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リットン調査団を簡単にわかりやすく解説するよ【満州国をめぐり日本は国際連盟を脱退する】

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柳条湖を調べるリットン調査団
もぐたろう
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今回は、満州事変の紛争解決のために国際連盟から派遣されたリットン調査団についてわかりやすく丁寧に解説していくよ!

この記事を読んでわかること
  • リットン調査団ってなに?
  • なぜリットン調査団が派遣されたの?
  • 日本の対応は?
  • 調査の結果はどうなったの?日本への影響は?
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リットン調査団とは

リットン調査団とは、1931年に起きた満州事変まんしゅうじへんの原因を調査し、日本と中華民国の紛争を解決するため、国際連盟が派遣した調査団のことです。

調査団の団長に選ばれたのがイギリス人のリットンという人物だったので、リットン調査団と呼ばれました。

もぐたろう
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リットン調査団はなぜ派遣されたのか、そして調査の結果がどんな内容だったのか、紹介していくことにするよ!

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リットン調査団が派遣された背景

リットン調査団が派遣されたのは、日本が満州を攻め込む口実とした柳条湖事件が、めちゃくちゃ胡散臭い事件だったからです。

1931年9月18日、奉天ほうてんの近くに位置する柳条湖りゅうじょうこという場所で、日本が管理していた南満州鉄道(満鉄)が何者かに爆破される事件が起こりました。

満鉄や関東州(遼東半島りゃおとんはんとうの先端)の防衛を担っていた関東軍は、この爆破を中国人の仕業だと主張。正当防衛を理由に、満州一帯の軍事制圧を開始しました。

こうして起こったのが満州事変です。

・・・ところが、この経緯に中華民国が猛反発します。

なぜなら、「柳条湖事件は、満州を制圧したい関東軍が口実を得るための自作自演なのでは?」という疑惑があったからです。

中華民国が疑惑を抱くのには、それなりの理由もありました。

1つは、柳条湖事件の鉄道爆破があまりにもショボすぎたこと

爆破による鉄道の損傷はほとんどなく、爆破直後でも普通に列車が走れるほど、爆破の規模は小さなものでした。もし、中国人が敵意を持って爆破したのなら、鉄道はもっと粉々に爆破されていたはずです。

2つ目は、柳条湖事件後の関東軍の行動が用意周到だったこと

事前に準備をしていたとしか思えないような関東軍の迅速な行動は、中華民国に疑念を抱かせるのに十分なほど不自然なものでした。

実際、この中華民国が抱いた疑惑は当たっていました。柳条湖事件は、中国人の仕業に見せかけた関東軍の自作自演だったのです・・・!

中華民国は犯行が日本軍の自作自演と見抜くと、国際連盟こくさいれんめいに対して事件の真相の調査と紛争の調停を求めました。

もぐたろう
もぐたろう

日本に直接抗議しても日本が自作自演を認めるわけがないから、国際連盟を通じてイギリスなどの列強国を巻き込むことで日本に対抗しようとしたんだ。

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リットン調査団、派遣

当初、国際連盟は調査・調停には否定的でした。

日本が満州事変は侵略ではなく治安維持が目的だから、すぐに撤兵するから安心してくれよな!とアピールしていたからです。

国際連盟は、関東軍の撤兵後に日中間で問題を解決してくれることを望んでいました。

・・・が、関東軍はなかなか兵を引きません。それどころか、戦線は日を増すごとに拡大。

1931年10月には、錦州きんしゅうという場所で都市空爆が行われ、多くの犠牲者を生みました。

都市へ空爆が行われたのは、第一次世界大戦以降これが初めてです。挑発的な関東軍の行動に、国際連盟も次第に重い腰を上げるようになります。

若槻禮次郎
若槻禮次郎

私は、当時首相だった若槻禮次郎わかつきれいじろうという者だ。少し愚痴らせてくれ・・・。

私は、満州事変には反対だった。

確かに、満州は強大な力を持つソ連に対抗するため重要な場所だ。ここを日本の支配下に置きたいのは私も同じだ。だが武力制圧はダメだ。

私は、外務大臣だった幣原喜重郎しではらきじゅうろうの協調外交(幣原外交)を通じて、なんとか満州の権益を守ろうと考えていた。

・・・ところが、軍事制圧を望む関東軍は、私の努力を全て水の泡にした。

すぐに撤退すれば、国際連盟を敵に回さずに済んだのに、関東軍は侵攻をやめず、独断で市街地への爆撃まで行なった。これまでの私の苦労は全てパーだ。

関東軍の暴走を抑えられなかった私は、これからどうしたら良いのだ・・・(絶望)

同月(10月)、国際連盟は理事会を開いて日本に対して撤兵を求めることを提案するも、日本の反対により否決。

国際連盟の仕組み

国際連盟は、国同士の話し合いによって紛争の平和的解決を目指した機関です。

話し合いの方法は大きく2つあって、加盟国全員が参加する「総会」と、列強国を中心とした一部の国のみが参加する「理事会」がありました。

総会も理事会も、決定は投票によって行われ、全会一致が原則とされました。つまり、1国でも反対票を投じれば、総会や理事会で議論された提案は否認されてしまうわけです。

なので、日本もメンバーに入っている理事会で、日本に不利な内容を決定することはできないわけです。

そこで中華民国は、紛争の調停を行うときに限り「紛争当事者の意見は聞かなくてOK!」という国際連盟の例外ルールを適用することで、国際連盟に争いの調停を強く求めることにしました。

※例外ルールは国際連盟規約の第15条に載っています。(見てもよくわからないと思うので、気になる人だけ見てください!)

こうなると、不利になるのは日本です。

錦州の空爆によって日本の信用は地に落ちていたため、日本に不利な決定が国際連盟で下される可能性が濃厚だったからです。

1931年11月、日本は一計を案じます。

このまま中華民国の思惑通り話が進めば、日本は不利な条件を飲まねばならぬかもしれない。

それならばいっそ、国際連盟に「すぐに結論を出すのではなく、中立の立場から日本と中華民国に調査団を派遣して、その結果を見てから判断を下してはどうか?」と提案して、結論を先延ばしにしてしまおう。

そして、時間を稼いでいる隙に満州を名実ともに日本の支配下に置いてしまって、「満州=日本の支配下」という既成事実を作る。

こうすれば、どんな調査結果になろうと日本の満州支配をくつがえすのは国際連盟とて難しくなるだろう。

この日本の提案は受け入れられ、1931年12月には調査団の派遣が決定。1932年1月には調査団のメンバーも決まり、2月からリットン調査団が調査を開始しました。

調査団の団長に選ばれたリットン
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リットン調査団VS日本

日本に課せられたミッションは、『調査結果が出る前に満州を名実ともに日本の支配下に置くこと』です。

実はリットン調査団が派遣される以前から、日本は水面下で着実に準備を進めていました。

関東軍は「満州を日本の支配下にするには、満州に日本の言いなりになる独立国家を樹立すべき」と考えており、1931年11月には、清国の最後の皇帝だった溥儀ふぎをトップに置くことが決定。

溥儀

さらに、12月には関東軍に反対していた若槻禮次郎内閣が、満州事変への対応が行き詰まったことを理由に総辞職。新たに犬養毅いぬかいつよしが首相となりました。

犬養毅は、関東軍に100%同意はしていないものの、関東軍の軍事行動を容認する立場を表明。犬養内閣の登場によって、関東軍の満州軍事制圧作戦がさらに加速化していきます。

犬養毅

1932年2月29日、リットン調査団が日本にやってくると、タイミングを合わせたかのようにその翌日(3月1日)、関東軍は満州国の建国を宣言します。

あとは、調査が終わる前に日本政府が満州国と国交を結び、裏から満州国を支配することができればミッションクリアです。

・・・が、犬養毅は満州国の建国に反対していたため、日本政府は満州国を独立国家と認めず、国交を結ぼうとしませんでした。

犬養毅
犬養毅

私は、軍事力を用いて満州の権益を守ることは否定しない。

だが、満州を政治的に実効支配するやり方はダメだ。反日感情が高い満州を治めるには、巨額の軍事費が必要となり、外交面でもプラスの要素がない。

日本はこれまでどおり、満州の権益からもたらされる経済的な利益のみを享受し、必要以上に政治に介入すべきではない。

しかし、1932年5月15日、満州国に反対していた犬養毅が暗殺され(五・十五事件)、海軍出身だった斎藤実さいとうまことが首相に就任。

斎藤実

斎藤実は満州国を独立国家として承認する立場をとり、1932年7月には満州国の存在を承認。

さらに斎藤実は、外務大臣に強硬派だった内田康哉うちだこうさいを抜擢します。

7月に日本で行われた国際連盟との会談では、内田は「満州問題を解決するには満州国の承認以外なし」と強気な姿勢を貫き、8月には帝国議会で「国を焦土にしても国策を遂行する」と過激な発言をして、物議を醸しています。

斎藤内閣の登場によって日本国内でも満州国を承認する体制が整うと、1932年9月15日、内田康哉の主導によって日本は満州と国交を結び、日満議定書が交わされることになります。

一方のリットン調査団は、1932年2月以降、日本・中華民国・満州で調査を実施。その結果を1932年10月1日に国際連盟の理事会で報告しました。

つまり、日本は調査結果が出る前に満州国と日本の国交樹立に成功したのです・・・!

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リットン調査団の調査結果

では、肝心のリットン調査団の調査結果はどんな内容だったのか、見ていこうと思います。

その内容は要約すると・・・、

柳条湖事件や関東軍の満州占領は自衛行為ではない

満洲国は日本軍の傀儡かいらい国家である

と満州国のことを否定しつつも、

満洲に日本が持つ条約上の権益は認められるべき

と日本にも一定の配慮を見せたものでした。

つまり、満州国は認めない。でも、日本が満州に持つ権益のことは認めるよっていう内容でした。

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日本の外交駆け引き

リットン調査団の報告は、実は日本にとってそれほど悪い内容ではありません。

調査結果は、言い方を変えれば「満州国の独立国家という体裁さえ捨てれば、国際連盟は日本が満州の権益を持つこと公式に認めてあげるよ」ってことを言っているからです。

もぐたろう
もぐたろう

リットン調査団の報告書は、日本にとってまさに「名を捨て実を取る」内容だったんだね。

紛争を平和的に解決するため、調査結果は日本と中華民国が歩み寄れるギリギリの線でまとめられたんだ。

・・・が、日本はこの調査結果に抗議します。

先ほどの紹介した内田康哉のエピソードが示すように、日本政府は満州国という体裁にこだわり続けたのです。

国際連盟は、リットン調査団の報告書を受けて、理事会→総会と議論した上で、満州事変への対応を決定する予定でした。

ここから先、日本は国際連盟に満州国を認めさせようと交渉を始めます。

国際連盟は1932年11月に理事会、12月に総会を開きましたが、日本は「国際連盟が満州国を認めないのなら、日本は国際連盟から脱退する用意がある」と脅しながら、交渉を進めますが、これは上手くいきません。

国際連盟は、日本に対して色々と譲歩するも、満州国の存在だけはかたくなに認めなかったのです。

もぐたろう
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国際連盟の決定が強い影響力を持つのは、国際連盟に多くの強国が参加しているからです。

アジア最強の国だった日本が国際連盟を脱退することは、国際連盟の弱体化を意味します。だから、日本の国際連盟脱退は、外交カードの1つになり得たのです。

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【悲報】日本、国際連盟を脱退する

交渉が行き詰まっていた1933年2月、関東軍は中華民国と満州国の国境にある熱河省ねっかしょうを平定するため、再び中国軍と紛争が始まります。(熱河作戦)

「熱河省は満州国の一部であり、侵攻ではなく平定が目的だから、国際社会から非難されることはないだろう・・・」と考えての行動でしたが、熱河作戦は国際連盟を強く刺激しました。

もぐたろう
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日本の熱河作戦は、平和的解決を目指していた国際連盟から見れば、国際連盟を挑発・侮辱する行為に映ったんだ。

日本との交渉を諦めた国際連盟は1933年2月24日、次のような日本への勧告案を決定します。

  • 満州の主権は中華民国にあるから、満州国の存在は認めない。
  • 日本が満州の権益を持つことは認めるが、その範囲は満州事変以前のものとするから、日本軍は満鉄付近まで撤退するべき。

要するに、日本は満州事変前と同じ状況を受け入れろっていう内容です。

投票の結果は、44国が票を投じ、

賛成:42

反対:1

棄権:1

という結果となり、勧告案が採用されることになりました。

※反対の1票は日本の票ですが、先ほども説明したように『紛争当事者の意見は聞かなくてOK』というルールがあったので、結果が覆ることはありませんでした。

さらに、当初から国際連盟に対して「満州国を認めないのなら、国際連盟を脱退する」と強硬な姿勢を示していた日本は、これを有言実行。

1933年3月、日本は国際連盟を脱退しました。

アジア最強の国が脱退したことで、国際連盟の影響力は低下。後にドイツ・イタリアも国際連盟を脱退することになりますが、日本はその前例を作ることになったのです。

歓迎された国際連盟脱退・・・

紆余曲折うよきょくせつあったリットン調査団への対応ですが、世間は国際連盟脱退のニュースを歓迎の声で受け入れます。

当時の日本国内では、昭和恐慌による不景気で暗い雰囲気がただよっていたため、満州国の建国は状況を好転させる明るいニュースと捉えられていたからです。

国際連盟との交渉に当たった松岡洋右まつおかようすけは、国際連盟の勧告案に負けず最後まで満州国を守り切ったことが高く評価され、『ジュネーブの英雄』と大歓迎までされています。

※ジュネーブには、国際連盟の本拠地がありました。

もぐたろう
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この記事では関東軍とか日本政府の話しかしてないけど、国際連盟への強硬な態度や脱退決定の背景には、満州国に不景気から抜け出す希望を見出した世論の後押しもあったんだよ。

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