鶴ヶ城(会津若松城)の見どころ・アクセス・歴史をわかりやすく解説!

鶴ヶ城(会津若松城)
この記事の目次 23項目はじめに
  1. 鶴ヶ城(会津若松城)とは?——3行でわかる会津のシンボル
  2. 日本唯一!赤瓦の天守はなぜ赤い?
  3. 鶴ヶ城の歴史——戦国から幕末まで
    1. 蘆名氏と伊達政宗——戦国の会津争奪戦
    2. 蒲生氏郷の大改築と「鶴ヶ城」の命名
    3. 保科正之と松平氏——江戸時代の会津藩
  4. 幕末の悲劇——戊辰戦争と1ヵ月の籠城
    1. 約1ヵ月の籠城——落ちなかった理由
    2. 白虎隊の少年たち——飯盛山から見た鶴ヶ城
    3. 鶴ヶ城で銃を取った女——新島八重の決意
  5. 鶴ヶ城の見どころ——天守閣から茶室まで
    1. 天守閣(郷土博物館)と最上階からの絶景
    2. 茶室麟閣——千利休の養子・少庵ゆかり
    3. 廊下橋・走長屋・石垣
  6. 桜の名所としての鶴ヶ城——約1,000本のソメイヨシノ
  7. 周辺スポット&グルメ——鶴ヶ城と合わせて楽しもう
    1. 飯盛山(白虎隊の史跡)
    2. お土産・御城印
    3. 周辺グルメ(ソースかつ丼・喜多方ラーメン)
  8. 鶴ヶ城・会津の歴史をもっと深く知るおすすめ本
  9. よくある質問
  10. アクセス・拝観料——行く前に確認!
  11. まとめ——鶴ヶ城(会津若松城)に行く前に知っておきたいこと
もぐたろう
もぐたろう

今回は鶴ヶ城(会津若松城)について、見どころ・アクセス・歴史をわかりやすく丁寧に解説していくよ!修学旅行でも観光旅行でも、行く前にぜひ読んでみてね!

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戊辰戦争の全体像はYouTubeでも解説しています◎

【戊辰戦争】鳥羽・伏見から五稜郭まで|江戸開城・上野戦争・奥羽越列藩同盟・会津戦争・箱館戦争【高校日本史】YouTubeで見る
この記事を読んでわかること
  • 鶴ヶ城(会津若松城)の基本情報(3行でわかるまとめ)
  • 日本唯一の赤瓦天守——なぜ赤いのかの理由
  • 蒲生氏郷・保科正之・松平容保が動かした城の歴史
  • 戊辰戦争・白虎隊と鶴ヶ城の悲劇の関係
  • 天守閣・茶室麟閣など見どころの解説
  • アクセス・入場料・桜の名所情報(修学旅行・観光に役立つ実用情報)
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鶴ヶ城(会津若松城)とは?——3行でわかる会津のシンボル

会津若松の空にそびえる、真っ赤な屋根を持つ天守閣——。あの鮮やかな赤瓦、実は最初からあったものではありません。

1965年に再建されたとき、天守閣の屋根は黒瓦でした。現在見られる赤瓦は、2011年に46年ぶりに幕末当時の姿へ”復元”されたものなのです。しかも赤瓦の天守閣は、日本全国を探してもここ1城だけ。

修学旅行や観光で「難攻不落の城」として知られる鶴ヶ城ですが、1868年(慶応4年)の戊辰戦争ぼしんせんそうでは約1ヵ月にわたる砲撃を受けながら一度も落城しませんでした。城を信じた白虎隊びゃっこたいの少年たちの思いとともに、この記事で詳しく解説していきます。

鶴ヶ城(会津若松城)全景——日本唯一の赤瓦天守閣
鶴ヶ城(会津若松城)全景——日本唯一の赤瓦天守閣 © Σ64, Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
鶴ヶ城(会津若松城)3行まとめ
  • 福島県会津若松市にある日本唯一の赤瓦天守閣。現天守閣は1965年再建・2011年に赤瓦復元。
  • 1384年に築城、戦国期に蒲生氏郷がもううじさとが「鶴ヶ城」と命名した約640年の歴史を持つ城。
  • 幕末・戊辰戦争では約1ヵ月の籠城戦の舞台となり、白虎隊の悲劇と深く結びつく国指定史跡・日本100名城。

鶴ヶ城つるがじょうは、福島県会津若松市に位置する城郭で、正式名称は「会津若松城」といいます。かつては「黒川城」「東黒川館」「若松城」とも呼ばれてきました。

国指定史跡であり、「日本100名城」にも選定されています。天守閣は現在、郷土博物館として一般公開されており、最上階からは磐梯山ばんだいさんや猪苗代湖いなわしろこを一望する絶景が楽しめます。

春には約1,000本の染井吉野ソメイヨシノが咲き誇り、「日本さくら名所100選」にも選ばれた屈指の花見スポット。赤瓦×桜のコントラストは、全国でもここだけの光景です。

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日本唯一!赤瓦の天守はなぜ赤い?

あゆみ
あゆみ

鶴ヶ城って屋根が赤いの!?他のお城と全然違う!なんで赤いんだろう?

もぐたろう
もぐたろう

実はあの赤い瓦、会津の極寒の冬が生んだ必然なんだよ!「赤い理由」を紐解いていくね。

会津地方の冬は厳しく、気温が氷点下になる日が続きます。江戸時代初期、会津藩主として入封した保科正之ほしなまさゆきは、ある深刻な問題に直面していました。

当時の城の屋根に使われていた黒瓦は、吸水性が高く、雪解け水が染み込んで凍ると割れてしまうのです。毎年冬になるたびに瓦が割れ、修繕が繰り返される——これでは城の維持費が莫大になる一方です。

保科正之
保科正之

会津の冬は厳しい。黒瓦では凍えて割れてしまう。もっと丈夫な瓦を作れ——民を守るためにも、城を長く保つためにも。

保科正之は、陶磁器の技術者に命じ、陶器と同様に釉薬うわぐすり(釉薬)を塗った耐寒性の瓦を開発させました。この釉薬が焼成されると酸化鉄の影響で鮮やかな赤みを帯びる——これが「赤瓦」の誕生です。

釉薬うわぐすりとは? 陶器の表面にかけるガラス質のコーティングのこと。焼くと滑らかになり、防水・耐久性が大幅に上がります。会津の赤瓦は、この釉薬を瓦に施した「釉薬瓦ゆうやくがわら」です。雪や凍結に強く、割れにくいのが特徴です。

こうして生まれた赤瓦は会津の城下町に広まり、江戸時代を通じて鶴ヶ城の象徴となりました。しかし1965年の再建時、工事費の関係から当初は黒瓦が使われました。幕末当時の赤瓦の姿が戻ってきたのは、それから46年後の2011年のことです。

現在、赤瓦の天守閣は日本全国でここだけ。会津の極寒の冬と、名君・保科正之の知恵が生んだ、唯一無二の存在なのです。

鶴ヶ城の赤瓦天守閣——日本で唯一の釉薬瓦
© Asturio Cantabrio, Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
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鶴ヶ城の歴史——戦国から幕末まで

鶴ヶ城の歴史は、約640年前にさかのぼります。城主は蘆名→伊達→蒲生→上杉→加藤→保科(松平)と目まぐるしく交代し、それぞれの時代に異なるドラマを刻んできました。

蘆名氏と伊達政宗——戦国の会津争奪戦

1384年(至徳元年)、会津の豪族・蘆名直盛あしなただもりが「東黒川館」を築いたのが、鶴ヶ城の起源とされています。その後、蘆名氏は約200年にわたって会津を支配し続けました。

戦国時代末期、奥州の覇者を目指して急成長していた伊達政宗だてまさむねが1589年(天正17年)、摺上原すりあげはらの戦いで蘆名氏を滅ぼし、ついに会津を手中に収めます。しかしその1年後、豊臣秀吉とよとみひでよしの「奥州仕置」によって政宗は会津を没収されてしまいます。

政宗が会津を支配したのは、わずか1年ほど。しかしこの「会津を失った悔しさ」は、伊達政宗の生涯に大きな影を落とすことになります。

蒲生氏郷の大改築と「鶴ヶ城」の命名

蒲生氏郷 肖像画——鶴ヶ城を築き、城下町の礎を作った天才武将
蒲生氏郷 肖像画——鶴ヶ城を築き、城下町の礎を作った天才武将
パブリックドメイン(Wikimedia Commons)

1590年(天正18年)、豊臣秀吉の信任篤い武将・蒲生氏郷が会津に入封しました。氏郷は城を大規模に改築し、七重の天守閣を持つ壮大な城郭へと作り変えます。

氏郷はただの武将ではありませんでした。南蛮文化に精通したキリシタン大名でもあり、九州から陶磁器・漆器の職人を会津に招き、地場産業の礎も築いた文化人でもあったのです。

蒲生氏郷
蒲生氏郷

この城を「鶴ヶ城」と名付けよう。鶴は長寿と吉祥の象徴——会津の永遠の繁栄を祈ってな。この地を、日本一の城下町にしてみせる。

蒲生氏郷 急死の謎

蒲生氏郷がもううじさとは会津に入封してわずか9年後、1595年(文禄4年)に40歳という若さで急死します。死因については「病死」と記録されていますが、当時から豊臣秀次による毒殺説も囁かれていました。

氏郷が死なければ、徳川家康の天下は来なかった——そう評する歴史家も少なくありません。信長・秀吉に次ぐ天下人の器とも言われた氏郷の早すぎる死は、その後の日本史を大きく変えた出来事のひとつかもしれません。

保科正之と松平氏——江戸時代の会津藩

氏郷の後、上杉景勝・加藤嘉明・加藤明成と城主が替わり、1643年(寛永20年)に転換点が訪れます。三代将軍・徳川家光の異母弟である保科正之ほしなまさゆきが、会津藩主として入封したのです。

保科正之は「名君」として後世に称えられる人物です。年貢の軽減・飢饉対策・医療の整備など、民のための政治を徹底しました。先述の「赤瓦」の開発もこの時代のことです。

保科正之の家訓——幕末の悲劇の遠因

保科正之は晩年、会津藩の行動規範として「会津家訓15カ条」を制定しました。その第一条には「会津藩主は将軍家に二心を持つべからず」という言葉があります。

この家訓は約200年後、幕末の9代藩主・松平容保まつだいらかたもりにも受け継がれます。容保は「先祖の遺命に背けない」として徳川幕府への絶対忠誠を貫き、新政府軍と戦い続けました。名君・保科正之の誓約が、計らずも幕末の会津の悲劇を生むことになったのです。

その後、会津藩は「松平」の姓を名乗ることを許され、「会津松平家」として幕末まで続きます。徳川幕府との強い絆が、やがて幕末の悲劇の伏線になっていくのです。

保科正之 肖像画——会津藩2代藩主・徳川家光の異母弟
パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
鶴ヶ城 歴代城主の変遷
  • 1384年
    蘆名直盛が東黒川館を築城(鶴ヶ城の起源)
  • 1589年
    伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼし会津を支配
  • 1590年
    蒲生氏郷が入城・7重天守に大改築し「鶴ヶ城」と命名
  • 1643年
    保科正之(徳川家光の異母弟)が会津藩主となる。赤瓦を開発
  • 1868年
    戊辰戦争・鶴ヶ城籠城戦。約1ヵ月の籠城ののち松平容保が降伏
  • 1874年
    明治政府の命令で天守閣・城郭が解体・撤去
  • 1965年
    天守閣を鉄筋コンクリートで再建(黒瓦)。郷土博物館として公開
  • 2011年
    屋根瓦を黒瓦から赤瓦に葺き替え。幕末当時の姿に復元

幕末の悲劇——戊辰戦争と1ヵ月の籠城

1868年(慶応4年)、日本を二分する戦争が勃発します。戊辰戦争ぼしんせんそう——明治新政府軍(薩摩・長州を中心とする「薩長」)と、旧幕府勢力との内戦です。

会津藩主・松平容保まつだいらかたもりは幕末期、「京都守護職きょうとしゅごしょく」として幕府のために京の治安を守り続けました。その立場から、会津藩は「賊軍」として新政府軍の標的となります。

戊辰戦争期の薩摩藩士(Felice Beato撮影・1868年頃)
戊辰戦争期の薩摩藩士 Felice Beato撮影(パブリックドメイン)/Wikimedia Commons

約1ヵ月の籠城——落ちなかった理由

1868年8月下旬、新政府軍が会津盆地に侵入し、鶴ヶ城の包囲が始まりました。城内には家臣・女性・子供を含む2,000人以上が籠城。城下は次々と炎上し、2,000発以上の砲弾が城に降り注いだといわれています。

それでも鶴ヶ城は落ちませんでした。その理由は3つあります。

難攻不落だった理由①:強固な石垣と土塀 野面積み・布積みを組み合わせた高さ20m超の石垣。砲弾を受けても崩れにくい構造でした。

難攻不落だった理由②:走長屋の備蓄 城内の走長屋はしりながやには、米・塩・弾薬が大量に備蓄されていました。1ヵ月の籠城を支えた兵站(ロジスティクス)の要です。

難攻不落だった理由③:籠城の覚悟 城内の人々は「城と運命をともにする」という覚悟で戦い続けました。特に女性たちも武器を取り、敵と戦ったという記録が残っています。

白虎隊の少年たち——飯盛山から見た鶴ヶ城

ゆうき
ゆうき

修学旅行で飯盛山に行くんだけど、白虎隊って鶴ヶ城とどう関係があるの?

もぐたろう
もぐたろう

白虎隊は16〜17歳の会津藩の少年たちで組まれた部隊なんだ。飯盛山から煙が上がる鶴ヶ城を見て「城が落ちた」と誤信して……という悲劇があるんだよ。

白虎隊は会津藩が編成した16〜17歳の少年たちによる部隊です。籠城戦が激化するなか、飯盛山いいもりやまに逃れた一隊は、鶴ヶ城のある方角から黒煙が上がるのを目にします。

「城が落ちた……。もはや戦いは終わりだ」——。実際には城はまだ健在でした。しかし少年たちは誤信し、19名がその場で自刃しました(うち1名は一命を取り留めたとされています)。

彼らが信じ、命を捧げた城——それが鶴ヶ城です。飯盛山から今もその姿を眺めることができ、修学旅行で両方を訪れる人が後を絶ちません。

鶴ヶ城で銃を取った女——新島八重の決意

籠城戦の中で、ひとりの女性が男装して銃を手に戦っていた——。その名は新島八重にいじまやえ(当時・山本八重)、後に「幕末のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれる女性です。

八重の兄・山本覚馬やまもとかくまは会津藩の砲術師範であり、幼い頃から八重は兄に砲術を習っていました。戊辰戦争が始まると、覚馬は京都で捕えられ不在。八重は自らスペンサー銃(当時の最新鋭連発銃)を手に取り、鶴ヶ城内で砲弾を撃ち込んでくる新政府軍と戦いました。

当時24歳。短く切った髪に男物の着物姿で城内を飛び回り、「お城が陥落する前に自分が死ぬ」と覚悟を決めての戦いでした。八重は鶴ヶ城降伏まで戦い続け、生き延びます。

その後、八重は同志社大学の創設者・新島襄にいじまじょうと結婚。日本初の女子大学設立に尽力し、明治・大正時代を力強く生き抜きました。NHK大河ドラマ「八重の桜」(2013年)でその生涯が描かれ、再び広く知られるようになりました。

新島八重とスペンサー銃 スペンサー銃は当時の最新型7連発ライフルで、通常の火縄銃や旧式銃とは比べものにならない連射性能を持っていました。新政府軍がこの銃を持っていたのに対し、会津側にも一部使用者がいました。八重はその使い手として知られています。

1868年9月22日(旧暦・新暦では11月6日)、松平容保はついに降伏。約1ヵ月の籠城戦が幕を閉じました。その後、会津藩は廃藩となり、1874年(明治7年)には明治政府の命令で天守閣が解体されます。

赤瓦の城が再びその姿を現すのは、解体から91年後の1965年のことでした。

鶴ヶ城の見どころ——天守閣から茶室まで

鶴ヶ城の魅力は天守閣だけではありません。茶室・廊下橋・走長屋・石垣と、場内には見どころが数多くあります。順番に解説していきます。

天守閣(郷土博物館)と最上階からの絶景

ゆうき
ゆうき

修学旅行で天守閣に登るんだけど、上から磐梯山が見えるって本当?

もぐたろう
もぐたろう

本当だよ!最上階(5階)からは磐梯山と猪苗代湖が一望できるんだ。晴れた日は絶景だよ!城の全景と会津盆地が広がる景色は、天守閣に登った人だけの特権だね。

現在の天守閣は1965年に建てられた鉄筋コンクリート造、地上5重5階建てです。1〜4階は郷土博物館として会津の歴史・文化が展示されています。

各フロアのテーマは、会津の歴史(1〜2階)・幕末の籠城戦と白虎隊(3〜4階)と、時代を追って学べる構成になっています。修学旅行では特に3〜4階の展示が充実しており、戊辰戦争の経緯を詳しく知ることができます。

最上階(5階)は展望台になっており、360度の大パノラマが広がります。西には磐梯山(1,816m)、東には猪苗代湖、眼下には会津盆地の街並み——天気のよい日には那須連山まで見渡せることもあります。

茶室麟閣——千利休の養子・少庵ゆかり

天守閣のそばに、ひっそりとたたずむ茶室があります。名前は「麟閣りんかく」。これは千利休せんのりきゅうの養子・少庵しょうあんが会津で建てたと伝わる茶室です。

千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられた後、その養子・少庵は蒲生氏郷に匿われて会津に身を寄せ、茶の湯を広めました。麟閣はその活動の中で建てられたと伝えられており、福島県指定重要文化財に指定されています。

現在も茶会体験が可能で、静寂の中で一服のお茶を楽しむことができます。赤瓦の天守閣と対照的な、侘び寂びの空間——観光旅行で訪れるあゆみさん世代にも特に人気のスポットです。

廊下橋・走長屋・石垣

城内には、天守閣・麟閣以外にも見逃せないスポットがあります。

廊下橋ろうかばしは、天守閣と二の丸を結ぶ復元された木橋です。幕末当時の絵図をもとに復元されており、城の雰囲気をより深く感じられます。

走長屋はしりながやは、かつて城の外郭を走るように続いていた長い建物です。現在は会津の工芸品・お土産を販売するショップとして活用されています。籠城戦ではここに弾薬や食料が蓄えられ、1ヵ月の籠城を支えた重要施設でした。

鉄門くろがねもん(くろがねもん)は、かつて天守曲輪の入口にあった門で、現在は復元されています。石垣は会津の職人たちが積み上げた「野面積み(のずらつみ)」「布積み(ぬのつみ)」を組み合わせた構造で、2,000発の砲撃にも耐えた強固さの秘密が垣間見えます。

鶴ヶ城天守閣最上階(5階)からの眺め——磐梯山方面を望む
鶴ヶ城天守閣最上階(5階)からの眺め——磐梯山方面を望む
© George N, Wikimedia Commons / CC BY 2.0

桜の名所としての鶴ヶ城——約1,000本のソメイヨシノ

あゆみ
あゆみ

春に行きたいな〜!桜の時期はいつがおすすめ?夜桜ライトアップはある?

もぐたろう
もぐたろう

例年4月中旬〜下旬が見頃だよ!日本さくら名所100選にも選ばれてて、夜はライトアップもあるんだ。赤瓦の天守閣と桜のコントラストは全国唯一の光景——ぜひ一度は見に行ってほしいな!

鶴ヶ城公園には、約1,000本の染井吉野ソメイヨシノが植えられています。1990年に「日本さくら名所100選」に選ばれた、東北屈指の花見スポットです。

会津若松の桜の見頃は例年4月中旬〜下旬頃です。東北の中でも比較的遅めの開花となるため、東京や仙台で桜が散った後でも楽しめるのが魅力のひとつ。

日没後には夜桜ライトアップが行われ、赤瓦の天守閣が暗闇に浮かび上がる光景は圧巻です。昼間とはまったく異なる幻想的な雰囲気に、毎年多くの花見客が訪れます。

桜シーズンの注意:4月中旬〜下旬の土日祝は大変混雑します。駐車場が満車になることが多いため、バス(ハイカラさん・あかべぇ)の利用をおすすめします。開花状況は年によって異なるため、鶴ヶ城公式サイトや会津若松市観光課の最新情報をご確認ください。

また、毎年秋には「会津まつり」も開催され、武者行列や会津藩公行列が城下を練り歩きます。幕末の歴史ファンにとってもたまらないイベントです。

春の鶴ヶ城——赤瓦と青空のコントラスト
鶴ヶ城——赤瓦と青空のコントラスト
© Σ64, Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

周辺スポット&グルメ——鶴ヶ城と合わせて楽しもう

鶴ヶ城周辺には、歴史ファンも観光旅行者も満足できるスポットとグルメが揃っています。修学旅行では鶴ヶ城と合わせてぜひ訪れてほしい名所をご紹介します。

飯盛山(白虎隊の史跡)

飯沼貞吉——白虎隊19人のうち唯一の生還者。後に明治政府の電信技師として働いた
飯沼貞吉——白虎隊19人のうち唯一の生還者。後に明治政府の電信技師として働いた
パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
ゆうき
ゆうき

修学旅行で飯盛山にも行くんだけど、鶴ヶ城から近いの?何を見ればいい?

もぐたろう
もぐたろう

鶴ヶ城から車で約10分・徒歩だと約30〜40分のところにあるよ!白虎隊19名のお墓・自刃の地・さざえ堂(国重要文化財)が見どころだよ。鶴ヶ城とセット訪問が定番コースなんだ。

飯盛山いいもりやまは、白虎隊ゆかりの史跡として全国的に知られる会津のシンボル的な場所です。山頂近くには白虎隊19名の墓が並び、自刃の地からは今も鶴ヶ城の方角を望むことができます。

境内にあるさざえ堂さざえどう(正式名称:旧正宗寺三匝堂)は、1796年(寛政8年)に建てられた六角形の仏堂で、二重らせん構造の階段が上りと下りで一度も交差しない独特の設計が特徴です。国指定重要文化財であり、建築ファンにも必見の一スポットです。

飯盛山へのアクセス:会津若松駅からバス「ハイカラさん」または「あかべぇ」で「飯盛山下」下車、徒歩約5分。または鶴ヶ城からタクシー約10分。拝観自由(さざえ堂のみ有料・400円)。

お土産・御城印

あゆみ
あゆみ

御城印ってどこで買えるの?走長屋でも何か売ってる?お土産もまとめて知りたい!

もぐたろう
もぐたろう

御城印は天守閣の受付(入場口)で買えるよ!走長屋には会津漆器・赤べこ・喜多方ラーメンなどの定番お土産も揃ってるんだ。

御城印は全国各地のお城で販売される城版の御朱印です。鶴ヶ城の御城印は天守閣入場口の受付で購入できます。通常版のほか、季節や期間限定の特別デザインが販売されることもあるため、訪問前に公式サイトで確認してみてください。

城内の走長屋はしりながやは、現在は会津の工芸品・特産品を販売するショップとして活用されています。おすすめのお土産はこちらです。

会津漆器 400年の歴史を持つ伝統工芸品。椀・箸・お盆など日常使いできる漆器が揃う。

赤べこ 会津地方に伝わる郷土玩具。赤い牛の張り子で、厄除け・健康祈願の縁起物として人気。

ばぁむくぅへん 会津産の地元菓子として人気のバウムクーヘン。柔らかな食感が特徴で、土産菓子の定番。

周辺グルメ(ソースかつ丼・喜多方ラーメン)

会津若松に来たなら、地元グルメを外すわけにはいきません。鶴ヶ城周辺で食べられる2大名物を紹介します。

ソースかつ丼は会津を代表するB級グルメです。薄くスライスされたロース肉を揚げ、甘辛のソースをまとわせた一品で、ごはんの上に乗せたシンプルなどんぶりスタイルが定番。鶴ヶ城会館や会津若松市内の食堂・定食屋で広く提供されています。

喜多方ラーメンは福島県喜多方市発祥の太縮れ麺とあっさり醤油スープが特徴のラーメンです。会津若松市内にも喜多方ラーメンを提供する店が点在しており、お昼時には行列ができることも。鶴ヶ城観光のついでにぜひ一杯いかがでしょうか。

鶴ヶ城・会津の歴史をもっと深く知るおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

鶴ヶ城・戊辰戦争・白虎隊についてもっと深く知りたい人へ、ぼくのおすすめ本を3冊紹介するよ!修学旅行前に読むと、現地での体験が何倍にも深まるはずだよ。

①白虎隊の悲劇をじっくり知りたいなら|修学旅行前の必読書

16〜17歳の少年たちがなぜ飯盛山で自刃したのか、会津藩の組織・戦況・少年たちそれぞれの心情を丁寧に描いた歴史ノンフィクション小説。著者・中村彰彦は会津を何度も訪れて史料と現地を丹念に取材した作家で、修学旅行前に読むと鶴ヶ城・飯盛山の見学が格段に深まる一冊。
②戊辰戦争・会津籠城戦の全体像を知りたいなら|新書で読める入門書

1868年の鳥羽・伏見の戦いから会津落城(旧暦9月22日・新暦11月6日)までを丁寧に追った歴史新書。会津藩の危機管理・外交・軍事戦略を検証しながら、なぜ約1ヵ月の籠城が可能だったのかを解説する。著者・星亮一は仙台出身で東北・会津史に精通した歴史家。コンパクトながら読み応えは十分。
③「鶴ヶ城」を命名した蒲生氏郷に興味が湧いたなら

織田信長・豊臣秀吉に仕え、会津に入城して「鶴ヶ城」と名付けた蒲生氏郷の生涯を描いた歴史小説。著者・童門冬二は近江商人との関わりや城下町の発展に焦点を当て、氏郷を「人を育て、まちを育てた名将」として生き生きと描く。40歳で没した短命の才人の魅力が詰まった650ページ。

よくある質問

大人410円、小中学生150円です(2026年6月確認)。天守閣のみの料金となります。茶室麟閣も見学する場合は別料金が必要になりますので、詳細は鶴ヶ城公式サイトでご確認ください。

営業時間は8:30〜17:00(最終入場16:30)、年中無休です(2026年6月確認)。ただし特定期間に変更になる場合があるため、訪問前に公式サイトで最新情報をご確認ください。

例年4月中旬〜下旬が見頃です。会津若松は東北の中でも比較的遅い開花となるため、東京・仙台よりも遅めに楽しめます。夜桜ライトアップも行われ、赤瓦の天守閣と桜のコントラストが楽しめます。開花状況は年によって異なるため、公式サイトや観光協会の情報を事前にご確認ください。

天守閣の受付(入場口)で購入できます。通常版のほか、季節や特定期間に限定デザインが販売されることもあります。詳細は公式サイトまたは現地でご確認ください。

1868年の戊辰戦争で、飯盛山に逃れた白虎隊の少年たち(16〜17歳)が鶴ヶ城周辺の炎上を見て「城が落ちた」と誤信し、19名が自刃しました(うち1名は一命を取り留めたとされます)。実際には鶴ヶ城はそのとき健在でした。飯盛山から鶴ヶ城まで車で約10分で、修学旅行のセットコースになっています。

1〜4階は郷土博物館として会津の歴史・文化が展示されています。特に3〜4階の戊辰戦争・白虎隊に関する展示は充実しており、修学旅行生に人気があります。最上階(5階)は展望台になっており、磐梯山・猪苗代湖・会津盆地の絶景を一望できます。

天守閣のみなら約60〜90分、茶室麟閣・走長屋・石垣も合わせると約2時間が目安です。飯盛山とセットで訪れる場合は半日〜1日プランとなります。桜の季節・繁忙期は混雑するため、余裕を持った時間配分をおすすめします。

アクセス・拝観料——行く前に確認!

鶴ヶ城(会津若松城)基本情報

住所:福島県会津若松市追手町1-1
入場料:大人410円・小中学生150円
営業時間:8:30〜17:00(最終入場16:30)・年中無休

※鶴ヶ城公式サイトより(2026年6月確認)

電車でのアクセス:東北新幹線「郡山駅」下車 → 磐越西線に乗り換え約55分 → 「会津若松駅」下車。会津若松駅からは路線バスまたはタクシーで約15〜20分。徒歩の場合は約30分。

バスでのアクセス:会津若松駅から「ハイカラさん」(時計回り)または「あかべぇ」(反時計回り)の周遊バスが便利。「鶴ヶ城入口」バス停下車、徒歩約5分。運賃250円(大人・中学生、2026年6月確認)。

※上記の入場料・営業時間・バス運賃は2026年6月時点の情報です。変更になる場合があるため、訪問前に鶴ヶ城公式サイトで最新情報をご確認ください。

まとめ——鶴ヶ城(会津若松城)に行く前に知っておきたいこと

鶴ヶ城のポイントまとめ
  • 1384年に築城、蒲生氏郷が「鶴ヶ城」と命名した約640年の歴史を持つ城
  • 保科正之が命じた釉薬瓦が起源の日本唯一の赤瓦天守閣(現在の赤瓦は2011年復元)
  • 1868年戊辰戦争で2,000発以上の砲弾を受けながら約1ヵ月の籠城戦を耐えた難攻不落の城
  • 白虎隊の悲劇と深く結びつく幕末の象徴。飯盛山とセット訪問がおすすめ
  • 日本さくら名所100選・天守閣最上階からの磐梯山の絶景・茶室麟閣も必見
  • 入場料:大人410円。アクセス:会津若松駅から周遊バス「ハイカラさん」が便利
もぐたろう
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以上、鶴ヶ城(会津若松城)のまとめでした!赤瓦の秘密・白虎隊の悲劇・春の桜の絶景と、知れば知るほど旅が深まる会津の名城だよ。下の記事で戊辰戦争・白虎隊の歴史もあわせて読んでみてね!

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:鶴ヶ城公式サイト・会津若松市観光課・Wikipedia日本語版「鶴ヶ城」

参考文献

Wikipedia日本語版「鶴ヶ城」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「白虎隊」(2026年6月確認)
コトバンク「鶴ヶ城」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
鶴ヶ城公式サイト(tsurugajo.com、2026年6月確認)
山川出版社『詳説日本史』

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