東寺の隠れスポット不開門(東大門)に行ってきた【南北朝時代の新田義貞と足利尊氏を偲ぶ】

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今回は、東寺を観光する人のほとんどが訪れないであろう東寺の不開門(あかずのもん)の紹介。

 

 

不開門は、時代でいうと南北朝時代の史跡になります。東寺と言えば五重の塔とか立体曼荼羅が有名で、南北朝時代マニアでもない限り積極的にこの門を訪れる人は少ないでしょう。

 

 

私自身も、東寺へ観光に行った際に境内を散歩していたら偶然見つけただけで、実はその存在は知りませんでした。しかし、調べてみると色々と興味深く、記事として残すことにしました。

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なぜ不開門なのか?

東寺の東側の門(東大門)は別名「不開門(あかずのもん)」と呼ばれています。

 

 

そもそも、門というのは人が出入りするための機構のはず。それなのに、なぜ開かずの門になってしまったのでしょうか。

 

 

東大門が開かずの門になったきっかけは、南北朝時代のとあるエピソードにあります。

 

 

時は1336年6月。

京都で室町幕府を開きたい足利尊氏
天皇親政のため幕府を開かせたくない後醍醐天皇

の両者の間で激しい争いが起きていました。

【足利尊氏】

【後醍醐天皇】

 

1336年5月には、京都への入京を目指す足利尊氏とそれを阻止したい後醍醐天皇の間で、湊川(みなとがわ)の戦いという有名な戦いが勃発。

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この戦いに勝利した足利尊氏は京都に入京。一方、敗北した後醍醐天皇は比叡山に避難し、不利な状況に立たされます。

 

 

京都に入った足利尊氏は東寺に陣を構え、そこへ後醍醐天皇側の武将だった新田義貞(にったよしさだ)が襲撃を仕掛けます。

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足利尊氏を守った不開門

太平記という資料によれば、戦力は足利尊氏20万、新田義貞1万だったと言われています。(尊氏軍は実際はもっと少なかったと思われる。)

 

 

戦力では足利尊氏が上ですが、湊川からの遠征で兵たちは疲弊していました。

 

 

京都各地で戦火が起こり、足利尊氏は劣勢に立たされます。鬨の声をあげて突撃してくる新田義貞に押し込まれ、一時は本拠地の東寺の目の前まで攻め込まれます。

 

 

本丸まで追い込まれた足利尊氏ですが、間一髪、ギリギリのところで東寺の門を閉じ、新田義貞の侵入を防ぎました。

 

 

逆に絶好のチャンスを逃してしまった新田義貞は、何としても尊氏を討ち取るため門外から尊氏陣営へ矢を放ち挑発。一対一の決闘を望みます。

 

 

尊氏はこの挑発に乗り門を開けようとしますが、「安易に敵の挑発に乗ってはなりません」という側近の忠告により、これを断念。

 

 

結局、東寺の門は開くことなく、新田義貞は逆に窮地に追い込まれ、命からがら退却していきます。

 

 

この戦い以降、東寺の東門は開かれることがなくなり、「不開門」と呼ばれるようになりました。

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不開門は東寺そのものを守った

東寺の不開門は足利尊氏を守っただけではなく、実は東寺そのものを守ってくれました。

 

 

というのも、もし新田義貞が境内に侵入していたら東寺は戦場となり、寺院は戦火で焼かれていたかもしれないからです。実際、後に起こる応仁の乱では多くの寺院が焼けています。

 

 

この戦いの後、東寺と足利尊氏の関係は親密となり、東寺は尊氏から多くの寄進を受けることになります。

 

つまり、「不開門」は

足利尊氏と東寺を守ってくれた!!!

ということになります。

 

ここまでわかってくると門を閉じている理由もわかりますね。

【前に訪れた際の不開門の様子】

 

ちなみに、門には今もなお小さな矢穴が残っているらしいです。私は当時そこまでの知識がなかったので何も知らず見逃してしまいました。700年前の戦の跡が見られるなんて滅多にないことだし、見てみたかった・・・!

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東寺と足利尊氏の関係

東寺には尊氏に関する史跡が他にもあります。それが東寺にある八幡社殿(別名:鎮守八幡宮)。ここも観光名所にはなっていませんが、正面入り口の近くにあるので比較的見つけやすいです。

東寺に伝わる文書では、新田義貞が尊氏を東寺の門前まで追い込んだ際、この八幡社殿から突如として矢が放たれ、尊氏を救ったとされています。

 

 

八幡神の御加護に救われた尊氏はその後、所領を東寺に寄進。東寺との結びつきをさらに深めたとされています。(尊氏が東寺のパトロンになったということ)

 

 

と言った感じで東寺と足利尊氏の結びつきは深く、その証拠に不開門や八幡社殿には足利尊氏にまつわる伝説が残っています。

 

 

訪れた際に「やけに足利尊氏の名前がたくさんあるなー」と思い、最近になって色々調べてみると、やはり・・・という感じでした。実際に訪れてみると、東寺と足利尊氏の結びつきの強さを700年経った今もなお肌で感じることができます。何も知らない私が疑問を感じたほどなので間違いないはず。

 

東寺は何度か訪れているのですが、このような新しい発見があるのも寺院観光の醍醐味ですね。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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