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寺門派(延暦寺)と山門派(園城寺)の違いを簡単にわかりやすく紹介してみる

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寺門派の本山である園城寺(三井寺)

今回は、比叡山を総本山としていた天台宗が分裂してできた2つの派閥、

山門派さんもんは

寺門派じもんは

この2つについて考えてみようと思います。

正直、なぜ天台宗が2つに分裂してしまったのか私もよくわからなかったので、色々と調べた結果をこの記事でアウトプットしておきます。対立に至った理由や、その経過なんかを中心に。

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山門派と寺門派はなぜ分かれたのか?

山門派は延暦寺えんりゃくじ寺門派は園城寺おんじょうじ三井寺みいでらを拠点として、両者は長い間、武力闘争に発展するほどの激しい対立を続けてきました。

宗派が2派に分かれた始まりは、同じ天台宗内での思想が2つに分かれたのが原因でした。

天台宗の開祖は最澄さいちょう。最澄は804年に唐で天台宗てんだいしゅうの教えを学び、日本に伝えました。同じ頃、同じく唐に渡った空海は真言宗しんごんしゅうという形で日本に密教みっきょうを伝えます。

天台宗とは

法華経ほっけきょうの教えを中心に、ぜんかい・密教など様々な教えを体系的に整理した仏教思想を持つ仏教宗派。

真言宗とは

仏教の数ある考えの中で、特に密教に特化した仏教宗派。

密教とは

呪文や瞑想など神秘的な力を根拠に悟りを開こうとする仏教思想の1つ。

【最澄】

奈良時代に腐敗した南都仏教からの脱却を図るため、平安時代初期の天皇(桓武天皇とか嵯峨天皇とか)は最澄と空海に大きな期待を寄せていました。最終的に、天皇の信頼を勝ち取ったのは空海の真言宗。

最澄の天台宗は下火となってしまいます。

天台宗は様々な思想を融合しているため、非常に難解な思想でした。朝廷は密教の思想を好みましたが、最澄は天台宗に密教の考え方をうまく組み込むことができませんでした。(だから、朝廷は密教に特化した空海の真言宗を選びました。)

密教で何よりも大事だったのは教理を学ぶことでも厳しい修行に耐えることでもなく、「考える必要はない。とにかく仏のパワーを感じるんだ!!」という精神。第六感や未知の力に悟りを開く活路を見出したわけです。そして、当時の朝廷はこの神秘的な力の魅力に惹かれ、密教を重宝しました。

宗派を確固たるものにするには朝廷や天皇などのパトロンが必要です。その点で真言宗に遅れを取った天台宗は、最澄の死後、天台宗と密教の完全なる融合を目指すことになります。

そして、この大事業のひとまずの完成を遂げたのが3代目天台宗トップの円仁えんにん(794年〜864年)という人物。

そしてこれをさらに発展させたのが5代目トップの円珍えんちん(814年〜891年)のという人物でした。

円珍

円仁は、世界三大旅行記と言われる入唐求法巡礼行記にっとうぐほうじゅんれいこうきを書いた人物として世界的にも?有名な人物です。

ちなみに、世界三大旅行記の残り2つは、「日本=ジパング」を印象付けたマルコポーロの「東方見聞録」、孫悟空で有名な玄奘三蔵の「大唐西域記(最遊記)」です。この2つと肩を並べると思うと円仁って凄い人物なんですね!

円仁と円珍、名前が似ていて紛らわしいですが、この2人の思想には決定的な違いがありました。

それは密教に対する考え方です。

天台宗においてもっとも重要視されていたのは法華経という経典。

円仁は法華経の教えと密教の教えは同等であると考えたのに対して、

円珍は法華経と密教では両者は同じ教えを説いているが密教の方が大事であると考えました。

まとめるとこんな感じ。

  • 円仁の思想:密教の教え=法華経の教え
  • 円珍の思想:密教の教え>法華経の教え

この密教に対する考え方の違いから、天台宗の内部で対立が生じます。法華経は天台宗開祖である最澄が最も重要だと考えた経典であり、その最重要経典のあり方が問われるわけですから、これは天台宗の根幹にも関わるとても大きな問題です。

ここで1つ注意しておきたいのは、円仁と円珍が直接対立したわけじゃないってことです。

対立が始まったのは円仁と円珍が無くなった後のお話。円仁と円珍の意志を受け継ぐ者たちが争いを始めたのです。

993年、円仁派と円珍派の対立が続く中、円珍派は比叡山を降り独立。園城寺(三井寺)で独自の動きを見せるようになりました。

なぜ独立先に園城寺を選んだかというと、園城寺は円珍が生きていた頃に円珍が拠点としたお寺だったからです。

こうして比叡山に残った円仁派を山門派園城寺に移った円珍派のことを寺門派と呼ぶようになったわけです。

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寺門派と山門派の対立を考える

寺門派と山門派の思想上の違いは、先に述べたとおり法華経と密教のあり方の違いにあります。

が、この両者の対立は単なる宗教上の対立を越えて、度重なる武力闘争や政治闘争にまで発展します。園城寺は、何度寺を焼かれても復活するその様子から「不死の寺」なんて異名を持つほど激しい争いがあったのです。

するとこんな疑問が頭をよぎります。

「確かに天台宗で最重要だった法華経のあり方が違えば、思想上の対立が生まれるのはわかる。でも、流石に延暦寺と園城寺の間でドンパチやりすぎなんじゃね?」と。

実際、対立が激化したのには思想上の対立以外にも理由がありました。

平安時代、比叡山も園城寺も多くの有力者をパトロンに持ち、広大な荘園を持っていました。そして、荘園の管理のため多くの僧兵を抱え、武力も持っています。そんな両者が対立するとどうなるでしょう。

有力者が背後にいる以上、延暦寺と園城寺の対立はそのまま政治対立になる可能性を秘めているということです。

例えば源平合戦なんかでは比叡山は平清盛と親密な関係にあったので、1180年に以仁王の挙兵に応じた源頼政は園城寺の力を借りて平家と戦っています。

さらに園城寺と比叡山の対立は、お互いに自分の意見を通すための朝廷への強訴という形でも政治上で表面化します。

もっと有名な出来事で言えば、織田信長の比叡山焼き討ち事件(1571年)。この時、織田信長は、比叡山と対立する園城寺を懐柔した上で比叡山に攻め込んだんじゃないか・・・なんて言われています。

山門派も寺門派も強い影響力を持っているが故に、政争の具になってしまった。だから、両者の対立は単なる思想対立を越えた激しい武力闘争に発展してしまったのだと思います。

この山門派と寺門派の対立は、現代で言う中東のイスラム教を巡る対立に非常に似ています。イスラム教はその教理に対する態度の違いから「スンニ派」と「シーア派」に別れ、両者は今もなお対立を続けています。

この両者の対立には、各国の経済利権や、ロシア・アメリカの代理戦争的な側面もあって、表面上は宗教対立に見えますが、実態としてはもはや宗教を利用した利権を巡る戦争に他なりません。

宗教対立に政治・経済の対立が絡むと、非常にややこしいことになる・・・、山門派と寺門派の対立の歴史はそんなことを私たちに教えてくれています。これは日本だけじゃなくて、さっき話したスンニ派・シーア派の対立とか、中世のプロテスタント・カトリック対立による宗教戦争とか、似たようなことは世界中で起きています。「歴史は繰り返す」をこれほどわかりやすく体現している例はそうないでしょう。

と言うわけで、山門派と寺門派のお話は非常に興味深いものでした。そして話は全く変わるんですが、いずれ円仁の書いた入唐求法巡礼行記を読んでみたいなぁ・・・なんてこの記事を書いて思ったのでした。

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