今回は、1897年に結成された労働組合期成会についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
最初に教科書風に概要をまとめておきます↓
この記事ではストライキ・治安警察法について触れながら以下の点を中心に解説を進めていきます。
労働組合期成会って何?
労働組合期成会とは簡単にいうと、
みんなで一致団結してストライキをするために、どんどん労働組合を作ろうぜ!
と労働組合の創設を推進するための集まりです。
労働組合の創設を期成(目指す・期待する)する会、で労働組合期成会です。
ストライキが起こった時代背景
ストライキは、1894年の日清戦争前後から頻繁に起こるようになります。
この頃になると明治維新から進めていた産業の近代化がようやく本格化し、工場での商品の大量生産が始まりました。
工場がたくさん稼働するようになると、それに合わせて工場で働く工員も増えてました。工場の中で多くの工員が働くというのは、今までにない新しい労働スタイルです。そのため、今までにはなかった新しい労働問題が浮上してきました。
この労働問題。細かく言えばいろいろありますが、一言で言うと「ブラック労働」が問題になりました。
工場労働とはつまりのところ、「雇用主に雇われてお給料をもらいながら工場で仕事をする」ってことです。当然、雇用主は利益を上げるため労働者に対して安い給料で長時間働くことを要求します。
この公用車の要求に対して労働者から「反対!NO!」の声をあげたのがストライキです。
労働者たちは協力して一斉に仕事を放棄し、雇用主を困らせた上で、賃上げや労働環境の改善を要求します。労働者が1人で仕事をボイコットしたぐらいじゃ雇用主は困らないので、ストライキは労働者の一致団結で実施しなければ効果はありません。
そこで生まれたのが労働組合です。労働者は雇用主との交渉を対等に行うため、組織を作って対抗しようとしました。
この労働組合創設を後押ししたのが労働組合期成会というわけです。
労働者に立ちはだかる過酷な労働環境
当時の超絶ブラック労働の背景には、上で述べたような「低賃金で長時間労働」という問題もありますが、それ以上に悲惨だったのが人権を無視するかのような過酷な労働環境です。
今の日本には労働者を守るために労働基準法などの法律が存在ありますが、当時はそんなものはありません。
パワハラ・暴力?そんなものあって当然!
危険な労働で命を落としても労働者の自己責任!とうぜん、怪我も自己責任!
最低賃金?何それ?労働者は生きるギリギリの金さえあればいいでしょ!
という、最悪な環境でした。
工場などの現場労働では、労働者=奴隷とも言えるような過酷な労働を強いられていたのです。現代でもブラック労働問題はありますが、当時のそれは今以上の凄惨さでした。(だからと言って、現代のブラック労働が良いというわけではありませんよ)
そんな状況の中で、労働組合期成会の活躍によって大きな労働組合が2つ生まれました。
それが、鉄工組合と日本鉄道矯正会と呼ばれるものです。
教科書なんかだとこれで話は終わりますが、この記事ではこの2つの労働組合についてもう少し詳しく踏み込んでいきます。
鉄工組合「会員が協力して互いを助け合う制度を作ったぞ」
労働組合期成会が結成されると、そのメンバーの多くが鉄工所で働いている者だったので、そこから鉄工組合が生まれました。
鉄工所では、鉄を運ぶ重労働に加えて危険な機械や作業が多くあります。鉄工所で大きな問題になったのは怪我や病気、死亡のリスクが高いことです。
そこで鉄工組合が考えたのが怪我をした時などにみんなで助け合う共済制度でした。
仕組みはこうです。
- STEP1組合員はお給料を少しずつ鉄工組合に積み立てる。
- STEP2不測の事態の際に、保険金のように鉄工組合からお金が支給される
・病気や怪我で働けなくなって無収入になった時
・本人が死亡して家族が収入を失った時
などなど
- STEP3怪我などがあっても、生活が維持できる!
しかし、1900年になると、共済制度が赤字に転落。(積み立てる金額よりも、怪我をした人などに支給する金額の方が大きくなってしまった)
赤字によって共済制度は崩壊し、鉄工組合は力を失ってしまいました・・・。
矯正会「組織化してストライキするぞ」
もう1つの大きな労働組合は日本鉄道矯正会と呼ばれるものです。
この労働組合は、列車の運転手が中心となり結成されました。日本鉄道矯正会が大きな問題と考えたは、職場での熾烈なパワハラです。
鉄道会社は身分秩序が厳しく、現場仕事の運転手は会社のヒエラルキーでも底辺と見做されていました。
俺たちは最新技術である列車の運転を担い、重要物資を日々運んでいる。
なのに、底辺のレッテルを貼られ上司に奴隷のように扱われるのは絶対におかしい!
だって、俺らがいないと列車動かせないんだよ?そこんとこ勘違いしてない?
・・・わかったよ。もう運転手みんな列車の運転ストップするわ。そうすれば、俺たちがどれだけ重要な存在かわかるはずだ。
こうして日本鉄道矯正会は、ストライキを通じて、卑賎な職業と見なされていた運転手の地位向上を目指しました。
高野房太郎の想い・挫折
話の流れ的に、労働組合期成会の目的は雇用主と戦う(ストライキをする)こと!・・・と思うかもしれませんが実はそうではありません。
労働組合期成会が目指していたのは、「労働者が雇用者と対等に交渉できること」であり、
というのが労働組合期成会の大きな目的でした。「ストライキで雇用主と戦うため」というよりも「ストライキにならないよう、雇用主との円滑な交渉を進める」という点が重要視されました。
そして、これを主導したのが労働組合期成会のトップだった高野房太郎という人物。高野房太郎はアメリカで労働運動について学び、日本にも労働運動を普及させようと考えます。
高野房太郎はこの労働運動に生涯を捧げていました。しかし1900年、高野房太郎は挫折します。突如として労働運動をやめ、日本を離れ、中国へ渡ってしまったのです。
高野房太郎はなぜ労働運動に失望したのか?
理由は色々ありますが、大きな理由の1つが治安警察法と呼ばれる法律にありました。
治安警察法
ストライキが盛んに行われるようになると、日本政府はこれを強く問題視するようになります。
例えば、もし戦時中の軍事工場で、従業員がストライキを起こしたらどうなるでしょう?
武器の製造がストップし、戦争に負けてしまうかもしれません。
また、仮定の話ではなく実際問題として、日本鉄道矯正会によるストライキは物流などに大きな影響を与えていました。
労働運動は、日本の治安を脅かす危険な行為である。
だから、労働運動を違法行為として警察が取り締まれるように治安警察法を制定するぞ。
こうして、1900年2月に治安警察法が制定され、労働運動は実質的に禁止されてしまいました。
高野房太郎は「労働組合を通じての労働者と雇用者の歩み寄り」を目指しましたが、日本政府はその歩み寄りを完全シャットアウトし、労働運動の息の根を止めてしまったのです。
片山潜「治安警察法ごときに屈してたまるか!」
高野房太郎と共に労働運動を主導した重要人物に片山潜という男がいます。
高野房太郎は日本を離れましたが、片山潜は諦めません。治安警察法に屈することなく、次は政党を立ち上げ正攻法(選挙や議会)で運動の継続を目指します。
こうして片山潜が同士たちと協力して立ち上げたのが社会民主党です。(現代の社会民主党と名前が同じですが別物です。)
社会民主党は社会主義を目指す政党であり、片山潜は労働運動と社会主義運動を結び付けようとしました。
しかし、治安警察法の魔の手は社会民主党にも襲いかかります。
社会民主党は1901年5月18日に結成されますが、すぐに治安警察法によって「社会民主党は国を脅かす違法な結社組織!」と見なされ5月20日には解散に追い込まれます。
社会民主党は、存続期間わずか2日という幻の政党になってしまいました。
労働者を守る工場法
政府は治安警察法で労働運動を弾圧する一方で、労働者を守るための工場法の制定も目指しました。
しかし、資本家の反対や戦争(日清戦争・日露戦争)もあり、制定は進まず、制定されたのは1911年、実際に運用されたのが1916年と完成まで10年以上の歳月を要することになりました。(労働者を弾圧する治安警察法はあっという間に作られたのに・・・!)
労働組合期成会・治安警察法まとめ
最後に、労働組合期成会と治安警察法を時系列でまとめておきます。
コメント
高野房太郎が河野房太郎になってますよ!
ご指摘ありがとうございます。修正しました。