岩屋城の戦いとは?わかりやすく解説!高橋紹運763名の壮絶な最期と歴史的意義

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岩屋城の戦い

もぐたろう
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今回は岩屋城の戦いについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!1586年、たった763名で島津の大軍に立ち向かった高橋紹運の壮絶な最期と、その死が持つ歴史的意義まで、しっかり理解しよう!

この記事を読んでわかること
  • 岩屋城の戦いとは何か・いつ・なぜ起きたか
  • 高橋紹運とはどんな人物か・立花宗茂との関係
  • 763名がなぜ島津の大軍に立ち向かったのか
  • 降伏を断った高橋紹運の言葉と辞世の句の意味
  • 岩屋城の戦いが豊臣統一・立花宗茂に与えた歴史的意義

岩屋城の戦いといえば、「763名の城兵が全員討死した壮絶な玉砕の悲劇」として語られることが多い戦いです。しかし実は、この763名の死は単なる悲劇ではありませんでした。彼らの15日間の抵抗が島津軍の北上を遅らせ、結果として豊臣秀吉の九州統一・立花宗茂たちばなむねしげの活躍を可能にした——いわば「歴史を変えた戦略的勝利」だったのです。この記事を読み終わるころには、きっとあなたも高橋紹運の選択を違う目で見るようになるはずです。

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岩屋城の戦いとは?3行でわかるポイント

3行でわかるまとめ
  • 1586年(天正てんしょう14年)、島津の大軍が大友氏の岩屋城いわやじょうを包囲。城主・高橋紹運は763名で籠城した
  • 約15日間の激戦の末、高橋紹運以下763名が全員討死(玉砕)。一方、攻め手の島津軍にも甚大な損害が出た
  • この籠城が豊臣秀吉の九州派兵まで時間を稼ぎ、島津の九州統一を阻止する決定打になった

岩屋城の戦いいわやじょうのたたかいは、1586年(天正14年)に九州・太宰府だざいふ(現在の福岡県太宰府市)で起きた籠城戦です。攻めるのは九州統一を目前にした島津氏、守るのは大友氏の重臣・高橋紹運たかはしじょううんでした。

兵力差はじつに圧倒的でした。島津軍はおよそ2万から、史料によっては5万とも言われる大軍。対する紹運の籠城兵はわずか763名です。普通に考えれば、戦う前から勝負は見えています。

ところが紹運は降伏勧告をきっぱり拒絶し、約15日間にわたって島津軍を岩屋城に釘付けにしました。最終的に城は落ち、紹運以下763名は全員討死。しかし攻め手の島津軍にも、3,000〜4,500人超とされる甚大な損害が出たと伝えられています(諸説あり)。

高橋紹運とはどんな人物だったのか

高橋紹運の肖像画
高橋紹運の肖像画(出典:Wikimedia Commons/柳川市天叟寺所蔵/パブリックドメイン)

高橋紹運ってどんな人?

高橋紹運(1548〜1586年)は、戦国時代の武将で大友氏の重臣。岩屋城(福岡県太宰府市)の城主として九州北部の防衛を任された人物です。長男はのちに「西国無双」と呼ばれる名将・立花宗茂、次男は統増むねます(のちの立花直次)。文武に優れ、敵将・島津側からも「名将」と評された武人でした。

高橋紹運は、大友氏の家臣・吉弘鑑理よしひろあきまさの次男として生まれました。のちに筑前の名門・高橋家を継ぎ、岩屋城と宝満山城ほうまんざんじょうの城主となります。主君・大友宗麟おおともそうりんが衰退していくなかでも、最後まで主家を裏切らずに戦い抜いた忠義の人として知られています。

紹運の名を歴史に刻んだのは、何といっても岩屋城での最期です。しかしそれだけでなく、彼は「戦国最強武将」と評される立花宗茂の実父でもあります。父・紹運の生き様が、その後の宗茂の戦いぶりを決定づけたといっても過言ではありません。

もぐたろう
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立花宗茂は「戦国最強武将」の一人として有名なんだけど、実はその父親が高橋紹運なんだよ。今でいうなら、超エリート武将の父っていうイメージかな。父子で名将っていうのは、戦国時代でも珍しいケースなんだ!

ゆうき
ゆうき

立花宗茂って誰?高橋紹運とはどういう関係なの?

もぐたろう
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立花宗茂は紹運の長男で、関ヶ原の戦いや朝鮮出兵で大活躍した武将なんだ!宗茂は若いころに別の名門・立花道雪たちばなどうせつの養子に入ったから「立花」を名乗っているんだけど、血のつながった父親は紹運。父の死後、宗茂はその遺志を受け継いで戦い続けるんだよ。

なぜ島津は九州を攻めたのか―背景と大友氏の苦境

大友宗麟の肖像画
主君・大友宗麟の肖像画(出典:Wikimedia Commons/瑞峯院蔵/パブリックドメイン)

岩屋城の戦いを理解するためには、まず島津氏がなぜ九州統一を目指したのか、そして大友氏がなぜそれを止められないほど弱っていたのかを押さえる必要があります。

16世紀後半の九州は、もともと豊後(大分県)の大友氏、肥前(佐賀県)の龍造寺氏、薩摩(鹿児島県)の島津氏の三大勢力が争う地域でした。なかでも大友宗麟は最盛期に九州六か国を支配し、キリシタン大名としても知られる九州一の大大名だったのです。

16世紀後半の九州三代勢力(manareki.com作成)

その流れが大きく変わったのが、1578年(天正6年)の耳川の戦いでした。日向(宮崎県)に進出した大友軍が、島津義弘・島津義久らの島津軍に大敗。一説には大友軍の有力武将の多くがこの戦いで戦死したとされ、ここから大友氏の急速な衰退が始まります。

大友氏の苦境①:耳川の戦い大敗で家臣団が次々に離反

大友氏の苦境②:島津軍が南九州から北上し、本国・豊後にまで迫る

大友氏の苦境③:岩屋城・宝満山城が落ちれば、九州北部の要衝・太宰府が敵の手に

耳川の敗北後、大友氏の家臣団は次々と離反し、領地は急速に縮小しました。さらに勢いに乗った島津軍は、薩摩から肥後・筑後・筑前へと北上を続けます。1586年には島津勢が大友本国の豊後にまで迫り、大友氏は滅亡寸前に追い込まれていました。

この危機的状況のなか、大友宗麟は遠く大坂の豊臣秀吉に救援を要請。秀吉も九州出兵を決意しますが、何しろ大坂から九州までは距離があります。本格的な援軍が到着するまで、いったい誰が、どうやって島津軍を食い止めるのか——。その重責を背負ったのが、岩屋城主・高橋紹運だったのです。

では、なぜ大友宗麟は秀吉を頼り、秀吉はなぜ援軍を送ることにしたのでしょうか。

【大友宗麟が秀吉を頼った理由】耳川の大敗以来、自力で島津に対抗できる力を失った大友氏に残された選択肢は、当時最大の実力者・豊臣秀吉への臣従でした。宗麟はキリシタン大名として秀吉とも個人的な接点があり、1586年春には自ら大坂に上洛して秀吉に謁見・救援を直訴しています。

【秀吉が援軍を決意した理由】1585年に関白となった秀吉は「惣無事令そうぶじれい」を発令し、大名間の私戦を禁じていました。島津の侵攻はその命令違反にあたり、秀吉としては権威にかけて黙認できません。また、島津が九州を完全統一すれば天下統一の大きな障害になるという戦略的な判断もありました。大友宗麟が秀吉への臣従を誓っていたことで「臣下を守る」という大義名分も整ったのです。

もぐたろう
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島津軍の兵力は約2万〜5万と諸説あって、対する高橋紹運はわずか763名。少なく見積もっても約26倍、多めに見ればなんと60倍以上の差なんだよ。

岩屋城に籠城したのはなぜか―763名で戦うという選択

圧倒的な兵力差を前にして、なぜ高橋紹運は逃げず、降伏もせず、岩屋城に籠城することを選んだのでしょうか。じつはこの選択には、明確な戦略的意図がありました。

当時、紹運の手元には3つの城がありました。本拠の岩屋城、次男・統増(のちの立花直次)に守らせていた宝満山城、そして長男・立花宗茂が城主を務める立花山城たちばなやまじょうです。この3城が連携することで、大宰府から博多にかけての防衛ラインを形成していました。

岩屋城・宝満山城・立花山城による対島津防衛ライン(manareki.com作成)

もし紹運が岩屋城を捨てて立花山城に集結すれば、紹運自身は生き延びられるかもしれません。しかしそれでは島津軍を素通りさせることになり、博多が落ち、九州北部は島津のものになってしまいます。豊臣秀吉の援軍が到着するまで、誰かが時間を稼がなければならない——その役を、紹運は自ら買って出たのです。

紹運は岩屋城を「捨てて」立花山城に合流する選択肢もありました。しかしそれでは島津軍を無傷で通すことになり、立花宗茂や豊臣援軍が態勢を整える前に九州北部全体が陥落する恐れがあったのです。岩屋城に踏みとどまることは、紹運自身の死と引き換えに九州を救うための「戦略的自己犠牲」でもありました。

紹運は次男・統増に宝満山城を任せ、自らは763名の兵とともに岩屋城に入りました。長男・宗茂には立花山城の死守を命じ、自分は囮となって島津軍の進撃を岩屋城に釘付けにする——これが紹運の描いた戦略でした。父子3人がそれぞれの城で同時に島津と戦う、文字通り「家族総力戦」だったのです。

あゆみ
あゆみ

でも、763名って少なすぎない?もっと援軍を集めることはできなかったのかしら?

もぐたろう
もぐたろう

大友氏は耳川の大敗以来、家臣団も兵力もボロボロだったんだ。集められる兵が、もう763名しか残っていなかったんだよ。それでも紹運は「ここで時間を稼げば豊臣の援軍が間に合う」と冷静に判断して、玉砕覚悟で籠城を選んだ——これが戦国武将としての凄みだね。

降伏勧告を退けた高橋紹運の言葉

1586年7月、岩屋城を取り囲んだ島津軍は、攻撃に先立って何度も降伏勧告を行いました。圧倒的な兵力差を考えれば、降伏すれば命は助かったかもしれません。実際、島津側も「これだけの名将を殺すには惜しい」と考えていたと伝えられます。

しかし紹運は、ことごとくこれを拒絶しました。なかでも有名なのが、降伏を勧める使者に対して紹運が返したとされる次の言葉です。

「君、盛んなる時にこれに従い、その衰うるに及んで離反するは、わが本意にあらず」

意味はこうです。「主君が盛んなときだけ従って、衰えたときに見限るような真似は、私の生き方ではない」——。

戦国時代は「下克上」の時代であり、勝ち目がないとなれば主君を裏切って強い側に寝返るのは珍しくありませんでした。耳川の大敗後、大友氏からも多くの家臣が島津側に寝返っています。そんな時代だからこそ、紹運の言葉は重く響きました。

もぐたろう
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島津側は何度も使者を送って降伏を勧めたんだけど、紹運は全部はねつけたんだ。「衰えた主家にこそ仕えるのが本物の忠義だ」って——こんな言葉を圧倒的不利な状況で言えるなんて、まさに武士の鑑だね…!

籠城戦の経緯―15日間の死闘

岩屋城跡の石碑(福岡県太宰府市)
岩屋城跡の石碑(福岡県太宰府市)(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

1586年(天正14年)7月12日:島津軍が岩屋城に降伏勧告

1586年7月12日、島津忠長を大将とする島津軍は、岩屋城を包囲して降伏勧告を発しました。しかし高橋紹運はこれを拒否。両軍は約15日間、岩屋城をめぐる激しい攻防戦を繰り広げることになります。

7月14日ごろから島津軍の本格的な攻撃が始まりました。圧倒的な兵力で何度も城に押し寄せる島津軍に対し、紹運率いる籠城兵は地の利を活かし、伏兵や夜襲を使って粘り強く抵抗します。

■島津軍の攻撃と守備側の奮戦

岩屋城は標高281mの四王寺山しおうじやまの中腹にある山城でした。急峻な地形を活かした天然の要害で、平地から見上げるように攻めなければなりません。紹運はこの地形を最大限に活用し、狭い登城路で島津軍を待ち構えました。

島津軍は得意の釣り野伏つりのぶせ(おとり部隊で敵を誘い込み、伏兵で挟み撃ちにする戦法)を駆使し、力攻めを繰り返します。しかし岩屋城の守りは固く、何度攻めても崩れません。紹運は自らも前線に立ち、寡兵ながら島津兵を次々と討ち取っていきました。

島津軍は薩摩・大隅の島津直属兵だけでなく、降伏した肥後・筑後の他国衆を多く含んでいたとされます。これらの兵は島津に従属したばかりで戦意が必ずしも高くなく、これも763名が15日間も持ちこたえられた一因と考えられています。

もぐたろう
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763名の籠城兵が、最終的に島津軍に3,000〜4,500人超の死傷者を出させたと伝えられているんだ(諸説あり)。少なく見ても自軍の4倍以上の損害を敵に与えたってこと…!戦国時代の籠城戦でも、ここまで一方的に敵に損害を与えた例はめったにないんだよ。

こうして島津軍を15日間にわたって釘付けにした紹運たち。しかし時間がたつにつれ、城内の兵は次々と討ち取られ、矢も尽き、糧食も底をつき始めます。15日間の死闘は、ついに最後の瞬間を迎えることになります——。


最期と辞世の句―敵将も涙した玉砕

もぐたろう
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ここからが岩屋城の戦いのクライマックスだよ。15日間の死闘の果てに紹運が選んだ最期と、そこに込められた覚悟——。心して読んでほしい場面なんだ。

1586年(天正14年)7月27日、ついに岩屋城は落城のときを迎えました。城内に残る兵はすでに半数以下、矢も尽き、糧食も底をついていました。それでも紹運は最後まで指揮を執り続け、城兵たちもまた一人として降伏する者はいなかったと伝えられます。

城兵の多くが討死し、本丸まで攻め込まれた時点で、紹運は本丸の本陣にて自ら腹を切り、自害して果てました。享年39。残された城兵たちもまた、紹運に殉じてことごとく討死し、岩屋城に籠もった763名は一人残らず命を落としました。文字通りの「全員玉砕」です。

島津軍を率いた島津忠長は、紹運の壮絶な最期を聞き、敵将ながら深く心を動かされたと伝えられています。「これほどの名将を討ち取ってしまった」という後悔と惜しみの念が、敵陣にも広がったといいます。

もぐたろう
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島津側の記録には、忠長が「かくも見事な武将を討ち取ってしまったか…名将を失ったのは我らの方かもしれぬ」という趣旨の言葉を漏らしたと伝えられているんだ。敵将すら涙させるなんて、紹運の生き様は本当に別格だったんだね…!

そんな高橋紹運が最期に詠んだとされるのが、いまも語り継がれる2首の辞世の句です。岩屋城に身を埋める覚悟と、後世に名を残そうとする武人の誇りが込められています。

「屍をば岩屋の苔に埋めてぞ 雲ゐの空に名をとどむべき」

意味は「私のかばねはこの岩屋の苔の下に埋めればよい。しかしわが名は、雲居くもい(雲のかかる遥か高い空)にまで届くほど永遠に残るはずだ」というもの。肉体は朽ちても、忠義の名は後世まで残るという確信が伝わってきます。

「流れての末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の苔の下水」

2首目は「時が流れて遥か後の世になっても、わが名は埋もれることはない。岩屋の苔の下を流れるこの清水のように、わが志は永遠に流れ続けるであろう」という意味です。岩屋城跡の歌碑にも刻まれた句で、1首目と合わせて読むと、「肉体ではなく、生き様こそが永遠に残る」という紹運の死生観が浮かび上がってきます。

高橋紹運
高橋紹運

この身は岩屋の苔に還ろうとも、わが忠義の名は天に刻まれるであろう——。たとえ城は落ちようとも、この生き様こそが、わが子・宗茂への何よりの遺言となる。

もぐたろう
もぐたろう

敵将すら涙させた最期、そして辞世の句に込められた覚悟——。岩屋城の戦いが「単なる玉砕」ではなく「武士道の極致」として今も語り継がれている理由がよくわかるね。さて、ここまできたら次は気になる「で、結局この戦いは何を変えたの?」を見ていこう!

岩屋城の戦いの歴史的意義―763名の死が変えたもの

岩屋城が落ちたあと、すぐ近くの宝満山城を守っていた次男・統増むねます(のちの立花直次)は、城内の家臣・女性たちの命を守るためにやむなく島津軍に降伏します。しかしすでにこのとき、島津軍は岩屋城攻めで多大な損害を受け、北上のスピードは大きく鈍っていました。

結果として、立花山城を守る長男・立花宗茂への攻撃は思うように進まず、ほどなく戸次川の戦いを経て豊臣秀吉本隊の九州上陸が現実のものとなります。岩屋城の763名が命懸けで稼いだ時間は、まさに九州の運命を変えるピースだったのです。

意義①:島津軍に3,000〜4,500人超(諸説あり)の損害を与え、豊後・豊前への進攻スピードを大きく遅らせた

意義②:この遅延が豊臣秀吉の援軍到着を間に合わせ、1587年の九州討伐実現につながった

意義③:父の壮絶な死が、立花宗茂が「戦国最強武将」と呼ばれる活躍を生む精神的支柱となった

歴史家の多くは、岩屋城の戦いを「戦略的自己犠牲」として高く評価しています。単に主君への忠義のために死んだのではなく、九州全体の戦況を見渡したうえで、「ここで自分が死ねば援軍が間に合う」と冷静に計算した結果の籠城だった——。だからこそ、その死には大きな意味があったのです。

💡 歴史のif:もし高橋紹運が降伏していたら?
もし紹運が島津軍の降伏勧告を受け入れていたら、島津軍は無傷で立花山城・博多へ進軍し、九州北部全体を短期間で制圧していた可能性が高いと言われています。豊臣秀吉の援軍は間に合わず、九州はそのまま島津のものとなり、その後の戦国史は大きく書き換えられていたかもしれません。763名の死は、まさに「歴史を変えた死」だったのです。

あゆみ
あゆみ

結局、高橋紹運たちの死は無駄じゃなかったってことなのね…!

もぐたろう
もぐたろう

無駄どころか、763名の命が九州の歴史を変えたんだよ…!この戦いがなかったら、豊臣の九州統一も、立花宗茂の伝説的な活躍もなかったかもしれない。「壮絶な玉砕」と「戦略的勝利」の両方を兼ね備えた、まれに見る戦いなんだ。

岩屋城の戦いについてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
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岩屋城の戦いや高橋紹運・立花宗茂についてもっと深掘りしたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

①立花宗茂の生涯をまるごと知りたいなら|高橋紹運の父として描かれた決定版入門書

立花宗茂 戦国「最強」の武将

加来耕三 著|中央公論新社(中公新書ラクレ)


②高橋紹運その人を主役で読みたいなら|岩屋城の籠城戦を圧倒的臨場感で描く歴史小説

高橋紹運 戦国挽歌

西津弘美 著|学陽書房(人物文庫)


③九州戦国の全体像をつかみたいなら|島津・大友・立花が争った筑前をまるごと解説

筑前戦国史

吉永正春 著|海鳥社

よくある質問(FAQ)

1586年(天正14年)、九州統一を目指す島津軍約2万〜5万が、大友氏方の高橋紹運が守る岩屋城(現・福岡県太宰府市)を攻めた籠城戦です。紹運率いる763名は約15日間の死闘の末に全員討死しましたが、島津軍にも3,000〜4,500人超(諸説あり)の損害を与え、その進攻を大きく遅らせました。この遅延が翌1587年の豊臣秀吉による九州討伐を可能にしたとされ、九州統一戦の流れを決定づけた重要な戦いです。

大きく2つの理由があったとされます。第一に、主家・大友氏が衰退してもなお仕えるという「武士の忠義」を貫くため。「衰えた主家を見捨てるのは本意ではない」と紹運自身が語ったと伝えられています。第二に、岩屋城で時間を稼げば豊臣秀吉の援軍が九州に到着できるという「戦略的判断」があったためです。降伏すれば島津軍が無傷で九州北部を制圧してしまうため、自らの死と引き換えに九州を救う「戦略的自己犠牲」を選んだと考えられています。

高橋紹運は立花宗茂の実父です。宗茂は紹運の長男として生まれましたが、大友氏の重臣・立花道雪に跡継ぎがいなかったため、1581年頃に道雪の養子となり「立花宗茂」を名乗りました。岩屋城の戦いで実父・紹運が壮絶な最期を遂げたことが、宗茂のその後の戦いぶりに大きな影響を与えたとされ、宗茂はのちに「戦国最強武将の一人」とも称される活躍を見せます。

島津軍は3,000〜4,500人超の死傷者を出したと伝えられています(諸説あり)。少なく見ても763名の籠城軍の4倍以上にあたる損害を与えたことになります。これは戦国期の籠城戦としても異例の戦果で、島津軍の北上スピードを大きく削いだ要因となりました。この損害があったからこそ、続く戸次川の戦いを経て豊臣秀吉の九州討伐が間に合ったとも言われています。

有名な辞世の句「屍をば岩屋の苔に埋めてぞ 雲ゐの空に名をとどむべき」は、「私の屍は岩屋の苔の下に埋めればよい。しかしわが名は雲のかかる遥か高い空にまで届くほど永遠に残るはずだ」という意味です。もう一首「流れての末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の苔の下水」は、「時が流れて遥か後の世になっても、わが名は埋もれることはない。岩屋の苔の下を流れるこの清水のように、わが志は永遠に流れ続けるであろう」という意味です。どちらも、肉体ではなく生き様こそが永遠に残るという紹運の死生観が込められています。

はい、岩屋城跡は福岡県太宰府市の四王寺山の中腹にあり、登山道を通って訪れることができます。本丸跡には「嗚呼壮烈岩屋城址」と刻まれた石碑が立ち、周囲には高橋紹運をはじめ討死した城兵たちの墓所も残されています。最寄りは西鉄大牟田線・太宰府駅で、太宰府天満宮からハイキングコースで登るルートが一般的です。歴史の現場をその目で確かめたい方には、ぜひ訪れてほしい場所です。

まとめ:763名の命が刻んだ歴史

岩屋城の戦いのポイントまとめ
  • 1586年(天正14年)、高橋紹運が763名で島津軍約2万〜5万に立ち向かった籠城戦
  • 約15日間の死闘の末に全員討死。島津軍にも3,000〜4,500人超(諸説あり)の甚大な損害を与えた
  • 「単なる玉砕」ではなく、豊臣援軍到着まで時間を稼ぐ「戦略的自己犠牲」だった
  • この戦いが翌1587年の豊臣秀吉の九州討伐と、長男・立花宗茂の活躍につながった

もぐたろう
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以上、岩屋城の戦いのまとめでした!高橋紹運の生き様って、本当にかっこいいよね。下の記事で立花宗茂の活躍島津義弘、関連する戸次川の戦いもあわせて読んでみてください!

岩屋城の戦い 関連年表
  • 1548年
    高橋紹運、生まれる
  • 1578年
    耳川の戦い:大友宗麟が島津に大敗。大友氏の衰退が始まる
  • 1581年頃
    立花宗茂(紹運の長男)が立花道雪の養子に入る
  • 1586年7月12日
    島津軍、岩屋城に降伏勧告。高橋紹運、拒否
  • 1586年7月14日頃
    島津軍による攻撃開始(15日間の籠城戦)
  • 1586年7月27日
    高橋紹運、割腹自害。763名全員討死。岩屋城落城
  • 1586年末
    戸次川の戦い:豊臣軍先遣隊が島津軍に大敗
  • 1587年
    豊臣秀吉、九州討伐。島津氏、降伏。九州が豊臣支配下に

📅 最終確認:2026年4月

参考文献

Wikipedia日本語版「岩屋城の戦い」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「高橋紹運」(2026年4月確認)
コトバンク「高橋紹運」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「岩屋城の戦い」(日本大百科全書)

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この記事を書いた人
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