳のまとめでした! わずか2,000字ほどの文章に、海を渡る道のりから倭人の暮らし、女王の統治、魏との外交までが詰まっているのは驚きだよね。下の記事では卑弥呼や邪馬台国そのものをくわしく扱っているから、あわせて読んでみてください!

📅 最終確認:2026年9月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』

参考文献

中國哲學書電子化計劃(ctext.org)所収『三國志』武英殿二十四史本(2026年9月確認)
維基文庫『三國志』巻30(2026年9月確認)
Wikipedia日本語版「魏志倭人伝」(2026年9月確認)
コトバンク「魏志倭人伝」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年9月確認)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

📚 弥生時代の記事をもっと読む → 弥生時代の記事一覧を見る

Amazonのアソシエイトとして、まなれきドットコムは適格販売により収入を得ています。

スポンサーリンク
YouTubeチャンネルのご案内

高校日本史の単元を1本でまるごと追う解説から、事件や人物を掘り下げた回まで、YouTubeチャンネル「まなれきドットコムちゃんねる」で公開しています。

必要になったときにすぐ戻ってこられるよう、チャンネル登録をどうぞ。

チャンネル登録する

この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

もぐたろうをフォローする
弥生時代