今回は日本史上屈指の天才戦略家、楠木正成(くすのきまさしげ)についてのお話。
楠木正成は、鎌倉時代末期〜南北朝時代に活躍した人物です。奇抜な発想やゲリラ戦を得意とし、少ない兵力で敵の大軍を次々と撃破。武勇と知略を兼ね揃えたおそらく当時最強の武将です。
この記事では、そんな楠木正成の生涯や人物像、そして有名な戦いなんかをわかりやすく紹介して見ます。
謎に包まれる正成の若き頃
実は楠木正成の生涯、特に幼少期や青年期のことは謎に包まれており、はっきりしたことはわかっていません。
わかっているのは次2つぐらいだと思われる。
もう1つ言えそうなのは、楠木正成は戦闘を生業(なりわい)にしていたであろうと言うことです。楠木正成の身分には、大きく次の2つの説があります。
いずれの場合でも戦闘が本業です。この辺の事情が、楠木正成が最強の武将に育った理由なのかなと思います。ちなみに悪党(あくとう)は悪者って意味ではありません!知らない方は誤解のないよう以下の記事を合わせて読んでみて欲しいです。
楠木正成が育った環境で言えば、河内は比較的経済の発展していた地域でした。というのも、京から近くて物流も盛んな場所だったからです。
鎌倉時代末期というのは、河内を含めた畿内を中心に貨幣の流通が盛んになり、農民の生活水準が向上した時代でもあります。具体的に言うと、それまでは年貢(米)を搾取し続けられるしかない状態だった農民の中から、特産品などを生産することで自ら貨幣を稼ぎ、経済的に自立しようとする人々が現れ始めたのです。(自立する人々が本格的に増え始めるのは戦国時代の頃ですが・・・)
そして、米や土地(田んぼ)だけに依存しない経済的余裕が生まれると、農民の中には支配者層の人々に対して強く反発する者も登場します。(土地を没収されたりしても、生きていけるので強気の姿勢で臨める!)
このような先進的な場所で暮らしていたことも、楠木正成が奇想天外な戦略を次々と考えだすことができた1つの理由かもしれません。
楠木正成「後醍醐天皇に加勢して鎌倉幕府ぶっ潰す」
1331年、後醍醐天皇が幕府に対して挙兵をします。いわゆる「元弘の乱」と言う戦乱の始まりです。
後醍醐天皇が幕府に対して挙兵した詳しい経緯が気になる方は、以下の記事の前半部分を読んでみてください!
簡単に言うと
後醍醐天皇「幕府のせいで私は天皇家の正統とは認められず、一代限りのつなぎ役で終わろうとしている。しかし、私こそが天皇家の正統に相応しい男だ。幕府が私を認めないのならば、そんな幕府など根絶やしにしてやるわ。」
って理由です。(めちゃくちゃ端折ってます。)皇統についてのイザコザは以下の記事も参考になると思うので合わせてどうぞ。
当時の鎌倉幕府の政治は北条氏独裁の色が強く、多くの人々が重税や北条氏優遇に不満を持っていました。このような幕府に不満を持つ人々が後醍醐天皇に加勢し、戦いの規模は次第に全国へと広がっていきます。
そして、この時に後醍醐天皇に加勢した人物の一人が楠木正成でした。楠木正成は出自が不明のため年齢不詳なんですが、当時40才ぐらいだと言われています。
後醍醐天皇との感動的な出会い
太平記という物語に、当時の後醍醐天皇と楠木正成の感動的な出会いについて書かれていますので、紹介してみます。
鎌倉幕府は、京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)という軍事組織を持っていました。幕府に対して挙兵した後醍醐天皇は、六波羅探題を筆頭とする幕府の軍事力を恐れ、笠置山に身を潜めます。
笠置山には、後醍醐天皇に加勢しようと馳せ参じる者が次々と現れますが、小者ばかりで強者がなかなか集まりません。今後について強い不安を感じていた後醍醐天皇は眠っている時、二人の子供から次のようなお告げを聞きます。
夢のお告げ「どこにいても、あなたの身を隠す場所はありません。ですが、木陰に南向きの座がありますから、身をそこに置くのが良いでしょう」
こう言うと二人の子供は天に昇り、それと同時に後醍醐天皇は目を覚まします。
後醍醐天皇「これは、天からのお告げに違いない。・・・わかった!!『木』と『南』を合わせたら『楠』になる。つまり、天は楠という者が私を守ってくれると伝えているのだ。」
そして、楠という字の者について情報を集めると、どうやら河内に楠木正成という人物がいるらしいということがわかってきました。
きた・・!!
( ゚д゚ ) ガタッ
.r ヾ
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後醍醐天皇はすぐに側近に命じ、楠木正成を笠置山に呼び寄せます。事情を聞いた楠木正成もすぐさま後醍醐天皇の元に馳せ参じました。
後醍醐天皇「迅速に馳せ参じてくれたこと、大変感慨深く思う。ところで、どのように鎌倉幕府を倒し、世の太平にすべきと思う?そなたの考えが聞きたい」
楠木正成「鎌倉幕府の諸々の悪事を考えれば、天誅を受けて然るべきです。天に代わって私たちが罰を下すことに問題はありません。しかし、鎌倉幕府を倒すには武勇と知略の2つが必要です。屈強な兵を持つ鎌倉幕府に真っ向勝負では分が悪い。鎌倉幕府は、武勇には優れるが、知略には劣ります。欺くのはさほど難しくなく、恐れるに足りません。確かに1つ1つの勝負では負けるかもしれません。それでも、この楠木正成がいる限り、戦いに負けても勝負に負けることはないでしょう。」
この後、楠木正成は本拠地の河内に戻り、挙兵の準備を進めます。
楠木正成、ちょっとカッコよすぎやしませんかね・・・。太平記は物語であり、どこまでが本当かはわかりませんが、仮に史実に装飾が加えられていたとしてもこのシーンは素直にカッコいいです。
楠木正成の初陣、赤坂城の戦い
先に登場した楠木正成の「戦いに負けても勝負に勝つ」発言。この際たる戦いが楠木正成の初陣となる赤坂城の戦いです。
笠置山から戻った楠木正成は、1331年9月、地元河内で築城した赤坂城で挙兵します。赤坂城の戦いについては、以下の記事で詳しく説明していますが、面白いので改めて紹介します。
この戦い、太平記によれば楠木正成500VS鎌倉幕府300,000の戦いだったと言います。流石に数字は(物語を面白くするために)盛ってるでしょうけど、多勢に無勢だったことは間違い無いでしょう。そして、赤坂城自体も即席で整えた城であり、決して立派なお城ではありませんでした。
幕府軍は、油断します。「こんな雑魚なんて一瞬で終わるだろww」
しかし、幕府軍はわずか500の兵を相手に大損害を被ることになります。楠木正成は隘路に敵を誘い込んでの弓の一斉射撃や、敵の休憩中の隙を狙った奇襲など、知略を使って幕府軍を苦しめたのです。
さらに、敵に大軍がいよいよ迫り、塀に手をかけて城に侵入しようと試みると塀にも細工がしてあります。塀は二重になっていて、外側の塀はダミー。手を掛けると塀が崩れる仕組みになっていました。そして、塀と共に倒れる幕府軍に上から矢や投石で追撃し、幕府軍はボコボコに。その様子がこちら↓
【二重塀に騙され幕府軍とそれを攻撃する楠木軍の様子】
幕府軍「こいつ(楠木正成)メチャクチャ強いぞ・・・!」
幕府軍は楠木正成を恐れ、城の周囲を囲み食料を断つ兵糧攻めに戦法を変えますが、「やっぱこんな即席のショボい城を兵糧攻めなんて、武士の恥だわ」と再び赤坂城に特攻。
すると次は、塀の上から熱湯が降り注がれ、再び幕府軍は敗北したと言います。この時の熱湯はただの熱湯ではなく、熱湯に人糞をブレンドしたおぞましいものだったという説もあり、戦場はいろんな意味で地獄絵図だった可能性があります。
こうして両者にらみ合いが続くも、いよいよ赤坂城の食料が底を尽きました。すると楠木正成は、城を焼いて自害を装い逃走。
幕府軍は、わずか500しか兵のいない楠木正成を取り逃がしてしまいます。太平記は楠木正成LOVEな本なので全てを信じることはできませんが、それでも幕府軍が正成を討伐できなかったことに代わりはなく、やはり楠木正成は異常なほど強かったのです。
「戦いに負けて勝負に勝つ」千早城の戦い
赤坂城の戦いが起こっている間、後醍醐天皇のいる笠置山では大事件が起きていました。
なんと、笠置山が幕府軍に制圧され、後醍醐天皇が捕まっていたんです。
楠木正成が敗北して後醍醐天皇も捕らえられては、「後醍醐天皇軍はオワコン」とか思いそうですが、楠木正成は全く諦めていませんでした。
まず1つに赤坂城での撤退は戦略的撤退でした。楠木正成の戦略は、「神出鬼没に敵を襲い続け、幕府軍がやられている様子を人々に知らしめすことで、後醍醐天皇に加勢するものを増やす」というものでした。だから、少数の兵で幕府軍をボコボコにできれば最低限のノルマはクリアできていたわけです。
もう1つは、後醍醐天皇が捕まっていてもその息子の護良親王(もりよししんのう)は健在だったという点です。つまり、後醍醐天皇の救出を大義名分に、護良親王を求心力として味方を増やすことはまだまだ可能だったというわけ。
赤坂城の戦いの後、両者は膠着状態となり、楠木正成と護良親王は密かに再起の準備に取り掛かります。楠木正成は、地元の河内にて天然の要害に囲まれた千早城(ちはやじょう)を築城。護良親王は、各地に挙兵の呼びかけを行います。
そして、一年が経過した1332年の冬、再び楠木正成・護良親王は幕府に対して挙兵。楠木正成は河内にて幕府軍に奪われていた赤坂城を奪還し、護良親王は吉野の地にてゲリラ戦を展開します。
・・・が、1333年2月になると護良親王が敗走。楠木正成も赤坂城を攻略され、千早城にて幕府軍との最終決戦に備えます。
千早城には吉野や赤坂の幕府軍も集まり、城の周囲は兵で埋め尽くされ、わずかな隙間もないほどだったと言われています。太平記では楠木正成の兵力はわずか1000ほどだったと書かれており、色々と絶望的な状況で千早城の戦いは始まったのでした。
千早城の戦いの詳細はここでは書ききれないので以下の記事に譲ることにして、ここではハイライトだけ紹介します。
千早城は金剛山という山の頂に建てられた天然の要塞です。東西は崖、南北には山の尾根が構えています。まさに「鉄壁の守備」という言葉が相応しいお城で、お城よりも要塞という言葉の方がしっくりくるかもしれません。
(出典:wikipedia「千早城の戦い」,Author:Wikiwikiyarou)
楠木正成はこの地の利を活かし、籠城するだけでなく積極的なゲリラ戦を展開。兵の消費を嫌った幕府軍は、戦略を兵糧攻めに変えますが、入念な準備をしてきて水も食料もたっぷりにある楠木正成には通用しません。(兵糧攻めにされている場合は、少ない兵が逆にメリットにもなる)
というか、長期戦となり幕府が慢心して逆に敵に奇襲を仕掛けます。楠木正成はわら人形を城外に置き、敵を誘い込みます。一見するとバレバレな作戦に聞こえますが、幕府軍は「いつか兵糧を確保するために城外に敵兵が出てくるはず」と思い込んでおり、人影が見えると疑うことなくわら人形へ襲いかかろうとします。
わら人形に誘い出された幕府軍は、楠木正成軍からの奇襲を受け大打撃を受けます。こうして、幕府軍は兵糧攻めを断念。わら人形作戦は、敵に打撃を与え、わら人形を造らせることで味方の気の緩みも防ぎ、まさに一石二鳥の作戦でした。
【楠木兵がわら人形作っている様子】
その後も、正面突破は無理と見た幕府軍は長梯子を使って崖を越えてショートカットしようとしますが、場内から松明と油を投げられ炎上。幕府軍は次々と崖から転落し、大ダメージを受けます。
【ハシゴを燃やされて阿鼻叫喚な幕府軍の様子】
ここまで長々と何が言いたかったかというと
ってことです。結局、千早城に篭る楠木正成は1333年2月〜5月の4か月もの間、敵の大群を釘付けにしています。
そして千早城で楠木正成が粘っている間、楠木正成の計画通りに各地の倒幕運動が盛んになり、1333年2月には島流しにされていた後醍醐天皇が隠岐の島から脱出。
幕府内からも離反する者が増え、1333年4月には足利尊氏が後醍醐天皇側に寝返って六波羅探題を滅ぼし、5月には新田義貞が関東で挙兵し鎌倉幕府を滅亡させました。
という感じで、楠木正成が粘っている間に状況は次々と好転し、遂に後醍醐天皇は大勝利することになります。ここでも楠木正成の戦いの目的は勝つことではなく、「大敵を千早城に釘付けにしている間に、各地で倒幕運動を起こさせること」でした。まさに戦いに負けて勝負に勝つを実践したのが千早城の戦いだったのです。
楠木正成の壮絶な最期、湊川の戦い
鎌倉幕府が滅亡すると、勝者となった後醍醐天皇は自らの正統性を主張した上で、建武の新政(けんむのしんせい)という政治の大改革を行います。
政治改革の趣旨は簡単に言うと
って感じです。詳しい内容を知りたい方は以下の記事を合わせて読んでみてください。
ところが、この政治改革は上手くいきません。これまでの支配者層で既得権益を持っていた貴族や武士が猛反発したからです。鎌倉幕府が滅亡し、新しい政治に夢に見ていた貴族・武士らの失望は想像を超えるものがあったことでしょう。
後醍醐天皇の政治に失望した武家の人たちは新たな幕府の創設を望むようになり、足利尊氏を求心力に後醍醐天皇と対立するようになります。そして1335年12月、足利尊氏と後醍醐天皇の対立は戦争にまで発展。今でいう箱根のあたりで激しい戦闘が起こります。詳細は以下の記事で紹介していますので合わせてどうぞ。(この記事では触れません)
その後も一進一退の攻防が続きます。足利尊氏は一時、九州地方にまで追い詰められるも、九州で再起し大軍を引き連れて京を目指します。一方の後醍醐天皇側は、それを阻止しようと今でいう神戸市付近で防御を固め、この地で大きな戦いが起こりました。
こうして起こったのが1336年5月の湊川(みなとがわ)の戦い。
楠木正成は正攻法では足利尊氏に勝てないことを見抜き、平安京そのものを餌にした壮大な尊氏包囲作戦を考えますが、京を戦場にすることに反対した貴族らにより採用ならず。こうして楠木正成は、敗北、つまり死を覚悟した上で湊川の戦いに望みます。
湊川の戦いはかなり激アツな戦いなんですが、この記事では書ききれないので詳細については以下の記事を合わせてご覧いただけたらと思います。この記事では楠木正成の最期のシーンだけ紹介します。
太平記によれば、楠木正成はわずか700騎を連れて出陣し、足利尊氏の弟で副大将だった足利直義(あしかがただよし)の首をめがけて捨て身の特攻を試みます。足利直義の兵力は50万だったと言われています。(実際はもっと少ないと思うけど)
死を覚悟した武士はとにかく強い。ものすごい気迫で足利直義に迫り、一時その首を奪う寸前まで追い詰めますが成功ならず。足利軍も次第に「楠木正成には、どうも援軍もいないようだ。これは捨て身の戦いに違いない」とわかってくると、強敵と真っ向から戦うことは避け、敵を包囲しながらジワリジワリと楠木正成の兵を削っていきます。
そして、兵が70騎になったところで「もはやこれまで・・・」と戦場から離脱し、とある民家の中で楠木正成は弟らと共に自害しました。
太平記に残る正成と弟の正氏(まさうじ)の最期のシーンは、悲哀に満ちたものになっています。
楠木正成「臨終の最期の一念で、死後どの世界に行けるか決まるというが、正氏はどの世界を望むか」
この問いに、正氏は笑ってこう答えます。
楠木正氏「私は再び人間界に生まれ、朝敵を倒すことを望みます。」
楠木正成「そうか。ならば、この束の間を一生を終え、再び人間界に転生し、その願いを叶えようではないか。」
こう言って、兄弟は互いに手を取り、刺し違えて自害を果たしました。後醍醐天皇が楠木正成の尊氏包囲作戦さえ採用してくれていれば・・・。
楠木正成は最期の最期まで後醍醐天皇への忠義を貫き壮絶な死を遂げました。
楠木正成はなぜ強いのか?
ところで、楠木正成はなぜこれほどまでに強かったのでしょうか。
考えられる理由は・・・
の2つ。
1については、赤坂城での熱湯を敵に浴びせたり塀に細工をする行動は河内での日常的な争いの中で培われたものだと思います。そして、楠木正成の戦力はガチガチな武装で身を固めた武士というよりも、悪党をはじめとした戦国時代に活躍する足軽部隊に近いものでした。このような兵種の違いは、幕府の御家人が家や血筋によって団結しているのに対して、楠木正成は暮らしている地域や土地によって団結していたことによるものと思われます。
この辺の事情が、関東の御家人たちには到底思いもつかない革命的な戦略を次々と考え出せた理由でしょう。
2については、千早城での数ヶ月に渡る籠城戦に耐えたことに関連します。千早城では、現地の農民たちが密かに楠木正成に食料などを援助していたと言われています。
赤坂城の戦いや千早城の戦いで敵を苦しめた神出鬼没の奇襲攻撃の成功もまた、現地住民の協力によるところが大きいと思っています。現地住民と強い絆で結ばれたゲリラ戦略はマジで強いです。
楠木正成はスーパーパーフェクト人間
さて、楠木正成は一体どんな人物だったのでしょうか。結論から言うと、楠木正成は当時から現代まで非常に評価を受けている人物です。
楠木正成のイメージは今も昔も変わらず「智略・武勇・忠義の全てにおいて完璧な理想の武将」というイメージ。
湊川の戦いの際、足利尊氏は楠木正成の首を地元の遺族らに返していたという記録があります。これは敵の足利尊氏でさえ楠木正成に高い評価をしていた証拠と言えるでしょう。
そして、楠木正成の採用したゲリラ戦法や籠城戦は江戸時代以降、戦略としても高く評価されていて、「日本最強の武将は楠木正成である」と考える人も少なくありませんでした。
ここでは紹介しきれませんでしたが、「桜井の別れ」と言う湊川の戦い前に死地に赴く楠木正成とその息子の感動の別れシーンもあって息子想いという一面もあったり、人格的にも欠点のないパーフェクト人間なのでした。
第二次世界大戦への影響
一方、その完璧すぎる人物像は、第二次世界大戦や戦前教育に頻繁に利用されてきました。
特に「後醍醐天皇に対して死をも厭わない忠義心を貫いた」と言う点が戦前の皇国思想に利用され、楠木正成は理想の国民像として持ち上げられるようになります。
また、戦時中に軍部がシビリアンコントロール(軍事を政治で動かすこと)を無視して暴走しだした時に、湊川の戦いの際に楠木正成の戦略が貴族に退けられ、大敗北を喫した例え話が用いられたとも言われています。さらに、死地に赴くことを「湊川に行く」、負け戦のことを「湊川」と言ったり、楠木正成が戦時中の人々にとっていかに大事な人物だったかがわかります。
そして、あまりこういうことは書きたくはないのですが、このような楠木正成を理想とする戦前教育において、最も理想的な人間像は「神風特攻隊」だったのではないかと思います。
太平記を読んで感じたのは、楠木正成の真骨頂は「戦いに負けても勝負に勝つ」にあるということ。そして、戦いに負けて勝負に勝つには、戦いで死んでしまってはいけないんです。敗北を勝利につなげるためにも生きなければなら図、敗北は戦略的撤退でなければいけません。楠木正成の忠義心だけを切り取って、その辺の考え方が抜け落ちてしまっていることは個人的に残念でなりません。
おそらく、今後も楠木正成の評価が落ちることはないでしょう。しかし、完璧すぎるが故にそれが政治利用されている時には、視野を広く持たねばなりません。(これは楠木正成に限らない話ですし、現代においても似たような話は多くあるように思います。)
・・・と、少し話がそれてしまいました。以上、楠木正成についての紹介でした。最後に楠木正成の活躍について書いている記事をいくつか以下に載せておきます。ここで書ききれてないこともたくさんあるので気になる方は合わせてご覧いただければと思います。
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