今回は、1907年にオランダのハーグという場所で起こったハーグ密使事件についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
事件の概要を最初にまとめておきます↓
この記事ではハーグ密使事件について以下の点を中心に解説をしていきます。
ハーグ密使事件当時の日韓関係
最初に、当時の日韓関係を時系列で確認しておきましょう。
- 1876年日朝修好条規が結ばれる。
日本の圧力により朝鮮が開国する。日本は朝鮮への影響力を強める。
- 1882年
日本人により朝鮮米の買い占めが遠因となり、韓国の兵士たちが暴動を起こす。
いろいろあって、清国が兵を送りこれを鎮圧。その後も軍隊を朝鮮に起き続け、清国は朝鮮支配を強める。
- 1884年
壬午軍乱によって朝鮮政府が清国寄りとなると、これに不満を持つ金玉均が日本に接近。朝鮮政府に対してクーデターを起こす。
日本はこれを機に清国と天津条約を結んで、清国の兵を朝鮮から追い出した。
- 1894年
朝鮮開国後に進出してきた列強国や日本に対して、民衆が暴動を起こす。
暴動鎮圧を名目に、日本と清国が朝鮮に兵を派遣。
- 1894年〜1895年
甲午農民戦争のために朝鮮へ派遣された清国軍と日本軍が対立。そのまま戦争へ。
日本が勝利し、朝鮮から清国の影響が一掃される。
- 1896年ロシアが朝鮮支配を強める
日本の朝鮮支配に反発する朝鮮政府がロシアと接近。政府内の親日派が一掃されて、ロシアの影響力が強まる。
- 1897年朝鮮、「大韓帝国」と国名を改める
清国支配から脱した朝鮮は、その象徴として国名を変えた。
- 1904〜1905年
日本がロシアに勝利。
ロシアが韓国から手を引き、再び日本が朝鮮支配を強める。
- 1907年ハーグ密使事件←この記事はここ
日本の韓国支配に反発した皇帝の高宗が、国際会議の場で抗議活動をする。
当時の韓国の社会情勢は複雑です。
もともと韓国は、清国と朝貢関係を結んでいて清国の属国のようになっていました。
しかし、明治時代に入ると清国の力が弱まり、その隙を狙って日本とロシアが韓国を狙うようになります。
韓国はロシア・清国・日本に挟まれながら、国の独立を死守するため状況に応じてそれぞれの国と離散集合してきました。(上の時系列からも、日本・ロシア・清国と近づいたり離れたりしている様子がわかると思います)
また、韓国政府内で争いが生じると、片方は日本派、もう片方はロシア派といった感じで三国の圧力が政争に利用されたせいで、情勢は混迷を極めました。
そしてハーグ密使事件が起きた当時は、日本が日露戦争に勝利したことにより韓国内では日本の圧力が強まっていました。この圧力に対する抵抗がハーグ密使事件につながります。
ハーグ密使事件はなぜ起こったのか?
上で紹介した時代背景を踏まえて、次はハーグ密使事件が起こるまでの経過を整理します。
最初のきっかけは日露戦争でした。
1904年2月、日本はロシアに宣戦布告します。日露戦争の日本の目的は「満洲のロシア兵を撤退させ、朝鮮をロシアの脅威から守るため」です。
ロシアと戦争をした場合、朝鮮は日本兵の輸送ルート、または朝鮮が戦場になることが想定されます。
そこで同じ1904年2月、日本は韓国と日韓議定書と呼ばれる条約を交わして、朝鮮に対して日本が軍事行動をすることを認めさせました。
日韓議定書によって韓国内での日本の軍事行動が認められると、日本は韓国に対してさらに強い要求を求めます。(日露戦争での日本の度重なる勝利もこれを後押しした。)
この要求が形となって現れたのが、1904年8月に締結された第一次日韓協約です。
第一次日韓協約によって、韓国は軍事に続いて外交・財政まで日本に骨抜きにされてしまいます。(日本推しの顧問が認めないと、意見が通りませんからね)
韓国としてはこんな一方的な内容を認めたいわけがありません。しかし、日本軍が韓国内にいる以上、韓国はこれを拒絶することができませんでした。
1905年9月、日本とロシアの間でポーツマス条約が結ばれ日露戦争が終戦します。
日本は、ポーツマス条約によってロシアに朝鮮から手を引くことを認めさせると、韓国に対してさらに強気の要求を押し付けるようになり、1905年11月、日本と韓国の間で第二次日韓協約が締結され、次は韓国から外交権を完全に奪い取ります。
韓国皇帝の高宗「日本の悪事を世界中に訴える!」
日韓議定書から第二時日韓協約までの一連の日本の行動は、韓国を強く刺激し、韓国内では反日感情が高まります。
韓国皇帝だった高宗もこの状況を打破する方法を模索します。そして、高宗はこんなことを考えました。
そうだ!
韓国を欲しいがままにする日本の悪行を列強国たちに訴えよう。
列強国が韓国に同情してくれれば、日本の韓国支配に干渉してくるに違いない!
日本は日清戦争(1894〜1895)の勝利によって遼東半島を手に入れましたが、列強国の反対(三国干渉)によって手放した前例があります。
高宗は列強国に訴えかけることで、今回も同じ展開になることを期待したわけです。
1907年、オランダのハーグで第二回の万国平和会議という国際会議が開かれました。会議には、ヨーロッパの国を中心に多くの国が集まります。
高宗は、多くの国が集まるこの国際会議を世界中に日本の悪行を訴える絶好のチャンスだと考えました。
ハーグ密使事件
しかし、韓国は第二回万国平和会議の参加国ではありません。そこで、密かに使者をハーグに送り、水面下で列強国に日本の悪行を訴えようとしますが、面会すら拒絶され、交渉は失敗に終わります。
先に紹介した第二次日韓協約の際、韓国支配について列強国から批判を受けないよう日本は入念な対策をしていました。
アメリカとは桂・タフト協定を結び、イギリスとは日英同盟を改正することで日本の朝鮮支配を両国にしっかりと認めさせていたんです。
しかも、日本は日露戦争の勝利によって完全なる列強国の仲間入りを果たしており、三国干渉があった頃と違って、列強国と言えど軽い気持ちで日本に対して口出しをすることはできなくなっていました。
これらの事情があったので、列強国たちは「第二次日韓協約で韓国の外交権は日本が持つって決めたんだろ?じゃあ、韓国の意見なんて聞く必要ないじゃんww」と密使たちとの面会を拒絶したのです。
日本は高宗がハーグに密使を送り込んだことを知ると、同年(1907年)、日本に抵抗した高宗を退位に追い込んで第三次日韓協約を結び、次は内政の権限を奪い、さらには韓国の軍隊を解散させました。
その後、韓国内での反日感情はさらに高まり、1909年には統監府のトップだった伊藤博文が暗殺され、1910年には韓国は日本に併合(韓国併合)。大韓帝国という国は無くなり、日本の完全な統治下に置かれることになります。(この状況は日本が1945年に太平洋戦争で敗れるまで続きます。)
最後に記事の内容を簡単にまとめておきます。
高宗は韓国の存続のため必死の抵抗を続けましたが、ハーグ密使事件は結果的に日本に第三次日韓協約を結ぶ口実を与えてしまい、逆効果になってしまった・・・!
コメント
分かりやすいです、ありがとうございます!