今回は、1894年に起こった日清戦争について以下の点を中心にわかりすく丁寧に解説していきます。
日清戦争が起こるまで
日清戦争は日本と清国が争った戦争です。戦争をするということは、日本と清国の関係は決して良いとは言えないものでした。
というわけで、最初に日清戦争が起こるまでの日清両国の関係を簡単に確認しておきます。
- 1876年
琉球の漂流民が台湾で殺された報復として、日本が清国の支配地域だった台湾を襲撃する。
- 1879年琉球処分
日本は琉球王国を沖縄県として日本の一部とする。琉球王国は清国から見れば属国の1つだったので、清国は日本に属国を奪われたことになる。
- 1882年
朝鮮で日本に対する暴動が起こる。
朝鮮を属国とする清国はこれを鎮圧するため軍を朝鮮へ派遣。
日本も、日本人に危害が及んだ報復として軍を派遣。
日清両軍の間に緊張が走るが戦争までには至らず。清国が朝鮮に軍隊を常駐させて朝鮮の支配権を強めることで事件は終了する。
- 1884年
清国と親密な関係を持つようになった朝鮮政府に対してクーデターが起こる。
クーデターには日本も関与し、日本軍とそれを鎮圧する清国軍との間で小さな戦闘が発生。
日清は戦争直前の状態になるも、当時の国際事情もあって「日本も清国も朝鮮に軍を常駐させない」という約束を含んだ天津条約を結んで事件は終わる。かろうじて戦争は回避される。
- 1894年5~6月
朝鮮で再び政府や日本に反対する暴動が起こる。
甲申事変の時と同じく、これに対応するため清国と日本が軍隊を派遣。しかし、朝鮮で日清間で戦争が起こることを恐れた反乱軍と朝鮮軍が和解し、反乱は静まる。
- 1894年7月〜日清戦争
甲午農民戦争の終息により、清国と日本は軍隊派遣の理由を失う。
清国は甲午農民戦争の終息を理由に日清両国の撤退を望むが、日本はこれを拒絶。このタイミングでの戦争を望んだ日本は、強引に口実を作り清国と戦争へ。
こうして時系列で見てみると、日本と清国がその間にある国々(朝鮮・台湾・琉球王国)を巡って争い続けていることがわかると思います。
そして、壬午軍乱と甲申事変による朝鮮をめぐる日清の対立を通じて、両国の戦争はもはや避けられないことが明白に。こうして1894年に両国の最終決戦となる日清戦争が勃発した・・・というわけです。
甲午農民戦争から日清戦争までの流れ
全体の流れを確認したので、次は甲午農民戦争をきっかけに日清戦争が起こるまでの流れを確認します。
朝鮮で甲午農民戦争が起こると、日本と清国はそれぞれ以下のような理由で朝鮮へ軍隊を派遣します。
当時、日本と清国は甲申事変の後に結ばれた天津条約によって「朝鮮に出兵する時は互いに通知を送ること」という取り決めをしていました。
1894年6月上旬、日本と清国は互いに通知を送り、出兵したことを認め合います。もちろん、清国は日本の真の意図を見抜いています。
清国「日本は朝鮮在中の日本人を守るためとか言っているが、実際は清国の影響を朝鮮から排除するために戦争でもしたいんだろ!」
こうして日清両国に緊張が走りますが、実はこれに一番恐怖したのは朝鮮です。
朝鮮政府は「朝鮮が日清戦争の舞台となり、朝鮮がこれ以上日清両国に支配されるのはなんとしても避けなければならぬ・・・!」と考え、甲午農民戦争を起こす反乱軍との早期和睦を図りました。
甲午農民戦争さえ終わってしまえば、日清両国が朝鮮に兵を送った理由は失われます。朝鮮政府は日清両国に対して撤兵を求めますが、日本はこれを拒否します。
日本と清国の戦争を望まないロシアとイギリスも、日本に対して撤兵に応じるよう説得しますが、日本は撤兵することを頑なに拒絶します。
戦争を望む日本は、清国と戦争をする口実を探します。
1894年7月19日、日本は朝鮮に対して「朝鮮は清国の支配を受けない独立国家だよな?だったら独立を邪魔する清国軍を22日までに朝鮮から撤兵させろ。もしできないなら、代わりに日本が清国軍を撤兵させてやる(超訳)。」と要求。
7月22日、朝鮮がこれを拒否すると日本軍は朝鮮王宮に進軍。クーデターを起こし親日の傀儡政府を樹立させて、朝鮮政府を味方につけた上で武力による清国軍の追放を実行します。
※傀儡:あやつり人形のこと。
日清戦争の経過
次は、日清戦争の経過を紹介していきます。
豊島沖の戦い
同じ頃、清国は日本との戦争を想定して朝鮮の牙山にいた軍隊を平壌へ撤退させるため、撤退支援用の海上艦隊を朝鮮に派遣します。
日本はこの情報をキャッチすると、これを阻止するべく艦隊を派遣し清国艦隊と激突。7月25日、日清間の初めての戦闘が起こりました。結果は日本軍の勝利に終わります。この戦いは、豊島沖の戦いと呼ばれています。(戦闘の場所は、少し下にある地図の黒マーク)
豊島沖の戦いの途中、日本軍はイギリス国籍の船を撃墜して国際問題を起こしてしまいます。イギリス船を撃ち落としたのは、後に日露戦争の英雄となる東郷平八郎。
しかし、イギリスへの留学経験を持つ東郷平八郎は、イギリスに責められないギリギリのラインで行動を取り、見事にイギリスからの責めを回避することに成功した・・・なんてエピソードも残されています。
平壌の戦い・黄海海戦
次は、目を陸上戦に移します。
豊島沖の戦いが行われるのと同じ頃、日本軍は清国軍のいる牙山攻略を目指します。
ここで地理関係を整理するため、地図を載せておきます↓
朝鮮王宮を制圧した日本軍は漢城上の地図の黄色マークに集まっていました。
一方の清国軍は、北方の平壌上の地図の青マークを拠点に兵を集めまていました。なので、漢城から北上して平壌を目指すことになるわけですが、その際に漢城の南にある牙山の清国軍が邪魔になります。(牙山を放っておくと、日本のいる漢城は平壌と牙山の南北から挟み撃ちされていることになる。)
7月29日、日本軍は平壌攻略の前に牙山上の地図の紫マークに進攻します。結果は日本軍の勝利。豊島沖海戦と牙山の攻略で、日本軍は後顧の憂いなく平壌へ進軍することが可能となります。
日本軍は本土からの援軍を得て、平壌へ北上。9月14日、山縣有朋を司令官として平壌を包囲。そして16日には平壌を制圧することに成功します。
日本軍は兵站確保に苦しみ、多くの戦死者・負傷者を出しましたが、それ以上に清国軍に甚大な被害を与えました。
そして、平壌制圧の翌日(9月17日)には平壌の西に位置する黄海にて、海上戦が起こります。(黄海海戦)日本はこの戦いにも勝利し、勢いに乗ります。
旅順口の戦い・威海衛の戦い
日本の最終目標は、清国の首都北京の近辺(直隷地方。今の河北省当たり)。黄海海戦によって黄海の制海権を得た日本は、直隷地方を眼前に捉えます。
しかし、直隷地方に攻めるには、黄海に突き出ている遼東半島と山東半島が邪魔です。上の地図を見てわかるように、この2つの半島を制圧しない限り、後方の不安が取り除けないのです。
そこで、直隷地方の前にこの2つの半島を制圧することにしました。
1894年11月、日本軍は遼東半島の先っちょにある旅順口上の地図のオレンジマークを攻略します。旅順口は清国海軍の重要な港であり難攻不落の要塞でしたが、日本軍はこれをわずか1日で陥落させます。要塞は鉄壁でも、そこを守る清国兵が士気を失っていたのです。
良港と難攻不落の要塞を持つ旅順口は、地勢的に非常に重要な場所でした。1904年に起こる日露戦争でも、この旅順口をめぐって日本とロシアで大激戦が行われることになります。
1895年2月、次は山東半島の先っちょにある威海衛上の地図の薄緑マークに進攻します。ここでも日本は勝利。軍港だった威海衛の陥落によって清国海軍は壊滅。清国海軍は日本に対して降参を申し出ました。
清国海軍のトップだった丁汝昌は降参を拒否しましたが、最期は「兵士たちを助けてくれるなら、降参を認める」とこれを認め、自分自身は敗北の責任をとって自害。敵とは言え自国のために勇敢に散っていた丁汝昌の亡骸を日本は丁重に清国へ送りかえしました。
清国が海軍を失ったことで日清戦争の勝敗が誰の目にも明らかとなると、1895年3月に清国は日本との講和を申し出て、終戦に向けて動き始めることになります。
日清戦争、終結へ
日本は直隷地方制圧を目指して遼東半島・山東半島を攻略しました。ところで、そもそも「直隷地方制圧」の目的は何でしょうか。
それは、「清国の首都を目指して攻め込むことで、講和の際に良い条件を引き出すため」でした。清国の首都を制圧する意図はありません。(首都制圧は最後の手段)
清国が講和を申し出てから一ヶ月後の1895年4月、清国と日本の間で、以下のような条件で条約が結ばれることになります。この条約は日本の下関で結ばれたので下関条約と呼ばれています。
しかし、下関条約の内容が明らかになると遼東半島を狙っていたロシアがこれに猛反発。
ロシアは、同調するフランスとドイツを誘って、日本に対して「遼東半島を奪うのは流石にやりすぎだから清国に返還した方がいいよ^^(返還しなかったらぶっ飛ばす)」と脅しをかけてきます。これを三国干渉と言います。
日清戦争で精一杯だった日本は、ロシアとの戦いを避けるため遼東半島を清国に返還することを決断します。日本にとってこれは苦渋の決断でした。
遼東半島は、清国の首都である北京に近く、朝鮮にも隣接し、良港を持つという東アジア屈指の超重要拠点でした。
朝鮮を狙うロシアは日清戦争を静観していましたが、日本が遼東半島を奪ったとなると、これを看過することはできず、遂に動くことになったわけです。
ロシアの干渉で遼東半島の確保に失敗した日本では、「ロシア憎し」の世論が高まり、この世論は1904年に起こる日露戦争で爆発することになります。
日清戦争を終えて・・・
最後に日清戦争の後、日本・朝鮮・清国がどうなったのか簡単にまとめておきます。
朝鮮の場合
下関条約によって朝鮮から清国の干渉が排除され、日本が朝鮮の内政に干渉するようになりました。
・・・が、日本の政治干渉はうまくいきません。
逆に朝鮮は日本に対抗するためにロシアと結びつくようになります。すると朝鮮をめぐって日本とロシアの間で対立が起こるようになり、のちの日露戦争へと繋がっていきます。
清国の場合
清国は日清戦争前まで「眠れる獅子」の異名を持っていました。つまりは「いつもは大人しいけど、本気を出したら超強い」と思われていたんです。
それが、日清戦争で本気を出しても弱いことがわかると、清国は多くの列強国から舐められるようになり、列強国から過酷な要求を求められることになります。
清国は、日本への莫大な賠償金を支払うために列強国から多額の借金をします。そして列強国は、その代償として「お金を貸す代わりにお前(清国)の土地を貸せ(租借させろ)」と要求。
清国はこれを受け入れざるを得ず、清国の領土はドイツ・ロシア・イギリス・フランスの手に落ち、窮地に立たされることになります。(これを中国分割て言います)
その後、清国は弱体化の一途を辿り、1911年に起こった革命「辛亥革命」により清国は滅んで、新たに中華民国が生まれることになります。
日本の場合
明治時代ずっと苦しかった日本の財政は日清戦争で賠償金を得ると一気に改善。
日本は、軍備拡大・産業の発展・金融政策など様々な分野に資金を投入して、国力増強を目指します。
北九州市で有名な八幡製鉄所が造られたのもこの頃です。
もう1つ、日清戦争で日本に大きな変化をもたらしたのは清国から手に入れた台湾の存在です。日本は日清戦争の勝利を通じて、アジア初の植民地保有国となりました。
列強国たちは「アジアの国ごときが植民地を統治なんてできるのか?」と日本の台湾統治に強い関心と懐疑心を持っていました。
なので、台湾統治を失敗することは絶対に許されません。列強国に弱みを見せれば、日本も清国のように列強国に蹂躙されるかもしれないからです。清国が日清戦争に敗れて列強国に領土を奪われている惨状に、日本は「明日は我が身かもしれない」と強い警戒心を持ちました。
そんなプレッシャーを感じつつも、日本は台湾統治に全力を注ぎ、これに一応の成功を収めることになります。
そして国力増強と植民地統治を通じて、日本は将来起こりうる朝鮮・遼東半島をめぐるロシアとの戦争を想定し、着実に準備を進めることになるのです。
一方で国内に目を向けると日清戦争後の産業発展によって、過重労働問題や公害問題のような新しい社会問題も起こるようになり、政府はこれらの対応に迫られることになります。
日清戦争の時系列まとめ
最後に簡単ではありますが、日清戦争を時系列でまとめておきます。
- 1894年5月朝鮮で甲午農民戦争が起こる。
反乱鎮圧をめぐって日本と清が対立。
- 1894年7月日清戦争、始まる!
- 1894年9月平壌の戦い・黄海海戦で日本勝利
- 1894年11月日本、遼東半島の先っちょにある旅順口を攻略
- 1895年2月日本、山東半島の先っちょにある威海衛を攻略
この戦いによって清国の海軍は壊滅。3月には、清国は日本との講和に向けて動き出す。
- 1895年4月
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