

今回はイスラエルの歴史について、古代のダビデ王から2023年のガザ戦争まで、わかりやすく丁寧に解説していくよ!ニュースで毎日のように出てくる「イスラエルとパレスチナの対立」の根っこが、スッキリ理解できるはずだよ。
📚 この記事のレベル:高校世界史B / 山川出版『詳説世界史』準拠
🎯 共通テスト・大学受験対応 / 社会人の学び直しにも
「なぜイスラエルとパレスチナは、何十年もこんなに争い続けているの?」と疑問に思う人は多いと思います。
実は、今の対立は100年以上前にイギリスがやらかした「同じ土地を3つの相手に約束してしまった」という、信じられない出来事が大きな出発点になっています。これが世界史で習う三枚舌外交です。
1枚の土地に対して3つの口約束。まさに「同じ部屋を3人に又貸しした」ような状態になり、その矛盾が今もなお火種として残り続けているのです。この記事では、その経緯を古代のダビデ王から2023年のガザ戦争まで、時系列でわかりやすく解説していきます。
- イスラエルってどんな国?3行でわかる基本情報
- 古代イスラエルの歴史——ダビデ王からディアスポラまで
- なぜイスラエルは建国されたのか?シオニズム運動の始まり
- 三枚舌外交——イギリスが生んだ矛盾の種
- ホロコーストとパレスチナ分割決議(1947年)
- イスラエル建国(1948年)と第一次中東戦争
- 四度にわたる中東戦争——アラブVSイスラエルの戦い
- PLOとオスロ合意——和平への試みと挫折
- ハマスの台頭と2023年ガザ戦争
- ガザ侵攻の激化と中東全域への波及(2024年)
- 停戦合意と現在進行形の和平(2025〜2026年)
- イスラエルの歴史をさらに深く知りたい人へ
- テストに出るポイント(共通テスト・世界史B対応)
- よくある質問(FAQ)
- イスラエルの歴史まとめ
イスラエルってどんな国?3行でわかる基本情報
- ユダヤ人が約2000年ぶりに建国した中東の国(1948年建国)
- ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地エルサレムをめぐる対立が続く
- 4度の中東戦争・パレスチナ問題・ハマスとの紛争が現在も続いている
イスラエルは、地中海の東岸(中東のパレスチナ地方)に位置する国です。人口は約950万人、面積は日本の四国ほどの小さな国ですが、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3つの宗教の聖地エルサレムを抱える、世界でもっとも注目される国の1つです。
公用語はヘブライ語。住民の多くはユダヤ人ですが、国内や周辺地域にはパレスチナ人(アラブ系の住民)も数多く暮らしています。ニュースでよく聞くガザ地区とヨルダン川西岸は、このパレスチナ人が多く住む地域です。

ニュースでよく「ガザ地区」って聞くけど、それってイスラエルの中なの?外なの?

いい質問だね!ガザ地区はイスラエルの南西、地中海に面した細長いエリア。ヨルダン川西岸は東側の内陸にあるよ。どちらもパレスチナ人が自治する地域で、「イスラエルでもなく独立国家でもない」という宙ぶらりんな立場なんだ。この2つの地域の帰属をめぐる争いこそが、いわゆるパレスチナ問題なんだよ。
「ユダヤ人の国がなぜここに作られたのか?」を理解するには、実は3000年前の古代までさかのぼる必要があります。次の章では、すべての出発点となる古代イスラエルの物語から見ていきましょう。
古代イスラエルの歴史——ダビデ王からディアスポラまで
今から約3000年前。地中海の東岸にあるカナンの地(現在のパレスチナ)に、ユダヤ人(古代ヘブライ人)の王国が生まれました。それを率いたのが、聖書にも登場する英雄ダビデ王です。
ダビデ王はエルサレムを都と定め、その子ソロモン王の時代にイスラエル王国は最盛期を迎えました。ソロモン王はエルサレムに壮大な神殿(ソロモン神殿)を建て、ユダヤ教の中心地としたのです。

この地こそ、神が我ら民に与えたもうた約束の土地だ。エルサレムを都とし、イスラエルを栄えさせよう!

しかし、ソロモン王の死後、王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまいます。やがて北はアッシリアに、南は新バビロニアに滅ぼされました。とくに前587〜586年ごろ(諸説あり)、新バビロニアによって多くのユダヤ人がバビロンへ連れ去られた出来事をバビロン捕囚といいます。
その後ユダヤ人はいったん故郷に帰還しますが、紀元前後にはこの地はローマ帝国の支配下に入ります。ローマの圧政に対してユダヤ人は反乱(ユダヤ戦争)を起こしますが、70年に鎮圧され、エルサレム神殿は徹底的に破壊されてしまいました。
神殿を失い、ローマに敗れたユダヤ人は、故郷を離れて世界各地に散らばっていきました。これがディアスポラ(離散)です。それでもユダヤ人たちは、ユダヤ教の信仰と「いつか必ず約束の地エルサレムに帰る」という強い思いを、約2000年ものあいだ世界中で持ち続けました。この「帰りたい」という2000年越しの思いが、のちのイスラエル建国へとつながっていくのです。
📝 ディアスポラとは、ユダヤ人が故郷を追われて世界各地に散らばったことを指す言葉(ギリシャ語で「散らばること」の意味)。
では、世界中に散らばったユダヤ人は、なぜ19世紀末になって突然「国を作ろう」と動き出したのでしょうか。次の章では、その引き金となったシオニズム運動を見ていきます。
なぜイスラエルは建国されたのか?シオニズム運動の始まり
世界各地に散らばったユダヤ人は、行く先々で差別や迫害を受け続けました。とくに19世紀のヨーロッパでは、ユダヤ人を集団で襲撃するポグロムと呼ばれる迫害が各地で起こります。「どこの国に住んでも、自分たちは結局よそ者扱いされ、命まで脅かされる」——そんな絶望感がユダヤ人社会に広がっていきました。
その象徴的な事件が、1894年にフランスで起きたドレフュス事件です。ユダヤ人の軍人ドレフュスが、無実の罪でスパイに仕立て上げられたこの事件は、「自由・平等の国フランスでさえ、ユダヤ人はこれほど差別される」という現実を突きつけました。
この事件を取材していた1人のユダヤ人ジャーナリストが、大きな決意をします。それがテオドール・ヘルツルでした。


ユダヤ人が安全に暮らせる国を、自分たちの手で作るしかない!ヨーロッパのどこにいても、我々は永遠に「よそ者」扱いされるんだ。ならば、先祖の地に自分たちの国家を築こうじゃないか。
📝 シオニズムとは、ユダヤ人が先祖の地パレスチナ(シオンの丘=エルサレム)に帰還して国家を建設しようとする民族運動のこと。「シオン」はエルサレムの丘の名前です。
ヘルツルは1897年、スイスのバーゼルで第1回シオニスト会議を開きます。ここで「パレスチナにユダヤ人の国家を建設する」という目標が正式に掲げられ、シオニズム運動が本格的にスタートしました。これをきっかけに、ヨーロッパ各地のユダヤ人が少しずつパレスチナへ移住し始めます。
ただし、ここで大きな問題がありました。当時のパレスチナは無人の荒野だったわけではなく、すでに多くのアラブ人(パレスチナ人)が暮らしていたのです。「2000年前に住んでいたから戻る」というユダヤ人と、「今ここに住んでいる」というアラブ人。この食い違いが、のちの深刻な対立の種になっていきます。

シオニズムって、テストにはどう出るんですか?

共通テストや世界史Bでは「シオニズム=ユダヤ人国家建設運動」「提唱者=ヘルツル」「1897年」のセットがよく問われるよ。バルフォア宣言(1917年)とセットで出ることも多いから、流れで覚えておくのがオススメだよ!
そして第一次世界大戦が始まると、このユダヤ人の移住問題に、イギリスの身勝手な外交が絡みついてきます。次の章では、対立をいっそう複雑にした「三枚舌外交」を見ていきましょう。
三枚舌外交——イギリスが生んだ矛盾の種
第一次世界大戦(1914〜1918年)のさなか、イギリスは敵国であるオスマン帝国を倒すため、なりふりかまわぬ外交を展開します。その結果、同じパレスチナの土地について、3つの相手にそれぞれ違う約束をしてしまったのです。これが世界史で悪名高い三枚舌外交です。
約束①:フサイン=マクマホン協定(1915年)——アラブ人に独立国家の建設を約束
約束②:サイクス=ピコ協定(1916年)——英・仏・露でオスマン帝国領を山分けする密約
約束③:バルフォア宣言(1917年)——ユダヤ人にパレスチナでの「民族的郷土」設立を約束
順番に見てみましょう。①のフサイン=マクマホン協定では、イギリスはアラブ人に「オスマン帝国に対して反乱を起こしてくれたら、戦後にアラブ人の独立国家を認める」と約束しました。アラブ人は実際に立ち上がり、オスマン帝国と戦います。
ところが裏では、②のサイクス=ピコ協定で、イギリスはフランス・ロシアと「オスマン帝国の領土を3国で山分けしよう」という秘密協定を結んでいました。アラブ人に「独立させる」と言いながら、実際は自分たちで分割するつもりだったのです。
そしてとどめが③のバルフォア宣言。イギリスの外相バルフォアが、ユダヤ系の有力者ロスチャイルドに宛てた書簡で「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を樹立することに賛成する」と表明しました。戦争への協力とユダヤ系資本家の支援が欲しかったイギリスの思惑がありました。


バルフォア宣言って、イギリスがユダヤ人にパレスチナを「あげます」って言ったってこと?でもそこにはアラブ人が住んでたんでしょ……。

そこが矛盾のポイントなんだ。宣言には一応「既存の非ユダヤ人住民の権利を侵害しない」という但し書きもあったよ。でも実際にはユダヤ人の入植が進み、アラブ人とのあいだで土地をめぐる衝突が激しくなっていった。今でいうと「同じマンションの一室を、不動産屋が3組の客に売ってしまった」ようなもの。3組とも「ここは自分の部屋だ」と主張するから、もめないわけがないよね。
この三枚舌外交が、イスラエルとパレスチナの対立の最大の遠因になりました。そしてこの矛盾を一気に爆発させたのが、第二次世界大戦中に起きたある悲劇です。次の章では、ホロコーストとパレスチナ分割決議を見ていきましょう。
ホロコーストとパレスチナ分割決議(1947年)
1930年代、ドイツでヒトラー率いるナチスが政権を握ると、ユダヤ人への迫害は想像を絶するレベルにエスカレートします。第二次世界大戦のなかで行われたユダヤ人の大量虐殺——それがホロコーストです。犠牲者は約600万人にのぼったとされています。
戦争が終わると、生き残ったユダヤ人たちの多くは行き場を失っていました。「ユダヤ人を守る国がどこにもなかったから、これほどの悲劇が起きた」——この反省から、「ユダヤ人自身の国が必要だ」という国際世論が一気に高まります。シオニズム運動は、ホロコーストを背景に強力な追い風を得たのです。

ホロコーストとイスラエル建国って、どうつながってるんですか?

ホロコーストへの同情から「ユダヤ人の国を認めよう」という空気が世界に広がったんだ。行き場のないユダヤ人難民が大量にパレスチナへ向かったこともあって、国連が動き出すことになる。テストでは「ホロコースト→国際世論の同情→国連分割決議→建国」という因果の流れがよく狙われるよ!
そして1947年、発足したばかりの国際連合がパレスチナ分割決議(国連総会決議181号)を可決します。パレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分け、エルサレムは国際管理にするという内容でした。
📝 国連総会決議181号(1947年)は、パレスチナをユダヤ人国家・アラブ人国家・エルサレム国際管理地区に分割する案でした。パレスチナ全土の約56.5%がユダヤ人国家に、約43.5%がアラブ人国家に割り当てられましたが、当時のパレスチナの人口の約3分の2はアラブ人。アラブ側が「不公平だ」と猛反発したのも当然でした。

(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)
ユダヤ人側はこの決議を受け入れましたが、アラブ諸国とパレスチナのアラブ人は強く反発し、決議を拒否しました。両者の対立が頂点に達するなか、ついに歴史的な日がやってきます。次の章では、いよいよイスラエル建国の瞬間を見ていきましょう。
イスラエル建国(1948年)と第一次中東戦争
1948年5月14日、ユダヤ人指導者ベングリオンがイスラエルの独立を宣言しました。実に約2000年ぶりに、ユダヤ人の国家が地中海東岸の地に復活した瞬間です。ディアスポラから2000年——ユダヤ人にとっては悲願の達成でした。

しかし、喜びもつかの間。独立宣言の翌日、これを認めないエジプト・ヨルダン・シリアなどアラブ5カ国がいっせいにイスラエルへ攻め込みました。これが第一次中東戦争(1948〜1949年)です。
建国したばかりの小さなイスラエルに対し、周囲のアラブ諸国が総がかりで攻めてきた——誰もがイスラエルの敗北を予想しました。ところが結果は意外なものでした。イスラエルは激戦の末に勝利し、分割決議で決められた以上の領土を獲得したのです。
📝 ナクバ(大災害)とはアラビア語で「大災害」を意味する言葉。第一次中東戦争のなかで、約70万人のパレスチナ人が家や土地を失って難民となった出来事を、パレスチナ側ではこう呼びます。この大量のパレスチナ難民の発生が、今日まで続くパレスチナ問題の出発点になりました。

建国した翌日に戦争って、すごい話ね……。なんでそんなにすぐ戦争になっちゃったの?

アラブ側は最初から国連の分割決議を「自分たちの土地を勝手に他人に分け与えるものだ」と拒否していたんだ。だから「イスラエルという国家自体を認めない」という立場で、建国宣言と同時に戦争に踏み切ったんだよ。この第一次中東戦争を皮切りに、アラブとイスラエルは合計4回も戦争を繰り返すことになる。
こうしてイスラエルは独立を守り抜きましたが、その代償として大量のパレスチナ難民が生まれ、アラブ諸国との対立は決定的になりました。次の章では、この後に続く4度にわたる中東戦争の全体像を見ていきます。
四度にわたる中東戦争——アラブVSイスラエルの戦い
イスラエルとアラブ諸国の戦争は、1948年の第一次から1973年の第四次まで、合計4回起こりました。回を追うごとにイスラエルは軍事的に優位になり、占領した土地をめぐる対立が深まっていきます。この章では、第二次から第四次までの流れを順番に見ていきましょう。

■ 第二次中東戦争(スエズ戦争・1956年)
1956年、エジプトの大統領ナセルがスエズ運河の国有化を宣言しました。スエズ運河はそれまでイギリス・フランスが利権を握っていた重要な海運ルート。これに反発したイギリス・フランスは、イスラエルと手を組んでエジプトへ攻め込みます。これが第二次中東戦争(スエズ戦争)です。
軍事的には英仏イスラエル側が優勢でしたが、ここで思わぬブレーキがかかります。アメリカとソ連がそろって「撤退せよ」と圧力をかけたのです。結局、英仏イスラエルは目的を果たせないまま撤退しました。この戦争は、中東における主役が「イギリス・フランス」から「アメリカ・ソ連」へと移ったことを示す出来事でもありました。
■ 第三次中東戦争(六日間戦争・1967年)
1967年、イスラエルはエジプト・シリア・ヨルダンに対して先制攻撃を仕掛けました。緒戦でアラブ側の空軍を地上で壊滅させると、その後はわずか6日間で圧勝。この電撃的な勝利から、この戦争は六日間戦争(第三次中東戦争)と呼ばれます。
この戦争でイスラエルは、エジプトからシナイ半島とガザ地区、ヨルダンからヨルダン川西岸(東エルサレムを含む)、シリアからゴラン高原を一気に占領しました。とくにガザ地区とヨルダン川西岸の占領は、今日まで続く「占領地問題」の直接の始まりとなります。


六日間戦争ってめちゃくちゃ短くないですか?なんでそんなに早く終わったの?

イスラエルが開戦と同時にエジプトの飛行場を奇襲して、地上にあった戦闘機をまとめて破壊しちゃったんだ。空の支配を一瞬で奪ったから、あとは陸でも一方的に有利。「やられる前にやる」を徹底した結果が、たった6日間の圧勝につながったんだよ。
■ 第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争・1973年)とオイルショック
1973年、今度はアラブ側が反撃に出ます。エジプトとシリアが、ユダヤ教の祝日ヨム・キプール(贖罪の日)をねらってイスラエルへ奇襲をかけたのです。これが第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)です。
奇襲を受けたイスラエルは緒戦で大苦戦しました。最終的にはアメリカの支援を受けて持ちこたえましたが、この戦争は世界経済に巨大な影響を与えます。アラブの産油国でつくるOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が、イスラエルを支援する国々への石油の輸出制限と価格の大幅な引き上げを発動したのです。これが第一次オイルショックでした。
📝 4度の中東戦争は第一次(1948)・第二次(1956)・第三次(1967)・第四次(1973)。試験では「第四次=オイルショックの引き金」の組み合わせが特に頻出です。日本の高度経済成長が終わったきっかけも、この第四次中東戦争でした。

中東の戦争が、なんで日本のトイレットペーパー騒動につながったの?すごく遠い話に感じるんだけど……。

アラブの産油国が「石油を武器」にしたからなんだ。石油の値段が4倍近くにハネ上がって、石油を輸入に頼る日本は大パニック。「モノが値上がりするぞ!」という不安が広がって、トイレットペーパーの買い占め騒動まで起きたんだよ。中東の戦争が、海をこえて日本の生活まで揺らした——これが第四次中東戦争のすごいところなんだ。
PLOとオスロ合意——和平への試みと挫折
4度の戦争で土地を追われたパレスチナ人は、自分たちの権利を取り戻すために組織を作りました。それがPLO(パレスチナ解放機構)です。1964年に結成され、1969年からはアラファトが議長となって、パレスチナ人を代表する存在になっていきます。
📝 PLO(パレスチナ解放機構)とは、パレスチナ人の権利回復と国家建設をめざす政治・軍事組織のこと。1964年に設立され、アラファト議長(1969〜2004年)のもとでパレスチナ人を代表する組織になりました。「今でいうと、国を持たない民族の”代表政府のような存在”」とイメージするとわかりやすいです。
1987年には、占領下のパレスチナ人が投石などでイスラエルに抵抗するインティファーダ(「蜂起」の意味)が始まりました。子どもや若者が戦車に石を投げる映像は世界中に衝撃を与え、「パレスチナ人の苦しみ」に国際社会の目が向くきっかけになります。
こうした流れのなか、ついに歴史が動きます。1993年、ノルウェーの仲介でイスラエルとPLOがおたがいを正式に認め合う合意にこぎつけたのです。これが世界を驚かせたオスロ合意でした。

イスラエルのラビン首相とアラファト議長は、長年の敵同士でありながら握手を交わしました。この功績で2人は仲介役のペレス外相とともにノーベル平和賞を受賞。世界は「ついに中東に平和が訪れるのでは」と期待に沸きました。

一度は和平が成立しかけたってこと?それなのに、どうして今も対立が続いているの?

大きかったのは1995年、和平を進めたラビン首相が同じユダヤ人の過激派に暗殺されてしまったことなんだ。「敵と妥協するな」という強硬派の反発はイスラエル側にも根強かった。さらに、占領地にユダヤ人がどんどん移り住む「入植地問題」やエルサレムの帰属問題も解決できなかった。こうして、せっかくの和平の流れは少しずつしぼんでいったんだよ。
オスロ合意は「パレスチナ人による自治」への第一歩でしたが、最終的な国境やエルサレムの扱いという最難関の問題は先送りにされたままでした。期待された和平は実を結ばず、対立は次の世代へと持ち越されていきます。
ハマスの台頭と2023年ガザ戦争
オスロ合意の和平路線に不満を持つパレスチナ人のなかから、より強硬な勢力が力をつけていきます。それがハマスです。1987年に結成されたイスラム主義組織で、「イスラエルとの共存」を認めるPLOとは対照的に、武力による抵抗を掲げました。
📝 ハマス(Hamas)とは「イスラム抵抗運動」のアラビア語の略称。パレスチナ・ガザ地区を実効支配するイスラム主義組織で、日本・アメリカ・EUなどはテロ組織に指定しています。福祉活動で住民の支持を集めた一面もあります。
2007年、ハマスはガザ地区を武力で掌握しました。これにより、パレスチナは「ガザ地区=ハマスが統治」「ヨルダン川西岸=PLO(ファタハ)が統治」という、いわば2つに分裂した状態になります。イスラエルはハマス支配下のガザを封鎖し、人やモノの出入りを厳しく制限しました。


ハマスってPLOとは別の組織なのね。パレスチナ側もひとつにまとまっているわけじゃないんだ……。

そうなんだ。PLO(ファタハ)は「イスラエルと交渉して国を作ろう」という現実路線で、ヨルダン川西岸を治めている。一方のハマスは「武力で抵抗する」という強硬路線で、ガザを治めている。パレスチナ側が一枚岩じゃないことも、問題が複雑なままなかなか解決しない理由のひとつなんだよ。
そして2023年10月7日、イスラム教の祝日の早朝、ハマスは4,000発以上のロケット弾と武装戦闘員によるイスラエルへの大規模奇襲攻撃を決行しました。キブツ(農業共同体)や音楽フェスティバル会場を次々と襲撃し、イスラエル側の死者は1,175人(民間人796人・治安部隊員379人)、247人がガザに人質として連行されました。イスラエル建国後最大の死者数を出した「黒い土曜日」として、イスラエル社会に深い衝撃を与えました。
イスラエル政府は即座に鉄の剣作戦を宣言し、ガザへの総封鎖と大規模空爆を開始。10月27日には地上侵攻を開始し、ガザ北部への集中攻撃が始まりました。100年以上前の「3つの約束」から始まった対立は、こうして史上最悪規模の戦争へと発展したのです。
ガザ侵攻の激化と中東全域への波及(2024年)
2024年に入ると、ガザ紛争は単なる「イスラエル対ハマス」の戦いを超え、中東全域を揺るがす危機へと拡大していきます。

ガザ侵攻がなんでそんなに大きな問題になったの?

ガザは約200万人が暮らす、東京23区よりも狭い土地だよ。その場所に大規模な攻撃が続き、避難できる場所もほとんどない。死者が桁違いに増え、「戦争犯罪ではないか」という声が国際社会で高まったんだ。
■ ICJの暫定措置命令(2024年1月)
2024年1月、南アフリカが「イスラエルの行為はジェノサイド(集団殺害)にあたる」として国際司法裁判所(ICJ)に提訴。ICJは1月26日に暫定措置命令を下し、イスラエルにジェノサイド防止と人道支援の受け入れを求めました。最終的な有罪・無罪の判断ではなく「まず行動を止めよ」という命令でしたが、イスラエルを国際法の俎上にのせた歴史的な決定となりました。
■ ラファ地上侵攻(2024年5月)
イスラエル軍は2024年5月、ガザ最南部のラファへの地上侵攻を開始しました。当時ラファには他の地域から逃れてきた約140万人が集中しており、「人道的な避難地」とされていた場所でした。国際社会は強く反対しましたが、イスラエルはハマス壊滅を優先する方針を変えませんでした。ICJもラファ作戦の停止を求める追加の暫定措置命令を出すなど、国際社会との摩擦がさらに深まりました。
■ イランとイスラエルの直接対立(2024年4月・10月)
2024年4月1日、イスラエルがシリアのイラン大使館領事部を空爆し、イラン革命防衛隊の司令官らが死亡します。これに対し4月13〜14日、イランはドローン・巡航ミサイル・弾道ミサイルをあわせて300発以上をイスラエルに向けて発射。1979年のイラン・イスラム革命以来、初めての直接攻撃でした。大半は迎撃されましたが、イランとイスラエルが直接ミサイルを撃ち合う「全面戦争」への懸念が一気に高まりました。
📝 2024年10月1日にはイランが再び弾道ミサイル約180発をイスラエルに発射。アメリカ・イギリス・フランスなどが迎撃を支援しましたが、一部は着弾し、イラン・イスラエル間の緊張はかつてないレベルに達しました。
■ ヒズボラとの衝突・レバノン侵攻(2024年9〜11月)
一方、イスラエル北部ではレバノンのイスラム主義組織ヒズボラとの戦闘も激化しました。2024年9月17〜18日にはヒズボラ構成員が使用するポケベルとトランシーバーが爆発するという工作がイスラエルによって実施され、多数が死傷。9月27日にはヒズボラの最高指導者ナスララが空爆によって殺害されました。イスラエルは10月に南レバノンへの限定的な地上侵攻を開始し、11月末に停戦合意が成立しました。
■ ハマス指導者シンワール殺害(2024年10月)
2024年10月17日、イスラエル軍はガザ南部ラファでの作戦中、2023年10月7日の奇襲を主導したハマス最高指導者ヤヒヤ・シンワールの死亡を発表しました。ネタニヤフ首相は「重要な節目」と述べながらも、全人質が解放されるまで戦争を継続すると宣言。ガザでの戦闘は続きました。
■ シリア情勢とイスラエルの関与(2024年12月)
2024年12月8日、隣国シリアでアサド政権が崩壊し、53年間続いたアサド家の独裁が終わりを告げました。イスラエルはこれを機にゴラン高原の緩衝地帯に地上部隊を展開。イランがシリアを経由してヒズボラに武器を密輸するルートを阻断するため、シリア国内の軍事施設を大規模に空爆しました。中東の地政学は2024年末、かつてない速さで塗り替えられていきました。
停戦合意と現在進行形の和平(2025〜2026年)
2025年1月、カタール・エジプト・アメリカの仲介により、イスラエルとハマスの間で停戦合意(第1段階)が成立しました。2025年1月19日から発効し、ハマスが人質33人を段階的に解放し、イスラエルはパレスチナ人の収監者を釈放することが取り決められました。

やっと停戦できたのね。これで解決したの?

残念ながらそうじゃないんだ。2025年3月、イスラエルは「ハマスが人質解放を拒否している」として戦闘を再開。ガザへの支援物資も再び遮断された。停戦は事実上破綻してしまったんだよ。
その後もアメリカを中心とした外交交渉が続き、2025年10月に新たな停戦合意が成立。ハマスは生存する人質を段階的に解放し、イスラエルもパレスチナ人収監者を釈放しました。イスラエル軍はガザの一部から撤退しましたが、2026年5月現在も全人質の解放は完了しておらず、恒久的な和平への道筋は見えていません。
📊 ガザ紛争の規模(2025年時点の推計)
・ガザの死者数:約69,000〜72,000人(ガザ保健省発表)
・人口の約9割が避難・移住を強いられた
・建物の約6割が損壊
・247人が人質として連行→段階的解放が進行中
ガザで何が起きているのか。この問題は特定の「悪者」を名指しするだけでは理解できません。100年以上にわたる領土・宗教・民族の複雑な対立が積み重なった末のことです。まなれきでは「なぜこうなったか」を歴史から理解することを大切にしています。
イスラエルの歴史をさらに深く知りたい人へ

イスラエル・パレスチナ問題の背景をもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
テストに出るポイント(共通テスト・世界史B対応)
世界史Bや共通テストで出やすいイスラエル関連の頻出事項をまとめました。試験前にここだけ確認しておきましょう。
📝 比較問題でよく出るポイント:4度の中東戦争は「年号」と「別名・結果」をセットで覚えるのが鉄則。とくに第三次=六日間戦争=占領地問題の始まり、第四次=ヨム・キプール戦争=オイルショックの引き金の2組は頻出です。バルフォア宣言(1917年)は第一次世界大戦中の出来事であることも問われます。
| 中東戦争 | 年 | 別名・きっかけ | 結果・影響 |
|---|---|---|---|
| 第一次 | 1948 | イスラエル建国の翌日に勃発 | イスラエル勝利・パレスチナ難民(ナクバ) |
| 第二次 | 1956 | スエズ戦争・運河国有化 | 米ソの圧力で英仏イスラエル撤退 |
| 第三次 | 1967 | 六日間戦争・先制攻撃 | イスラエルが占領地拡大・占領地問題へ |
| 第四次 | 1973 | ヨム・キプール戦争・アラブの奇襲 | 第一次オイルショックの引き金 |

覚えることが多すぎて混乱しそう……。どこから手をつければいいですか?

まずは「1917年バルフォア宣言→1947年分割決議→1948年建国」という建国の3ステップを年号ごと押さえよう。そのあとに4度の中東戦争を年表で並べれば、流れがスッと頭に入るよ。バラバラに暗記するより、「原因→結果」のつながりで覚えるのがコツなんだ!
よくある質問(FAQ)
1948年5月14日です。ユダヤ人指導者ベングリオンが独立を宣言し、約2000年ぶりにユダヤ人の国家が復活しました。ただしその翌日、これを認めないアラブ諸国との間で第一次中東戦争が始まっています。
イスラエルとパレスチナ人(アラブ系住民)の間で続く、土地と主権をめぐる紛争の総称です。1948年の建国時に大量のパレスチナ難民が生まれたことが出発点で、ガザ地区とヨルダン川西岸の帰属やエルサレムの扱いが最大の焦点になっています。
大きく4回です(1948・1956・1967・1973年)。それぞれ第一次(建国直後)・第二次(スエズ戦争)・第三次(六日間戦争)・第四次(ヨム・キプール戦争)と呼ばれます。第四次は第一次オイルショックの引き金になったことでも有名です。
1993年にイスラエルとPLOがおたがいを正式に認め合った和平合意です。ノルウェーの仲介で実現し、ラビン首相とアラファト議長がノーベル平和賞を受賞しました。しかしラビン暗殺や入植地問題などにより、和平は事実上行き詰まりました。
1987年に結成されたパレスチナのイスラム主義組織で、2007年からガザ地区を実効支配しています。イスラエルとの交渉路線をとるPLO(ファタハ)と異なり、武力による抵抗を掲げます。日本・アメリカ・EUなどはテロ組織に指定しています。
バルフォア宣言(1917年)・パレスチナ分割決議(1947年)・建国(1948年)の年号と流れ、4度の中東戦争(とくに第四次とオイルショックの関係)、PLO・オスロ合意などが頻出です。第一次世界大戦や冷戦と結びつけた時代判定問題として出ることも多いです。
イスラエルの歴史まとめ

以上、イスラエルの歴史のまとめでした!ニュースで見るイスラエルとパレスチナの対立も、こうして古代からの流れで追っていくと「なぜ今こうなっているのか」が見えてくるよね。下の記事でパレスチナ問題や中東の歴史もあわせて読んでみてください!
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前1000年頃ダビデ王がエルサレムを都とするイスラエル王国を建設
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前587〜586年頃バビロン捕囚——ユダ王国がバビロニアに滅ぼされユダヤ人がバビロンへ連行
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70年ローマによるエルサレム神殿崩壊——ユダヤ人のディアスポラ(大離散)始まる
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1897年ヘルツルが第1回シオニスト会議を開催(バーゼル)——シオニズム運動の組織化
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1915〜1917年三枚舌外交——フサイン=マクマホン協定・サイクス=ピコ協定・バルフォア宣言
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1939〜1945年ホロコースト——ナチス・ドイツによるユダヤ人約600万人の虐殺
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1947年国連パレスチナ分割決議(181号)——ユダヤ人国家・アラブ人国家・エルサレム国際管理に分割
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1948年イスラエル建国宣言(5月14日)——翌日に第一次中東戦争が勃発
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1956年第二次中東戦争(スエズ戦争)——スエズ運河国有化を機に英仏イスラエルがエジプトを攻撃
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1967年第三次中東戦争(六日間戦争)——イスラエルが電撃戦でシナイ半島・ガザ・ヨルダン川西岸を占領
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1973年第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)——エジプト・シリアの奇襲。第一次オイルショックの引き金
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1993年オスロ合意——イスラエル・PLO相互承認。ラビン・アラファトがノーベル平和賞
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2007年ハマスがガザ地区を掌握——ガザ地区はハマス・ヨルダン川西岸はPLO(ファタハ)が統治
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2023年ハマスによるイスラエル奇襲(10月7日)——イスラエル側1,175人死亡・247人が人質に。イスラエルが「鉄の剣作戦」を宣言しガザへ大規模地上侵攻
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2024年1月ICJがイスラエルにジェノサイド防止の暫定措置命令——南アフリカが提訴
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2024年4月イランがイスラエルへ初の直接攻撃(ドローン・ミサイル300発以上)——中東全面戦争の危機
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2024年10月ヒズボラ最高指導者ナスララ殺害・ハマス指導者シンワール殺害——イスラエルがレバノン侵攻
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2024年12月シリアのアサド政権崩壊——イスラエルがゴラン高原緩衝地帯に展開・シリアの軍事施設を大規模空爆
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2025年1月ガザ停戦合意(第1段階)発効——カタール・エジプト・米国仲介。人質と収監者の交換開始
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2025年3月イスラエルがガザへの戦闘再開・支援遮断——停戦第1段階が事実上破綻
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2025年10月新たな停戦合意成立——ハマスが生存人質を解放。イスラエル軍がガザ一部から撤退
📅 最終確認:2026年5月
📖 本記事は山川出版社『詳説世界史』に基づいています。高校世界史・共通テストに対応しています。
Wikipedia日本語版「イスラエルの歴史」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「パレスチナ問題」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「中東戦争」(2026年5月確認)
コトバンク「シオニズム」「バルフォア宣言」「パレスチナ問題」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説世界史』
外務省「イスラエル基礎データ」(2026年5月確認)
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