今回は、明治初期の日本で流行った天賦人権論という考え方についてわかりやすく解説していきます。
手元の教科書では天賦人権論について以下のように書かれています。
この記事では、天賦人権論(天賦人権の思想)について以下の点を中心に解説を進めます。
文明開化の流れの中で
明治時代の初期、日本はイギリスなどの列強国に対抗するため富国強兵を目指していました。
国を強くするために西洋の知識や技術を取り入れ、鉄道を敷き、工場を次々と建設し、徴兵制度を導入したり、次々と新しい政策を進めていきます。
この時、西洋の知識・技術と同時に西洋の文化や思想も日本に伝わり、民衆たちに広く知られることとなりました。
この新しい西洋の風は、人々の生活スタイルや考え方を大きく一変させました。都会では煉瓦造りの建物が並び、人々は和服ではなく洋服を着用し、髪型は「ちょんまげ」ではなく、今風に髪を下ろしたざんぎり頭と呼ばれる髪型をするようになりました。
西洋の文化・風習が人々に広がったこの現象は文明開化と呼ばれ、天賦人権論はこの文明開化の流れの中で日本に伝わることになりました。
天賦人権論とは?
次に、文明開化と共に流行った天賦人権論とは一体どんな考え方だったのかを見ていきます。
結論から先に言うと、天賦人権論は以下のような考え方です。
万人には生まれながらに人間としての権利(自然権)が備わっているという考え
【自然権】
国家や法律が存在しない場合に、人間が生物として本能的に備えている権利のこと。
17世紀に生きたイギリスのジョン・ロックは、自然権として以下の3つの権利を挙げています。
ヨーロッパでは、この自然権を根拠に民衆たちが自らの権利を主張することで民主主義への道を歩み始めていました。
また、日本ではこれを「天賦人権」と呼びました。現代では「人権」と言われることが多いです。人権という言葉なら聞いたことのある人も多いと思います。
当時の日本には天賦人権という発想はなくて、以下のような考え方が主流でした。
人々は藩主や天皇の所有物であり、人々の持つ権利というのは支配者(藩主や天皇)によって与えられるもの。
これは日本の長い歴史の中で培われてきた考え方で、主流というよりも「毎日朝が来て夜が来る」というぐらい当たり前すぎて、ほとんど疑問にすら思われませんでした。
明治維新によって日本が大きく変わっても、庶民たちにとっては王政復古によって支配者が藩主・江戸幕府から天皇に変わっただけで、「権利は支配者から与えられる」という点では何も変わっていません。
そんな日本人にとって、西洋の「天賦人権」というのはとてつもないカルチャーショックであり、非常に革新的な思想でした。
最新の西洋思想に刺激を受けた人々は、この思想を本にまとめ、次々と出版しました。
私の書いた本では、「西洋事情」「学問のすすめ」「文明論の概略」の3つが有名だ。
自分で言うのもあれだが、「学問のすすめ」はベストセラーとなり、私のお気に入りだ。
私は、主に外国の日本語訳を出版した。
有名なのはスマイルズの「西国立志編」やミルの「自由の理」だ。
福沢諭吉の「学問のすすめ」ばかりが有名だが、ミルの「自由の理」も、「学問のすすめ」に次ぐベストセラーになっているぞ。影が薄いかもしれないけど忘れないで・・・。
当時は、西洋技術のおかげで江戸時代と比べて印刷技術も向上し、そのおかげで新聞や雑誌が次々と創刊されていました。そして、新聞や雑誌を通じて西洋思想は広く人々に知られ、文明開化の流れを後押しすることになります。
また、西洋思想について研究・議論するための知識人の集まりとして明六社という組織も作られました。福沢諭吉や中村正直はこの明六社に属して「明六雑誌」なる雑誌を創刊し、西洋思想の普及を目指します。
ちなみに、明六社には杉田玄白や高橋是清といった歴史に名を残した有名人も数多く所属していました。明六社のメンバーはwikipediaにまとめられています。
参考URLwikipedia「明六社」
学問のすすめと明治政府
上で紹介した本の中で、特にベストセラーになったのが1872年から出版され始めた福沢諭吉の「学問のすすめ」です。
学問のすすめの冒頭は有名な以下の文章から始まります。
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。
福沢諭吉は人はみな平等に生まれ、生まれた時点ではどんな人にも上下の差はないと言います。全ての人は、平等に天賦人権(自然権)を持って生まれてくる・・・というわけです。
しかし、周囲を見渡して見れば、上下の差は確実に存在している。それはなぜか?
福沢諭吉はこの問いに対してこう答えます。
生まれた時点ではみんな平等なのに、だんだん差が生まれるのは勉強しないせいだ。だからみんなもっと勉強しようぜ!(超訳)
だから本のタイトルが「学問のすすめ」なわけです。
さらに、「学問のすすめ」では人々と国家(明治政府)の関係性を次のように言っています。
人々が学問をして、自立した生活を送れることは政府のためにもなる。
なぜなら、国民一人一人の集まりが政府だからだ。
逆に考えると、国民を代表する政府の行いは国民の行いでもあるのだから、国民がその政府に逆らうことは良くない。
天皇主権を目指す明治政府にとって、天賦人権論ははっきり言って邪魔な存在でした。自然権を認めることは、国民は全て天皇の支配下にあるという天皇主権を否定することに繋がるからです。
でも、上の福沢諭吉の国家論は好都合でした。「政府の命令は国民の総意なのだから、それに逆らうと自分自身のためになりませんよ・・・」という理屈で、国民に負担を強いる政策も正当化できるからです。
しかし、この福沢諭吉の国家論には致命的な欠点があります。それは当時の明治政府には、民意を反映させる機関が存在しない(民主主義ではない)という点です。民意を反映できない政府が国民の代表と言うのはさすがに無理があります。
1875年頃から、日本では各地で政府に対して地租の減税などの民意反映を求めた自由民権運動が起こるようになりますが、学問のすすめの内容は時代を先取りしたものだった・・・とも言えるかもしれません。
学問のすすめは、昔の本にしては非常に読みやすい本です。そんなに分厚い本でもないので、興味のある方は一度読んでみると良いかもしれません。
弾圧される天賦人権論
繰り返しになりますが、政府にとって天賦人権論は天皇主権を否定しかねない危険な思想でした。(ちなみに、福沢諭吉自身には天皇を否定する意思はなく、天賦人権論と天皇制の調和を模索していたようです。)
それでも明治政府は、上の学問のすすめの例のように西洋思想の都合の良い部分だけを切り取ってそれを利用していきます。
しかし、人々がまさにその学問によって天賦人権の本質を知るようになり、自由民権運動が各地で起こるようになると、明治政府は態度を一変し、天賦人権論を弾圧するようになります。
1875年、明治政府は讒謗律、新聞紙条例を出して自由民権運動やその根拠ともなる天賦人権論を書いた新聞や雑誌を厳しく取り締まるようになります。合わせて福沢諭吉らで結成された明六社もこの弾圧により解体することとなります。
しかし、一度火のついた自由民権運動や天賦人権論がそんな簡単に消えるわけがなく、各地で民意反映を求めた反対運動や暴動が起こり、これが1880年代に勃発する福島事件・秩父事件・大阪事件へと繋がっていきます。
天賦人権論と日本国憲法
結局、天賦人権が日本でちゃんと確立したのは第二次世界大戦の後。
戦後に作られた日本国憲法に基本的人権が明記されることになりました。
〔基本的人権〕
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
日本国憲法第11条
第11条で明記された基本的人権の具体的な中身は、日本国憲法の他の条文の中で書かれています。
日本史の教科書では明治時代に登場する天賦人権論ですが、実はその恩恵を受けているのは当時の人々ではなく今を生きる私たちです。
そんな意味では、明治に生きた福沢諭吉と同じくらい、いやそれ以上に私たちこそ天賦人権(人権・自然権)についてしっかり知っておく必要があるのかもしれません。
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