

今回は正統カリフ時代について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!ムハンマドの死後に選ばれた4人のカリフ、30年たらずで地中海からペルシアまで広がった大征服、そして今も続くシーア派・スンニ派の分裂の始まりまで、まとめて見ていこう!
📚 この記事のレベル:高校世界史
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
🎯 定期テスト・共通テスト・大学受験対応
正統カリフ時代と聞くと、ムハンマドの後を継いだ立派な指導者たちが、話し合いで穏やかにバトンをつないでいった時代——そんなイメージを持つ人が多いかもしれません。
実は、4人のカリフのうち3人までが暗殺されるという、きわめて血なまぐさい時代でした。そしてそのとき生まれた対立が、現在まで続くシーア派とスンニ派の分裂につながっていきます。
この記事では、正統カリフとは何か、4代のカリフがそれぞれ何をしたのか、そしてなぜイスラーム世界が二つに分かれたのかを、順を追って解説していきます。
正統カリフ時代とは?
- 正統カリフ時代とは、632年から661年まで続いたイスラーム共同体の最初の時代
- 指導者であるカリフは、血筋の世襲ではなく有力者たちの話し合いで選ばれた
- 「正統」と呼ばれる一方で、4人のうち3人が暗殺される内乱の時代でもあった
正統カリフ時代とは、イスラーム教の預言者ムハンマドが亡くなった632年から、第4代カリフのアリーが暗殺される661年までの29年間を指します。
この時代のイスラーム共同体(ウンマ)を率いたのが、カリフと呼ばれる指導者たちです。カリフはアラビア語の「ハリーファ」に由来する言葉で、「後継者」「代理人」を意味します。
最大の特徴は、カリフが世襲ではなく、有力者たちのシューラー(合議・協議)によって選ばれたことです。
この4人は、のちのスンニ派のイスラーム教徒から「正しく導かれた者たち」——アラビア語でラーシドゥーンと呼ばれ、模範とされました。日本語の「正統カリフ」はこの呼び名を訳したものです。

テスト前なんだけど、そもそもカリフって何? 王様みたいなものなの?

王様とはちょっと違うんだ。カリフは「ムハンマドの代理人」であって、新しい預言者じゃない。神から新しい言葉を授かる立場ではなくて、ムハンマドが残した教えを守りながら共同体をまとめる、政治と軍事のリーダー——ってイメージが近いよ。だから血筋よりも「誰がふさわしいか」で選ばれたんだね。

ただ、「話し合いで選ぶ」といっても、選び方は毎回バラバラだったんだ。初代は緊急会議での推挙、2代目は前任者の指名、3代目は6人の合議、4代目は都の人たちの推挙。「これが正式な手続き」というルールが決まっていなかったことが、あとで大きな火種になっていくよ。
では、そもそもなぜ後継者を決めることが、これほどの難題になったのでしょうか。次の章では、632年の混乱から見ていきます。
ムハンマドの死と後継者問題
632年、イスラーム教の預言者ムハンマドが、メディナで亡くなりました。622年にメッカからメディナへ移住(ヒジュラ)してから、まだ10年ほどしかたっていません。
生まれたばかりの共同体にとって、指導者の死は存亡にかかわる出来事でした。しかもムハンマドは、後継者を明確に指名しないまま世を去ったとされています。
後継者をどう決めるか。当時の人々の考えは、大きく二つに分かれました。
立場①:話し合いで、もっともふさわしい人物を選ぶべきだ
アラブ社会では、部族の長は血筋だけでなく実力と人望で選ぶのが一般的でした。ムハンマドとともに苦難を歩んだ古参の信者たち(教友)の多くは、この考え方を支持したとされます。のちのスンニ派につながる立場です。
立場②:ムハンマドの血縁者が継ぐべきだ
一方で、預言者の家族こそが共同体を導くべきだと考える人々もいました。彼らが推したのが、ムハンマドのいとこであり娘婿でもあったアリーです。のちのシーア派につながる立場になります。

ムハンマドさんには、跡継ぎになる子どもはいなかったの?

男の子は幼くして亡くなったと伝えられていて、成人したのは娘だけだったんだ。だから「血筋で継ぐ」なら、娘ファーティマの夫であるアリーが最有力になる。でも当時のアラブ社会の常識では、リーダーは実力と人望で選ぶもの。この二つの常識が正面からぶつかったのが、後継者問題なんだよ。
ムハンマドの死の直後、メディナのサキーファ(バヌー=サーイダ家の屋根つき集会所)に有力者たちが集まり、緊急の会議が開かれたとされます。ここで初代カリフに選ばれたのが、ムハンマドの古くからの盟友アブー=バクルでした。
ところがアリーを推す人々は、この会議に加わっていなかったと伝えられています。最初の一歩からすでに、火種はくすぶっていたのです。

さっき出てきたシューラーっていうのは、有力者が集まって話し合って決めること。今でいえば「取締役会」に近いかな。全員が1票ずつ持つ選挙とは違って、影響力のある人たちが集まって合意をつくるイメージだよ。だから「誰を呼ぶか」で結論が変わってしまうんだ。
こうして選ばれた初代カリフを待っていたのは、崩れかけた共同体の立て直しでした。
初代カリフ・アブー=バクル
初代カリフとなったアブー=バクルは、ムハンマドがまだ迫害を受けていた時代からの最初期の信者であり、娘のアーイシャをムハンマドに嫁がせた盟友でもありました。
在位は632年から634年までの、わずか2年ほどです。しかしこの短い期間に、彼はイスラーム共同体を消滅の危機から救っています。
ムハンマドの死が伝わると、アラビア半島各地の部族が次々と離反しはじめました。彼らの多くは、ムハンマド個人と契約を結んだつもりでおり、その死とともに義務も消えたと考えたとされます。なかには自ら預言者を名乗る人物まで現れました。
アブー=バクルはこれを一切認めず、離反した部族を武力で従わせていきます。これがリッダ戦争(背教者戦争・632〜633年ごろ)です。
この戦いによってアラビア半島はふたたび一つにまとまりました。同時に、統一で行き場を失った戦士たちの矛先が、半島の外——シリアやイラクへ向かう下地もできあがります。

初代なのに、2年で亡くなっちゃうの? なんだかあっけないな…。

そうなんだ。アブー=バクルはカリフになった時点ですでに高齢だったとされていて、634年に病気で亡くなっている。ただ注目してほしいのは、4人のカリフのなかで、暗殺されずに寿命をまっとうしたのはこの人だけだということ。ここから先は、みんな刃に倒れていくんだ。

それと、アブー=バクルは亡くなる前に、次のカリフをウマルに決めて周囲に伝えたと言われているんだ。「話し合いで選ぶ」はずの制度なのに、2代目はいきなり前任者の指名。制度がまだ固まっていなかったことが、ここからもよくわかるよね。
こうして第2代カリフとなったウマルのもとで、イスラーム世界は歴史上まれに見る拡大期を迎えます。
第2代カリフ・ウマルと大征服
第2代カリフウマル(ウマル1世)の在位は、634年から644年までの10年間です。この10年のあいだに、イスラーム勢力の版図はアラビア半島から地中海沿岸・イラン高原へと一気に広がりました。

拡大を支えたのがジハードの名のもとに行われた征服戦争です。主な戦いを三つ確認しておきましょう。
①ヤルムークの戦い(636年)——シリアを奪う
現在のシリア・ヨルダン国境付近を流れるヤルムーク川のほとりで、イスラーム軍はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の大軍を破りました。これによってシリアはイスラーム勢力のものとなります。なお、両軍の兵力については史料によって差が大きく、諸説あります。
②カーディシーヤの戦い(636〜637年ごろ)——イラクへ進出
東方の相手はサーサーン朝ペルシアでした。イスラーム軍はその主力を破り、まもなく首都クテシフォンを陥落させています。年代については史料によって1年ほどのずれがあり、諸説あります。
③ニハーヴァンドの戦い(642年)——サーサーン朝の抵抗が終わる
イラン高原での決戦にも勝利し、サーサーン朝の組織的な抵抗は終わりました。王朝そのものも651年ごろに滅んだとされています。ペルシアがこのあとどのようにイスラーム化していったのかは、イランの歴史で流れをたどれます。
西方でも進撃は続き、638年ごろにはエルサレムが開城しました。このときウマルは、住民の生命・財産・信仰を保障する「アマン(安全の保障)」を与えたと伝えられています。さらに641〜642年ごろにはエジプトも支配下に入りました。

たった十数年で、そんなに広がるものなの? 何か特別な強さがあったのかしら。

イスラーム軍が強かったのもあるけど、それ以上に相手側の事情が大きいんだ。ビザンツ帝国とサーサーン朝は、602年から628年まで20年以上も互いに大戦争をして、どちらもへとへとだった。重い戦費のせいで住民の不満もたまっていたんだよ。
🌏 このころ日本では:ウマルがニハーヴァンドでサーサーン朝を破った642年の3年後、645年に大化の改新が始まっています。西アジアで巨大なイスラーム勢力が誕生したのと、ほぼ同じ時期の出来事です。世界史と日本史を並べて覚えておくと、時代感覚がつかみやすくなります。

ところがそのウマルも、644年にメディナのモスクで礼拝中に刺されて亡くなってしまうんだ。犯人はペルシア出身の奴隷だったと伝えられている。冒頭で話した「3人が暗殺された」——その1人目がこのウマルだよ。
急激に広がった領土をどう治め、その富をどう分けるのか。この難題が、次のカリフに重くのしかかることになります。
第3代カリフ・ウスマーンとクルアーン編纂
ウマルは死の間際、後継者選びを6人の有力者による合議体に委ねたとされます。そこで選ばれたのが、第3代カリフウスマーンでした。在位は644年から656年までの12年間になります。

ウスマーン最大の業績とされるのが、クルアーン(コーラン)の編纂事業です。
ムハンマドが受けた啓示は、当初からまとまった一冊の書物だったわけではありません。人々の記憶や、羊皮紙・骨・葉などに書き留められた断片として、あちこちに散らばっていたとされます。
ところが大征服によって信者が急増すると、地域ごとに読み方の違いが生まれはじめました。神の言葉であるはずのクルアーンが、土地によって違う——これは共同体にとって深刻な問題です。
そこでウスマーンは650年ごろ、公式の定本を作らせました。写しを各地へ送り、それ以外の写本は処分させたと伝えられています。これがいわゆるウスマーン版クルアーンで、現在のクルアーンの原型とされています。

イスラーム教では、クルアーンは神の言葉そのもの。だから「どれが正しい本文なのか」がバラバラだと、信仰の土台ごと揺らいでしまうんだ。地味に見えて、いちばん長く効いた仕事かもしれないね。650年ごろの編纂から1300年以上たった今も、世界中のクルアーンはこの流れを受け継いでいるよ。
一方でウスマーンには、強い批判もつきまといました。彼はメッカの名門ウマイヤ家の出身で、各地の総督に自分の一族を次々と登用したとされます。
征服で得た巨額の富をどう分けるかという不満も、これに重なりました。「一族だけが得をしているのではないか」という声が、エジプトやイラクの兵士たちのあいだに広がっていきます。
そして656年、メディナへ押しかけた反乱者たちによって、ウスマーンは自宅で殺害されました。カリフが同じ信徒の手で殺されるという、共同体にとって前代未聞の事件でした。
この暗殺が、イスラーム共同体をまっぷたつに割る内乱の引き金となります。
第4代カリフ・アリーと内乱
第4代カリフとなったのが、ムハンマドの従弟であり、娘ファーティマの夫でもあったアリーです。在位は656年から661年までの5年間でした。
預言者の血縁にもっとも近い人物が、ついにカリフの座に就く。彼を推し続けてきた人々にとっては、24年越しの悲願がかなった瞬間でした(632年のムハンマドの死から656年まで)。
しかしアリーは、ウスマーン暗殺の犯人をすぐには処罰しませんでした。反乱者の多くが自分の支持者でもあったからだと言われています。ここから「アリーは暗殺を黙認したのではないか」という疑いが生まれ、共同体は割れていきます。
まず656年、ムハンマドの妻アーイシャらがアリーに兵を向け、ラクダの戦いが起こりました。イスラーム教徒どうしが本格的に戦った最初の内乱で、この一連の争いはフィトナ(内乱・試練)と呼ばれます。
さらに657年には、シリア総督ムアーウィヤとのあいだでスィッフィーンの戦いが起こります。ムアーウィヤはウスマーンと同じウマイヤ家の一族で、殺害犯の処罰を求めてアリーに従いませんでした。
戦いの決着はつかず、両者は話し合い(仲裁)による解決を選びます。ところがこの決断が、アリー陣営をさらに割ってしまいました。「神が決めるべきことを、人間の話し合いで決めるのか」と怒った一派が離脱したのです。彼らはハワーリジュ派(=出ていった者たち)と呼ばれます。
そして661年、アリーはイラクのクーファでハワーリジュ派の一員に襲われ、命を落としました。

ウマル、ウスマーン、そしてアリー。4人のカリフのうち3人が暗殺されたことになる。「正しく導かれたカリフたち」と呼ばれる時代の実態は、後継者をめぐって血が流れ続けた632年から661年の29年間だったんだ。
📌 立場によって評価が変わる:アリーの評価は、のちのシーア派とスンニ派で大きく異なります。シーア派はアリーを「ムハンマドが定めた正統な後継者」とし、初代から第3代までのカリフを正統と認めない立場をとります。一方スンニ派は4人全員を正統なカリフと認めます。同じ出来事でも、どちらの立場から語るかで見え方が変わる点に注意が必要です。

アリーさんが亡くなったあとは、どうなったの?

シリアで力を蓄えていたムアーウィヤが、そのままカリフの座に就くんだ。661年のことだよ。しかも彼は自分の息子を次のカリフに指名して、カリフ位を一族で受け継ぐ王朝——ウマイヤ朝を開いた。「話し合いで選ぶ」という建前はここで終わり、正統カリフ時代も幕を閉じるんだ。
こうして正統カリフ時代は29年間で終わりを迎えます。次の章では、この時代を支えた統治システムを整理します。
正統カリフ時代の統治システム
29年という短さで、アラビア半島の一地方勢力は大帝国へと姿を変えました。では、その巨大な共同体はどんな仕組みで動いていたのでしょうか。
ここでは「①だれが指導者を選ぶのか」「②富をどう分けるのか」「③土地をどう治めるのか」という3つの柱で整理していきます。
①指導者の選び方——シューラー(合議)
カリフは血統ではなく、共同体の有力者たちの話し合いで選ばれる。これが正統カリフ時代の建前でした。
ところが実際の選ばれ方は、4代ともバラバラです。初代は集会での合意、第2代は前任者の指名、第3代は6人の合議体による選出、第4代は支持者たちの推戴によってカリフとなりました。
つまり「合議で選ぶ」という理念はあっても、だれが・どんな手順で決めるのかを定めた明文の規則はなかったのです。
②富の分け方——ディーワーン(俸給台帳)
征服が進むと、膨大な戦利品と税収が共同体に流れ込みました。これをどう分けるかを決めたのが、第2代ウマルが在位中に整えたとされるディーワーンという制度です。設置された年代は636年ごろとも640年ごろとも言われ、諸説あります。
ディーワーンは、戦士やその家族を登録した台帳のことです。登録された人には、アターと呼ばれる年金のような給付が支給されました。
金額は横並びではありません。ムハンマドとの血縁の近さ、イスラーム教に入信した時期の早さ、従軍の功績などによって差がつけられたと伝えられています。

ディーワーンっていうのは、今でいう「国の給与台帳+年金の名簿」みたいなもの。だれにいくら払うかが名簿で決まるから、序列がそのまま数字で見えちゃうんだよね。これがのちのち、不満の火種にもなっていくんだ。
③土地の治め方——総督と軍営都市
征服した各地には、アミールと呼ばれる総督が置かれました。徴税と軍の指揮を担う、地方統治の責任者です。
特徴的なのは、アラブ人の兵士たちを現地社会に住まわせなかった点です。彼らはミスルと呼ばれる軍営都市に集められました。イラクのバスラ・クーファ、エジプトのフスタートなどが代表例です。
税の仕組みも整えられていきます。征服地の非ムスリムは、ジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)を納めることで、それまでの信仰と生活を認められました。改宗を強制するより、税を納めてもらうほうが共同体の収入になったからだとも言われています。

ちゃんと制度も作っていたのね。それなのに、どうして結局もめて分裂しちゃったのかしら?

弱点が2つあったんだ。1つは、後継者の決め方にルールがなかったこと。だから毎回「今回の選び方は正しかったのか」でモメる。もう1つは、富の分け方が不公平に見えたこと。名簿で額が決まるぶん、「なぜあの一族ばかり」という不満が数字で見えてしまったんだよ。
この2つの弱点が生んだ亀裂は、正統カリフ時代が終わったあとも消えませんでした。次の章では、その亀裂が現代にまでどうつながっているのかを見ていきます。
後世への影響——シーア派・スンニ派分裂と現代のカリフ制
正統カリフ時代の内乱は、単なる昔話では終わりませんでした。このときの対立が、イスラーム世界を二つに分ける宗派の起点になったとされているからです。

アリーを支持した人々は「シーア・アリー(アリーの党派)」と呼ばれました。この「シーア」という言葉が、そのまま宗派の名前になっていきます。
彼らは、共同体を導く資格があるのはムハンマドの血を引くアリーとその子孫だけだと考えました。この立場の違いが、のちのシーア派・スンニ派という二大宗派へと発展していきます。ただしこの時点では、まだアリーを支持するかどうかという政治的な立場の差にとどまり、両派が明確な教義をもつ宗派として形を整えるのは8世紀以降のこととされています。
決定的だったとされるのが、680年のカルバラーの戦いです。アリーの子フサインが、ウマイヤ朝の軍に包囲されて命を落としました。この悲劇は、シーア派にとって今も追悼される最大の記憶となっています。
一方のスンニ派は、預言者の慣行(スンナ)と共同体の合意を重んじる立場をとります。4代のカリフ全員を正統な後継者と認め、現在ではイスラーム教徒の多数派を占めるとされています。両派の教義や現在の分布は、シーア派とスンニ派の違いをまとめた記事でくわしく解説しています。

ニュースで見る宗派の対立って、ここが始まりだったんだ…。

ただ、今の対立をぜんぶ7世紀のせいにするのは言いすぎなんだ。宗派の違いが政治や国どうしの争いと結びついたのは、ずっとあとの時代のこと。「起点はここにある、でも現代の対立は現代の事情で動いている」——このセットで覚えておくと見方を間違えにくいよ。
もうひとつ、正統カリフ時代が残した大きな遺産が「土地」です。第2代ウマルが開城させたエルサレムは、以後長くイスラーム勢力の支配下に置かれました。
この聖地の奪還を掲げて11世紀末に始まるのが十字軍です。さらに時代が下ってからのエルサレムをめぐる歩みは、イスラエルの歴史へとつながっていきます。
📌 通説に注意:教科書などでは「オスマン帝国のスルタンがカリフの位を受け継ぎ、スルタン=カリフ制が成立した」と説明されることがあります。ただし近年の研究では、この説明は18世紀以降に整えられたもので、当時からそう考えられていたわけではないという見方も有力です。断定せず「そう説明されてきた」と押さえておくのが安全です。
カリフという地位は、王朝が代わりながらも長く受け継がれました。しかし1924年、トルコ大国民議会がカリフ制の廃止を決定します。632年にムハンマドの後継者としてカリフが生まれてから、1292年後のことでした。
これによって、イスラーム世界には全体を代表する指導者がいない状態が生まれました。「だれが共同体をまとめるのか」という正統カリフ時代からの問いは、いまも答えが出ていないともいえます。
その空白を利用したのが、2014年に「カリフ制の復活」を宣言したイスラム国(IS)でした。1924年の廃止から90年後のことです。
もっとも、この宣言を正統なカリフ制と認める国や主要なイスラーム法学者はほとんどおらず、国際的な承認も得られていません。歴史用語としての「カリフ」と、現代の政治的な主張としての「カリフ」は、はっきり区別して理解する必要があります。

たった29年の時代なのに、そこで生まれた「だれが後を継ぐのか」という問いは、いまだに答えが出ていないんだ。正統カリフ時代がテストによく出るのは、暗記事項が多いからじゃなくて、ここが世界史の分岐点だからだよ。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 混同注意:いちばん間違えやすいのが第2代ウマルと第3代ウスマーンの順番です。頭文字を「ア・ウ・ウ・ア」と並べて、真ん中の2人がウマル→ウスマーンだと確認しておきましょう。もう1つ、ウスマーンと対立相手ムアーウィヤはどちらもウマイヤ家の出身です。この関係を押さえておくと、内乱の構図を論述でも説明しやすくなります。

覚えることが多いなあ…。もし1つだけ覚えるとしたら、どこ?

迷わず4代の順番だね。順番さえ頭に入っていれば、「大征服=2番目」「クルアーン=3番目」「シーア派=4番目」と、業績をあとから引っかけられる。順番が土台で、そこに業績をぶら下げていくイメージだよ。
正統カリフ時代の理解を深めるおすすめ本

正統カリフ時代から、そのあとのイスラーム史全体まで通して知りたい人におすすめの1冊を紹介するよ!
正統カリフ時代(632〜661年)だけを単独で扱う一般向け入門書は少なく、ここでは正統カリフ時代からウマイヤ朝・アッバース朝を経て現代にいたるまでの1400年を1冊で見渡せる定番書を紹介します。カレン・アームストロングによる『イスラームの歴史 1400年の軌跡』(中公新書)は、宗教史・思想史の視点からイスラーム世界の成り立ちを描いた入門書として版を重ねています。
正統カリフ時代だけでなく、そのあとウマイヤ朝・アッバース朝を経て現代にいたるイスラーム史の全体像を通して押さえたい人。宗教史・思想史の視点からの解説も読みたい人。
正統カリフ時代の29年間だけをピンポイントで深掘りしたい人には、扱う年代が広い分、この時代への配分はやや薄めに感じられるかもしれません。
よくある質問(FAQ)
ムハンマドが亡くなった632年から661年までの29年間、4代のカリフがイスラーム共同体を率いた時代のことです。カリフが血統ではなく合議によって選ばれたとされることから、のちのスンニ派によって「正しく導かれたカリフたち」=正統カリフと呼ばれるようになりました。ただしシーア派はこの呼び方を採りません。
4人です。アブー=バクル → ウマル → ウスマーン → アリーの順に立ちました。アブー=バクルはアラビア半島の再統一、ウマルは大征服、ウスマーンはクルアーンの編纂、アリーは内乱への対応がそれぞれの代表的な出来事です。
共同体の指導者を「だれが継ぐべきか」で意見が割れたためです。ムハンマドの血を引くアリーとその子孫だけが正統だと考えた人々がシーア派の源流となり、預言者の慣行と共同体の合意を重んじる立場がスンニ派になりました。680年のカルバラーの戦いでアリーの子フサインが命を落としたことで、両者の隔たりは決定的になったとされています。
アラビア語で「努力する」「奮闘する」を意味する言葉で、日本語では「聖戦」と訳されることが多い用語です。本来は信仰を守るためのあらゆる努力を指し、自分の欲望と戦う内面的な努力も含むとされます。正統カリフ時代の征服戦争は、このジハードの一形態として位置づけられました。
第3代カリフウスマーンの時代、650年ごろに公式の定本がつくられたとされています。大征服で信者が各地に広がり、地域ごとに読み方の違いが生じたことがきっかけでした。このとき定められた本文は「ウスマーン版クルアーン」と呼ばれ、現在のクルアーンの原型とされています。
大きな理由は、相手となったビザンツ帝国とサーサーン朝が長期の戦争で疲弊していたことだとされています。重い戦費が住民の不満を招いていたことも、征服が受け入れられやすかった一因と考えられています。加えて、征服地の非ムスリムに改宗を強制せず、税を納めれば信仰を認めるという方針も支配の安定に役立ちました。
直接の連続性はありません。カリフ制は1924年にトルコ大国民議会によって廃止されており、2014年にISが掲げた「カリフ制の復活」は、その名称と歴史的な権威を利用した政治的主張です。この宣言を正統と認める国や主要なイスラーム法学者はほとんどおらず、国際的な承認も得られていません。
まとめ
正統カリフ時代は、632年から661年までの29年間です。アブー=バクル・ウマル・ウスマーン・アリーという4代のカリフが、ムハンマドの後を継いで共同体を率いました。
この短い期間に、イスラーム勢力はシリア・エジプト・イランへと版図を広げ、クルアーンの定本を整え、ディーワーンという統治の仕組みをつくり上げています。
その一方で、後継者の決め方に明文の規則がなかったことから内乱が続き、4人のうち3人が暗殺されました。そこで生まれた亀裂が、シーア派とスンニ派という二大宗派の分かれ目になっていきます。
「正しく導かれた」と呼ばれる時代の実像は、理想と現実がせめぎ合った波乱の29年間だったのです。

以上、正統カリフ時代のまとめでした。この時代の前後や、分裂したあとの流れも知りたい人は、下の記事もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年8月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』
山川出版社『詳説世界史』
コトバンク「正統カリフ」「カリフ」「ジハード」「カーディシーヤの戦い」「ヤルムークの戦い」「アミール」(日本大百科全書・世界大百科事典)(2026年8月確認)
Wikipedia日本語版「正統カリフ」「アブー・バクル」「ウマル・イブン・ハッターブ」「ウスマーン・イブン・アッファーン」「アリー・イブン・アビー・ターリブ」「ディーワーン」「啓典の民」「クルアーン」(2026年8月確認)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
Amazonのアソシエイトとして、まなれきドットコムは適格販売により収入を得ています。





