維新と新政府樹立
版籍奉還・廃藩置県・地租改正・徴兵令——明治政府が封建体制を解体し近代国家の基盤を整えた激動の9年間
1868年3月、明治天皇は五箇条の御誓文を発布し、公議世論の尊重・開国和親・知識の世界への求めを基本方針として宣言しました。同年、太政官制を採用して行政権を天皇に集中させ、江戸を東京と改称。明治新政府はわずか数年で旧幕府・諸藩を解体していきます。
五榜の掲示はキリスト教禁制・徒党禁止など旧来の禁令を引き継ぎつつ、新政府の存在を広く民衆へ告知するものでした。神仏分離令(1868)は仏教と神道の混合を解除し、廃仏毀釈運動を引き起こします。
1869年、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主が率先して版籍(領地・領民)を天皇に返上し、他の藩主もこれに従いました。藩主は「藩知事」として任命されましたが、実質的な支配権はまだ藩主に残っており、廃藩置県への準備段階となりました。
1871年8月、明治政府は突如、全国の藩を廃止して府県に置き換える廃藩置県を断行しました。各藩知事は強制的に東京へ召還され、中央政府から派遣された官吏が統治する中央集権国家が成立。約270年続いた藩制度が一夜にして消滅した歴史的転換点です。
1873年1月の徴兵令は「四民平等」の原則のもと、士農工商の身分に関わらず全国民から兵士を徴集する近代軍制を創設しました。同年11月の地租改正は土地所有者(地主)に対して地価の3%を現金で納税させ、政府の安定財源を確保するとともに、農村社会を大きく変貌させました。
1871〜73年の岩倉使節団は条約改正交渉には失敗しましたが、欧米の政治・産業・文化を視察した貴重な経験をもたらしました。帰国した大久保利通・木戸孝允らは征韓論を唱える西郷隆盛らと対立(明治6年の政変)。内治優先・殖産興業路線が確定します。
1876年の廃刀令は、武士の象徴だった帯刀を禁止しました。同年の金禄公債証書発行(秩禄処分)は、それまで士族・華族に支払ってきた家禄・賞典禄を一括して公債に切り換え、武士階級への経済的優遇を廃止しました。
廃刀令・秩禄処分への不満が爆発し、1876年10月に熊本・福岡・山口で士族反乱が相次いで起きます。いずれも政府軍に鎮圧されましたが、士族の不満は積もり続け、翌年の大規模な西南戦争へと繋がっていきます。
1877年2月、西郷隆盛を盟主に担いだ鹿児島士族が挙兵し、明治最大の内乱・西南戦争が勃発しました。政府は徴兵制による近代軍で対抗し、9月に西郷の自刃で終結。この勝利で徴兵制軍隊の優位が証明され、以後の士族反乱が不可能となりました。