1011年、賢帝一条天皇は病に伏し、そのまま崩御します。そして、即位したのが三条天皇でした。
一条天皇の在位期間は約25年。朝廷内は優秀な人物が溢れ、王朝文学が開花し、道長との関係も良好。大きな争いが起こることもない・・・というとても良き時代でした。(あくまで朝廷内の話。地方は相変わらず大変な思いをしていました。)
一条天皇の時代は、道長を筆頭にした平安貴族時代の代表格とも言える象徴的な時期であり、一条天皇は比較的有名な天皇なのではないかと思います。
このサイトでも一条天皇については、くどいくらい何回も記事を書いています。
一方の三条天皇の時代は、在位期間はわずか4年、しかも三条天皇と道長の対立が鮮明なものとなっていて、お世辞にも良き時代だったとは言えません。そして三条天皇治世もなんとも悲しいものになっています。
そんな、一条天皇の時代とのギャップが激しいのが三条天皇の時代です。さっそく具体的な内容を紹介していきます。
一条天皇の母と三条天皇の母
当時の天皇は、「貴族の中でも絶対的権力を持った藤原道長とどのような関係を保とうか?」という問題を必ず考えなければなりませんでした。
そして、一条天皇は道長と二人三脚で政治を行い、一方の三条天皇は天皇親政を目指し道長と対立する道を選ぶことになりました。
なぜ2人の道長に対する考え方は真っ向から反対したのでしょうか?その背景には、2人の天皇の母の存在が影響していると考えられています。
一条天皇の母は藤原詮子、三条天皇の母は藤原超子であり、どちらも道長の姉でした。詮子は道長のことを非常に好いており、子供だった一条天皇から見ると、お母さんと道長はとても良好な関係でした。そんな家庭環境なので、もちろん、一条天皇と道長にも個人的な信頼性が生まれていたことでしょう。そんな家庭事情が即位後の一条天皇と道長の良好な関係に一役買っていたようです。
一方の三条天皇の母は982年に早くに亡くなっており、三条天皇と道長との間を取り持つ人物が存在しませんでした。それでも、即位をすると否が応でも道長との関係性を探らなければなりませんが、一条天皇のような母を通じた下地のない三条天皇と藤原道長との関係にはどうしても埋まらない溝が存在していたようです。
一条天皇と三条天皇はどちらも藤原道長と血縁関係があったにもかかわらず、三条天皇は道長と良好な関係は結べませんでした。このことは、外戚政治とは言っても血縁関係だけではダメで、お互いの信頼関係が非常に重要なものだったことを意味しています。
敦成親王を天皇にしたい藤原道長
三条天皇と藤原道長の対立の理由は、家庭環境の違いだけが理由ではありません。
藤原道長は娘の彰子の子である敦成親王を早く即位させたいと考えており、三条天皇は敦成親王が成長したらすぐに譲位してもらって結構!と思っていたようです。
藤原道長にとって三条天皇は、敦成親王即位までの繋ぎ役でしかなかったのです。もちろん、三条天皇は「自ら率先して政治を行うぞ!」と意気込んでいたので、そんな2人の気持ちのギャップも2人の対立の理由の1つでした。
三条天皇と藤原道長の冷戦関係
三条天皇と藤原道長が対立してしまった理由について説明したので、次は具体的な対立の様子を見ていきましょう。この2人、表面だった対立は少ないですが、裏でバチバチと火花を散らしていました。まさに「冷戦」という言葉がふさわしいと思います。
三条天皇と道長の関係は1011年の三条天皇即位時点から既に微妙なものであり、その翌年の1012年に早速事件?が起こりました。
再び起こる皇后・中宮問題【一帝二后問題】
三条天皇には、即位する前から2人の女がいました。
一人は、藤原道長の娘の藤原姸子(けんし)。
もう一人は、藤原済時(なりとき)の娘の藤原娍子(せいし)。
当時、藤原済時は既に亡くなっていたため娍子の後ろ盾は失われていました。一方の姸子は、絶対的権力者の藤原道長が健在であり、当然のように道長の娘である姸子が三条天皇の中宮となりました。即位一年後の1012年2月の出来事でした。
三条天皇の抵抗 ー娍子、皇后になるー
しかし、娍子には父の後ろ盾こそなかったものの、実は三条天皇との子供がたくさん生まれていました。一方の姸子には1012年時点では子供はまだいません。三条天皇は「子供をたくさん産んでくれた娍子を正妻にしないのは申し訳ない」とでも思ったのか、それとも道長の邪魔をしようとでも思ったのか、姸子が中宮になった2月の2ヶ月後、つまり1012年4月に娍子を皇后にしました。
こうして一条天皇に続き、またもや天皇1人につき正妻2人という異例の事態が続いてしまいます。一帝二后の先例を作り出したのは、一条帝の頃の道長ですが、今回は、三条天皇に利用された形になりました。
中宮、皇后ってなに?一帝二后って何?という方は以下の記事を参考にどうぞ。
藤原道長の嫌がらせ攻撃
三条天皇が娍子を皇后とした理由は不明ですが、理由はどうあれ、藤原道長が快く思ったわけがありません。姸子を中宮にした2ヶ月後の出来事ですから、道長が三条天皇に喧嘩を売られた!と思ってもおかしくはないでしょう。
ここで、藤原道長は三条天皇に嫌がらせをすることにします。なんだか道長の性格が悪いように思いますが、天皇とその臣下という立場上、絶対的権力を持つ道長であっても、公式に天皇批判はできませんので、どうしてもそのような形で意見を表明するしかない・・・という考え方もできます。
道長、参内の日をわざと被らせる
皇居に入ることを「参内」と言いますが、皇后の初めて参内は朝廷内の一大行事であり、多くの人が集まり華やかに行われるのが一般的でした。娍子の参内は1012年4月27日に決まりますが、ここで藤原道長は、三条天皇に嫌がらせをします。
実は、道長の娘である姸子は1012年2月に中宮となったものの、未だに皇居内には入っておらず参内がまだでした。そこで、姸子の参内の日をわざと娍子参内と同じ4月27日にします。
どーゆーことかというと、
道長「姸子と娍子の参内が同じ日に行われるけど、どっちに参加すべきかみんなわかってるよね?ちなみに俺は娍子に皇后になって欲しくないから、そこんとこよろしく」
と間接的に貴族たちに圧力をかけたわけです。藤原道長の権力に逆らってしまうことを恐れ、多くの貴族たちは姸子の参内にしか参加しませんでした。
悲惨な娍子の参内
さて、こうして参内当日の4月27日がやってきます。当日は雨だったようです。本来華やかな皇后の参内ですが、娍子の参内はそれはそれはとても惨めなものでした。
まず、大臣級の人が一切集まりませんでした。皇后の参内は、一大行事であり、通常大臣クラスの人物が主催するものですが、左大臣の道長は当然参加するはずもなく、道長に目をつけられるのを恐れた右大臣・内大臣も理由をつけて参加を拒否します。
困り果てた三条天皇が、大納言である藤原実資という人物に参内の主催をお願いするという有様でした。実は実資も姸子の参内に参加する予定でしたが、状況を察し、しょうがなく娍子の参内に参加することにしました。
さらに、大臣級だけでなく、そもそも参加者が全然集まりません。藤原実資は、東三条邸という姸子が参内の儀式をしている場所へ使いを送り、「誰か娍子の参内の儀式に参加して!」と呼びかけますが、これを面白がった道長派の人々はこの使いのことを馬鹿笑いし、石を投げる人までいる始末でした。
そもそも、参内の儀式には様々な下準備が必要ですが、その下準備すらも道長を恐れる官僚たちのボイコットによりまともにできていなかったようです。
本来華やかな参内の儀式が一転、準備すらまともにできず、当日には全く人が集まらない有様になってしまったのを目の当たりにした天皇と娍子はさぞかし道長を憎んだことでしょう。
一方、姸子の参内の儀式は多くの人が集まり盛大に行われました。
姸子の子は女の子!
姸子と娍子の参内事件だけでも、三条天皇と道長の関係は最悪の状態でしたが、その翌年の1013年、さらに決定的な出来事が起きます。
1013年、遂に姸子が三条天皇の子供を産みますが、女の子だったのです。これが道長と三条天皇の関係に最後のトドメを刺しました。ここで男の子が生まれれば、将来の天皇をその子にすることができれば、三条天皇と道長の思惑は一致し、まだ関係の改善が図られたかもしれませんが、その夢も叶うことはありませんでした。
姸子の子が女の子だったことで、道長の「めんどくさい三条天皇なんかとっとと譲位させて、敦成親王を早く即位させ、外祖父として権力を固めてしまいたい」という考えは決定的なものとなりました。
三条天皇の眼病
三条天皇には早く譲位してもらいたい道長でしたが、嫌がらせの部分で説明したように権力者である道長と言えども、公に三条天皇に退位を迫ることは立場上できませんでした。
そんな時、道長にとっては幸運な、三条天皇にとっては不幸な出来事が起こります。1014年、三条天皇は眼病を患ってしまいます。
この眼病により、天皇の政務処理能力が疑問視されるようになり、藤原道長は眼病を切り口として、三条天皇に対して露骨に退位を促すようになっていきます。
1014年のこの時点で、三条天皇と藤原道長の対立は修復不可能なほど深刻になっており、三条天皇の治世は最終局面へと向かっていきます。
まとめ
三条天皇の治世は、一条天皇とはまるで真反対でとても興味深いものです。外戚政治という血縁に基づく政治であってもやはり人間関係も重要だったんだよ・・・ってことを「ここまで違うのか!」と思ってしまうほど鮮明に物語っています。この時代の政治は、なんでもかんでも「摂関政治」という括りで考えられがちですが、当時の政治はもっと人間的で生々しいものでした。
次回は、三条天皇と藤原道長の対立のクライマックスの様子を紹介します。
【次回】
【前回】
コメント