ペルシア戦争をわかりやすく解説!原因・流れ・マラトンの戦いまで

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ペルシア戦争

もぐたろう
もぐたろう

今回はペルシア戦争について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「小国ギリシアがなぜ超大国ペルシアに勝てたのか」という疑問に、しっかり答えていくね!

📚 この記事のレベル:高校世界史
📖 山川出版『詳説世界史』準拠
🎯 共通テスト・大学受験対応

この記事を読んでわかること
  • ペルシア戦争の原因と流れ(イオニアの反乱〜カリアスの和約)
  • マラトン・テルモピュライ・サラミス・プラタイアの4大戦の内容
  • テミストクレスの「木の壁」作戦とサラミスの海戦の仕組み
  • なぜ小国ギリシアがペルシア大軍に勝てたのか(3つの理由)
  • ペルシア戦争後にアテネ民主政が完成した理由
  • 共通テスト・入試で問われるポイントまとめ

ペルシア戦争というと、ギリシアが大軍を退けた奇跡の勝利——そう思われがちですが、実はアテネはペルシアに一度、首都を占領・焼き払われています。アクロポリスの神殿が灰になり、市民は海に逃れた——それでも最終的に逆転勝利できたのは、ある一人の人物の型破りな作戦のおかげでした。

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ペルシア戦争とは?——3行でわかる基本まとめ

3行でわかるペルシア戦争

① BC492〜449年、ギリシア都市国家群とアケメネス朝ペルシアが戦った約50年の大戦争。

② アテネは一度首都(アクロポリス)を焼き払われたが、テミストクレスの奇策「サラミスの海戦」で逆転勝利。

③ 戦後、海軍力を誇示したアテネで民主政(デモクラシー)が完成し、ペリクレスの黄金時代へと続く。

ペルシア戦争とは、紀元前5世紀(BC492〜449年)にかけて、アケメネス朝ペルシア帝国とギリシアの都市国家群が繰り広げた大戦争です。

当時のペルシア帝国は、西はエジプト・トルコから東はインダス川流域まで支配する世界最大の大国。現在でいうと、イラン・イラク・エジプト・トルコを丸ごとのみ込んだ超大国です。

一方のギリシアは、アテネ・スパルタ・コリントスなど、数百の小さな都市国家(ポリス)の集まり。人口も兵力も、ペルシアとは比べものにならないほど少なかったのです。

ゆうき
ゆうき

ペルシアってどのくらい大きかったの?

もぐたろう
もぐたろう

ペルシア帝国はね、当時の世界人口の約40〜50%を支配していたと言われてるよ!今でいう「世界の半分を支配した帝国」ってイメージだね。それに対してギリシアの都市国家はせいぜい人口数万〜数十万の小さな国の集まり。そんな相手に勝てたんだから、本当に奇跡なんだよ!

ちなみに——ペルシア戦争が起きた紀元前5世紀、日本は弥生時代です。稲作がようやく西日本に広まり始めたころ。邪馬台国もまだ生まれていない時代に、ヨーロッパでは民主主義の礎が築かれていたのです。

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なぜ起きた?ペルシア戦争の原因と背景

ペルシア戦争の直接のきっかけは、BC499年のイオニアの反乱です。

イオニアいおにあとは、現在のトルコ西岸に位置する地域で、古くからギリシア系住民が暮らしていました。紀元前6世紀、ペルシア帝国に征服されたイオニアの都市は、重税と専制政治に苦しんでいました。

イオニアとは、現在のトルコ西岸(エーゲ海に面した地域)。ミレトス・エフェソスといった都市が栄えた。アケメネス朝ペルシアの支配下に置かれ、ペルシア人の総督(サトラップ)に支配されていた。

BC499年、ミレトスの指導者アリスタゴラスが中心となって、イオニア各都市が反乱を起こします。反乱軍はペルシアの地方都市サルディスを一時占領しました。

このとき、アテネとエレトリアが反乱軍に援軍を送ります。これがペルシア王ダレイオス1世だれいおす1せいの怒りを買うことになりました。

ダレイオス1世は激怒し、「アテネを忘れるな」と食事のたびに部下に言わせ続けた——そう伝えられています。BC494年、反乱はペルシアによって鎮圧されますが、ダレイオス1世の報復への怒りは消えませんでした。

あゆみ
あゆみ

なんでアテネはわざわざイオニアの反乱を助けたの?そこが発端になったんでしょ?

もぐたろう
もぐたろう

アテネにとってイオニアは「同じギリシア系民族の仲間」って感覚があったんだよ。言葉も文化も近い。「同胞が苦しんでいるなら助けないと」という気持ちがあったんだね。でも、それがペルシアの逆鱗に触れることになったわけ。小国が超大国の怒りを買ってしまった……これがペルシア戦争の出発点なんだ。

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ペルシア戦争の流れ(第1次〜第3次)

ペルシア戦争は、一度や二度の戦いではありません。BC492年から始まり、4次にわたる大遠征が繰り広げられました。まずは流れ全体をつかんでから、個別の戦いを詳しく見ていきましょう。

■第1次:ダレイオスの最初の遠征(BC492年)

BC492年、マルドニオス将軍を司令官に、ペルシアの遠征軍がギリシアに向かって北方から進軍を開始します。陸路でマケドニアを制圧し、トラキア(現在のトルコのヨーロッパ側)までは進みました。

しかし——アトス山沖で巨大な嵐が発生し、艦隊の大半が沈没。マルドニオスは撤退を余儀なくされます。この第1次遠征は自然の力によって防がれた形となりました。

第1次遠征(BC492年)の要点:ペルシア軍がマケドニア・トラキアを制圧したが、アトス山沖の嵐で艦隊が壊滅し撤退。ギリシア本土への上陸には至らなかった。

■第2次:マラトンの戦い(BC490年)

第1次遠征の失敗に懲りず、ダレイオス1世は2度目の遠征を命じます。BC490年、ペルシア軍はエーゲ海を南下し、アッティカ半島東岸のマラトンまらとん平原に上陸。兵力は2万〜3万とも言われました。

マラトンの戦いの復元図(Polygnotos壁画のCarl Robert 1895年復元)
マラトンの戦いの復元図(Carl Robert, 1895年)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

これに対し、アテネは同盟都市プラタイアぷらたいあと合わせて約1万の兵で応戦。援軍を求めてスパルタへ使者(フィリッピデスふぃりっぴです)を送りましたが、スパルタは「宗教的な祭りの最中だから」と出撃を拒否しました。

アテネ軍を率いたのは将軍ミルティアデスみるてぃあです。彼は大胆な作戦を立案します。

ミルティアデスの作戦:「中央は薄く・両翼を厚く」

通常は中央に精鋭を集めますが、ミルティアデスはあえて中央の兵を薄くし、両翼に重装歩兵を厚く配置しました。戦闘開始とともに、両翼が前に出てペルシア軍を包み込む「両翼包囲戦術」です。

ペルシア軍は中央を突破したと思った瞬間、両翼から挟み撃ちにされました。アテネ・プラタイア連合軍の大勝利。ペルシア軍の戦死者は約6,400人、ギリシア軍は約192人という記録が残っています。

「マラソン」の語源:マラトンの戦勝を知らせるため、兵士フィリッピデスがアテネまで約42kmを走り続け、「我々は勝った!」と叫んで力尽きたという伝承から、現代のマラソン競技(42.195km)が生まれた。ただし、この話は後世の伝承であり史実としての確証はない。

■第3次:テルモピュライ〜サラミスの海戦(BC480年)

マラトンの敗北に激怒したダレイオス1世はBC486年に死去し、息子クセルクセス1世が王位を継承します。クセルクセス1世は父の遺志を継ぎ、史上最大規模の遠征軍を組織しました。

クセルクセス1世
クセルクセス1世

父ダレイオスの遺志だ。アテネを必ず滅ぼしてみせる——今度こそ、完全な勝利を収めてやる。

クセルクセスの「ヘレスポント鞭打ち」事件
ギリシア侵攻のためヘレスポント海峡(現トルコ・ダーダネルス海峡)に巨大な橋を架けたクセルクセス1世。しかし嵐で橋が壊れてしまうと、「神をも畏れぬ振る舞い」として怒り狂い、海峡に向かって鞭300発を打ちつけ、鎖を投げ込んだと伝えられています(ヘロドトス『歴史』より)。超大国の王が海を「罰する」という逸話は、クセルクセスの慢心と傲慢さを象徴するエピソードとして後世に語り継がれました。

BC480年、クセルクセス1世自ら率いる大軍がギリシアに侵攻します。歴史家ヘロドトスは「100万を超える大軍」と記していますが、現代の研究者は20〜30万人程度と推定しています。それでも、当時のギリシアにとっては圧倒的な大軍でした。

ギリシア側は連合軍を結成し、まず山岳地帯の狭い峠テルモピュライでペルシア軍を食い止めようとしました。ここに現れたのが、スパルタ王レオニダス率いる精鋭300人です。

テルモピュライ(テルモピレー)の意味は「熱い門」。温泉が湧く山と海に挟まれた幅数十メートルの狭い峠。現代のギリシア中部に位置し、今も記念碑が立っている。

レオニダス率いるスパルタ300人と約7,000のギリシア連合軍は、3日間にわたってペルシア大軍を防ぎ続けます。しかし裏切り者によって山の迂回路を教えられ、背後を突かれた連合軍は総撤退。レオニダスと300人のスパルタ兵は最後まで陣地に残り、全員が討ち死にしました。

テルモピュライが破れた後、ペルシア軍はアテネになだれ込みます。アテネ市民はすでに海に避難済みでしたが、アクロポリスに残った守備兵は殺され、神殿は焼き払われました。首都喪失——絶体絶命の危機です。

ここで登場するのが、テミストクレスです。

実は、ペルシア軍の侵攻が予想されていたBC483年ごろ、アテネはラウリオン銀山から大量の銀を採掘していました。市民への分配が通例でしたが、テミストクレスはこう主張します——「この銀で三段橈船さんだんかいせんを200隻建造すべきだ」と。

BC480年、ペルシア侵攻が迫った際、アテネはデルフォイの神殿に神託を求めました。返ってきた答えは——「木の壁を頼れ」

多くの市民は「木の壁=アクロポリスの木柵」と解釈し、籠城を主張しました。しかしテミストクレスは「木の壁とは三段橈船(木造の軍艦)のことだ」と解釈し、アテネ市民全員を船に乗せるよう説得したのです。

こうして始まったのが、サラミスの海戦です。BC480年秋、アテネの南西に浮かぶサラミス島の狭い海峡に、ペルシア艦隊は誘い込まれます。

テミストクレス
テミストクレス

サラミスの狭い海峡に誘い込めば、数では勝てる。ペルシア艦隊が多すぎて、かえって身動きが取れなくなるからな。小回りの利く三段橈船なら必ず勝てる!

テミストクレスの読みは完璧でした。広い海ならペルシアの大艦隊が有利ですが、狭い海峡では船が多すぎて逆に邪魔になります。ギリシアの三段橈船は小回りが利き、体当たり攻撃が得意でした。

三段櫂船の実物大の復元船オリンピアを使ってつくられた船隊の写真

クセルクセス1世は高台からこの戦いを観戦していました。ペルシア艦隊が次々と沈んでいくのを——自分の目で見ることになったのです。

サラミスの海戦は、ギリシアの圧勝に終わりました。ペルシア艦隊の主力は壊滅し、クセルクセス1世はペルシアへと撤退。残った陸軍の指揮権を将軍マルドニオスに委ね、自らは帰国したのです。

ゆうき
ゆうき

テミストクレスってすごいね!でも、どうやってペルシアをサラミスに誘い込んだの?

もぐたろう
もぐたろう

これが天才的なんだよ!テミストクレスは二重スパイ的な作戦を使ったと言われてる。自分の奴隷を使者として送り込み、「ギリシア艦隊は逃げようとしている。今すぐ包囲しないと逃げられる!」という偽情報をクセルクセス1世に伝えさせたんだ。ペルシア艦隊は慌てて夜間から封鎖に動き、兵士たちは疲労困憊の状態で翌朝の戦闘に臨むことになった。テミストクレスはペルシアの焦りを逆手に取ったんだよ!

主要な戦いを詳しく解説——マラトン・テルモピュライ・サラミス・プラタイア

ペルシア戦争には4つの重要な戦いがあります。各戦いの特徴と意義を整理しましょう。

戦い①:マラトンの戦い(BC490年)——アテネが単独でペルシアを撃退

場所:アッティカ半島東岸、マラトン平原
指揮:ミルティアデス(アテネ)vs ペルシア遠征軍(ダティス・アルタフェルネス)
兵力:アテネ約1万 vs ペルシア約2〜3万

ミルティアデスが採用した「両翼包囲戦術」が功を奏し、アテネ・プラタイア連合軍が大勝。ペルシアの戦死者は約6,400人に対し、ギリシア軍は約192人という圧倒的な結果でした。

この戦いは、ペルシアも負けることがあるという事実を示した歴史的な転換点でした。また、この勝利がアテネ市民の誇りと民主政への自信を大きく高めることになります。

戦い②:テルモピュライの戦い(BC480年)——スパルタ王レオニダスの300人

場所:ギリシア中部の山岳峠(温泉の門)
指揮:レオニダス(スパルタ王)率いるギリシア連合軍 vs クセルクセス1世のペルシア大軍
兵力:ギリシア連合軍約7,000(うちスパルタ300)vs ペルシア軍(数十万とも)

スパルタの精鋭300人を含むギリシア連合軍は、3日間にわたって峠を死守します。ペルシア軍は何度攻めても突破できませんでした。

しかし、エピアルテスという地元の男が山の迂回路をペルシアに教えてしまいます。挟み撃ちになるとわかったレオニダスは、ほとんどの兵を撤退させつつ、スパルタ兵300人とテスピアイ兵700人で最後まで戦い続け、全員が討ち死にしました。

テルモピュライは軍事的には敗北ですが、時間を稼いでサラミスの海戦の準備を整えたという点で、ギリシア最終勝利に不可欠な戦いでした。300人の犠牲によってアテネは脱出の時間を得たのです。

レオニダス率いるスパルタ300人の物語は、2006年の映画「300(スリーハンドレッド)」で有名になった。映画的演出は多いが、テルモピュライで最後まで戦ったという史実は正確に描かれている。

戦い③:サラミスの海戦(BC480年)——テミストクレスの逆転劇

場所:アテネ南西のサラミス島とアッティカ半島に挟まれた狭い海峡
指揮:テミストクレス(アテネ)率いるギリシア連合艦隊 vs ペルシア大艦隊
兵力:ギリシア艦隊約380隻 vs ペルシア艦隊約800〜1,000隻

数では倍以上のペルシア艦隊ですが、狭い海峡での機動性がものを言いました。ギリシアの三段橈船は小回りが利き、体当たりで敵船の舷側を破る戦術が得意。狭所に押し込まれたペルシア艦隊は身動きが取れず、次々と沈んでいきました。

高台からこの光景を見ていたクセルクセス1世は撤退を決断。サラミスの海戦はペルシア戦争全体の転換点となりました。

戦い④:プラタイアの戦い(BC479年)——陸上で最後の決着

場所:ボイオティア地方のプラタイア(ギリシア中部)
指揮:パウサニアス(スパルタ)率いるギリシア連合陸軍 vs マルドニオス率いるペルシア陸軍

クセルクセスが帰国した後もギリシア本土に留まったペルシア陸軍は、マルドニオスが指揮していました。BC479年、ギリシア連合軍はプラタイア平原でペルシア陸軍と激突。

マルドニオスが戦死し、ペルシア軍は完全に崩壊しました。同じ日(またはその翌日)、小アジア沖のミカレでもギリシア艦隊がペルシア艦隊を撃破。ペルシア軍はギリシア本土から完全に撤退しました。

あゆみ
あゆみ

4つの戦いがあったんだね。テルモピュライの300人って何でそんなに有名なの?負け戦なのに?

もぐたろう
もぐたろう

負け戦でも「自由のために最後まで戦った」という姿が人々の心を打ったんだよ。スパルタ王レオニダスは逃げようと思えば逃げられたはずなのに、仲間を逃がすために残って戦い続けた。戦場跡に「旅人よ、スパルタ人に伝えよ、われわれはその命に従いここに眠ると」という碑文が刻まれたと伝わっている。この「自由のために命を捧げる」という精神がヨーロッパ文化の中で長く語り継がれてきたんだよね。




ペルシア戦争の結果と影響——デロス同盟とアテネの台頭

BC479年のプラタイアの戦いでペルシア軍を退けたギリシアは、その後も戦争を続けながら、BC449年のカリアスの和約でペルシアとの戦争を公式に終結させます。約50年にわたる大戦争の幕引きでした。

戦争が終わると、ギリシア世界に大きな変化が訪れます。戦後の安全保障を目的として、BC478年ごろにデロス同盟が結成されました。

デロス同盟とは、ペルシアの再侵攻に備えるためアテネを盟主として結成されたギリシア都市国家の軍事同盟。盟主アテネに各都市が「軍艦または資金」を提供し、同盟金庫はデロス島に置かれた(後にアテネに移される)。

あゆみ
あゆみ

デロス同盟ってアテネが主導してたの?じゃあ戦争に勝ったことで、アテネが一番偉い国になったってこと?

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだよ!サラミスの海戦でアテネの海軍力が証明されたから、「アテネが中心になって守ってくれ」という流れになったんだ。同盟の資金も次第にアテネが管理するようになって、事実上のアテネ帝国みたいな状態になっていく。でも……この覇権争いが後のペロポネソス戦争(BC431〜404年)の火種になるんだよね。

なぜ小国ギリシアがペルシアに勝てたのか?——3つの勝因

ペルシア帝国は、当時の世界人口の40〜50%を支配するという史上最大級の超大国でした。対するギリシアは小さな都市国家の集まり。にもかかわらず、なぜギリシアは勝利できたのでしょうか。

歴史家たちはその理由を、大きく3つに整理しています。

勝因①:地形——狭い地形で大軍を無効化した

ペルシアの最大の強みは「数の力」でした。数十万とも言われる大軍を展開できる——これが通常の戦場なら圧倒的な優位です。

しかし、テルモピュライの峠もサラミスの海峡も、広がれない狭い地形でした。大軍が集結しても、一度に戦えるのはほんの数百〜数千人だけ。むしろ数が多すぎて後ろの兵士が押し合いへし合いとなり、機動性が失われました。

ギリシア側は、戦場を「自分たちが有利な地形」に選び続けました。これは偶然ではなく、テミストクレスを中心とした戦略的な地形選択の結果だったのです。

勝因②:戦術——テミストクレスの奇策と海軍力

テミストクレスが行った判断の中で最も大胆だったのは、BC483年に銀山の収益で三段橈船さんだんかいせんを200隻建造した決断です。これが海軍国家アテネの基礎を作りました。

※三段橈船(トリエレス):3段に重ねたオールで漕ぐ木造軍艦。全長約37m・乗組員約170人。小回りが利き、体当たりで敵船の舷側を破る「衝角攻撃」を得意とした。

サラミスでは、偽情報を使ってペルシア艦隊を狭い海峡に誘い込み、夜間作戦で疲弊させてから翌朝に決戦を挑みました。数だけでなく、情報と心理を利用した多層的な戦術がテミストクレスの真骨頂でした。

勝因③:民主政による団結——「自由のために戦う」動機の力

ペルシア軍の兵士の多くは、帝国各地から徴集された「強制的に戦わされる兵士」でした。一方ギリシアの市民兵は、自分の都市、家族、そして自由を守るために自らの意志で戦う兵士でした。

アテネの民主政(デモクラシー)は、すでに市民に「自分たちが国家の主人公だ」という意識を育てていました。その誇りが、絶体絶命の状況でも諦めない粘り強さとして現れたのです。

歴史家ヘロドトスは「自由を得たアテネ人は、奴隷の状態のときより何倍も強く戦った」と記しています。

まとめると「地形・戦術・民主主義」ってこと?

もぐたろう
もぐたろう

そのとおり!「①地形で大軍を無効化②テミストクレスの海軍戦術③民主政による高い士気」の3点セットで覚えよう。

テミストクレス
テミストクレス

数で負けるなら、知恵で勝てばいい。戦場を選び、時を選ぶ——それが小国が大国に勝つための唯一の道だ。

この戦いが変えた世界——歴史的意義と影響

ペルシア戦争の勝利は、単に「外敵を追い払った」というだけではありませんでした。この戦争はギリシア文明を——そして後の世界文明を——根本から変える転換点になりました。

■アテネ民主政の完成——ペリクレスの黄金時代へ

ペルシア戦争でアテネが海軍力を誇示できた最大の理由は、テーテス(無産市民)の活躍でした。三段橈船の漕ぎ手として戦争を支えた平民たちは、戦後こう主張します——「俺たちもアテネを守った。なぜ政治に参加できないのか」と。

この声に応えたのが、政治家ペリクレスです。BC461〜429年にかけて、ペリクレスは無産市民にも参政権を与え、民会(全市民による議会)中心の政治を確立しました。これがアテネ民主政の完成です。

ペリクレスの時代、アテネではパルテノン神殿が建設され、哲学者ソクラテスが活躍し、「アテネの黄金時代」が花開きます。これはすべて、ペルシア戦争の勝利があってこそ実現したものでした。

あゆみ
あゆみ

戦争に勝って民主主義が完成するって、どういう仕組みなの?なんでそうなるの?

もぐたろう
もぐたろう

海軍の漕ぎ手として大活躍したテーテス(土地を持たない平民)が「俺たちもアテネを守った。なぜ政治に参加できないんだ!」と声を上げられるようになったんだよ。戦争が「参政権を主張する根拠」になったんだね。今でいう「自分たちが国を守ったんだから発言権がある」という理屈と同じだよ。これがアテネ民主政完成のカギなんだ!

■ヘレニズム文化への道——アレクサンドロス東方遠征まで

ペルシア戦争後のギリシアは、急速に発展します。しかし繁栄の中で、アテネとスパルタの対立が深まり、BC431年にペロポネソス戦争が勃発。ギリシア都市国家群は内部分裂し、疲弊していきます。

この混乱の中から台頭したのが、北方のマケドニア王国でした。アレクサンドロス大王はBC334年にペルシア帝国遠征を開始し、かつてギリシアを苦しめたアケメネス朝ペルシアを滅ぼします。

こうしてギリシア文化はペルシア・エジプト・インドにまで広がり、ヘレニズム文化へれにずむぶんかが誕生しました。ペルシア戦争の勝利→アテネの繁栄→ペロポネソス戦争の混乱→アレクサンドロスの東方遠征——この連鎖の出発点が、ペルシア戦争だったのです。

現代とのつながり:ペルシア戦争後に完成したアテネの民主政(デモクラシー)は、現代の民主主義の原型とされる。「デモクラシー」という言葉自体がギリシア語の「デモス(民衆)+クラトス(支配)」に由来する。つまり私たちが今使っている「民主主義」という概念は、ペルシア戦争の勝利がなければ生まれなかったかもしれない。

世界史の対比:ペルシア戦争が終結したBC449年ごろ、日本は弥生時代後期。水稲農耕が各地に広まり、ムラとムラの争いが始まったころ。ヨーロッパで民主主義の原型が作られていた同時代に、日本はまだ文字も国家もなかった。

テミストクレスの皮肉な晩年

ペルシア戦争の英雄テミストクレスは、その後アテネで政敵に追い落とされ、陶片追放(オストラキスモス)という民主政の制度で国外追放されてしまいます。行き場を失った彼が亡命した先は……なんとかつての敵・ペルシア帝国でした。クセルクセスの息子アルタクセルクセス1世に厚遇され、ペルシアのマグネシア地方の総督にまで任命されたと伝えられています。ギリシアを救った英雄が、敵国で生涯を終える——歴史の皮肉な結末です。

テストに出るポイント&覚え方

ペルシア戦争は共通テスト・大学入試で頻出のテーマです。年号・人物・戦いの名前をセットで整理しておきましょう。

テストに出やすいポイント
  • イオニアの反乱(BC499年)がペルシア戦争の直接のきっかけ——アテネが支援したことでペルシアの怒りを買う
  • マラトンの戦い(BC490年)——ミルティアデス率いるアテネ軍が両翼包囲でペルシアを撃退
  • テルモピュライの戦い(BC480年)——スパルタ王レオニダス率いる300人が玉砕。時間稼ぎで後の勝利に貢献
  • サラミスの海戦(BC480年)——テミストクレスの「木の壁」解釈+狭い海峡作戦でペルシア艦隊を壊滅
  • プラタイアの戦い(BC479年)——ギリシア連合軍がペルシア陸軍を撃破し、ペルシア軍がギリシア本土から撤退
  • 戦後:デロス同盟成立(BC478年頃)→アテネが盟主。ペリクレス時代にアテネ民主政が完成
  • BC449年カリアスの和約——ペルシア戦争の公式終結

入試頻出の年号:BC490(マラトン)→ BC480(テルモピュライ・サラミス)→ BC479(プラタイア)→ BC449(カリアスの和約)。「490→480→479」と10年・1年ずつ下がる流れで覚えると混乱しにくい。また「テルモピュライとサラミスは同じ年(BC480)」という比較問題も頻出!

さらに、4つの主要な戦いを比較する問題も頻出です。下の表で整理しておきましょう。

戦い年号舞台・種別指揮官(ギリシア側)結果
マラトンの戦いBC490マラトン平原(陸上)ミルティアデスギリシア大勝
テルモピュライの戦いBC480テルモピュライ峠(陸上)レオニダスギリシア敗北(時間稼ぎ)
サラミスの海戦BC480サラミス海峡(海上)テミストクレスギリシア大勝
プラタイアの戦いBC479プラタイア平原(陸上)パウサニアスギリシア大勝

ゆうき
ゆうき

マラトンとサラミスをいつも混同しちゃう!どう覚えればいいの?

もぐたろう
もぐたろう

「マラトン=陸・ミルティアデス・BC490」「サラミス=海・テミストクレス・BC480」で対比して覚えよう!「マラソンの語源はマラトン(陸を走る)」「サラミスは海(サ=海=船)」ってイメージで関連付けると混乱しにくいよ。テミストクレスは「木の壁=船」という神託解釈の話がセットで問われることが多いから、エピソードごと覚えておこう!

よくある質問(FAQ)

BC492〜449年にかけて、ギリシアの都市国家群とアケメネス朝ペルシア(現在のイラン周辺)が戦った約50年の大戦争です。イオニアの反乱(BC499年)をきっかけにペルシアがギリシアへ遠征し、4次にわたる戦いの末にギリシアが勝利しました。戦後アテネで民主政が完成し、西洋文明の礎が築かれました。

主な理由は3つです。①テルモピュライ・サラミスなど狭い地形にペルシア大軍を誘い込んで数の優位を無効化した。②テミストクレスが三段橈船による海軍を整備し、狭い海峡での海戦に持ち込んだ。③民主政のもとで自由と家族を守るために戦うアテネ市民兵の士気が、強制動員されたペルシア兵より格段に高かったことです。

マラトンの戦い(BC490年)は第2次遠征時の陸上戦で、ミルティアデス指揮のアテネ軍が「両翼包囲戦術」でペルシアを撃退。サラミスの海戦(BC480年)は第3次遠征時の海上戦で、テミストクレス指揮のギリシア連合艦隊が狭い海峡に誘い込んでペルシア艦隊を壊滅させました。マラトンは第2次・陸上・ミルティアデス、サラミスは第3次・海上・テミストクレスと整理して覚えましょう。

史料によると、スパルタ王レオニダス率いるスパルタ兵300人は、裏切り者に迂回路を教えられて挟み撃ちになると判断したとき、他のギリシア兵を撤退させ自分たちは最後まで戦い続けて全員討ち死にしました。ただし、ともに戦ったテスピアイ兵700人なども同じく戦死したとされています。後世の碑文には「旅人よ、スパルタ人に伝えよ、われわれはその命に従いここに眠ると」という言葉が刻まれたと伝わります。

実質的な戦闘はBC479年のプラタイアの戦いでペルシア軍がギリシア本土から撤退したことで終わりましたが、公式には BC449年のカリアスの和約で終結しました。カリアスの和約では、ペルシア艦隊のエーゲ海進入禁止・ギリシア植民都市の自治などが定められ、約50年にわたる戦争状態が正式に終わりました。

アテネを盟主とするデロス同盟が成立し、アテネの全盛期(ペリクレス時代・BC461〜429年)を迎えます。パルテノン神殿が建設され、民主政が完成し、哲学・演劇・彫刻などが花開く「アテネの黄金時代」が訪れました。しかしアテネの覇権に反発したスパルタとの間でペロポネソス戦争(BC431〜404年)が勃発し、ギリシア諸国は内部分裂していきます。最終的にはマケドニアのアレクサンドロス大王がギリシア全土を統一し、ペルシア遠征へと向かうことになります。

まとめ——ペルシア戦争のポイントを総整理

ペルシア戦争のポイントまとめ
  • BC492〜449年、ギリシア都市国家 vs アケメネス朝ペルシアの約50年戦争
  • きっかけはBC499年イオニアの反乱——アテネの支援がペルシアの逆鱗に触れる
  • 流れ:マラトン(BC490)→テルモピュライ・サラミス(BC480)→プラタイア(BC479)
  • テミストクレスの「木の壁」解釈+サラミスの海峡作戦がギリシア逆転の鍵
  • 勝因は「①地形②海軍戦術③民主政による高い士気」の3点
  • 戦後:デロス同盟成立→アテネ主導→ペリクレス時代に民主政完成→ペロポネソス戦争へ

もぐたろう
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以上、ペルシア戦争のまとめでした!小国ギリシアが超大国ペルシアに勝てた理由、テミストクレスの奇策、そして現代の民主主義につながる歴史の流れ、わかってもらえたかな?アテネ民主政やアレクサンドロス大王についても、下の関連記事でぜひ読んでみてください!

ペルシア戦争についてもっと詳しく知りたい人へ

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ペルシア戦争をもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!ドラマチックな読み物から、ペルシア側の視点で読む専門書まで、レベル別にセレクトしたよ!

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②ペルシア側の視点で深掘りしたいなら|アケメネス朝の実像に迫る

ペルシア帝国

青木健 著|講談社現代新書


③大学受験・さらに踏み込んで学びたいなら|史料をもとにした本格的通史

ペルシア戦争の年表
  • BC499年
    イオニアの反乱勃発——アテネが支援
  • BC492年
    第1次ペルシア遠征——アトス山沖の暴風で撤退
  • BC490年
    マラトンの戦い——ミルティアデスの両翼包囲でアテネ大勝
  • BC480年
    テルモピュライの戦い——スパルタ王レオニダス300人が玉砕
  • BC480年
    アテネ陥落・アクロポリス焼失——市民は海へ避難
  • BC480年
    サラミスの海戦——テミストクレスの逆転勝利
  • BC479年
    プラタイアの戦い——ペルシア軍をギリシア本土から完全撃退
  • BC478年頃
    デロス同盟成立——アテネが盟主
  • BC461〜429年
    ペリクレス時代——アテネ民主政が完成・パルテノン神殿建設
  • BC449年
    カリアスの和約——ペルシア戦争の公式終結

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』

参考文献

Wikipedia日本語版「ペルシア戦争」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「マラトンの戦い」「サラミスの海戦」「テルモピュライの戦い」「プラタイアの戦い」(2026年5月確認)
コトバンク「ペルシア戦争」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年5月確認)
山川出版社『詳説世界史』

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この記事を書いた人
もぐたろう

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ヨーロッパ近代史(〜1918)