今回は、1932年9月に日本と満州国の間で結ばれた日満議定書について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
日満議定書とは
日満議定書とは、日本が満州国を支配することを取り決めた文書のことを言います。
※議定書っていうのは、国家間が文書で約束を決めること。協定・条約とほぼ同じ意味です。
いきなり満州国っていう国が登場したけど、一体どんな国なの?
今は存在しない国みたいだけど・・・。
満州国は1932年3月に中華民国から独立して登場した国で、日満議定書締結当時(1932年9月)はまだ出来立てホヤホヤの新国家でした。
ただし、独立と言っても自ら独立したわけではありません。裏では関東軍が糸を引いていて、関東軍は満州を独立国家にした後、国を裏から操ることで満州を支配してしまおうと企んでいたのです。
こうした関東軍の思惑によって結ばれたのが、今回紹介する日満議定書となります。
満州国ができるまで
日満議定書の話に入る前に、まずは満州国のことをおさらいしておきます。
日本は、1905年のポーツマス条約でロシアから満州の権益を譲り受けました。これが日本と満州が深い関係を持つようになったスタート地点です。
その後も日本は、満州の権益を保持し続けますが、1910年代に入ると中華民国から「満州は中華民国の領地なんだから、日本が牛耳っている鉄道とかの権益を返せよ!!」と反対の声が強まります。
こうした反発を受けて、日本は満州を守るため対策を講じる必要に迫られます。
当初は、中華民国にある北京政府に圧力をかけることで、満州の権益に文句を言わせないよう対策していました。
ところが1928年、中華民国の内紛によって北京政府が滅亡。(北伐)
日本政府は、満州の権益を守る新たな対応策を考えなければなりませんが、国内の意見をまとめることができません。
日本政府は賛否両論ある中で、この問題を外交(幣原外交)によって解決しようと考えました。
一方、満州で現地警備に当たっていた関東軍は、外交だけでは対応が生ぬるいと見て、満州を軍事的に制圧することを考え始めます。
そして1931年9月、政府の対応を見限った関東軍は、独断で満州の軍事制圧作戦を決行します。
1931年9月18日、柳条湖で満鉄が爆破される事件(柳条湖事件)が起きると、関東軍はこれを中国人の仕業だと断定。
関東軍は、正当防衛を名目に満州一帯を軍事制圧しました。(満州事変)
関東軍は、満州を軍事制圧した後、そのまま満州に日本の言いなりになる独立国家を樹立しようと考えます。
満州を支配したいのなら、そのまま植民地(日本の領地)にしちゃえば良くない?
なんで独立国家樹立なんて回りくどいことをするの?
植民地にするってことは、満州事変=侵略戦争になるってことです。
そして侵略戦争と見なされると、九カ国条約違反になるのはもちろん、中華民国や列強国から批判を受けて、日本が外交上孤立してしまうリスクが高かったんだ。だから、植民地にする案は見送られたんだよ。
満州国、建国
柳条湖事件の後、関東軍は制圧地域を拡大し、着実に満州一帯を手中に収めていきました。
1931年11月には、独立国家のトップ(元首)に置く人物を清国最後の皇帝「溥儀」にすることが決まります。
12月には、日本国内でも大きな動きがあります。
関東軍の暴走をコントロールできなかった(第二次)若槻内閣が解散に追い込まれたのです。
立憲民政党の所属だった首相の若槻禮次郎は、協調外交(幣原外交)によって満州事変を収めようと考えていたので、関東軍の行動には反対のスタンスでした。
憲政の常道のルールに従い、その若槻に代わって首相になったのが立憲政友会の犬養毅でした。
犬養毅は若槻と異なり、軍事行動について認めた上で、関東軍の行動をコントロールしようと試みます。莫大な軍事予算を支出して、関東軍の軍事作戦を後押しもしました。
もともと立憲政友会は、満州の権益を守るためには軍事行動も仕方なしという考えを持っていました。
それに加え、金輸出解禁による不景気(昭和恐慌)を終わらせるため、政府は支出を増やして金をばら撒こうとしているところでした。その支出先の1つとして満州事変への軍事費に国家予算が充てられたのです。
この軍費予算は満州占領の大きな力となり、1932年2月には満州主要都市の占領が完了しました。
占領が完了すると、1932年3月、関東軍は満州国の建国を宣言。こうして、満州国が誕生しました。
あとは、日本との国交を開き、日本の言いなりになるよう約束を結ぶ(日満議定書を締結する)ことができれば、関東軍の目的は達成です。
日満議定書の締結
しかし、日満議定書の締結は難航することになります。
なぜかというと、首相の犬養毅が満州国の建国に反対だったからです。
私は、軍事力を用いて満州の権益を守ることは否定しない。
だが、満州を政治的に実効支配するやり方はダメだ。反日感情が高い満州を治めるには、巨額の軍事費が必要となり、外交面でもプラスの要素がない。
日本はこれまでどおり、満州の権益からもたらされる経済的な利益のみを享受し、必要以上に政治に介入すべきではない。
こんな感じのことを考えていた犬養は、関東軍が勝手に建国した満州国を独立国と認めませんでした。
そして、日本が満州国を国とみなしていない以上、国交を結ぶのも不可能です。こうして日満議定書の締結は、一度頓挫することになります。
・・・が、1932年5月15日、とある大事件が起こります。
犬養毅が、海軍の青年将校に暗殺されてしまったのです・・・!(五・十五事件)
次に首相になったのは元海軍大臣の斎藤実という人物でした。満州事変や満州国をめぐって意見がバラバラな政府・政党・軍部をうまくまとめる適任者として抜擢されました。
斎藤実は、これまでの首相(若槻禮次郎・犬養毅)と違い、関東軍の意向を容認するスタンスを取ります。
つまり、日満議定書の締結にも積極的だったということです。
斎藤はまず、満州国を国として認める手続を開始します。
6月には帝国議会で満州国を日本として承認することが可決され、7月になると日本は満州を独立国家として正式に認めました。
そして1932年9月、ようやく日本と満州国の間で日満議定書が結ばれることになったのです。
日満議定書の内容
日満議定書の内容は、実にシンプルで内容は大きく2つしかありません。
日本が持つ満州の権益はこれまでどおり維持されること
(満州国の防衛を名目に)満州国に関東軍を置くこと
少しややこしいのは、日満議定書の背後で秘密裏の約束事も決められていた点です。
日満議定書はあくまで公式の約束事。公にすると不都合な約束事は、溥儀と関東軍の間で別の秘密文書として取り交わされることになりました。
具体的にどんな約束が交わされたかというと、
日本が満州の交通機関の管理を行うこと
満州国政府の要職に日本人を置くこと
などの約束が交わされました。
秘密裏に結ばれた約束の多くは、満州国への内政干渉に関する内容で、公式発表すると国際社会から「独立とか言いながら満州国は日本の属国じゃねーか!」と強く批判されかねない内容でした。
こうして日本は表と裏、2つの顔を使い分けながら満州国を日本の傀儡国家に仕立て上げました。
※傀儡:言いなりの操り人形という意味
特に日満議定書で決められた「満州国に関東軍を置くこと」というのは、満州国の軍事権が日本にあり、満州国が日本の傀儡政権であることを意味していました。
「軍事権を握られる」=「満州国は日本に逆らえない」ってことだから、実質的に満州国は日本の言いなりにならざるを得ません。
日満議定書では、あまりストレートな表現を使うと炎上するので、炎上対策として『満州国の防衛のため』やむなく関東軍を置いた・・・という体裁にしているんだよ。
満州事変の目的は、満州を日本の言いなりの独立国家にすることです。日満議定書の締結によって、その目標は達成されましたが、1932年9月以降も、満州国と中華民国の国境をめぐって戦闘が続き、満州事変は1933年5月に塘沽停戦協定が結ばれるまで続くことになります。
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