今回は、アヘン戦争のきっかけになった清・イギリス・インドの三角貿易についてわかりやすく丁寧に解説していくよ!
三角貿易とは?
三角貿易とは、その名のとおり三国間で行われる貿易のことを言います。
貿易の一番シンプルな形は、2国間での貿易です。
例えば、A国とB国がお互いに欲しいものを交換しあうのがシンプルな貿易の姿です。
ただ、大航海時代を経て世界のグローバル化が進むと、貿易の仕組みも複雑になって、二国間ではなく、三国間で貿易を行うことケースも登場するようになりました。
三国間の貿易は図にすると下図のような三角形になるので、三角貿易を呼ばれています。三角貿易の大きな特徴は、2国間貿易のように矢印が一方通行ではなくて、商品やお金が3国間をグルグルと循環することです。
実は、世界史を習う上で、有名な三角貿易は2つあります。
17世紀に行われるようになったヨーロッパ・アフリカ・アメリカ大陸&西インド諸島による貿易(通称:奴隷貿易)
19世紀に行われるようになったイギリス・インド・清による貿易
今回紹介するのは、後者のイギリス・インド・清による三角貿易の方になります。
イギリス「紅茶、マジうめぇww」
三角貿易の一番最初のきっかけは、18世紀後半(1700年代後半)からイギリスで空前の紅茶ブームが到来したことでした。
ブームの火付け役になったのは、同じ時期に起きたイギリスの産業革命。
18世紀後半、イギリスではさまざまな機械が発明され、綿織物を機械で大量生産することに世界で初めて成功しました。
たくさんの機械を工場で動かすようになると、機械の持ち主(資本家)たちは、機械を動かすのに必要な大量の労働者を求めるようになりました。
そして、資本家たちが多くの労働者たちを雇うようになると、当然、こんなことを考えるわけです。
せっかく賃金を払って働いてもらうんだから、やる気を出してバリバリ働いてほしいよなぁ・・・。
その解決アイテムの一つが紅茶でした。
そうだ!お昼休憩の時間に労働者たちに紅茶を飲んでもらうなんてグッドアイデアじゃね!?
紅茶は美味しくてリラックスできるし、カフェインが入ってるからスッキリ目が覚めて仕事にも精が出るに違いない!
このアイデアはイギリスで広く普及して、お昼休みに紅茶を飲むいわゆる「アフタヌーンティー」ブームが到来しました。
紅茶は、もともとイギリスの貴族たちに飲まれている飲み物でしたが、産業革命をきっかけに労働者階級(プロレタリアート)の人々にまで紅茶を飲む習慣が広がったんだ。
こうしてイギリスでは18世紀後半から、お茶っ葉の消費がグンっと増えることになります。
※同時に紅茶に入れる砂糖の消費も増えました。
当時、イギリスはお茶っ葉を中国からの輸入に依存していました。イギリスは中国に銀貨を支払ってお茶っ葉を購入していたのです。
当時は、銀貨が世界共通で使えるお金だったので、支払いには銀貨が使われることが多かったんだ。
※ちなみに、金貨をベースとする金本位制が広まるのは19世紀(1800年代)に入ってからです。
お茶の輸入が増えると、イギリスは大きな悩みを抱えることになります。
それは、下図のような二国間貿易のままお茶の輸入量が増えると、イギリスが支払う銀貨が増えて、イギリス国内の銀貨が急激に減り始めたことでした。
当時は、銀貨があればいろんなものが買えるので、国が保有する銀貨の量は国の豊かさを表すと考えられていました。
だから、「銀貨が中国へ流れる」=「イギリスが貧しくなる」とみなされ、イギリス内では大きな問題になっていたんだ。
最初は、産業革命で大量生産に成功した綿織物を中国に輸出する(中国から銀貨の支払いを受ける)ことで銀貨の流出を減らそうとしてみた。
でも、綿織物は中国の方が高品質だったからイギリス製の綿織物は全然売れずに失敗終わったんだ・・・。
銀貨の流出は減らしたいけど、やっぱりお茶もたくさんほしい。何か妙案はないものか・・・。
悩んだイギリスがたどり着いた方法こそが、実は三角貿易だったのです。
イギリス「インドのアヘンを清に売ったろw」
イギリスが注目したのは、インドで栽培・製造されていたアヘンと呼ばれる麻薬の存在でした。
当時、清でアヘンの吸引がブームになっていたことに目をつけたイギリスは、グッドアイデアを思いつきます。
そうだ!イギリスの商品がダメなら、植民地の商品を売ればいいんだ!清ではアヘンが流行ってるからインドのアヘンはめちゃくちゃ売れるに違いない!
こうしてイギリス主導で始まったのが清・インド・イギリスによる三角貿易でした。
・・・ここまでの話をまとめると、三角貿易っていうのは、「イギリスが銀貨を減らさずに清の茶を大量にゲットするため」に行われた貿易ということです。
三角貿易の仕組み
次に、三角貿易の具体的な仕組みについて説明していきます。
繰り返しですが、三角貿易の目的は「イギリスが銀貨を減らさずに清の茶を大量ゲットすること」です。
上図を見てわかるように、銀貨は、イギリスをスタート地点として見てみると、イギリス→清→インド→イギリスと巡り巡ってイギリスに戻ってきていることがわかります。
イギリスがお茶を買うために清に支払った銀貨は、清ではアヘンを買うためにインドに支払われ、さらにインドではイギリスの綿製品を買うためにイギリスに支払われます。こうして、イギリスが清に支払った銀貨は、インドを仲介してイギリスに戻ってくる・・・これが三角貿易の仕組みです。
清・インド・イギリスの三角貿易がうまく機能した理由は、大きく2つあります。
1つ目は、イギリスが中国で全然売れなかった綿製品をインドへ売りつけることに成功していたことです。
この成功によって、イギリスはお茶を買うために大量の銀貨を清へ支払っても、インドに綿製品を売ることで銀貨を回収できるようになりました。
しかし、イギリスが一方的にインドへ綿製品を売り続けると、次はインドの銀貨がいずれ枯渇してしまいます。そこで、インド自身もどこかから銀貨を稼いでくる必要がでてきます。
そこで登場する2つ目の理由が、インド産のアヘンが清でめっちゃ売れたことでした。
インドは、アヘンを清に大量に売りつけることで清から大量の銀貨をゲットし、それをイギリスの綿製品購入に充てることができました。
この2つ背景があったからこそ、銀貨がどこか一国に偏って貿易が停滞することなく、三国間をグルグルと循環するスムーズな貿易が可能になったのです。
要するに、商品やお金が3か国をグルグル循環してくれると、貿易がしやすくなるってわけだね!
三角貿易の影響【アヘン戦争が始まる】
三角貿易の結果、
イギリスには茶
インドには綿製品
清にはアヘン
が大量に持ち込まれることになりました。
さて、この中に1つだけヤバい物が紛れ込んでいますがどれでしょうか?
・・・そうです。清に大量輸入されたアヘンです。
三角貿易によって、清ではアヘン中毒で廃人が続出するようになり、大きな社会問題になりました。
しかも、アヘンの問題はその中毒性だけではありません。1800年代(19世紀)に入ると、インドから清へ輸入されるアヘンの量が急増。
すると、清ではお茶をイギリスに売ってゲットした銀貨よりも、アヘンを買うためにインドへ支払う銀貨の方が増えるように、清国内の銀貨が大きく減少し始めたのです。
先ほど紹介したように、「国が保有する銀貨の量」=「国の豊かさ」を示していたから、銀貨の減少は清でも大きな問題になったんだ。
アヘンによって廃人が増え、しかも国の富(銀貨)が流出する、この国家を揺るがす大問題に対応するため、1800年を過ぎたころから清は、アヘンの輸入禁止令を出すようになります。
・・・が、アヘンの輸入は一向に減ることはありませんでした。なぜなら、「禁止されたならバレないように取引すればいいんじゃね?w」と隠れてアヘンを取引する密貿易が増えて、アヘンの減少につながらなかったからです。
そこで、1839年、政府内でアヘン問題を担当していた林則徐という人物が、アヘン密貿易の拠点である広州に乗り込み、取り締まりを開始しました。
林則徐は、イギリス商人らに対して「今後、アヘンの取引はしない」という誓約をさせようとしますが、イギリス側がこれを拒否。
イギリスは、三角貿易のおかげ紅茶を手に入れることができていたし、アヘンを売って得たインドの利益の一部はイギリスに送られていたから、アヘンの貿易が禁止されるとイギリス経済は大ダメージを受けます。
だから、イギリスは林則徐の行為を簡単に許そうとはしませんでした。
この一件で、清とイギリスの関係は急激に悪化。1839年夏頃になると、武力で林則徐の意見を変えさせようと、イギリス軍艦による清の軍艦への砲撃事件がたびたび起こるようになり、一触即発の様相を呈してきました。
そして1839年10月、イギリス議会でもアヘン貿易を認めさせるため清国を攻撃することが決定。
その後、イギリスは清国へ軍艦を派遣。1840年にはイギリス軍艦は清国に到着し、清・イギリスの両国はアヘンの密貿易をめぐって戦争を開始することになりました。(アヘン戦争)
コメント
凄く参考になりました!感動