面白いほどわかるハーグ密使事件!簡単にわかりやすく解説【事件が起こった理由・経過・事件後の影響までを確認!】

今回は、1907年にオランダのハーグという場所で起こったハーグ密使事件についてわかりやすく丁寧に解説していきます。

事件の概要を最初にまとめておきます↓

ハーグ密使事件

1905年、日本は日露戦争の勝利で、ロシアに「日本が韓国を指導・監督すること」を認めさせた。(ポーツマス条約

その後も、イギリスとアメリカにも同じ内容を認めさせ、日本の韓国支配が国際的に認められた。

これに反発した韓国皇帝の高宗こうそうは、1907年にオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に密使を送って抗議したが、列国に無視され失敗に終わった。(ハーグ密使事件

日本はこれを日本への反逆と受け止め、高宗を退位させて韓国支配を強めた。最終的に1910年の韓国併合により、韓国は日本の統治下に置かれた。

この記事ではハーグ密使事件について以下の点を中心に解説をしていきます。

  • ハーグ密使事件当時の日韓関係
  • ハーグ密使事件が起こった理由と時代背景
  • ハーグ密使事件の経過
  • ハーグ密使事件の影響
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ハーグ密使事件当時の日韓関係

最初に、当時の日韓関係を時系列で確認しておきましょう。

当時の韓国の社会情勢は複雑です。

もともと韓国は、清国と朝貢関係を結んでいて清国の属国のようになっていました。

朝貢とは・・・

中国が近隣諸国の君主として君臨し、他国と主従関係を結ぶこと。

諸国はその臣下として中国に貢物を献上し、一方の中国は諸国に臣下としての称号を与えた。

服従する国にも「大国の清国の後ろ盾が得られる」というメリットがあったので、積極的に朝貢する国もあった。

日本にも中国と朝貢関係を結んでいた時代があります。

しかし、明治時代に入ると清国の力が弱まり、その隙を狙って日本とロシアが韓国を狙うようになります。

韓国はロシア・清国・日本に挟まれながら、国に独立を死守するため状況に応じてそれぞれの国と離散集合してきました。(上の時系列からも、日本・ロシア・清国と近づいたり離れたりしている様子がわかると思います)

また、韓国政府内に争いが生じると、片方は日本派、もう片方はロシア派といった感じで三国から圧力は政争にも利用されたおかげで、情勢は混迷を極めます。

そしてハーグ密使事件が起きた当時は、日本が日露戦争に勝利したことにより韓国内では日本の圧力が強まっていました。この圧力に対する抵抗がハーグ密使事件につながります。

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ハーグ密使事件はなぜ起こったのか?

上で紹介した時代背景を踏まえて、次はハーグ密使事件が起こるまでの経過を整理します。

最初のきっかけは日露戦争でした。

1904年2月、日本はロシアに宣戦布告します。日露戦争の日本の目的は「満洲のロシア兵を撤退させ、朝鮮をロシアの脅威から守るため」です。

ロシアと戦争をした場合、朝鮮は日本兵の輸送ルート、または朝鮮が戦場になることが想定されます。

そこで同じ1904年2月、日本は韓国と日韓議定書にっかんぎていしょと呼ばれる条約を交わして、朝鮮に対して日本が軍事行動をすることを認めさせました。

日韓議定書とは?

日本が韓国の国防の義務を負う代わりに、韓国は日本の軍事行動のために便宜を図ること。そして、日本政府は韓国の軍事的要所を利用することを定めた。

日韓議定書によって韓国内での日本の軍事行動が認められると、日本は韓国に対してさらに強い要求を求めます。(日露戦争での日本の度重なる勝利がこれを後押しした!)

それが1904年8月に締結された第一次日韓協約にっかんきょうやくでした。

第一次日韓協約の内容

韓国は、政府内に日本が推薦する外交顧問と財政顧問を置いて、外交・財政に関する政策はその顧問の意見を聞かなければならないと決められた。

第一次日韓協約によって、韓国は軍事に続いて外交・財政まで日本に骨抜きにされてしまいます。

韓国としてはこんな一方的な内容を認めたいわけがありません。しかし、日本軍が韓国内にいる以上、韓国がこれを拒絶することは容易ではありませんでした。

1905年9月、日本とロシアの間でポーツマス条約が結ばれ日露戦争が終戦します。

日本は、ポーツマス条約によってロシアに朝鮮から手を引くことを認めさせると、韓国に対してさらに強気の要求を押し付けるようになり、1905年11月、日本と韓国の間で第二次日韓協約が締結され、次は韓国から外交権を完全に奪い取ります。

第二次日韓協約の内容

韓国は日本と協議しなければ外交を行えなくなりました。

具体的には、日本は韓国の漢城(今のソウル)に統監府という組織が置いて、統監府とうかんふを中心に韓国の外交を管理指揮させることにしました。

統監府の初代トップ(総監)には伊藤博文いとうひろぶみが選ばれます。

伊藤博文
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韓国皇帝の高宗「日本の悪事を世界中に訴える!」

日韓議定書から第二時日韓協約までの一連の日本の行動は、韓国を強く刺激し、韓国内では反日感情が高まります。

韓国皇帝だった高宗こうそうもこの状況を打破する方法を模索します。そして、高宗はこんなことを考えました。

高宗
高宗

そうだ!

韓国を欲しいがままにする日本の悪行を列強国たちに訴えよう。

列強国が韓国に同情してくれれば、日本の韓国支配に干渉してくるに違いない!

日本は日清戦争(1894〜1895)の勝利によって遼東半島を手に入れましたが、列強国の反対(三国干渉)によって手放した前例があります。

高宗は列強国に訴えかけることで、今回も同じ展開になることを期待したわけです。

1907年、オランダのハーグで第二回の万国平和会議という国際会議が開かれました。会議には、ヨーロッパの国を中心に多くの国が集まります。

高宗は、多くの国が集まるこの国際会議を世界中に日本の悪行を訴える絶好のチャンスだと考えました。

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ハーグ密使事件

しかし、韓国は第二回万国平和会議の参加国ではありません。そこで、密かに使者をハーグに送り、水面下で列強国に日本の悪行を訴えようとしますが、面会すら拒絶され、交渉は失敗に終わります。

先に紹介した第二次日韓協約の際、韓国支配について列強国から批判を受けないよう日本は入念な対策をしていました。

アメリカとは桂・タフト協定を結び、イギリスとは日英同盟を改正することで日本の朝鮮支配を両国にしっかりと認めさせていたんです。

しかも、日本は日露戦争の勝利によって完全なる列強国の仲間入りを果たしており、三国干渉があった頃と違って、列強国と言えど軽い気持ちで日本に対して口出しをすることはできなくなっていました。

これらの事情があったので、列強国たちは「第二次日韓協約で韓国の外交権は日本が持つって決めたんだろ?じゃあ、韓国の意見なんて聞く必要ないじゃんww」と密使たちとの面会を拒絶したのです。

日本は高宗がハーグに密使を送り込んだことを知ると、同年(1907年)、日本に抵抗した高宗を退位に追い込んで第三次日韓協約を結び、次は内政の権限を奪い、さらには韓国の軍隊を解散させました。

その後、韓国内での反日感情はさらに高まり、1909年には統監府のトップだった伊藤博文が暗殺され、1910年には韓国は日本に併合(韓国併合)。大韓帝国という国は無くなり、日本の完全な統治下に置かれることになります。(この状況は日本が1945年に太平洋戦争で敗れるまで続きます。)

最後に記事の内容を簡単にまとめておきます。

高宗は韓国の存続のため必死の抵抗を続けましたが、ハーグ密使事件は結果的に日本に第三次日韓協約を結ぶ口実を与えてしまい、逆効果になってしまった・・・!



明治時代
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