
今回は会津若松の戦い(会津戦争)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!白虎隊の悲劇・鶴ヶ城の籠城戦・松平容保の苦悩まで、悲劇の全貌をじっくり見ていこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
「白虎隊」と聞くと、会津を守る精鋭部隊を思い浮かべる人が多いかもしれません。
でも実は、白虎隊は会津軍の主力部隊ではありませんでした。今でいう中学2年生〜高校1年生にあたる、16〜17歳の少年たちで編成された予備戦力だったのです。
本来は後方を守るはずだった少年たちが、なぜ戦火に飛び込み、命を絶つことになったのか。その背景には、新政府と会津藩のあいだに積み重なった、根深い事情がありました。
会津戦争とは?(会津若松の戦いとは)
- 1868年(慶応4年)8〜9月、新政府軍が会津藩(現・福島県会津若松市)に攻め込んだ戦い
- 奥羽越列藩同盟と新政府軍が激突した、戊辰戦争でも最大級の激戦
- 白虎隊の悲劇・鶴ヶ城の籠城戦で知られ、9月22日の開城で終結した
会津戦争は、1868年(慶応4年/明治元年)の8月から9月にかけて、新政府軍と会津藩のあいだで戦われた戦いです。会津若松の城をめぐる攻防が中心だったことから、「会津若松の戦い」とも呼ばれます。
舞台となったのは、現在の福島県会津若松市。当時の会津藩は、東北でも有数の大藩でした。その会津に、薩摩・長州を中心とする新政府軍が大挙して攻め込んだのです。

会津戦争は、それ単独で起きたわけではありません。戊辰戦争という、新政府軍と旧幕府勢力の大きな内戦の一場面として起こりました。その戊辰戦争のなかでも、会津での戦いはとりわけ激しく、多くの犠牲を生んだことで知られています。

会津戦争って戊辰戦争の一部なの?それとも別の戦い?
なぜ会津は朝敵とされたのか?(背景・原因)

会津戦争を理解するうえで、いちばんの疑問はこれです。「なぜ会津だけが、ここまで徹底的に攻められたのか」。
結論から言うと、会津は朝敵、つまり「天皇に弓を引く逆賊」と見なされてしまったからです。
※朝敵:天皇・朝廷に敵対する者のこと。「朝敵」とされると、これを討つ側が「正義」とされ、徹底的に攻められる大義名分が生まれます。
けれども皮肉なことに、会津が朝敵とされた背景には、会津藩のまじめすぎる「忠誠心」がありました。順を追って見ていきましょう。
■ 藩祖・保科正之の遺言と会津の家訓
会津藩の初代藩主は、保科正之という人物でした。実は3代将軍・徳川家光の異母弟にあたり、徳川家への思い入れがとても強い人でした。
正之は、子孫に向けて「会津藩家訓十五箇条」という掟を残します。その冒頭にはこう記されていました。
「会津藩は将軍家に一心に忠勤を尽くせ。もし二心をいだく者があれば、それは我が子孫ではない」(家訓十五箇条・要約)
つまり会津藩には、藩のはじまりから「徳川将軍家を裏切らない」という、絶対の家訓が刻み込まれていたのです。この教えが、200年後の会津の運命を決めることになります。
■ 京都守護職という「貧乏くじ」
幕末、京都は尊王攘夷の志士たちが暴れ回り、治安が極度に悪化していました。そこで幕府は、会津藩9代藩主の松平容保に京都守護職を命じます。京都の治安を守る、責任重大な役職でした。
容保は当初、これを固辞しました。火中の栗を拾うような役目だと分かっていたからです。それでも「会津の家訓」を持ち出されて説得され、ついに引き受けます。容保はこの京都守護職のもとで、近藤勇ら新選組を指揮し、京都の取り締まりにあたりました。

私は逆賊ではない。ただ藩祖の教えに従い、将軍家に尽くしただけだ……。それが、なぜ朝敵と呼ばれねばならぬのか。
■ 孝明天皇との絆、そして「逆賊」へ
京都を守る容保は、当時の天皇である孝明天皇から、深く信頼されていました。孝明天皇は容保に、感謝の気持ちをつづった御宸翰(天皇直筆の手紙)まで贈っています。会津は、天皇本人からは「敵」どころか「頼りになる味方」と見られていたのです。
ところが、孝明天皇が1867年に急死すると状況は一変します。新政府の主導権を握った薩摩・長州にとって、幕府を最後まで支えた会津は「目障りな存在」でした。1868年の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、会津は徳川慶喜とともに「朝敵」と名指しされてしまいます。

天皇からは信頼されてたのに、朝敵にされちゃったの?なんでそんなことに……。

そこが会津の悲劇なんだ。家訓を守って幕府に尽くした「まじめさ」が、新しい政府の主役・薩長から見れば「最後まで邪魔をする敵」に見えた。誠実さが、皮肉にも会津を追い詰めてしまったんだよ……。
奥羽越列藩同盟の結成
朝敵とされた会津は、孤立したわけではありませんでした。同じ東北の諸藩が、会津を助けようと立ち上がったのです。こうして結ばれたのが奥羽越列藩同盟でした。
📌 奥羽越列藩同盟とは:1868年(慶応4年)5月に成立した、東北(奥羽)・越後の諸藩による反新政府の軍事同盟。仙台藩・米沢藩を中心に、最終的に31藩が加盟した。
■ 31藩はなぜ結集したのか
きっかけは、新政府が会津に突きつけた処分が、あまりにも厳しいものだったことです。新政府は東北の諸藩に「会津を討て」と命じました。
困ったのは、会津と隣り合う仙台藩・米沢藩などです。これらの藩は、会津の助命(命を助けること)を新政府に嘆願しました。しかし新政府はこれを受け入れず、強硬な姿勢を崩しません。
「これでは話し合いの余地がない」——。仙台藩・米沢藩を中心に東北の諸藩が結束し、新政府に対抗する道を選びます。これに越後(現在の新潟県)の諸藩も加わり、最終的に31藩が名を連ねる大同盟ができあがりました。

31藩も集まったなら、新政府軍にも勝てそうなものだけど……。

それが、そう簡単じゃなかったんだ。藩がたくさん集まっても、武器は旧式だし、各藩の足並みもバラバラ。「数では勝っていても、戦う力では劣っていた」——。この弱さが、のちの会津の敗北につながっていくよ。
戦いの経緯 — 母成峠崩壊から包囲へ(1868年8〜9月)

ここからは、会津戦争の具体的な流れを時系列で追っていきます。新政府軍は越後方面や白河方面など複数のルートから会津に迫りましたが、決定的だったのは母成峠の突破でした。
■ 母成峠の戦いと守備隊の崩壊
1868年8月21日、新政府軍は会津若松城への近道にあたる母成峠に攻撃を集中させます。ここを守る会津・旧幕府勢の守備隊はわずかで、装備でも大きく劣っていました。

戦いは一日ともたず、母成峠の守備線はあっけなく崩壊します。峠を抜けた新政府軍は、一気に会津若松の城下へとなだれ込みました。会津側にとっては、まったくの想定外のスピードでした。
武器の差が決定的でした。新政府軍はスナイドル銃などの近代的な洋式銃を装備。対する会津側は旧式の銃が中心で、射程も命中率も大きく劣っていました。
鶴ヶ城籠城戦 — 1ヶ月の包囲と開城

城下になだれ込んだ新政府軍に対し、会津藩は本拠地である鶴ヶ城(会津若松城)にこもって抵抗する道を選びます。こうして始まったのが、約1ヶ月にわたる籠城戦でした。
1868年8月23日、新政府軍は鶴ヶ城への攻撃を本格化させます。城を取り囲み、大砲による砲撃を連日浴びせかけました。会津側も必死に応戦しますが、城は次第に追い詰められていきます。
■ 市中への砲撃と女性・子どもの戦い
籠城戦の悲惨さは、城内にこもったのが武士だけではなかったことにあります。逃げ場を失った女性や子ども、老人までもが城に入り、籠城に加わりました。
女性たちは、負傷者の手当て、炊き出し、弾薬づくりなどを担いました。なかには、髪を切り、男装して戦いに加わった女性もいたと伝えられています。新政府軍の砲弾が城内に降りそそぐなか、会津の人々は身分や性別を超えて、城を守ろうとしたのです。
■ 1868年9月22日の開城
1ヶ月にわたる籠城のなかで、城内の食料と弾薬は底をつき、負傷者もあふれていました。これ以上の抵抗は、罪のない人々の犠牲を増やすだけ——。そう判断した松平容保は、ついに降伏を決意します。
1868年9月22日、鶴ヶ城は開城しました。城門には、降伏を意味する白い旗が掲げられたと伝えられています。こうして、会津戦争は会津藩の敗北という形で幕を閉じたのです。
※現在の鶴ヶ城の見どころ・アクセスについては鶴ヶ城(会津若松城)の記事もあわせてご覧ください。

1ヶ月もよく持ちこたえたわね。それでも最終的に開城したのは、やっぱり苦渋の決断だったの?

そうなんだ。食料も弾薬も尽きて、城内には女性や子ども、傷ついた人たちがあふれていた。「もう、これ以上みんなを死なせるわけにはいかない」——容保にとって、開城は誰よりも重い決断だったんだよ。
■ 白虎隊の出陣と飯盛山の悲劇

城下が危機におちいるなか、会津藩はあらゆる戦力を投入せざるを得なくなります。そこで前線へ送り出されたのが、本来は予備戦力だった少年部隊白虎隊でした。
白虎隊は、会津藩が年齢別に編成した部隊のひとつで、16〜17歳の少年で構成されていました。今でいう中学2年生〜高校1年生にあたる年齢です。
会津藩は四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)になぞらえて部隊を分けており、白虎隊は本来、最も若く、後方を守る予備戦力という位置づけでした。それが戦況の悪化で、実戦に投入されることになったのです。
前線へ向かった白虎隊のうち、士中二番隊の20名は退却の途中で敵に追われ、飯盛山へとたどり着きます。そこから城下を見下ろした少年たちの目に映ったのは、黒煙に包まれた会津若松の町でした。
少年たちは、その煙を見て「城が落ちた」と思い込みます。主君の城が燃え、もはや戦う意味も逃げる場所もない——。そう絶望した彼らは、飯盛山で集団自刃を遂げてしまうのです。

城が燃えている……。もう、城は落ちた。武士として、おめおめ生き恥をさらすわけにはいかぬ。ならば我々も、ここで……。
ところが——実は、このとき鶴ヶ城はまだ落ちていませんでした。少年たちが見た煙は、城下町から立ちのぼるもので、城そのものは持ちこたえていたのです。「落城」という誤認が、20名の若い命を奪った——これが白虎隊の悲劇の核心です。
そして、この20名のうち、ただ一人だけ命をとりとめた少年がいました。飯沼貞吉です。自刃を図ったものの一命をとりとめ、陸軍の電信技師として明治の近代化に貢献しながら、76歳(1931年・昭和6年)まで生き続け、白虎隊の最期を後世へ語り伝えた唯一の生き証人となりました。晩年に残した証言があったからこそ、私たちは飯盛山で何が起きたのかを知ることができるのです。
勝敗の要因 — なぜ会津は敗れたのか
会津は、藩を挙げて、ときに女性や少年までもが命をかけて戦いました。それでも、敗北は避けられませんでした。なぜ会津は敗れたのか。その理由を3つに整理してみましょう。
敗因①:近代兵器 vs 旧式装備の圧倒的な差
最大の敗因は、武器の差でした。薩摩・長州を中心とする新政府軍は、スナイドル銃などの最新の洋式銃や大砲を備え、西洋式の訓練も受けていました。一方の会津側は、旧式の銃が中心。射程でも連射でも、まったく歯が立たなかったのです。母成峠が一日で崩れたのも、この差が背景にありました。
敗因②:奥羽越列藩同盟の崩壊と孤立
31藩が結束した奥羽越列藩同盟も、新政府軍の進撃の前にもろくも崩れていきました。各藩の足並みはそろわず、戦況が悪化すると、降伏する藩が相次ぎます。同盟の中心だった仙台藩・米沢藩も会津より先に降伏し、会津は次第に孤立無援に追い込まれていきました。
敗因③:「朝敵」という大義名分の差
新政府軍は、天皇の軍を意味する「官軍」を名乗り、錦の御旗を掲げていました。これに対し会津は「朝敵」とされ、戦う前から「正義は新政府にある」という空気がつくられていたのです。この大義名分の差は、味方を集めるうえでも、戦意を保つうえでも、会津にとって大きな重荷となりました。

つまり会津は、「武器」でも「味方」でも「大義名分」でも不利だったんだ。どれか一つだけなら粘れたかもしれないけど、3つ全部が重なってしまった。会津の敗北は、勇気や覚悟が足りなかったからではなく、時代の大きな流れに飲み込まれた結果だったんだよ。しかも、会津の悲劇は敗北で終わらなかった。降伏後の旧会津藩士は、のちに屯田兵として北の大地に渡る者も出るなど、過酷な運命をたどることになるんだ……。
松平容保の苦悩と降伏後の生涯
会津戦争を語るうえで欠かせないのが、会津藩主松平容保の存在です。容保は決して好戦的な人物ではありませんでした。むしろ生真面目で、命じられた役目をひたすら誠実に果たそうとした人でした。
会津藩には、藩祖・保科正之が残した「将軍家に一心に尽くせ。他藩のまねをしてはならない」という家訓がありました。容保はこの教えを誰よりも忠実に守ったのです。
幕末、容保は京都守護職という、京都の治安を守る重い役職を任されます。新選組を配下に置き、過激な攘夷派を取り締まったことで、容保は薩摩・長州から「敵」とみなされていきました。誠実に役目を果たしたことが、皮肉にも会津を朝敵への道へと押しやってしまったのです。

私は逆賊ではない。ただ藩祖の教えに従い、将軍家に尽くしただけだ……。それのどこが、罪だというのか。
■ 孝明天皇との深い絆
容保の誠実さは、当時の天皇である孝明天皇に深く信頼されていました。孝明天皇は容保の働きをたたえ、感謝の気持ちをつづった御宸翰(天皇直筆の手紙)を容保に与えています。
容保はこの御宸翰を、生涯肌身離さず大切に保管していたといわれます。「自分は天皇に背いた逆賊ではない」——その証として、容保にとってこの手紙は何よりも大切なものだったのです。

■ 降伏後の処遇と日光東照宮での晩年
鶴ヶ城の開城後、容保は死を覚悟していました。しかし処刑は免れ、謹慎処分となります。長男・容大に家名の存続が許され、容保自身もやがて赦免されました。
そして1880年(明治13年)、容保は日光東照宮の宮司に就任します。徳川家康をまつる聖地の神主として、かつて命をかけて忠義を尽くした将軍家の祖先に、最後まで仕える形となったのです。1893年(明治26年)、容保は57歳でその生涯を閉じました。
もし容保が戦わずに早く降伏していれば、白虎隊の悲劇も、城下を巻き込んだ凄惨な籠城戦も避けられたかもしれません。しかし当時の容保には「降伏=藩祖の家訓を裏切ること」という重圧がありました。家訓を守る誇りと、藩士・領民の命を守る現実——その二つの板挟みこそが、容保最大の苦悩だったのです。歴史に「もし」はありませんが、彼の選択の重さを想像すると、会津の悲劇がより立体的に見えてきます。

戦いの責任者だった容保が、処刑されずに神主として生き延びたなんて意外……。複雑な気持ちになるわね。

そうだよね。でも容保にとっては、生き延びること自体が苦しみだったとも言われているんだ。多くの藩士を死なせた責任を背負いながら、孝明天皇の手紙だけを心の支えに生きた——そう考えると、彼の晩年はけっして安らかなものじゃなかったのかもしれないね。
会津の悲劇の続き — 斗南藩への転封
会津の悲劇は、鶴ヶ城の開城では終わりませんでした。降伏した旧会津藩士たちには、新政府からさらに過酷な運命が待っていたのです。
1869年(明治2年)、旧会津藩は斗南藩として、現在の青森県・下北半島への移住を命じられます。会津からはるか北、本州最北端の僻地への事実上の追放でした。
📌 斗南藩:1869年に旧会津藩士が移された青森県下北半島の藩。名目上の石高は3万石とされたが、実際は冷害の多いやせた土地で収穫はわずか。多くの藩士が飢えと厳しい寒さに苦しんだ。
下北半島は冬の寒さが厳しく、農業にも向かない不毛の土地でした。藩士たちは粗末な小屋で雪をしのぎ、犬の肉や野草を食べてかろうじて命をつないだといわれます。「これは移封という名の懲罰だ」——旧会津藩士たちは、薩長への深い恨みを抱きながら、極寒の地で必死に生き延びようとしたのです。
それでも会津人の意地は折れませんでした。斗南で苦難を耐えた人々の中からは、後に東京帝国大学総長となった山川健次郎のように、明治の世で活躍する人材が数多く育っていきます。敗者となってもなお、教育を重んじた会津の気風が受け継がれていたのです。
📌 現代にも残る会津と薩長の確執:会津若松市と山口県萩市(旧長州藩)の間には、戊辰戦争の記憶からくる感情のしこりが長く残ったといわれる。1980年代以降、両市の和解・友好の動きも生まれているが、「会津の人は今も長州を許していない」と語られることもあるほど、この戦いが地域に刻んだ傷は深かった。

でも、なぜ会津だけがそんなに厳しく罰せられたの?ほかにも新政府に逆らった藩はあったはずよね?

大きな理由は2つあるよ。1つは、会津が京都守護職として薩長の仲間をたくさん取り締まっていたこと。つまり薩長にとって会津は「最大のうらみの相手」だったんだ。もう1つは、奥羽越列藩同盟の中心になって最後まで激しく抵抗したこと。新政府は「逆らうとこうなる」という見せしめとして、あえて会津を重く罰したと考えられているんだよ。
この戦いが変えたもの — 会津戦争の歴史的意義
会津戦争は、ただの一地方の戦いではありませんでした。この戦いの結末は、明治という新しい時代の形を大きく決定づけたのです。
会津戦争が変えたもの:①東北最大の反抗勢力の壊滅 → 明治政府による全国統一の加速 ②「白虎隊」という悲劇の象徴の誕生 ③薩長 vs 会津という地域的確執の起源(現代にも続く)
■ 明治新政府の確立への道
会津は、新政府に抵抗する東北勢力の中心でした。その会津が陥落したことで、奥羽越列藩同盟は完全に崩壊。翌1869年の箱館戦争(五稜郭の戦い)を最後に、戊辰戦争は終結します。会津戦争での勝利は、明治政府が日本全国を支配下に置くための、決定的な一歩となったのです。
■ 「賊軍」の汚名と白虎隊の美談化
戦いに敗れた会津には、長く「賊軍(朝敵)」という汚名がつきまといました。明治以降、旧会津藩士は官職に就きにくいなど、目に見えない差別を受けたともいわれます。
一方で、白虎隊の悲劇は時を経て「美談」として語り継がれていきます。少年たちの忠義と純粋さが、明治・大正・昭和を通じて教育の題材として持ち上げられ、飯盛山には今も多くの人が訪れます。けれども、ここには注意が必要です。
白虎隊の自刃を「忠義の美談」として称えることには、危うさもあります。実際には、10代の少年たちが追い詰められ、誤解の中で命を絶った悲劇でした。それを「立派な死」と美化しすぎると、「お国のために死ぬのは尊い」という考えを正当化することにもつながりかねません。事実、戦時中にはこの物語が国威発揚に利用された面もありました。悲劇を悲劇として直視することこそ、彼らの死から学ぶべき本当の教訓なのかもしれません。
■ 150年後の和解への動き
会津と薩長の確執は、150年以上たった今もなお完全には消えていないといわれます。それでも近年は、戊辰戦争150年(2018年)を機に、会津と旧薩長地域との交流や和解の取り組みも進められています。歴史の傷をどう乗り越えていくか——会津戦争は、現代を生きる私たちにも問いを投げかけているのです。

「歴史は勝者が書く」とよく言われるよね。会津戦争はまさにその典型で、長いあいだ会津は「賊軍」として語られてきたんだ。でも本当に大切なのは、勝った側だけじゃなく、敗れた側の記憶や思いにも目を向けること。会津の物語は、そんな「歴史の見方」そのものを教えてくれるんだよ。
テストに出るポイント&覚え方
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:白虎隊の「白」は、城下が炎に包まれた白い戦場を象徴するイメージで覚えると印象に残りやすい。生還者の飯沼貞吉は、唯一の生き証人として後年に証言を残し、白虎隊の最期を後世に伝えた人物としてセットで覚えておこう。

白虎隊が飯盛山で自刃した理由って、結局なんだったの?テストで聞かれたら、どう答えればいい?

ポイントは「誤認」だよ。飯盛山に退いた少年たちは、城下が燃えているのを見て「鶴ヶ城が落ちた」と思い込んでしまったんだ。でも実際には城はまだ落ちていなくて、籠城戦は続いていた。つまり、悲劇的な思い違いによる自刃だったんだね。テストでは「城が落ちたと誤認して自刃した」と書ければバッチリだよ!
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よくある質問(FAQ)
1868年(明治元年)に起きた戊辰戦争の一戦です。新政府軍 vs 奥羽越列藩同盟(会津藩中心)の戦いで、約1ヶ月の籠城戦の末、会津藩が降伏しました。白虎隊の悲劇や鶴ヶ城の籠城戦で知られる、戊辰戦争最大級の激戦です。
鶴ヶ城のあたりが燃えているのを見て「城が落ちた」と誤認したためです。実際には籠城戦はまだ続いており、これは悲劇的な誤解による自刃でした。生き残った飯沼貞吉が後年に証言を残したことで、その最期が後世に伝わりました。
主な要因は3つです。①近代兵器(洋式銃・大砲)の差、②奥羽越列藩同盟の連携不足と相次ぐ離脱、③援軍の不到着。兵士の数では戦えても、新政府軍との装備差が致命的でした。
降伏後は謹慎処分となりましたが、処刑は免れました。やがて赦免され、1880年(明治13年)に日光東照宮の宮司に就任。1893年(明治26年)に57歳で死去しました。孝明天皇から賜った御宸翰を生涯大切に保管していたといわれます。
降伏後の旧会津藩士が移された、青森県・下北半島の藩です(1869年)。名目上の石高は3万石とされましたが、実際は冷害の多いやせた土地で、多くの藩士が飢えと厳しい寒さの中で苦難を強いられました。
まとめ
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1868年1月鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争の開戦)
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1868年3月奥羽越列藩同盟の動きが本格化
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1868年8月21日母成峠の戦い(会津守備隊が崩壊)
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1868年8月23日白虎隊出陣・飯盛山の悲劇
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1868年8月23日鶴ヶ城の籠城戦が始まる
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1868年9月22日鶴ヶ城開城・会津藩降伏
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1869年旧会津藩士、斗南藩(青森)へ転封
-
1880年松平容保、日光東照宮の宮司に就任

以上、会津若松の戦い(会津戦争)のまとめでした!白虎隊の悲劇は今も飯盛山に残っているよ。興味がある人は鶴ヶ城の記事も読んでみてね!
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「会津戦争」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「白虎隊」(2026年6月確認)
コトバンク「松平容保」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。



