

今回は、弥生時代の日本について書かれている数少ない史料の1つ「魏志」倭人伝についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
「魏志」倭人伝って何?
「魏志」倭人伝は、3世紀末(280年〜297年)に中国で書かれた史書『三国志』の一部分。陳寿という人物によって書かれました。
具体的にいうと『三国志』のなかの「魏志」第30巻の倭人の条のことを「魏志」倭人伝と言います。(ややこしい!)
三国志の三国とは、中国に生まれた魏・呉・蜀の3つの国のこと。このうち魏について書かれたのが「魏志」です。
※三国志は、ゲームにもなっているので知っている人も多いのではと思います。
弥生時代の日本について書かれた史書(歴史書)は有名なもので「魏志」倭人伝も含めて3つあります。
その中で、最も日本について詳しく書かれているのが、実は今回紹介する「魏志」倭人伝です。
「魏志」倭人伝は大雑把に200年〜250年頃の日本の様子が書かれており、以下の3つの内容がメインになっています。
当時の日本はどんな様子だったのか。高校の日本史で習うことになる3番に重点を置いて詳しく解説していきます。
倭国大乱
「魏志」倭人伝では、当時の日本(倭国)の政治について次のように書かれています。
その国(邪馬台国)は、もともと男を王とした国であった。ところが、今から70〜80年前、倭の国々に争乱が起こり、何年間も戦争が続いた。
諸国の人々は共に一人の女性を王とした。その名を卑弥呼といった。
いきなり登場する「その国」は、邪馬台国という国だと考えられています。
また、「70〜80年前」っていうのは、具体的に紀元170〜180年頃だと考えられていて、これは『後漢書』東夷伝に書かれていた同時期の日本の様子と一致しています。
なぜ倭国は乱れたのか?「魏志」倭人伝は、その理由を書き残してはいません。そのため、はっきりとした理由はわかりませんが、大きな理由は2つあるだろうと言われています。
理由その1:後漢の衰退
1つは後漢の力が衰えてきたことです。
後漢の権力は150年以降急速に衰退して、184年に黄巾の乱が起こると後漢の国家権力は崩壊。その後、中国では新しい覇権をめぐって魏・呉・蜀が争う三国時代が到来します。
この中国の政治情勢の変化は、日本にも大きな影響を与えたと考えられています。
というのも、倭国にはたくさんの国が乱立していたので、国々を平和的にまとめるには後漢の権力・権威を借りる必要があったからです。
実際に九州北部の国々は後漢との関係を深め、それによって「俺に逆らったら後漢が黙ってねーからな!」というマウントを取ることで、なんとか国々をまとめることができていました。
その後漢が衰退したことで、多くの国々が「あいつ、後漢がいなければ雑魚だろ?」と九州北部の国に対して抵抗するようになった・・・と考えられているのです。
理由その2:鉄の奪い合いが始まった
もう1つの理由は、鉄をめぐる争いが激化したためと考えられています。
鉄がアジア大陸から輸入されるようになると、人々は鉄の便利さに気付きます。

強度は完璧。薄くしても使えるし、熱で形を変えれるし、鉄ってめちゃくちゃ便利!
農具から武器まで、鉄はありとあらゆるところで使えるよ!
当時、鉄は簡単に手に入るものではなかったので、鉄をめぐって争いが起きたのでは・・・と考えられているのです。
卑弥呼の活躍
倭国の大乱を終わらせるため、各国の人々は考えた末、邪馬台国の卑弥呼を女王とすることで、国々をまとめようと考えました。
「魏志」倭人伝は、卑弥呼の様子を次のように書き残しています。
鬼道を使い、人々の心を支配した。高齢であり、夫を持たない。弟がいて国の政治を補佐した。
鬼道とは、呪術などの未知の力という意味。つまり、卑弥呼は不思議な力を使って人々の心を掴んでいた・・・ということです。
この不思議な力とは、具体的には自然界の霊や神々と交信する力のことです。(シャーマニズムとも言います。)
今を生きる私たちは、地震・竜巻・地震・雷と言った自然の猛威の仕組みを知っています。これまで蓄積されてきた人類の叡智のおかげです。
・・・しかし、当時の人々は自然の仕組みを知りません。地震は「大地の霊の怒り」、雷は「天の霊の怒り」と考えていたかもしれません。
そんな霊体とやりとりができたのが卑弥呼の力です。

霊体とやりとりとかできるわけねーじゃんww
って思う人もいるでしょう。実は、私もそう思います。
しかし、そこは重要な問題ではありません。真実は別として、人々が「あの人は霊と交信できるから、あの人の言うことには従ったほうがいい」と思ってくれるかどうか・・・が、鬼道で人々の心を掴むための最も大事な要素になります。
卑弥呼には、人々にそう思わせる不思議な魅力(カリスマ性)があったのでしょう。

皆の者、これ以上の争いは止めるのだ。
これ以上の争いを続ければ、自然の神々の怒りに触れ、数々の災いが起こるであろう・・・!!
なんてことを言って、争いを止めようとしたのだと思います。
「魏志」倭人伝には「弟が卑弥呼を補佐した」とも書かれています。これは、卑弥呼がシャーマニズムに特化する代わりに、実際の政治は弟が行っていたことを意味する・・・と考えられています。
これらの話をまとめると、こんな感じになります。
倭国の大乱を鎮めるため、邪馬台国の卑弥呼が女王になる。
卑弥呼はシャーマニズムによって人々の心を掴み、国々の争いを終わらせ、実際の政治は弟が行っていた。
卑弥呼、親魏倭王の称号をゲット
239年、卑弥呼は魏に使者を送って、魏から「親魏倭王」という称号と、それを証明する金印を授かります。

私は魏から倭国の王と認められたのよ。
つまり、私に逆らうってことは魏に逆らうってことなの。だから、私に安易に逆らわないことね。
と、他国に対して牽制をすることで、倭国を統一しようとしました。
卑弥呼は不思議パワーと外交パワーという相反する2つの方法を巧みに利用して、人々の争いを抑えようと努めていたのです。こうして、倭国は平穏を取り戻すことになりました。
中国(後漢)が魏・呉・蜀に別れて争うようになると、これまで後漢に服従していた国々では独立の動きが見られるようになります。
そんな中、逆に魏の傘下に入って称号をもらおうと、はるばる海を渡ってやってきた日本は、魏を大いに喜ばせました。「魏志」倭人伝には、魏は日本の使者を歓迎で迎えた・・・と記録されています。
つまり、魏への外交のタイミングもバッチリだったわけです。
邪馬台国VS狗奴国
しかし、倭国の平穏は長くは続きません。240年頃、邪馬台国とその南にある狗奴国が争いを始めます。
245年に卑弥呼は魏にヘルプを求めると、魏は卑弥呼を支援する方針を決定。しかし、これとほぼ同時期に卑弥呼は亡くなります。
邪馬台国が昔のように男の王を擁立すると、各国の人々はこれを不満に思い、戦乱は激化。「また女王のシャーマニズムに頼るしかない」と考えた邪馬台国は、卑弥呼の娘の壱与を女王に選びます。
壱与は当時、わずか13才だったと言われています。壱与は卑弥呼の娘だと言われており、卑弥呼の後継者としてはこれ以上ない人選でした。
壱与が女王になると再び戦乱は収まったと、「魏志」倭人伝に書かれています。シャーマニズムは、戦乱を終わらせてしまうほどの強い影響力を持っていたことがわかります。
壱与は母の卑弥呼にならって魏との外交を続けますが、「魏志」倭人伝は266年の魏への使者派遣の話で終わっていて、そこから先どうなったかはわかりません。
壱与が活躍した後の話は「魏志」倭人伝に書かれていないどころか、他の史料にも記録がほとんど残っていません。
そのため、300年代(4世紀)の日本の様子は不明な点が多く、「謎の4世紀」と呼ばれることもあります。
邪馬台国の謎
邪馬台国は、倭国統一の中心となる国であり、おそらく当時最も力を持った国の1つでした。
しかし「魏志」倭人伝は、肝心の邪馬台国がどこにあるのかまでは教えてくれません。
ただ、九州か畿内のどちらかにあった可能性が高いと考えられており、どちらの説が正しいか、今でもいろんな人たちが邪馬台国の謎に向き合っています。
邪馬台国の場所・卑弥呼の人物像など、謎はたくさんありますが、それでも「魏志」倭人伝が書き残されていたおかげで、私たちは文字のなかった日本の様子を知ることができています。その意味で、「魏志」倭人伝は日本の歴史にとってとても大事な史料の1つと言えそうです。
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