サラエボ事件を簡単にわかりやすく解説【なぜ第一次世界大戦に発展したのか?】

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もぐたろう
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今回は、第一次世界大戦のきっかけになったサライェヴォ事件について、わかりやすく丁寧に解説していくね!

※この記事では山川教科書に準拠してサラエボ事件ではなく、サライェヴォ事件と表記することにします。

この記事を読んでわかること
  • サライェヴォ事件ってどんな事件なの?
  • サライェヴォ事件はなぜ起きたの?
  • サライェヴォ事件の経過は?
  • サライェヴォ事件は世界にどんな影響を与えたの?
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サライェヴォ事件とは

サライェヴォ事件とは、1914年6月、オーストリア(※)の皇太子がボスニア=ヘルツェゴビナ地方の中心都市サライェヴォで暗殺された事件です。

※厳密には「オーストリア=ハンガリー帝国」ですが、この記事ではオーストリアと呼ぶことにします。

暗殺した犯人がセルビア人だったため、サライェヴォ事件の後、オーストリアとセルビアの関係が急速に悪化。

そして1914年7月、オーストリアがセルビアに対して宣戦布告。

オーストリアの背後にはドイツセルビアの背後にはロシアが付いていたため、争いは他国を巻き込んでどんどん大きくなり、第一次世界大戦へと発展していきました。

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サライェヴォ事件が起きた時代背景

ヨーロッパの火薬庫、バルカン半島

サライェヴォ事件の舞台となったバルカン半島は、強国のオーストリア・ロシア・オスマン帝国に挟まれた場所で、小国の乱立していた地域でした。

そんなバルカン半島は、昔からオーストリア・ロシア・オスマン帝国の三国から領土拡大のターゲットにされてきた歴史があり、たびたび争いの舞台になってきた場所です。

もぐたろう
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バルカン半島で起こる紛争があまりにも多いので、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれることもあるよ。

もともと、バルカン半島の大半はオスマン帝国の領土でした。

しかし、1800年代に入るとオスマン帝国の衰退が目立つようになり、1877年にはロシアとの戦争(露土戦争ろとせんそう)に敗北。

その結果、オスマン帝国はバルカン半島の領土の多くを失いました。

モンテネグロ・セルビア・ルーマニアの3国がオスマン帝国から独立

ブルガリアがオスマン帝国から分裂し、オスマン帝国の保護国へ

※ブルガリアは、1908年に完全独立を果たします。

ボスニア=ヘルツェゴビナ地域は、オスマン帝国領として存続するも、オーストリアが行政権を手に入れて実質支配することに

第一次世界大戦当時のバルカン半島
サライェヴォ事件当時のバルカン半島

ボスニア=ヘルツェゴビナ併合

1908年、衰退の続くオスマン帝国で大きな革命運動が起こります。

『オスマン帝国の衰退を止めるには、独裁政治を続ける皇帝(スルタン)をぶっ倒して、政治を刷新するしかない!』と考えた人たちが反乱を起こしたのです。(青年トルコ革命

オーストリア
オーストリア

・・・もしかして、オスマン帝国が混乱している今なら、ボスニア=ヘルツェゴビナ地方を完全に俺の領土にできるんじゃね?

この目論見は成功して、同年(1908年)、オーストリアはボスニア=ヘルツェゴビナ地方を併合してオーストリア領土としました。

・・・が、これにセルビアが猛反発します。

セルビア
セルビア

はっ?

ボスニア=ヘルツェゴビナには、セルビアと同じスラブ人が多く住んでいるんだ。

だから本来なら、セルビアと1つになるべきなんだ!

ゲルマン人の国であるオーストリアに併合なんてされたら、スラブ人はゲルマン人に支配されてしまうことになる!断じて認めることはできない!!

スラブ人の政治はスラブ人で決めるんだ!!

ボスニア=ヘルツェゴビナがオーストリアに併合されると、ボスニア地方でも併合に反対するスラブ人たちが「青年セルビア」と呼ばれる革命運動を起こすようになります。

俺たちはゲルマン人に支配なんかされたくない!

セルビアと協力してスラブ人は統一国家を樹立すべきなんだ!

こうしたボスニア=ヘルツェゴビナに住むスラブ人たちの不満が、サライェヴォ事件へと発展していくことになります。

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サライェヴォ事件

1914年6月28日、オーストリア皇太子フェルディナントの夫妻が、ボスニア地方で実施されるオーストリア軍の軍事演習を見学するため、ボスニアの中心都市だったサライェヴォにやってきました。

この情報を事前に知った青年セルビアに参加者たちは、皇太子夫妻を暗殺する計画を企てました。

当日(6月28日)、フェルディナント夫妻はサライェヴォ駅を降りて、そこから車に乗ってサライェヴォ市役所に向かいます。

駅から市役所までの道は一直線で、道路の両側には皇太子夫妻を歓迎する群衆で埋め尽くされました。

暗殺実行犯は6名。それぞれが群衆に紛れて、チャンスをうかがいます。

サライェヴォ事件当時、群衆の歓迎を受けているオーストリア皇太子夫妻
歓迎を受けている皇太子夫妻

暗殺犯のうち最初の2人は、いざ皇太子夫妻が目の前を通ると何もできずに暗殺に失敗。

3人目は、皇太子夫妻が乗る車に時限爆弾を投げ込みますが、爆弾が車から落下してしまい失敗。後ろを走る護衛車を爆破してしまいます。

あわわ・・・。

危険だから、皇太子夫妻を一刻も早く市役所に送らなければ。ゆっくり歓迎を受けている場合じゃないぞ!!

歓迎を受けるため落としていた車はスピードを上げ、皇太子夫妻はすぐに市役所へと向かいます。

そして、車が加速したため、残りの暗殺犯3人は暗殺のチャンスを失ってしまいます。

・・・こうなれば、やむを得ない。

市役所から駅へ向かう帰路で暗殺の機会を待とう。

皇太子夫妻が市役所での用事を終えて車に乗ると、暗殺犯の1人だったガヴリロ・プリンツィプのところへ皇太子が近づいていきます。

・・・しかも!車は間違った道へ曲がってしまい、引き返すため車を一時停止しました。

プリンツィプ
プリンツィプ

今だ!今こそ憎きオーストリア皇太子を討ち取るチャンスだ!!!

プリンツィプは、停止した車に近づいて皇太子夫妻へピストルを打ち込みます。

サライェヴォ事件
サライェヴォ事件の様子を描いた絵

ピストルの銃弾は皇太子夫妻に致命傷を与え、2人はしばらくして息を引き取りました。

暗殺に成功したプリンツィプは、自らのピストルで自害しようとしますが、周囲の人たちに取り押さえられ、そのまま逮捕されました。

サライェヴォ事件で捕らえられているガヴリロ・プリンツィプ
プリンツィプが捕らえられている様子

事件の後、他の実行犯5人とリーダー格の1名、そして暗殺グループに関与していた人々も捕らえられ、裁判にかけられることになります。

サライェヴォ事件の暗殺犯の動向
当時の動きをまとめた図(出典:wikipedia「サライェヴォ事件」)
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オーストリア、セルビアにブチギレ

オーストリアは、サライェヴォ事件がただの暗殺事件ではなく、裏でセルビア政府が糸を引いていると考えました。

オーストリア
オーストリア

私がボスニア=ヘルツェゴビナを併合して以降、セルビアでは不穏な動きが見え隠れしていた。

そして今回、皇太子を暗殺したのもセルビア人だ。これは果たして偶然か?

セルビアが裏で糸を引いているに違いない。セルビアめ、ただで済むと思うなよ・・・!

もぐたろう
もぐたろう

オーストリアの読みはおおむね当たっていました。

セルビア政府は直接関与していませんでしたが、セルビアで結成された秘密組織が裏で関与していたのです。

・・・しかし、オーストリアといえどもセルビアに安易に喧嘩を売ることはできません。

なぜなら、セルビアはロシアと親密な関係にあり、セルビアを攻撃すればロシアとも戦いことになりかねないからです。

そこでオーストリアは、セルビアに対して強気に出る前に、同盟国だった大国のドイツに助けを求めました。

オーストリア
オーストリア

ドイツよ、もしセルビアを攻撃してロシアが参戦してきたら私に加勢してくれるか?

ドイツ
ドイツ

もちろんだ。ドイツは無条件でオーストリアに協力する!安心して攻撃するが良い。

ドイツの協力を得たオーストリアは、7月23日、セルビアに対して『俺の要求に従わなかったら戦争だからな!』と厳しい条件を示した最後通牒さいごつうちょうを突きつけます。

そして、セルビアが条件の一部を拒否すると、7月28日、オーストリアはセルビアに対して宣戦布告。

こうして、オーストリアとセルビアは戦争状態に突入しました。

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第一次世界大戦が始まる

オーストリアVSサラエボの戦いは、瞬く間にヨーロッパ全土へと拡大していきます。

ロシアがセルビアの支援を決定すると、8月1日、ドイツはロシアに対して宣戦布告。

8月3日には、フランスへも宣戦布告を行います。

もぐたろう
もぐたろう

ロシアはフランス・イギリスと三国協商と呼ばれる協力関係を結んでいたから、ドイツにとってはフランスも敵国だったんだよ。

さらに8月4日、ドイツがフランスに攻め込むため中立国のベルギーに攻撃を仕掛けたのを見て、イギリスがドイツに宣戦布告。

こうして戦いは、

オーストリア・ドイツ

VS

セルビア・ロシア・フランス・イギリス

の構図となり、さらに周辺の国々も両軍のどちらかに次々と参戦し、戦火はあっという間にヨーロッパ全土へと拡大。

戦果の拡大は、ヨーロッパだけに留まりませんでした。

アフリカではフランス・イギリスの植民地と、ドイツの植民地の間で戦闘が起こり、

東アジアでは、イギリスと日英同盟を結んでいた日本がドイツに宣戦布告。ドイツが中国分割でゲットしていた膠州湾こうしゅうわんへ攻撃を仕掛けました。

こうして戦火はアフリカ・東アジアへと拡大し、約4年におよぶ第一次世界大戦が始まることになります。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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近代史
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