今回は、
・1917年の金輸出禁止
・1930年の金輸出解禁
・1931年の金輸出再禁止
の3つをまとめて、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
ややこしい話が多いので、3つ一気に理解するのがオススメだよ!
話の根底にある「金本位制」
今回紹介する金輸出禁止・解禁・再禁止の3つのお話ですが、実は金本位制という制度と深い関係を持っています。
というのも、「金輸出」という言葉は金本位制とほぼ同じ意味で使われる言葉だからです。
なので・・・
「金輸出禁止」=「金本位制の禁止」
「金輸出解禁」=「金本位制の解禁」
「金輸出再禁止」=「金本位制の再禁止」
と読み替えることができます。
何が言いたいかというと、金輸出禁止・解禁・再禁止の話を理解するには金本位制について知っている必要があるということです。
金本位制とは、簡単に言ってしまうと「通貨の価値を金(ゴールド)で担保する制度」です。
具体的には、1円=金◯g、1ドル=金◯gという感じで、通貨を金と交換することができます。通貨と金の交換は国の責任の下で行われ、交換に必要な金は国によって管理されています。
仕組みは分かったけど、なぜわざわざこんなことをするの?
という疑問もあると思うので、金本位制のメリット・デメリットを箇条書きでまとめておきます。
金本位制のメリット
金を担保にしているので、通貨の国際的な信用度がUPする(安心して貿易ができる)
通貨価値を金の重さで定めてしまうので、通貨の価値が安定しやすい(安心して貿易ができる)
国が保有する金の増減で簡単に貿易収支が計算できる
金本位制のデメリット
国内にある金保有量しか紙幣を刷れない
経済が発展して流通する通貨が増えると金の絶対的な量が足りなくなる
まとめると「金本位制は安心して貿易をするためには最高の仕組みだけど、金を持っていない国は蚊帳の外だし、経済発展には適応しきれない制度」ってことです。
イギリスの産業革命以降、世界の貿易規模が拡大すると金本位制が普及するようになりました。
金本位制については、以下の記事で詳しく解説しているので、合わせて読んでみてくださいね。
金輸出禁止【1917年】
金本位制は、18世紀にイギリスが採用したのをきっかけに、列強国に次々と広がっていき、日本では1897年に金本位制が導入されました。
しかし、1914年に第一次世界大戦が起こると、金本位制を停止する国が続出します。
なぜかというと、戦争のため外国から軍需品を大量購入すると、その支払いのために大量の金が国外に流出してしまうからです。デメリットの部分で説明したとおり、金本位制は安定した貿易には優れた仕組みですが、金を保有していない国は蚊帳の外です。
そのため、多くの国が金の国外流出を恐れ、金を国外に輸出することを禁止しました。(金輸出禁止)
金輸出禁止は冒頭で説明した通り、「金本位制の禁止」を意味します。
例えば、A国→B国へ商品を輸入して、B国が金輸出禁止をすると、輸入によってB国通貨を手に入れたA国は、B国に対して「俺の持っているB国の通貨を金に交換してくれ!」と要求することができなくなります。こうなると、B国通貨と金が交換できなくなり、金本位制が機能しなくなるわけです。
日本も、ヨーロッパ列強国と同様に金の国外流出を恐れて、1917年に金輸出禁止を断行しました。
金輸出解禁の時代背景
1918年11月、金輸出禁止の原因となった第一次世界大戦が終戦します。
そして世の中に平和が戻ると、金輸出禁止をしていた国々が、次々と金輸出禁止を解除(金輸出解禁)し始めました。
1919年〜1928年にかけてアメリカ・イギリス・フランスなどの列強国が次々と金輸出解禁をする中、実は一番出遅れてしまったのが日本でした。
日本が出遅れた原因は、1920年に始まった戦後恐慌や、1923年に関東一帯を焼け野原にした関東大震災の影響によって、日本経済がズタボロになっていたからです。
当時は、ヨーロッパ諸国が戦後復興を遂げ、日本にも次々と輸入品が入り込んできており、さらに関東大震災からの復興のため輸入量はさらに増え続けました。
さて、輸入>輸出の状態(輸入超過)のまま金輸出解禁をすると、どうなるでしょうか。
答えは、「大量の金が国外に流出してしまう」です。これはまさに、1917年に金輸出禁止をした理由そのものですね。
禁止した原因が残ったまま「他の国が解禁しているから俺も!」と安易に金輸出解禁を実施することには、政府内でも賛否両論があり、スムーズな金輸出解禁を行うことができなかったのです。
さらに、金本位制に基づいて1円=金○gと固定してしまうと、変動為替相場制によって決められていた為替レートが、固定された為替レートへと一気に変動します。急激な為替レートの変動は、経済に大きな影響を与えかねないため、その意味でも政府は金輸出解禁を躊躇っていました。
しかし、1928年にフランスが金輸出解禁を行うと、主要国で金本位制に戻っていないのが日本だけとなり、日本は国際経済の流れの中から一人だけ取り残されることに・・・
こうなると、国内外から日本の金輸出解禁を求める声が強まり、日本政府はいよいよ重い腰をあげ、金輸出解禁に向けて動き始めることになります。
金輸出解禁(金解禁)【1930年】
日本が金輸出解禁に向けて大きく動く転機になったのは、1929年7月、浜口雄幸内閣の成立でした。
なぜこれが転機なのかと言うと、金輸出解禁反対派である立憲政友会の田中義一内閣が解散して、賛成派である立憲民政党の浜口雄幸が与党として国政を担うようになったからです。
浜口は、大蔵大臣に日本銀行の元総裁である井上準之助を起用して、金輸出解禁に向けて準備を開始します。
金輸出解禁に向けて特に大きな問題だったのが、
本位制に戻したときの為替レート(1円=金○g=△△ドル)をどう設定するか
という問題でした。
為替レートをどうするか
為替レートの設定方法には、2つの選択肢がありました。
案1:金輸出禁止当時(1917年)の為替レート(旧平価)に戻す【100円=金75g=49.85ドル】
案2:最新の為替レート(新平価)に合わせる【100円=約46.5ドル】
金輸出禁止をした1917年当時は1円=金0.75gと定めていたので、これに合わせたのが案1。
変動為替相場制に移行した後の最新レートで固定しようとするのが案2です。
※案2の場合、現状に合わせて新しく1円=金○gを再設定をする必要があります。
金輸出解禁の影響を最小限にしようと思えば、為替レートの変化が少ない案2がベストです。しかし、井上準之助は、あえて影響の大きい案1を採用しました。
なぜ井上が、危険を冒してまで案1(旧平価)を採用したのかというと、円の価値が案1の方が高かったから(円高だから)です。
100円で両替できるドルの額が、案1の49.85ドルの方が案2の46.5ドルよりも3.35ドル多いので、案1の方が円の価値が高い、つまり円高になります。
通貨価値というのは、そのまま国の国力や信頼度を示すと考えられています。つまり、案1と比べて円安な案2を採用するというのは、日本が自分から「日本の力は1917年当時より、今の方が低いですよ」と言っているようなものなんです。
自ら自国の威信を軽んじるなど、そんなバカな話はあるか。
ここは、旧平価で金本位制を解禁すべきだ。
井上は、こんな風なことを考えていました。そして、旧平価を採用すると急激な円高に見舞われるため、金輸出解禁の前から為替レートが旧平価の100円=49.85ドルに近づくよう(円高になるよう)、様々な経済政策を行って準備を進めます。
具体的に何をしたのかというと、日本に流通している通貨量を減らしたり、政策金利の金利を上げたりしました。流通する日本円の絶対量が減れば円の希少価値が上がって円高になるし、金利を上げれば日本円を持ちたい人が増える(需要が増える)のでやはり円高になります。
一方、インフレ・デフレの視点で考えれば、「流通する通貨量が減る」=「デフレーション」=「物価・賃金が下がる(景気が悪くなる)」という関係があります。
つまり、金本位制を再開するための政策なのに、国内をデフレにして人々の生活にまで大きな影響を与えてしまった・・・ということです。
もちろん、井上準之助も国民に痛みが伴うことは理解した上で、こう考えていました。
金輸出解禁を行えば、デフレによって日本は不景気となるだろう。
しかし、デフレはチャンスでもある。
デフレになれば、体力のない弱小企業は淘汰され、デフレに耐え抜いた屈強な企業だけが生き残る。
そうすれば、日本企業の国際的な競争力が増して、結果的に国家のためにもなるはずだ。いわば、金輸出解禁に伴うデフレは日本経済の荒療治とも言えよう。
こうして、1930年1月、ついに金輸出解禁が行われます。
金輸出解禁は失敗に終わる
しかし、金輸出解禁は残念ながら大失敗に終わりました。
目を国外に転じると1929年10月24日木曜日、アメリカで株価の大暴落が起こります。世界経済の中心であるアメリカの株価大暴落の影響は、時間差で世界中へと波及し、1930年には世界恐慌と呼ばれる未曾有の大不景気時代が到来します。
日本はそんなとんでもないタイミングで、自ら不景気に陥るような政策(金輸出解禁)を行なってしまったのです。
金輸出解禁に伴うデフレに、世界恐慌の影響が重なり、日本は未曾有の不景気時代に入ってしまうことになりました。(昭和恐慌)
※1929年10月時点では、多くの人がアメリカ株価の大暴落は一過性のもので経済に大きな影響は与えない・・・と考えていたため、金輸出解禁時にはあまり考慮がされませんでした。
金輸出再禁止【1931年】
結果的に、世界恐慌真っ只中での金輸出解禁は「嵐に向かって雨戸を開け放つようなものだ」と揶揄され、浜口雄幸は強い批判を浴びました。
というか、恨みを買った浜口は、1930年11月14日、東京駅で襲撃を受けています。浜口は、一命は取り留めましたが、その傷が原因でのちに死去してしまいます。
人々の生活をどん底に落とした張本人になってしまった井上準之助もまた、多くの人から恨みを買い、1932年2月に暗殺されてしまいました。(血盟団事件)
浜口の跡を継いで内閣総理大臣になったのは、同じ立憲民政党の若槻禮次郎という男。しかし、1931年4月に就任するも昭和恐慌を解決することができないまま、1931年12月に辞任。
その後は、政権交代が起こり、1931年12月14日には立憲政友会の犬養毅が内閣総理大臣に就任。犬養毅は、昭和恐慌を解決するため、卓越した手腕を持った高橋是清を大蔵大臣に抜擢します。
高橋是清は、大蔵大臣に就任するとすぐに金輸出再禁止を宣言。その上で、紙幣を大量発行して、そのお金を公共事業や軍事費に充てました。
こうして、国内の仕事や流通する紙幣を増やしつつ、日本円の価値を円安へと誘導していきます。(世間に流通するお金を増やすと、通常は紙幣価値は減っていきます。)
金輸出解禁後、100円=49.85ドルだった為替レートは、高橋是清の政策によって1934年頃には100円=29ドルにまで約40%の急激な円安になりました。
円安は日本の輸出産業に追い風となり、1931年に約11億円だった輸出額は1934年に約21億円まで上昇。高橋の手腕で日本は1933年に世界でいち早く不況から脱出しました。
金輸出禁止・金輸出解禁・金輸出再禁止まとめ
最後に「金輸出禁止」「金輸出解禁」「金輸出再禁止」の3つについて、簡単に時系列でまとめておきます。
- 1914年第一次世界大戦が起こる
主要国(イギリス・フランスなど)は、戦争による大量輸入で自国の金が枯渇することを恐れ、金輸出を禁止する。
- 1917年日本、金輸出禁止
- 1918年第一次世界大戦が終結
終戦によって、主要国(日本以外)は1919年〜1928年に間に少しずつ金輸出を解禁し始める。
- 1920年
日本は不景気に突入
- 1923年関東大震災
日本経済にトドメの一撃。日本の金輸出解禁が困難になる
- 1927年
関東大震災の時に発行した震災手形がきっかけで、銀行大量破綻の危機が起こる。
- 1929年世界恐慌
アメリカの株価大暴落をきっかけに、世界的な不況がやってくる
- 1930年金輸出解禁
金輸出解禁のために日本経済をデフレーションに誘導してしまったため、日本は深刻な不景気に陥り、世界恐慌がこれに追い討ちをかける(昭和恐慌)
- 1931年金輸出再禁止
日本の金融・経済を立て直すため、高橋是清が金輸出再禁止を断行。高橋是清の政策によって、日本経済はなんとか立ち直ることに・・・!
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