

今回は百年戦争について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!イングランドとフランスが116年もぶつかり合った大戦争、ジャンヌ・ダルクがどうやってフランスを救ったのかも全部わかるよ!
📚 この記事のレベル:高校世界史
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
実は、ジャンヌ・ダルクは百年戦争の決着を見ていません。
「百年戦争 = ジャンヌ・ダルクがフランスを救った話」——多くの人はそんなイメージを持っているかもしれません。でも彼女が火刑に処されたのは1431年。戦争が終わったのは1453年で、その間には22年もの開きがあります。ジャンヌが実際に軍を率いたのも、1429年から捕らえられる1430年までの1年あまりにすぎませんでした。
ではフランスに勝利をもたらしたものは何だったのか。ジャンヌの死後にシャルル7世が整えた常備軍と、フランス内部の分裂を終わらせたアラス条約でした。ジャンヌが動かしたのは戦局そのものではなく、負け続けて絶望していたフランス人の「戦えばまだ勝てる」という気持ちだったのです。

じゃあジャンヌ・ダルクって、思っていたほどすごくなかったってこと?なんだか拍子抜けしちゃうわ…。

むしろ逆だよ!ジャンヌがいなかったら、巻き返す前にフランスは終わっていたはずなんだ。最後の砦オルレアンが落ちていたら、シャルル7世に軍を立て直す余裕なんて残っていなかったからね。ジャンヌは勝利そのものじゃなくて、「まだ勝てる」という可能性のほうを取り戻した人なんだよ!
百年戦争とは?3行でまとめると
- 1337年から1453年まで約116年続いた、イングランドとフランスの大戦争
- フランスが最終的に勝利し、現在の英仏国境がほぼ確定した
- ジャンヌ・ダルクが逆転のきっかけを作り、両国に「国民意識」が芽生えた
百年戦争とは、1337年から1453年にかけて断続的に行われた、イングランドとフランスの間の戦争です。「百年戦争」という名称は当時の呼び方ではなく、後の歴史家がつけたもの。実際の戦闘期間は116年のうち断続的で、何度も休戦と開戦を繰り返しました。
最終的にはフランスが勝利し、イングランドはフランス国内にあったほぼすべての領土を失います。この戦争を通じて、イングランド・フランス両国に「自分たちは同じ民族だ」という国民意識が生まれたことが、後の近代国家形成につながる重要な転換点となりました。なお、百年戦争の終結(1453年)はビザンツ帝国の滅亡とも重なり、同時期にルネサンスがヨーロッパに広がっていった時代でもありました。
📌 このとき日本は?
1337年(百年戦争開始)= 日本では南北朝時代の始まりの直前(1336年に足利尊氏が室町幕府を開く)
1392年(百年戦争の休戦期)= 日本では南北朝合一(足利義満が統一)
1453年(百年戦争終結)= 日本では室町幕府の全盛期〜応仁の乱(1467年)直前

百年戦争って正確には116年なの?なんで「百年」って呼ぶの?

「百年戦争」は後の歴史家がつけた名前で、当時の人はそう呼んでなかったんだ。1337〜1453年のざっくり1世紀を「百年」と呼んだわけ。実際には休戦期間も多くて、ずっと戦い続けていたわけじゃないよ!
百年戦争が起きた原因
百年戦争の原因は「一つ」ではありません。王位継承・領土・経済という三つの問題がこじれにこじれた結果、最終的に戦争へと発展しました。

■ 原因①:フランス王位の継承問題
1328年、フランスのカペー朝が断絶しました。跡継ぎのいなくなったフランス王位をめぐり、フランス内の有力貴族ヴァロワ家のフィリップ6世と、イングランド国王エドワード3世が衝突します。
エドワード3世はカペー朝の最後の王・シャルル4世の甥にあたりました。「自分にはフランス王位を継ぐ権利がある」と主張したのです。しかしフランス側は「女系からの王位継承は認めない(サリカ法典)」という理屈でこれを拒否し、ヴァロワ朝が成立します。この王位継承をめぐる対立が、百年戦争の最大のきっかけとなりました。
■ 原因②:フランス内のイングランド領(ギュイエンヌ)
イングランド王家はもともとフランスに広大な領土を持っていました。なかでも南西フランスのギュイエンヌ(現在のボルドー周辺)は特に重要で、良質なワインを産出するフランス有数の豊かな土地でした。
フランス王がこの土地を取り返そうとすると、イングランドは当然抵抗します。「フランス内にある土地なのにフランス王の支配下に置けない」というこの構造的矛盾が、長年にわたる対立の火種となっていました。
■ 原因③:フランドル毛織物産業をめぐる経済的対立
現在のベルギーにあたるフランドル地方は、中世ヨーロッパ最大の毛織物産業の中心地でした。フランドルの職人たちが作る高品質な毛織物は、イングランドから輸入する羊毛を原料としていました。この地域をめぐる争いは、その後のヨーロッパ商業の発展とも深く関わっています。百年戦争に先行する時代には、十字軍遠征によってヨーロッパと東方の交流が活発化し、こうした経済的な緊張が高まっていきました。
つまり、フランドルはイングランドの羊毛なしには産業が成り立たない関係にありました。ところがフランドルはフランスの影響下にあります。フランス王がフランドルを完全に支配してしまうと、イングランドの経済的利権が失われてしまう——この経済的な対立が、戦争を後押しする形になりました。

原因が3つもあって複雑すぎる…。結局一番の原因はどれなの?

「王位・土地・お金、この3つが全部こじれてどうにもならなくなった」って理解すると楽だよ!一番の直接のきっかけは①の王位継承問題。でも②と③の経済・領土問題がなければここまで長引かなかったはず。テストではこの3点セットで覚えよう!
イングランドの快進撃(前半戦)
1337年に百年戦争が始まると、前半はイングランドがほぼ一方的に優勢でした。その鍵となったのが、当時の戦場に革命をもたらした新兵器——ロングボウ(長弓)です。
■ クレシーの戦い(1346年)—— 長弓がもたらした革命
1346年8月、クレシーの戦いでイングランド軍はフランス騎士軍を圧倒的な差で破りました。この戦いを決定づけたのが、イングランドの農民兵が操るロングボウ(長弓)です。
フランス軍は当時の最強部隊とされた重装騎兵を主力としていました。全身を鉄の鎧で包んだ騎士たちが馬に乗って突進する戦法は、それまでの戦場では無敵に近い存在でした。ところがロングボウは150〜200メートルの遠距離から矢を放ち続けることができ、騎士の鎧を貫通するほどの貫通力を持っていたのです。

ロングボウって今でいうスナイパーライフルみたいなもの。重い鎧を着た騎士をはるか遠くからバタバタ倒せちゃったんだ!「最強のはずの騎士が農民の弓矢に負けた」——これが中世騎士道の終わりの始まりだよ。
クレシーの戦いでフランス軍は多数の騎士を失い(記録によれば数百〜千数百人規模)、壊滅的な敗北を喫します。この戦いは「騎士の時代の終わりの始まり」として歴史に刻まれました。
■ ポワティエの戦い(1356年)—— フランス国王を捕虜に
1356年、エドワード黒太子(エドワード3世の長男)が率いるイングランド軍はフランス中部のポワティエでフランス軍と激突します。ここでも圧倒的な差でイングランドが勝利し、なんとフランス国王ジャン2世が捕虜になるという前代未聞の事態が起きました。
一国の王が敵国に捕まったのです。この衝撃は計り知れないものでした。フランスはイングランドへの身代金として莫大な金額を支払うことになり、財政的にも大打撃を受けます。
敵国の国王を捕虜にしながらも、エドワード黒太子はジャン2世を貴賓として丁重にもてなしました。勝者が敗者の国王を宴の主役として扱うこの逸話は、中世騎士道の精神を象徴するものとして今も語り継がれています。
■ ヘンリー5世とアジャンクールの戦い(1415年)—— パリ占領
百年戦争の中盤、フランス国内ではアルマニャック派とブルゴーニュ派という二大勢力が激しく内紛を繰り広げていました。この分裂状態がイングランドにとって絶好の機会となります。
1415年、イングランド国王ヘンリー5世はアジャンクールの戦いでふたたびロングボウを駆使してフランス軍を壊滅させます。そして1420年にはトロワ条約を締結。「シャルル6世の死後、ヘンリー5世がフランス王位を継承する」という前代未聞の条件をフランスに飲ませることに成功しました。さらにパリまで占領され、フランスはいよいよ滅亡寸前の危機に瀕します。
📌 なぜ116年も続いたの?——黒死病という複合要因
百年戦争の最中の1347〜1353年、黒死病(ペスト)が欧州全土を席巻し、ヨーロッパ人口の約1/4〜1/3が死亡したとされます(地域差あり)。双方の国力が大幅に削がれたため、決定的な勝負がつかず長期化する一因となりました。
救国の少女、ジャンヌ・ダルクの登場
1422年、ヘンリー5世とフランス王シャルル6世が相次いで死去します。トロワ条約の定めにより、赤ちゃんのヘンリー6世がフランス・イングランド双方の王に即位するという事態に。本来のシャルル7世はパリを追われ、ロワール川以南の細い土地しか支配できない状態に追い詰められていました。
そんな絶望的な状況の1429年春。東北フランスのロレーヌ地方の小さな農村ドンレミから、一人の17歳の少女がシャルル7世の元に現れます。

■ 神の声を聞いた少女——ジャンヌの登場
ジャンヌは13歳の頃から「大天使ミカエル・聖女カトリーヌ・聖女マルグリットの声を聞いた」と語っていたとされています。「フランスを救うのはあなただ」——その神の啓示を信じ、家族と別れて遠い道のりをたどり、シャルル7世の宮廷へと向かったのです。
当然、宮廷の大人たちは農家の少女の言葉をまともに相手にしませんでした。しかしジャンヌの確固たる信念と、いくつかのやり取りで宮廷を驚かせた言葉によって、シャルル7世はついに彼女に軍の一部を率いることを許可します。

神のお告げが聞こえた。私はフランスを救わなければならない。
ジャンヌが登場した意義は、軍事的な才能だけではありませんでした。「神に選ばれた少女が先陣を切っている」という事実が、絶望に沈んでいたフランス兵士たちの士気を劇的に高めたのです。
■ オルレアン解放(1429年)——奇跡の9日間
当時、ロワール川沿いの要衝オルレアンはイングランド軍に包囲されていました。この城市が落ちれば、フランス側の最後の拠点が崩壊してしまいます。
ジャンヌが到着してからわずか9日間。フランス軍はイングランドの包囲をことごとく打ち破り、オルレアンを解放しました。長きにわたる包囲で消耗しきっていたフランス軍が、ジャンヌの指揮のもとで次々とイングランドの拠点を攻略していったのです。
この「オルレアン解放」は、百年戦争の流れを根底から変えるターニングポイントとなりました。ジャンヌは「オルレアンの乙女」と呼ばれ、フランス全土に希望の光をもたらします。

農家の娘がたった9日でイギリス軍を追い払ったの!?どうしてそんなことができたの?

軍事的にもジャンヌはかなり優秀だったとされてるけど、最大の貢献は「精神的な力」だと言われているよ。絶望していたフランス兵が「神の少女が来た!」って信じた瞬間に、士気が一気に上がったんだ。心理戦として考えると、ジャンヌ登場のインパクトはものすごい武器だったね!
■ 異端裁判と火刑(1431年)——「聖女」から「魔女」へ
オルレアン解放後もジャンヌは戦い続け、シャルル7世のランスでの戴冠式を実現させます。しかし1430年、コンピエーニュでの戦いでブルゴーニュ派に捕縛されてしまいます。ブルゴーニュ派はジャンヌをイングランドへ売り渡し、彼女は「魔女」「異端者」として宗教裁判にかけられました。
1431年5月30日、19歳のジャンヌはルーアンの広場で火刑に処されます。農家の娘として生まれ、1429年から1430年までのわずか1年あまりの軍事的活躍でフランスを救い、そして19歳で命を落とした——その数奇な生涯は、中世ヨーロッパ史上最も劇的な人物として今も語り継がれています。なお、同時期の中東ではオスマン帝国が台頭しており、十字軍の時代から続くヨーロッパとイスラム世界の緊張がこの時代の国際政治を形成していました。

処刑される前夜、わたしは信じていた——神は見ていると。わたしが正しいことは、いつかきっと証明される。
1431年に「異端者」として火刑に処されたジャンヌ・ダルクですが、その後の経緯は驚くべきものでした。1456年、死後25年でカトリック教会による「復権裁判」が行われ、「無実の処刑だった」と公式に認められます。そして1920年——処刑から489年後——ローマ教皇ベネディクトゥス15世によって聖人に列聖されました。カトリック教会が公式に認める「聖人」の称号を得たのです。「異端者」と「聖女」は同一人物への評価が時代によって180度変わった、歴史上最もドラマチックな逆転劇の一つといえます。
フランスの大逆転と戦争の終結
ジャンヌ・ダルクは処刑されましたが、彼女が火をつけたフランスの士気は衰えませんでした。ジャンヌの活躍を引き継いだシャルル7世は、戦後を見据えた根本的な軍制改革に着手します。
■ シャルル7世の軍制改革——常備軍の誕生
中世の戦争は「封建制」という仕組みに支えられていました。王が戦争をするとき、家臣の貴族たちが自分の農民・騎士を連れてきて戦う——この形が長年続いていたのです。しかしこの仕組みには問題がありました。戦争のたびに軍を集める手間がかかる上、常にそばにいる軍隊がないため奇襲に弱い、というわけです。
シャルル7世はこの封建的な軍から脱却し、常備軍(給料制の職業軍人による常設の軍隊)を整備しました。これが百年戦争後半における最大の戦況逆転の理由です。常備軍は訓練された兵士が常時待機しているため、迅速な対応が可能で、ロングボウや大砲などの新兵器を組み合わせた新しい戦術を取り入れることができました。この「常備軍による強力な王権」という発想は、のちにマキャヴェッリが『君主論』で論じた近代国家論の先駆けともいえます。

常備軍って今でいう「自衛隊」みたいなもの。封建制の軍は「有事のときだけ招集するバイトさん」、常備軍は「365日待機している正社員」のイメージだよ!これによってフランスの軍事力が劇的に安定したんだ。
■ ブルゴーニュ公との和解(1435年)——フランス内紛の終結
百年戦争後半で決定的だったもう一つの転換点が、フランス内部の和解でした。長年フランスを二分してきたアルマニャック派とブルゴーニュ派の対立は、イングランドに漁夫の利を与え続けていました。
1435年、アラス条約によりシャルル7世とブルゴーニュ公フィリップ善良公が和解します。これによってフランス内の内紛が終結し、イングランドはヨーロッパ大陸で孤立していきます。翌1436年にはパリもフランスの手に戻りました。
■ 戦争の終結(1453年)——カスティヨンの戦いとイングランドの撤退
1453年7月、カスティヨンの戦いでフランス軍は大砲(火砲)を用いてイングランド軍を壊滅させます。この戦いがイングランドの大陸における最後の大規模な戦闘となりました。1453年はまた、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の滅亡(ルネサンスの加速に影響)や、オスマン帝国のコンスタンティノープル征服と重なる、中世ヨーロッパ史の大きな転換点の年でもあります。
イングランドはフランス内のほぼすべての領土を失い、残ったのはカレーのみ。このカレーも1558年(メアリー1世の治世末期・エリザベス1世即位直前)にフランス軍に奪還されます。こうして116年にわたる百年戦争は、フランスの勝利で幕を閉じたのです。

百年戦争って結局誰が勝ったの?イギリスとフランスどっちが強かったの?

最終的な勝者はフランスだよ!前半はイングランドがボロ勝ちしていたのに、ジャンヌ・ダルクの登場+シャルル7世の軍制改革で完全に逆転したんだ。イングランドはカレーを除く大陸の領土をすべて失って、「もうヨーロッパの大陸には関わらない」という方向へシフトしていくことになるよ。
📌 百年戦争の後日談——薔薇戦争の勃発
百年戦争で疲弊したイングランドでは、帰国した貴族たちが権力争いを始めます。ランカスター家(赤バラ)とヨーク家(白バラ)の王位継承争い、薔薇戦争(1455〜1485年)が勃発。百年戦争の後遺症が、イングランドの内戦を引き起こしたのです。
百年戦争がヨーロッパを変えた理由
百年戦争は単なる「イングランドとフランスの国境争い」ではありませんでした。116年間の戦争を通じて、中世ヨーロッパの根本的な仕組みそのものが変わってしまったのです。
■ 封建制の衰退と騎士の時代の終わり
中世ヨーロッパを支えていた封建制とは、「王→貴族→騎士→農民」という主従関係の連鎖で社会を成り立たせる仕組みです。軍事面では、重い鎧に身を包んだ騎士(重装騎兵)が戦いの主役でした。騎士は長年の訓練を積んだ「戦争のプロ」であり、彼らの存在こそが封建社会の軍事的基盤だったのです。
しかし百年戦争は、その騎士の神話を完全に打ち砕きました。1346年のクレシーの戦いで、イングランドの農民兵が放つロングボウの矢が、重い鎧を着た騎士たちを次々と貫いたのです。さらに戦争の後半では大砲(火砲)が登場し、どんな騎士の甲冑も大砲の前では無力でした。1453年のカスティヨンの戦いはまさに、大砲がイングランド軍を壊滅させた「火薬兵器の勝利」だったのです。
騎士が戦場で役に立たなくなれば、騎士を養う封建社会の仕組みそのものが揺らぎます。「強い騎士を多く持つ者が強い」という論理が崩れ、「お金を出して職業兵士(傭兵・常備軍)を雇える者が強い」という新しい時代が到来しました。
■ 国民意識(ナショナリズム)の誕生
百年戦争以前、一般の農民や職人にとって「国家」という概念はほとんどありませんでした。「私はフランス人だ」という意識より、「私はこの村の農民だ」という感覚の方がずっと強かったのです。
しかし百年戦争は、この意識を根本から変えました。外敵(イングランド)と長期間戦い続けることで、「私たちフランス人が一つになって戦っている」という共同体意識が芽生えたのです。ジャンヌ・ダルクはその象徴でした。農家の娘が「フランスを救う」と叫び、実際に人々を動かした——このことが「フランス」というアイデンティティを、王侯貴族だけのものから民衆のものへと広げたのです。
イングランド側でも同様の変化が起きました。フランス内の領土を失い、「島国イングランド人」としての自意識が強まっていきます。この「国民意識(ナショナリズム)」の萌芽こそ、近代国民国家誕生の原点の一つとされています。

国民意識って、現代の「自分は日本人だ」って感覚の源流がここにあるってこと?なんか壮大な話だ……。

そうなんだ!今の「フランス人」「イギリス人」というアイデンティティの源流は、百年戦争にある、といっても過言じゃないよ。戦争が生み出した「私たち」という意識——これが近代ヨーロッパの基礎になっていくんだよね。
■ 中央集権国家への道
百年戦争を通じて、フランス・イングランド両国で「王権の強化」が進みました。その最大の要因が、シャルル7世が整備した常備軍です。常備軍を維持するにはお金がかかります。王は軍資金を集めるために、全国から税を徴収する仕組みを整えました。これが今日の「財務省」「税務署」に相当する機能の原型です。
税を集め、常備軍を持ち、強力な官僚組織を整える——これが中央集権国家の土台です。百年戦争後のフランスはまさにこの方向へ急速に進み、15世紀末のルイ11世の時代にほぼ完成形を見せます。この「中央集権化された強い国家」の発想が、やがて絶対王政、そしてフランス革命を経た近代国家へとつながっていくのです。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ・混同注意
・1337年の語呂:「ひとみ(13)なな(37)せんそう = 百年戦争」(複数サイトで確認済みの定番語呂合わせ)
・1453年の語呂:「いよ(14)こ(5)みっつ(3)で百年終わる」
・混同注意①:「ジャンヌ・ダルクがフランスを救った=フランスが勝った」ではない。ジャンヌ処刑後もフランスが勝ち続け、最終的にシャルル7世の軍制改革で戦争に勝った
・混同注意②:「百年戦争」と「薔薇戦争」は別物。前者はイングランド対フランス、後者は百年戦争後のイングランド国内の王位継承争い(1455〜1485年)
・論述頻出パターン:「百年戦争が中世ヨーロッパ社会に与えた影響」→ 封建制崩壊・常備軍誕生・国民意識の3点で論述

ジャンヌ・ダルクのところって絶対テストに出るよね。オルレアン解放・異端裁判・聖人列聖の順番、ちゃんと覚えないと!

ジャンヌは超頻出だよ!特に「1429年 オルレアン解放」→「1431年 火刑」→「1456年 復権裁判」→「1920年 聖人列聖」の流れが大事。あと、テストで一番狙われやすいのは「百年戦争の歴史的影響」の論述問題。封建制の衰退・国民意識・常備軍誕生の3つをセットで答えられれば完璧だよ!
百年戦争についてもっと詳しく知りたい人へ

百年戦争をもっと深く知りたい人向けに、おすすめ本を2冊紹介するよ!どちらも読みやすくて内容が濃い一冊。自分に合いそうなものを選んでみてね!

①テスト対策〜大人の教養まで|百年戦争の全体像を最短でつかむ一冊
百年戦争の入門書として現在もっとも定評のある一冊です。1337年の開戦から1453年の終結まで、原因・経過・結果を章ごとにわかりやすく整理しています。高校世界史の範囲を網羅しながら、ジャンヌ・ダルクや黒死病との関係、封建制崩壊の意義まで深掘りされており、定期テスト〜大学受験の補助教材としても、社会人の教養読み物としても読みごたえ抜群です。

②聖女か魔女か?ジャンヌ・ダルクの実像を知りたい人へ
「異端として処刑された農家の娘が、なぜ死後500年近くを経て聖人になれたのか?」——この謎に正面から向き合った一冊です。中世カトリック世界における「聖女」「預言者」の系譜、百年戦争の政治的背景、ジャンヌ裁判の構造など、歴史の教科書には載っていない深みを丁寧に解説しています。あゆみさんのように「ジャンヌ・ダルクの異端裁判と聖人列聖のギャップが気になる」という方には特におすすめです。
よくある質問
1337年から1453年にかけてイングランドとフランスの間で断続的に行われた戦争です。「百年戦争」という名称は後世の歴史家が付けたもので、実際の戦闘期間は断続的でした。正確には約116年にわたり、最終的にフランスが勝利してイングランドはカレーを除くフランス内の全領土を失いました。
複数の要因が絡み合っていました。①1347〜1353年の黒死病(ペスト)がヨーロッパ人口の約1/4〜1/3(地域差あり)を奪い、双方の国力を大幅に削いだこと、②フランス国内でアルマニャック派とブルゴーニュ派の内紛が続いてイングランドに漁夫の利を与えたこと、③複数回の休戦協定と再開が繰り返されたこと、④広大な戦線での決定的な会戦が難しかったこと、という複合的な理由によります。
主な原因は3つです。①フランス王位継承問題(カペー朝断絶後、ヴァロワ朝が成立したがイングランド王エドワード3世が自らのフランス王位継承権を主張)、②フランス内のイングランド領(ギュイエンヌ)をめぐる対立、③フランドル(現ベルギー)の毛織物産業の経済的利権争い、の3点が複合して開戦に至りました。
フランスが勝利しました。イングランドはカレーを除くフランス内の全領土を失い、1453年のカスティヨンの戦いを最後に大陸から撤退します。残ったカレーも1558年にフランスへ返還されました。前半はイングランドが圧倒的に優勢でしたが、ジャンヌ・ダルクのオルレアン解放(1429年)以降にフランスが逆転し、最終的な勝者となりました。
1430年にブルゴーニュ派に捕縛されたジャンヌはイングランドへ売り渡され、「魔女」「異端者」として宗教裁判にかけられました。イングランド側はジャンヌを宗教的に否定することで「彼女の勝利は神の力ではなく魔術だ」と主張し、フランス軍の士気を低下させようとしました。1431年5月30日、19歳でルーアンの広場にて火刑に処されました。なお1456年の復権裁判で「無実の処刑」と認められ、1920年に聖人に列聖されています。
主な影響は4点です。①ロングボウ・大砲の台頭による封建制の衰退と騎士の時代の終わり、②「フランス人」「イングランド人」という国民意識(ナショナリズム)の萌芽、③常備軍・課税制度を通じた中央集権国家の形成、④百年戦争後に疲弊したイングランドで薔薇戦争(1455〜1485年)が勃発。これらの変化が中世から近世ヨーロッパへの転換点となりました。
百年戦争の開始(1337年)は日本の南北朝時代(1336〜1392年)の始まりと重なります。百年戦争の中盤(1392年)は日本の南北朝合一の年。終結(1453年)は室町幕府の安定期で、応仁の乱(1467年)の直前にあたります。ヨーロッパで百年戦争が繰り広げられていた時代、日本では足利将軍家と武家社会が形成されていました。
まとめ・関連記事

以上、百年戦争のまとめでした!農家の娘ジャンヌが116年戦争の流れを変え、ヨーロッパが中世から近世へと変わっていく——歴史ってほんとうにドラマだよね。下の記事で十字軍やルネサンスなど中世ヨーロッパの関連記事もあわせて読んでみてください!
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1337年百年戦争の開始(エドワード3世がフランス王位を主張)
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1346年クレシーの戦い(ロングボウでイングランド大勝・騎士の時代の終わりへ)
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1347〜53年黒死病(ペスト)が欧州を席巻・人口の約1/4〜1/3が死亡(地域差あり)
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1356年ポワティエの戦い(フランス国王ジャン2世を捕虜に)
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1415年アジャンクールの戦い(ヘンリー5世、フランス軍を大破)
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1420年トロワ条約(イングランドによるフランス王位継承権確定・最大の危機)
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1429年ジャンヌ・ダルク、オルレアンを9日間で解放(百年戦争の転換点)
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1431年ジャンヌ・ダルク、異端裁判により19歳で火刑(ルーアン)
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1435年アラス条約(ブルゴーニュ公とフランスが和解・イングランドが孤立)
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1453年カスティヨンの戦い・百年戦争の終結(フランス勝利・イングランド撤退)
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1455〜1485年薔薇戦争(百年戦争後のイングランド王位継承争い)
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1920年ジャンヌ・ダルク、カトリック教会により聖人に列聖
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』(世界史探究対応版)
Wikipedia日本語版「百年戦争」(2026年6月確認)
コトバンク「百年戦争」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説世界史』(世界史探究対応版)
佐藤猛『百年戦争 中世ヨーロッパ最後の戦い』(中公新書・2020年)
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