さて、今回は鎌倉幕府4代将軍の藤原頼経(ふじわらのよりつね)について紹介しようと思います。
鎌倉幕府は、源平合戦の勝者である源頼朝により創設され、三代に渡ってその源氏が将軍職に就任していました。ところが、4代目から突如として藤原氏である藤原頼経が将軍職に就任。
一体なぜ、突然藤原氏が鎌倉幕府将軍になったのか?その辺の話を詳しく説明してみようと思います。
源氏三代将軍まとめ
まずは当時の鎌倉幕府将軍の立ち位置を知るため、源頼朝・頼家・実朝の初代から3代までについてサラッとまとめてみました!
鎌倉将軍(初代〜3代) | 将軍としての立ち位置 |
初代:源頼朝 | 人心掌握術・政治スキルが最強だった頼朝は、自ら政治の行い、御家人からの信頼も厚かった。 |
2代目:源頼家 | 若い頼家では、御家人たちを統率しきれない。御家人の発言力が強くなり、特に比企一族や北条一族が力を強める。
相対的に将軍に影響力は低下し、御家人内での争いも多々。 |
3代目:源実朝 | 御家人内の争いを勝ち抜いた北条氏が権力を掌握するようになり、源実朝は北条氏に担ぎ出された傀儡将軍に。
政治の実権の多くを北条氏が握ることになり、鎌倉幕府将軍の実権は骨抜きに。 |
ざっくりとこんな感じ。初代の源頼朝をピークに、鎌倉幕府将軍の権力は著しく低下し、3代目の実朝の時代になると、実質的最高権力者は北条氏となり、将軍位は鎌倉幕府の象徴的存在として存在する形だけの置物のようになってしまいます。
あれです、平安時代でいう摂関政治みたいなもんです。
そして将軍権力が骨抜きにされ、北条氏が政治の実権を握るようになった中で起こったのが「実朝が殺された!次の将軍は藤原氏にしようぜ!」っていう動きでした。
藤原将軍と藤原頼経
三代目将軍の源実朝は、1219年の冬、甥っ子の公暁(くぎょう)によって儀式中に暗殺されてしまいます。
突然の実朝の死により、次期将軍を早急に決める必要がありましたが、実は実朝には子供がおらず、次期将軍選びは難航します。
実朝の直系血族はいませんが、傍系であれば源氏の血を引く者はいました。これらの人物を将軍にすれば、将軍位に源氏の血筋を残すことができますが、実はそんな単純な話でもありません。
源実朝の傍系を将軍位にしようとすれば、誰を担ぎ出すかで御家人たちの間で揉め事が起こるのは明白。それに既に政治の実権を握っている北条氏がわざわざイザコザを起こしたがる理由もありません。
つまり、次期将軍問題を平和に解決する方法は「どの御家人とも深い関わりを持たない高貴な血筋の者を将軍位に就かせ、皆を納得させた上で、将軍には政治の実権を与えず、これまで通り北条氏が政治実権を握る」という方法。
そして、そのために採用された案が「そうだ!京都から皇族の血を引く者を連れてきて将軍に担ぎ上げよう!!」というもの。発案者は北条政子でした。
実は源実朝が生きている頃から、皇族出身の者を鎌倉に連れてくる話はあったんです。現に北条政子と藤原兼子(ふじわらのかねこ)という女性の間で話し合いが行われていました。
藤原兼子は朝廷の権力者だった後鳥羽上皇の乳母。鎌倉幕府でも朝廷でも乳母の発言力は強く、北条政子と藤原兼子との対談は実質的に首脳会談に等しいものでした。
この首脳会談は成功したようで、実朝に何かあった場合、後鳥羽上皇の息子を次期将軍にする話がまとまります。
まだ藤原氏は登場しません。この話にはもうちょっと続きがあるんです。
後鳥羽上皇との交渉決裂、藤原頼経が鎌倉へ
北条政子と藤原兼子との間で進められていた話ですが、1219年に源実朝が亡くなり実際に将軍就任の話になると、後鳥羽上皇が今になってこれを拒否。鎌倉幕府に対してこんな要求を突き付けます。
後鳥羽上皇「寵妃である伊賀局の持つ荘園で、地頭が領主の言うことを無視するもんだから困っている。地頭をクビにしろ!!あと西面の武士である仁科盛遠(にしなもりとお)の所領奪ったの撤回しろ!!」
と。
一方の鎌倉幕府もこれを拒否。さらに鎌倉幕府は、兵を朝廷に派遣し、朝廷に対して無言の圧力まで掛け始めます。
が、後鳥羽上皇の意思は固く、両者の交渉は決裂に終わります。兵の圧力にも屈しない後鳥羽上皇の固い決意を受け、遂に鎌倉幕府は皇族出身者を将軍にすることを断念。
こうして北条政子は、次期候補として藤原氏出身の藤原頼経に目をつけたわけです。
それにしても、鎌倉幕府と後鳥羽上皇の関係はどうも穏やかではありません。1221年に有名な承久の乱が起こりますが、その前兆みたいなものはこの頃からあったんですね。
わずか2歳!4代目将軍、藤原頼経
紆余曲折を経て、突如として将軍に抜擢された藤原頼経ですが、どんな人物なのでしょうか?
とてもテキトーですが簡単な系図を用意してみました。
系図を見てみると藤原頼経って一応源氏の血を引いているんですよね。それに西園寺家や九条家との関係も良好でした(特に西園寺家)。
藤原頼経は、源氏と藤原氏の血を引くハイブリッドであり、「皇族の血がダメでも、藤原氏と源氏の混血であれば御家人たちも納得するだろう」という北条政子の思惑があります。
それに、藤原頼経は当時たったの2歳!!傀儡将軍にはうってつけです。幼少であれば、一々文句言ってこないですからね。
こうして1219年、4代目鎌倉幕府将軍、そして初の藤原将軍として幼少の藤原基経が就任することになりました。
藤原氏のおまけ話
ところで、藤原頼経の父は九条道家です。父は「九条」なのに息子は「藤原」なのって何故なんでしょう?
飛鳥時代の藤原鎌足から続く藤原氏ですが、平安時代に藤原氏が栄えると、大量の藤原氏が生まれることになります。すると、同じ藤原氏と言う名前でも様々家柄の者がいますし、一括りに藤原氏と言っても家柄・身分にも差が生まれます。
すると平安時代末期、特に身分の高い藤原氏の中でそれぞれ独自の家柄を名乗ることが増えていきます。そして西園寺も九条も、そんな藤原氏の1つでした。
なので、藤原頼経は九条頼経とも呼ばれることもあったり。藤原頼経という呼び方が主流であるのはおそらくは、「藤原氏の血筋」を強調するためだと思う。藤原将軍なんて呼ぶのに、名前が「九条」だと何と無く分かりにくいですしね。
余談ですが、「近衛家」とか「橘家」とかなんかカッコいい雰囲気の名前の多くはルーツを辿ってみると藤原氏か皇族にたどり着くような気がしています。
藤原頼経のその後
将軍になった藤原頼経ですが、その存在は非常に地味です。
藤原頼経が成人して、色々と自分で考えたり行動したりするようになると、北条氏にとって藤原頼経は次第に邪魔な存在になっていきます。さらに、北条氏内部の同族争い、御家人同士の権力争いの際には、藤原頼経が担ぎ出されるなど、政争の具になってしまいます。
1244年になると、遂に藤原頼経は将軍位を追放させられ、幼い息子が5代目鎌倉幕府将軍となりました。その後は出家し、1256年、39歳の若さで亡くなりました。
頼経の死に際して、中流公家の吉田経俊の日記『経俊卿記』は「将軍として長年関東に住んだが、上洛の後は人望を失い、遂には早世した。哀しむべし、哀しむべし」と記している。
(出典:wikipedia「藤原頼経」)
上記の一文は、藤原頼経の生涯を端的に表しているように思います・・・。頼経自身、自分の生涯をどのように思っていたのか気になります。
頼家・実朝の歴代将軍の生涯を知ると、殺されてないだけ幸せなんじゃないかと思うあたりがなんとも悲しい。
初代藤原将軍、藤原頼経まとめ
以上、藤原頼経について紹介でした。
藤原頼経以降、歴代将軍はずーーっと傀儡のまま将軍位に君臨し、政治の実権は北条氏が握りました。そして、都合が悪くなると将軍は北条氏に追放され、また新しい傀儡君主を擁立させる。その繰り返しが鎌倉幕府の将軍の歴史です。
ここまで来ると「傀儡」と言うよりも、むしろ「鎌倉幕府のシンボル(象徴)」と言った方が良いかもしれません。
「そんなことしないで、そのまま北条氏が最高権力者になればいいんじゃないか?」
そう思うかもしれませんが、日本は血筋や先祖のことを重んじる一族です。源氏や藤原氏、皇族などの尊い血を引く者がトップに君臨しなければ、多くの人々を納得させることができません。
日本人にとって血筋や先祖って言うのは、まさにアイデンティティのようなもの。このような日本人の考え方は、おそらく縄文〜弥生時代の長い長い歴史の中で培われてきたものであり、簡単に変わるものではありません。(おそらく現代にも根付いている)
戦国時代、江戸時代に戦国武将らが天皇に取って代わって日本を支配しようと考えなかったのもそんな日本人の感覚があるからです。話は全然変わっちゃうんですが、そんな日本人の歴史観や政治観が、今上天皇までの長い長い天皇の歴史を紡いでいるのだなぁとこの記事を書いているうちにふと思いましたとさ。
おしまい。
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