エカチェリーナ2世とは?ドイツ生まれのロシア女帝の生涯・功績・逸話をわかりやすく解説【世界史】

エカチェリーナ2世

もぐたろう
もぐたろう

今回は18世紀ロシアの女帝、エカチェリーナ2世について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!ドイツ生まれなのにロシアを大国に押し上げた、超スゴい女帝の物語、一緒に見ていこうね!

📚 この記事のレベル:高校世界史 / 歴史総合
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • エカチェリーナ2世とは何者か(ドイツ出身・ロシア女帝・在位1762〜1796年)
  • 啓蒙専制君主としての功績と限界(内政改革・農奴制との矛盾)
  • ポーランド分割・クリミア半島併合(領土拡大の実像)
  • 日本との意外な接点(ラクスマン派遣と田沼時代の同時代性)
  • 試験で問われるポイント(共通テスト・定期テスト対応)

ヴォルテールと書簡を交わし、「哲学者の君主」と絶賛された——そんな「啓蒙の女帝」のイメージが広く知られるエカチェリーナ2世。でも実は農奴制を強化し、ポーランドを地図から消し去った帝国主義の権化でもありました。光と影、相反する二つの顔を持つ女帝の物語をわかりやすく解説します。なお日本語では「エカテリーナ2世」と表記されることもありますが、同一人物を指しています。

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エカチェリーナ2世とは?

3行でわかるまとめ
  • エカチェリーナ2世(1729〜1796年)はロシア帝国の女帝。在位1762〜1796年(34年間)
  • 「大帝(ヴェリカヤ)」と称えられるほどの業績でロシアを18世紀最強国のひとつへ押し上げた
  • 一方で農奴制を強化しポーランドを消滅させた——光と影を持つ啓蒙専制君主

エカチェリーナ2世(1729〜1796年)は、ロシア帝国の女帝です。

在位1762年から1796年まで、34年にわたってロシアを統治しました。ピョートル1世(大帝)と並ぶ「大帝(ヴェリカヤ)」の称号を持ち、ロシア史上屈指の名君とされています。

注目すべきは、彼女がロシア人ではなく、ドイツ出身であったという点です。小さな公国の王女が、世界最大級の帝国の頂点に立った——その逆転劇こそが、エカチェリーナ2世という人物の魅力の核心です。

ゆうき
ゆうき

エカチェリーナってロシア人じゃないの?外国人がなんでロシアの女帝になれたの?

もぐたろう
もぐたろう

実はドイツの小さな公国出身のプリンセスが、ロシア皇太子のお嫁さんに選ばれてロシアにやってきたんだ。ロシア語もロシア正教も猛勉強して、「ロシア人よりもロシアを愛した女帝」と言われるまでになったんだよ!

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ドイツ生まれの少女がロシアへ

1729年、プロイセンの港湾都市シュテッティン(現在のポーランド・シュチェチン)に、一人の女の子が生まれました。

本名はゾフィー=フリーデリーケ=アウグスタ=フォン=アンハルト=ツェルプスト(Sophie Friederike Auguste von Anhalt-Zerbst)。アンハルト=ツェルプスト公国という小さなドイツの公国の王女です。

14歳のとき、ロシア皇太子(後のピョートル3世)の花嫁候補として、ロシアのエリザヴェータ女帝から招かれました。

当時のヨーロッパでは、王族の婚姻は政治的な同盟の意味を持ちます。小国の王女がロシアという大国に招かれたのは、大きなチャンスでした。

ロシアに到着したゾフィーは、猛烈な勉強を開始します。ロシア語・ロシア正教・ロシアの宮廷作法——すべてを短期間で習得し、周囲を驚かせました。

1744年、ロシア正教に改宗して「エカチェリーナ」と改名。翌1745年には皇太子ピョートルと結婚しました。

あゆみ
あゆみ

ドイツ生まれの外国人なのに、どうやってロシアの宮廷に溶け込んだのかしら?

もぐたろう
もぐたろう

到着してすぐ、ロシア語を徹底的に特訓したんだ。夜中も勉強して、風邪を引いても続けたと伝わっているよ。この「適応力の化け物」ぶりこそが、のちの女帝エカチェリーナの本質を物語っているんだね!

エカチェリーナ2世
エカチェリーナ2世

ロシア人でなくても、ロシアのために尽くしてみせる。ロシア語を完璧に習得し、ロシア正教を心から信じ——それが私がまずすべきことだった

しかし、結婚生活は幸せとはほど遠いものでした。夫ピョートルはドイツへの憧れが強く、ロシアの風習をなかなか受け入れませんでした。夫婦の仲は冷え切り、エカチェリーナは宮廷内で孤独な立場に置かれます。

この孤独な時間に、彼女は大量の書物を読み漁りました。モンテスキューの『法の精神』、ヴォルテールの著作——フランスの啓蒙思想が、若き王女の政治的野心を静かに育てていきました。

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クーデターで即位!ピョートル3世を廃位する

1761年、エリザヴェータ女帝が崩御ほうぎょし、夫がピョートル3世として即位しました。しかし彼の治世は、ロシア国内の強い反発を招きます。

当時ロシアは七年戦争でプロイセンと戦っていましたが、ピョートル3世は大のプロイセン好き。戦争から単独離脱し、プロイセン王フリードリヒ2世に一方的に有利な講和を与えてしまいました。

さらにロシア正教会を軽視し、近衛このえ隊(宮廷の親衛隊)の待遇も悪化させました。わずか半年足らずの治世で、軍・教会・貴族の反感をすべて買ってしまったのです。

こうした状況を機敏に読み取ったのが、エカチェリーナでした。1762年7月、近衛隊の支持を取り付け、クーデターを決行します。

エカチェリーナ2世
エカチェリーナ2世

今こそ動く時だ。あとで後悔するくらいなら、今のリスクを選ぶ——ロシアのために、そして自分自身のために!

もぐたろう
もぐたろう

クーデターはわずか数時間で成功!廃位はいいされたピョートル3世はまもなく死亡したけど、その原因は諸説あり、エカチェリーナの関与についても今もはっきりしていないんだ。

ゆうき
ゆうき

夫を廃位して皇帝になったって、そもそも法的な正統性はあったの?

もぐたろう
もぐたろう

法的な正統性はほぼなかった。でも「ピョートル大帝の精神を継ぐ者」として近衛隊・貴族・ロシア正教会から幅広い支持を集め、あとは実績でその地位を固めていったんだよ。まさに「実力主義の女帝」だね!

啓蒙専制君主としての内政改革

即位後のエカチェリーナ2世は、「啓蒙専制君主」として積極的な改革を推進しました。絶対王政の枠組みを維持しながらも、啓蒙思想を取り入れた近代化を目指したのです。

フランスの思想家ヴォルテールとは、1763年から15年以上にわたって書簡を交わしました。ヴォルテールはエカチェリーナを「北方ほっぽうのセミラミス(古代の賢明な女王)」と称え、その知性を絶賛しました。

1773〜74年には、百科全書派のリーダーであるドゥニ・ディドロをサンクト=ペテルブルクの宮廷に招いています。啓蒙思想家たちとの交流は、エカチェリーナの「哲学者の君主」としての評判を高める巧みな外交でもありました。

「哲学者の君主」の実像と矛盾——ヴォルテールとの書簡

エカチェリーナとヴォルテールの往復書簡は150通以上に及んだとされています。ヴォルテールは「啓蒙の理想を実現できる唯一の君主」と彼女を絶賛しました。しかし実態は大きく異なりました。ヴォルテールがロシアの近代化を夢想する一方、当のロシアでは農奴制が温存・強化されていたのです。

同時代の啓蒙専制君主を比べると対比が鮮明です。プロイセンのフリードリヒ2世は王領地のみで農奴制廃止を試みましたが貴族(ユンカー)支配地には及ばず、農奴制を全廃するには至りませんでした。オーストリアのヨーゼフ2世は1781年に農奴解放令を発布しました。一方でエカチェリーナはプガチョフの乱(後述)の後、農奴制を「強化」します。三者の中で「啓蒙の理想と現実の乖離が最も大きかった」のがエカチェリーナ2世だったといえるでしょう。

1764年には、ロシア初の女子高等教育機関「スモーリヌィ女学院」を設立しました。貴族の子女を対象としたこの学校は、女子教育に力を入れた先進的な施策の象徴です。

1767年には「立法委員会」を召集し、モンテスキューやヴォルテールの思想を取り入れた「ナカズ(訓令くんれい)」と呼ばれる大綱を起草しました。法の支配・三権分立の考え方を盛り込んだこの訓令は、当時のヨーロッパでも広く注目されました。

また出版・学術の振興にも力を入れ、ロシアの文化水準を大きく引き上げました。エルミタージュ美術館の礎となるヨーロッパ各地の美術品収集もこの時期に始まります。

エカチェリーナ2世
エカチェリーナ2世

哲学者ヴォルテールの理想と、女帝としての現実——その間で私は常に選択を迫られた。理念は大切。でも権力を失えば何もできない。最終的に私はロシアを守る道を選んだのです

あゆみ
あゆみ

同じ啓蒙専制君主のフリードリヒ2世と比べて、エカチェリーナはどこが違うのかしら?

もぐたろう
もぐたろう

フリードリヒ2世は王領地のみで農奴制廃止を試みたけど、ユンカー(貴族)支配地には及ばず全廃には至らなかった。ヨーゼフ2世は1781年に農奴解放令を出したんだよね。でもエカチェリーナは最終的に農奴制を「強化」した。三者の中で「啓蒙の理想と現実の乖離が最も大きかった」——それがエカチェリーナ2世の最大の特徴なんだ!

プガチョフの乱と農奴制の強化

エカチェリーナの治世で最大の内乱が、1773年に始まった「プガチョフの乱」です。

エメリヤン・プガチョフというコサック出身の人物が、農奴のうど・コサック・少数民族を率いて大反乱を起こしました。

プガチョフは自ら「廃位されたピョートル3世本人だ」と名乗り、農奴の解放を約束して民衆の支持を集めました。反乱はロシア東南部(ウラル地方・ヴォルガ川流域)を中心に広がり、当時のロシア史上でも最大規模の農民反乱のひとつとされています。

1775年に鎮圧され、プガチョフは処刑されました。しかしこの大反乱が、女帝エカチェリーナに与えた衝撃は計り知れないものがあったとされています。

「啓蒙」と逆行した農奴制強化——なぜエカチェリーナは反動化したのか

プガチョフの乱を鎮圧したエカチェリーナが次に打った手は、農奴制の「強化」でした。啓蒙思想を掲げていた女帝がなぜ逆行したのでしょうか?

答えは権力構造にあります。エカチェリーナは法的正統性のないクーデターで即位した身。権力の基盤は、農奴制によって利益を得ている貴族層の支持でした。農奴を解放すれば貴族が反発し、権力が崩壊しかねない——「啓蒙の理念」よりも「権力者の現実」を選んだのです。

1775年には「県制改革」を実施し、地方行政を地方貴族に委ねる仕組みを整えました。これにより貴族層の地方支配は強固なものとなり、農奴の状況はさらに悪化したとされています。まさに「啓蒙の逆説」と言える結果でした。

もぐたろう
もぐたろう

プガチョフの乱は農奴制が生み出した矛盾の爆発だったんだ。でも鎮圧後にさらに農奴制を強化した——この逆説こそが「啓蒙専制」の限界を示しているよ。農奴を解放すれば権力が崩れる——女帝は「権力者の論理」を選んだわけだね。

領土拡大:ポーランド分割とオスマン戦争

対外的にも、エカチェリーナ2世の治世は積極的な領土拡大で特徴づけられます。とりわけ重要なのが、南への拡張——「南下政策」です。

エカチェリーナの時代には、二度にわたる露土戦争(ロシア=トルコ戦争)(1768〜74年・1787〜92年)が起きました。第一次露土戦争に勝利し、1774年のキュチュク=カイナルジャ条約でロシアは黒海北岸への影響力を獲得しました。

さらに1783年には、クリミア半島をロシア領として正式に併合しました。長年の南下政策の成果として、ロシアはついに念願の黒海への出口を手に入れたとされています。

同時期、東ヨーロッパでも大きな動きがありました——ポーランド分割です。エカチェリーナ2世はプロイセンのフリードリヒ2世、ハプスブルク家(オーストリア)のヨーゼフ2世と協力し、ポーランドを3回に分けて分割しました。

第1回1772年・第2回1793年・第3回1795年——最終的にポーランドは地図から消滅しました。この時代の「18世紀後半の世界史」は、フランス革命(1789年)やアメリカ独立宣言(1776年)とも同時進行していました。

📌 現代への接続:1783年のクリミア半島併合は、現代のウクライナ問題の歴史的背景のひとつとされています。「クリミアはロシアの領土」という主張の歴史的根拠として引き合いに出されることがあります。18世紀の歴史が現代の国際情勢と直結している好例です。

エカチェリーナ2世
エカチェリーナ2世

ロシアの偉大さは広大な版図によって示される。クリミアを手に入れた今こそ、ロシアは真の南方大国として君臨できる——これがロシアの使命だ

ゆうき
ゆうき

ポーランド分割って3回あるけど、全部の年号覚えないといけないの?1回ずつ何が違うの?

もぐたろう
もぐたろう

試験で出るのは「3回・3か国(露・普・墺)」のセットで覚えること!1772→1793→1795年という流れと「最終的にポーランドが消滅した」という結末が重要だよ。特に1772年(最初の分割・エカチェリーナ主導)と1795年(ポーランド消滅)は要チェックだね!


エルミタージュ美術館の礎を築いた女帝

世界最大規模を誇る美術館のひとつ、エルミタージュ美術館。その礎を築いたのが、エカチェリーナ2世でした。

1764年、エカチェリーナ2世はベルリンの商人ヨハン・ゴッツコフスキーから255点もの絵画を購入しました。これがエルミタージュ・コレクションの出発点とされています。その後、ディドロやグリムを通じてパリ・アムステルダムの主要コレクションを次々と買い取り、冬宮殿とうきゅうでんに隣接する「エルミタージュ(隠れ家)」と呼ばれる展示室に収蔵していきました。

レンブラント・ルーベンス・ラファエロなど西洋美術の傑作が次々とロシアへ。在位中に収集した作品は4,000点以上ともいわれ、現在の約300万点のコレクションへとつながる基礎を作りました。

美術収集にとどまらず、ロシア科学アカデミーの振興・出版文化の奨励・ヤロスラヴリなどの都市整備など、エカチェリーナ2世はロシア全土の文化水準を底上げすることにも力を注ぎました。

あゆみ
あゆみ

そもそも「エルミタージュ」ってどういう意味なのかしら?変わった名前よね。

もぐたろう
もぐたろう

フランス語の「ermitage(エルミタージュ)」は「隠れ家」「隠遁所」という意味だよ。エカチェリーナ2世が「自分だけの芸術の隠れ家」として命名したのが始まり。「サンクトペテルブルクを建設したのはピョートル1世、エルミタージュの礎を作ったのはエカチェリーナ2世」という区別は試験にも出やすいから覚えておこう!

日本との意外な接点:ラクスマン派遣

エカチェリーナ2世の治世は、遠く離れた日本とも意外な接点を持っています。その発端は、一人の日本人漂流民にありました。

1782年(天明2年)、伊勢国(現在の三重県)の廻船問屋・大黒屋光太夫だいこくやこうだゆうは、江戸への航海中に嵐に遭い漂流しました。太平洋をさまよった末にアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。その後、シベリアを縦断してサンクトペテルブルクにたどり着き、1791年にエカチェリーナ2世に直接謁見したとされています。

エカチェリーナ2世は光太夫を鄭重に扱い、帰国の手段を整えることを決断しました。同時に、これをロシアの東アジア進出の好機と捉え、アダム・ラクスマンを日本へ派遣することにしたとされています。ラクスマンは光太夫ら漂流民の帰国を表向きの目的としながら、日本との通商交渉も視野に入れていたと考えられています(ただし派遣の主目的については通商目的説・光太夫送還を主目的とする説など諸説あります)。

1792年(寛政4年)9月、ラクスマンは根室に来航しました。江戸幕府はこの突然の来訪に驚きながらも、松平定信まつだいらさだのぶの寛政改革期の方針にのっとり交渉に臨みます。最終的に長崎への入港許可証(信牌)を渡しましたが、通商交渉は拒否。ラクスマンは帰国し、日本の鎖国体制は揺らぎませんでした。

田沼時代の日本とエカチェリーナのロシア——同時代の世界を俯瞰する

エカチェリーナ2世の在位(1762〜1796年)は、日本の江戸時代中期にあたります。大黒屋光太夫が出航した1782年は、田沼意次が老中として権勢を振るっていた「田沼時代」の真っただ中。一方、ラクスマンが根室に来航した1792年には、田沼は失脚し、松平定信による「寛政の改革」が進行中でした。

同じ時代に地球の反対側では、アメリカ独立宣言(1776年)・フランス革命(1789年)という大変動が起きており、エカチェリーナ2世はそれらを警戒しながらも領土拡大を続けていました。鎖国中の江戸幕府はほとんど知る由もなかったこの「18世紀後半の世界の動き」は、日本史と世界史を行き来しながら学ぶと、歴史が驚くほど立体的に見えてきます。

エカチェリーナ2世
エカチェリーナ2世

東の果ての島国がどんな国か、私はずっと気になっていたわ。光太夫の話を聞いて、ロシアが手を伸ばすべき方角のひとつだと確信した。

ゆうき
ゆうき

ラクスマン来航って日本史でも出てくる!世界史のエカチェリーナ2世と繋がってたの、全然知らなかった。

もぐたろう
もぐたろう

まさに!これが日本史と世界史が交差する珍しいポイントだよ。世界史でエカチェリーナ2世を学ぶとき、日本史のラクスマン来航と同じ出来事だと意識すると、両方の記憶が定着しやすくなるんだよね。

もぐたろう
もぐたろう

ラクスマンは長崎への入港許可証(信牌しんぱい)を持ち帰ったけど、次のロシア使節エレザーノフが長崎に来た時(1804年)、この信牌は「有効期限切れ」として幕府に拒否されてしまうんだ。鎖国の壁は厚かったけど、このラクスマン来航こそが「外圧」の歴史的な出発点のひとつになったんだよ。

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • エカチェリーナ2世(在位1762〜1796年):ロシア帝国の女帝・啓蒙専制君主の代表的人物
  • プガチョフの乱(1773〜75年):農奴・コサックの大反乱→鎮圧後に農奴制をさらに強化。「啓蒙」と逆行した行動として問われる
  • ポーランド分割(3回):ロシア・プロイセン・オーストリアの3国で分割(1772・1793・1795年)→ポーランド国家が消滅
  • キュチュク=カイナルジャ条約(1774年):第一次露土戦争の講和条約。黒海北岸の権益を獲得し、クリミア半島の独立を確認(1783年に正式併合)
  • ラクスマン来航(1792年):エカチェリーナ2世の命で根室に来航した使節。日本史・世界史両方に登場する出来事
  • 「北方のセミラミス」:ヴォルテールがエカチェリーナ2世を称えた言葉。啓蒙専制君主としての評価を示す
  • エルミタージュ美術館:礎を作ったのはエカチェリーナ2世(サンクトペテルブルク建設のピョートル1世と混同しない)

📌 暗記のコツ:ポーランド分割は「露・普・墺の3か国で3回(1772・1793・1795)」をセット暗記。プガチョフの乱後に農奴制が「強化」された逆説を押さえる。エルミタージュは「エカチェリーナ=美術コレクション・ピョートル1世=都市建設」と役割を分けて記憶。共通テストではラクスマン来航が日本史と世界史の両方で出題される。

エカチェリーナ2世のおすすめ本

もぐたろう
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エカチェリーナ2世をもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!岩波新書のコンパクトな入門書から、ずっしりした本格伝記まで、読む目的に合わせて選んでね。

①高校生・入試対策なら|岩波新書でコンパクトに読める入門書

女帝のロシア

小野理子 著|岩波書店


②深く読み込みたい社会人なら|世界的ノンフィクションの決定版伝記

エカチェリーナ大帝(上)

ロバート・K・マッシー/北代美和子訳 著|白水社


③時代背景もセットで知りたいなら|専門家によるコンパクト解説

よくある質問

ロシア帝国の女帝(在位1762〜1796年)です。啓蒙専制君主として内政改革・教育振興・文化事業を推進しながら、ポーランド分割(3回)やクリミア半島の併合でロシアの版図を大幅に拡大しました。「大帝」と称えられた一方、農奴制を強化した「光と影」を持つ君主として知られています。

在位34年間でロシアの領土・文化・国力を飛躍的に拡大したことが評価されています。ドイツ出身でありながらロシア語・ロシア正教を完全習得し、「ロシア人よりもロシアを愛した女帝」としてピョートル1世(大帝)と並ぶ偉大な君主と見なされました。一方で農奴制強化・ポーランド消滅という「影」を批判的に捉える歴史家も多く、評価は現在も議論されています。

1773〜75年にかけて起きた、ロシア史上最大規模の農民反乱のひとつです。コサックの指導者エメリヤン・プガチョフが「ピョートル3世の生まれ変わり」を名乗り、農奴・コサック・少数民族を率いて蜂起しました。ロシア各地で激しい戦闘が繰り広げられましたが最終的に鎮圧され、プガチョフは処刑されました。この反乱を受けてエカチェリーナ2世は農奴制をさらに強化する方向に転じました。

ロシア・プロイセン・オーストリアの3大国がポーランドの弱体化を利用して段階的に領土を奪ったためです。第1回(1772年)でそれぞれが一部を分割し、第2回(1793年)・第3回(1795年)でさらに削り取り、最終的にポーランドは国家として地図から消滅しました。エカチェリーナ2世はこの分割の最大の推進者であり、ロシアが最も多くの領土を獲得しました。

1792年(寛政4年)にアダム・ラクスマンが根室に来航した主な目的は、漂流民大黒屋光太夫だいこくやこうだゆうらの帰国を名目にした日本との通商交渉とされています(通商を主目的とする説・送還が主目的とする説など諸説あります)。エカチェリーナ2世の命を受けた使節として来航し、長崎への入港許可証(信牌)を得ましたが、通商の実現には至りませんでした。

啓蒙思想に強い関心を持ち、ヴォルテールとの書簡を通じて「北方のセミラミス」と称えられたことは事実です。立法委員会召集(1767年)や女子教育推進など啓蒙的な施策も実施しました。しかし農奴制の強化・ポーランド消滅・プガチョフの乱鎮圧後の弾圧など、理念と相反する政策も多く行っています。「啓蒙の看板を掲げた強権的な専制君主」という評価が現代では主流です。

まとめ:ドイツ生まれの女帝が作ったロシアの黄金期

もぐたろう
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以上、エカチェリーナ2世のまとめでした!ドイツ生まれなのにロシアを大国に押し上げ「大帝」と称えられた女帝——啓蒙思想家と交わしながら農奴制を強化するという、光と影を持つ複雑なキャラクターだったね。

エカチェリーナ2世のポイントまとめ
  • ドイツ出身でありながらロシア女帝(在位1762〜1796年)として「大帝」と称えられた
  • 啓蒙専制君主として改革・文化振興を推進した一方、農奴制は強化するという矛盾を抱えた
  • ポーランド分割(3回)・クリミア半島併合でロシアの版図を大幅に拡大した
  • 日本との接点:ラクスマン派遣(1792年)は日本史の「ラクスマン来航」と同じ出来事

エカチェリーナ2世の年表
  • 1729年
    プロイセン(シュテッティン)に生まれる(本名ゾフィー・フォン・アンハルト=ツェルプスト)
  • 1744〜45年
    1744年:ロシア正教に改宗・エカチェリーナに改名 / 1745年:ピョートル(後のピョートル3世)と結婚
  • 1762年
    クーデターでピョートル3世を廃位・ロシア女帝として即位
  • 1764年
    スモーリヌィ女学院創設(ロシア初の女子高等教育機関)・エルミタージュ美術コレクション収集開始
  • 1767年
    ナカズ(訓令)発布・立法委員会を召集(啓蒙専制政治の象徴的施策)
  • 1772年
    第1回ポーランド分割(ロシア・プロイセン・オーストリアの共同実施)
  • 1773〜75年
    プガチョフの乱(農奴・コサックの大反乱)→鎮圧・農奴制強化
  • 1783年
    クリミア半島を正式併合(露土戦争勝利・南下政策の成果)
  • 1792年
    ラクスマン、日本(根室)に来航・通商を要求・長崎入港許可状を得るも通商は不成立
  • 1793・1795年
    第2・第3回ポーランド分割(1795年にポーランド国家が消滅)
  • 1796年
    エカチェリーナ2世、67歳で死去(在位34年・ロシアの黄金期を築いた女帝の生涯を閉じる)

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ポーランド分割の背景にある絶対王政の仕組みや、同時代の七年戦争・フランス革命・田沼時代の日本もあわせて読んでみてください!世界史と日本史が交差する面白さをもっと感じてもらえるはずだよ。

📅 最終確認:2026年7月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』(2023年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「エカチェリーナ2世」(2026年7月確認)
コトバンク「エカテリーナ2世」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年7月確認)
山川出版社『詳説世界史』(2023年版)
山川出版社『世界史B用語集』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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