

今回は七年戦争(1756〜1763年)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!日本ではほとんど知られていないのに、実は世界史では超重要な戦争なんだ。外交革命・フリードリヒ大王の奮戦・フランス革命との関係まで、一気に押さえていこう!
📚 この記事のレベル:高校世界史
📖 山川出版『詳説世界史』準拠
🎯 共通テスト・大学受験対応
「世界大戦」と聞くと、多くの人が20世紀の第一次世界大戦(1914年〜)を思い浮かべるはずです。ですが実は、その約160年前——1756年に始まった戦争で、すでに「世界規模の戦争」は起きていました。それが七年戦争です。
1756年から1763年にかけて戦われたこの戦争は、ヨーロッパだけの争いではありませんでした。北アメリカ、インド、さらにはアフリカや海上まで、世界のあちこちが戦場になったのです。だからこそ、この戦争は「史上初の世界大戦だった」とも言われています。
日本ではほとんど知られていないこの戦争が、なぜ世界史でこれほど重要なのか。そして、なぜこの戦争がのちのフランス革命やアメリカ独立にまでつながっていくのか。この記事でわかりやすくひも解いていきます。
七年戦争とは?わかりやすく解説
- 1756〜1763年、プロイセン・イギリス陣営とオーストリア・フランス・ロシア陣営が争った大戦争
- ヨーロッパ・北アメリカ・インドが舞台になった、史上初の「世界規模の戦争」とされる
- 結果、プロイセンが大国として台頭し、イギリスが世界の覇権を握った
七年戦争とは、1756年から1763年までのおよそ7年間にわたって戦われた、ヨーロッパの列強を二分する大戦争です。名前のとおり「7年」続いたことからこう呼ばれています。
対立の構図は、大きく2つの陣営に分かれていました。一方はプロイセン(現在のドイツ北東部を中心とした王国)と、それを支援するイギリス。もう一方はオーストリアを中心に、フランス・ロシアなどが結んだ大同盟です。
ここで注目したいのは、戦場がヨーロッパだけにとどまらなかったことです。当時イギリスとフランスは、北アメリカやインドといった植民地をめぐっても激しく争っていました。そのため七年戦争は、ヨーロッパの陸戦だけでなく、北米・インド・海上の戦いまでを巻き込む、まさに世界規模の戦争へと拡大していったのです。
ちょうどこのころの日本は、江戸時代の中期。田沼意次が活躍しはじめる少し前、9代将軍・徳川家重の時代にあたります。日本がまだ鎖国のさなかにあったころ、海の向こうでは世界を二分する大戦争が繰り広げられていた——そう考えると、歴史のスケールの大きさが感じられますね。

七年戦争って日本では全然聞かないけど、世界史的にはどれくらい重要なの?

めちゃくちゃ重要だよ!なにせ、ヨーロッパ・北米・インドと3つの大陸が戦場になった、「史上初の世界大戦」とも呼ばれる戦争なんだ。この戦争の結果、イギリスが世界の海と植民地を握って「日の沈まない帝国」への一歩を踏み出したし、負けたフランスは大借金を抱えて、あとのフランス革命に一直線……。世界地図が一気に塗り変わる分岐点になったんだよ。
次の章では、この大戦争がそもそもなぜ起きたのか、その2つの原因を見ていきましょう。
七年戦争が起きた2つの原因
七年戦争が起きた背景には、まったく性格の異なる2つの対立が同時に存在していました。1つはヨーロッパ内部でのオーストリアとプロイセンの領土争い、もう1つは海の外でのイギリスとフランスの植民地争いです。この2つが結びついたことで、戦争は一気に世界規模へと膨れ上がっていきました。
原因①:オーストリア vs プロイセン——シュレジエン問題
1つ目の原因は、シュレジエンという地域をめぐる争いです。シュレジエンは現在のポーランド南西部にあたる豊かな工業地帯で、もともとはハプスブルク家が治めるオーストリアの領土でした。
ところが、七年戦争の少し前に起きたオーストリア継承戦争(1740〜1748年)で、プロイセン王フリードリヒ2世がこのシュレジエンを電撃的に奪い取ってしまいます。オーストリア女帝マリア=テレジアにとって、豊かなシュレジエンを失ったことは、どうしても受け入れられない痛手でした。

宿敵と手を組んででも、シュレジエンを取り戻す——それが私の決意でした。
こうしてマリア=テレジアは「なんとしてもシュレジエンを取り返したい」という強い執念を抱くようになります。この執念こそが、七年戦争を引き起こす直接のきっかけになったとされています。
原因②:イギリス vs フランス——植民地の覇権争い
2つ目の原因は、ヨーロッパの外側で進んでいた、イギリスとフランスの植民地をめぐる争いです。18世紀のこの時代、両国は北アメリカとインドで、貿易の拠点や領土をどちらが握るかを激しく競い合っていました。
とくに北アメリカでは、イギリスの植民地とフランスの植民地が境界を接し、たびたび小競り合いが起きていました。インドでも、両国の東インド会社が現地の勢力を巻き込みながら勢力を広げようとしていました。こうした植民地での対立は、七年戦争が正式に始まる前から、すでに火種となっていたのです。

ここがポイントなんだ。「ヨーロッパでのシュレジエン争い」と「植民地でのイギリス・フランスの争い」——本来は別々のケンカだったんだけど、同盟でグループ分けされたことで、この2つが1つの大戦争に合流しちゃった。だから七年戦争は、陸でも海でも同時に戦われることになったんだよ。
では、この2つの対立を1つの大戦争に結びつけた「同盟のグループ分け」は、どのように決まったのでしょうか。次の章では、その舞台裏で起きた驚きの出来事——外交革命を見ていきます。
外交革命——同盟関係が逆転した瞬間
外交革命とは、長年にわたって敵同士だったオーストリアとフランスが手を組み、同時に、それまで組んでいたイギリスとフランスが袂を分かってイギリスがプロイセンと結んだ——という、同盟関係の大逆転を指す言葉です。1756年に成立したこの大転換によって、七年戦争の対立構図が決まりました。
七年戦争を理解するうえで、いちばんの山場となるのがこの「外交革命」です。何が「革命」なのかというと、それまでの常識だった同盟関係が、ひっくり返ってしまったからです。
もともとヨーロッパでは、オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家が、何世代にもわたる宿敵同士でした。ルイ14世の時代を含め、両家は長らくヨーロッパの覇権をめぐって争い続けてきたのです。イギリスもまた、伝統的にオーストリアと手を組み、フランスと敵対してきました。
ところが、シュレジエンを取り返したいマリア=テレジアは、宿敵フランスに接近するという大胆な決断をします。1756年、オーストリアとフランスは同盟(ヴェルサイユ条約)を結び、長年の敵対関係に終止符を打ちました。これに対抗して、イギリスは新興のプロイセンと同盟(ウェストミンスター協定)を結びます。こうして、「イギリス+プロイセン」対「フランス+オーストリア(+のちにロシアなど)」という、まったく新しい対立構図ができあがったのです。

外交革命って共通テストで出るの? どうやって覚えればいい?

頻出だよ!覚え方はシンプルで、「宿敵だったオーストリアとフランスが仲直りした」——これがいちばんの核。あわせて「イギリス+プロイセン」対「フランス+オーストリア」のセットで覚えよう。年号は1756年=外交革命&七年戦争スタートとまとめて暗記すると混乱しないよ。
この外交革命によって役者がそろい、いよいよ戦争が始まります。次の章では、ヨーロッパ戦線でのプロイセンの戦い——3方向から包囲されながらも戦い抜いたフリードリヒ大王の奮戦を見ていきましょう。
戦争の経過①——ヨーロッパ戦線とフリードリヒ大王の奮戦
1756年、プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)は、オーストリア側の同盟が完成する前に先手を打とうと、ザクセンへ侵攻します。これが七年戦争のヨーロッパ戦線の口火となりました。
しかし、プロイセンの状況は絶望的でした。西からフランス、南からオーストリア、東からロシア——ヨーロッパの大国3つに三方を囲まれ、いつ押しつぶされてもおかしくない状態だったのです。人口も国力も相手のほうが圧倒的に上で、多くの人は「プロイセンはもう終わりだ」と考えていたとされています。

ほぼ全ヨーロッパを敵に回した。それでも、私は戦い続けるしかなかった——ここで諦めれば、プロイセンという国そのものが消えてしまうのだから。
ところが、フリードリヒ2世は卓越した軍事的才能でこの絶体絶命を戦い抜きます。1757年のロスバッハの戦いではフランス・神聖ローマ帝国連合軍を、続くロイテンの戦いではオーストリア軍を、いずれも寡兵で打ち破りました。少ない兵で敵を分断し、素早く各個撃破していくその戦い方は、のちの軍事史でも語り継がれるものとされています。
とはいえ、戦争が長引くにつれてプロイセンの消耗は激しくなり、1760年ごろには首都ベルリンが一時占領されるなど、追い詰められていきます。もはや降伏も時間の問題かと思われたそのとき、思いがけない「奇跡」が起こりました。

その「奇跡」というのが、「ブランデンブルクの奇跡」と呼ばれる出来事なんだ。1762年、プロイセンを一番苦しめていたロシアで女帝エリザヴェータが亡くなって、次に即位したピョートル3世がなんとフリードリヒ大王の大ファン。ロシアはあっさり戦争から手を引いて、プロイセンと講和しちゃった。最強の敵が突然いなくなったことで、プロイセンは滅亡をまぬがれたんだよ。まさに運も味方につけた、って感じだね。
こうしてヨーロッパ戦線を粘り強く戦い抜いたプロイセン。しかし、七年戦争のもう一つの戦場は、はるか海の向こうにありました。次の章では、北アメリカとインドで繰り広げられた植民地戦線を見ていきましょう。
戦争の経過②——植民地戦線(北米・インド)
ヨーロッパでフリードリヒ大王が奮戦している間、イギリスは主戦場を海の外に定めていました。ヨーロッパ大陸ではプロイセンに資金援助をして戦わせ、自国は海軍力を活かして北アメリカとインドの植民地を奪いにいく——この戦略がみごとにはまり、イギリスは世界規模で勝利を重ねていきます。
北米:フレンチ・インディアン戦争(1754〜1763年)
北アメリカでのイギリスとフランスの戦いは、フレンチ・インディアン戦争と呼ばれます。じつはこの戦いは、ヨーロッパで七年戦争が正式に始まる1756年より前の1754年にはすでに始まっていました。北米の植民地争いがヨーロッパの大戦争に先行していたわけです。
この戦争でイギリスは、ケベックなどフランス側の重要拠点を次々と攻略し、最終的にフランスからカナダとミシシッピ川以東の広大な土地を奪い取ります。北アメリカにおけるフランスの勢力は、これによってほぼ一掃されることになりました。のちのアメリカ独立の舞台となる13植民地の背後から、フランスの脅威が消えたのです。
インド:プラッシーの戦い(1757年)——イギリスのインド支配の始まり
インドでも、イギリスとフランスの東インド会社が激突しました。その決定的な戦いが、1757年のプラッシーの戦いです。この戦いで、イギリス東インド会社の軍が、フランスと結んだベンガル太守の軍を破りました。
プラッシーの戦いの勝利によって、イギリスはインド東部のベンガル地方で圧倒的な優位を確立します。これがのちのイギリスによるインド支配の出発点になったとされ、世界史でも日本史でも重要ポイントとして扱われます。

プラッシーの戦いって、七年戦争とは別の話だと思ってた。実は同じ戦争の一部だったのね。

そうなんだ。プラッシーの戦いも、北米のフレンチ・インディアン戦争も、ぜんぶ「七年戦争という一つの大戦争の、地域ごとの戦場」ってイメージで捉えるといいよ。そうすると、バラバラに見えた出来事が一本の線でつながって、世界史の流れがぐっとわかりやすくなるんだ。
ヨーロッパでも植民地でも激しく戦われた七年戦争は、1763年にようやく終わりを迎えます。次の章では、この戦争がどんな結果をもたらしたのか——イギリスの覇権とプロイセンの台頭を見ていきましょう。
七年戦争の結果——イギリス覇権の確立とプロイセンの台頭
1763年、七年戦争は2つの条約によって正式に終結しました。1つはイギリス・フランス・スペインの間で結ばれたパリ条約、もう1つはプロイセン・オーストリアの間で結ばれたフベルトゥスブルク条約です。この2つの条約は、それぞれ別々の対立を決着させるものでした。
- フランスがカナダ・ミシシッピ川以東などの北米植民地をイギリスに割譲
- フランスがインドでの拠点を大きく失い、イギリスがインド支配の足がかりを得る
- スペインがフロリダをイギリスに割譲。イギリスの海外帝国が一気に拡大
パリ条約の結果、もっとも大きな勝者となったのはイギリスでした。北アメリカのカナダ、インドでの優位、さらにフロリダまで手に入れ、イギリスは世界中に植民地を広げる大帝国への道を歩みはじめます。のちに「日の沈まない帝国」と呼ばれる大英帝国の基礎は、この七年戦争の勝利によって築かれたとされています。
一方、ヨーロッパ大陸でのシュレジエン問題を決着させたのがフベルトゥスブルク条約です。あれほどの大同盟に囲まれながらも、プロイセンはシュレジエンを最後まで守り抜きました。この結果、プロイセンはオーストリア・フランス・イギリス・ロシアと並ぶヨーロッパの列強の一角として、確固たる地位を築くことになったのです。のちにこのプロイセンが中心となって、19世紀のドイツ統一へと歩んでいきます。

勝者は「イギリス」と「プロイセン」、って覚えるとスッキリするよ。イギリスは植民地で世界の覇権をゲット、プロイセンはヨーロッパで大国の仲間入り。逆に大きく損をしたのがフランスなんだ。植民地をごっそり失ったうえに、戦費で財政がボロボロに……。実はこの「フランスの大借金」が、あとのフランス革命につながる大事な伏線になるんだよ。
勝ったイギリス、台頭したプロイセン、そして大きく傷ついたフランス。この「フランスの傷」が、やがて世界を揺るがす大革命へとつながっていきます。次の章では、七年戦争がどのようにフランス革命を引き起こしたのか、その因果のつながりをたどっていきましょう。
七年戦争がフランス革命を引き起こした——26年後につながる因果の連鎖
七年戦争のもっとも見逃されがちな、しかし最も重大な影響——それがフランス革命へのつながりです。1763年に終わった戦争が、26年後の1789年に起きた大革命の遠因になったというのは、一見すると結びつきにくい話かもしれません。しかし、そこには「お金」というはっきりした因果の糸が通っていました。
七年戦争でフランスは、ヨーロッパでの陸戦にも、海の向こうの植民地戦争にも、莫大な戦費をつぎ込みました。ところが結果は敗北。カナダやインドの植民地を失ったうえに、戦費という巨額の借金だけが残ったのです。フランスの国家財政は、この戦争によって大きく傾いてしまいました。
さらに追い打ちをかけたのが、その後のアメリカ独立戦争への介入でした。フランスは、七年戦争で自国を打ち負かしたイギリスに仕返しをするため、アメリカの独立を支援します。この報復は成功し、アメリカは独立を勝ち取りましたが、その代償としてフランスの財政はいよいよ破綻寸前まで追い込まれてしまったのです。
📌 アメリカ独立とのつながり:イギリスもまた、七年戦争の巨額の戦費を北米植民地への課税で回収しようとしました。この課税強化が植民地側の反発を招き、アメリカ独立戦争(1775年)へとつながります。七年戦争は、フランス革命とアメリカ独立の両方の「遠因」になった——ここが世界史の大きな流れとして押さえたいポイントです。
財政を立て直すため、フランス政府は国民への課税を強めようとします。しかし、重い負担を強いられる平民たちの不満はふくらみ続け、やがて社会全体をゆるがす大きな爆発へとつながっていきました。それが、1789年に始まるフランス革命だったのです。つまり、七年戦争で生まれた「フランスの大借金」こそが、フランス革命の火種の一つになったといえます。

18世紀の戦争が、そんなに後の時代にまで影響するなんて驚き。七年戦争からフランス革命まで、実際にはどのくらいの時間軸で動いたの?

七年戦争が終わったのが1763年、フランス革命が始まったのが1789年だから、その間は26年。「戦争の借金」がすぐに爆発したわけじゃなくて、財政の悪化がじわじわ26年かけて積み重なって、最後にドカンと革命という形で噴き出したイメージなんだ。歴史のできごとは、こうやって一本の線でつながっているんだ。
七年戦争を戦い抜いた立役者、フリードリヒ大王。次の章では、この「大王」と呼ばれた人物が、いったい何者だったのかを掘り下げていきましょう。
フリードリヒ大王とは何者か——プロイセンを「大国」に育てた王
七年戦争で3方向からの包囲を戦い抜いたフリードリヒ2世は、後世にフリードリヒ大王と呼ばれることになります。じつは彼は、単なる戦争の名手ではありませんでした。「軍事の天才」「啓蒙の君主」「芸術を愛する文化人」——まったく違う3つの顔を持つ、複雑な人物だったのです。
1つ目の顔は、これまで見てきたとおりの軍事の天才です。少ない兵力で大国の軍を各個撃破していく戦術は、ヨーロッパ中を驚かせました。プロイセンを、ヨーロッパの列強と肩を並べる軍事大国へと押し上げたのは、まぎれもなく彼の指揮でした。
2つ目の顔は、啓蒙専制君主としての側面です。フリードリヒ2世は「君主は国家第一の下僕である」という有名な言葉を残し、宗教の自由を認めたり、拷問を制限したり、司法制度を整えたりと、当時としては先進的な改革を進めました。啓蒙思想の理想を、上からの改革で実現しようとした君主だったのです。
そして3つ目の顔が、芸術を愛する文化人としての姿です。彼はフルートの名手として知られ、自ら作曲もこなしました。哲学や文学にも深く親しみ、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールを宮廷に招いて交流したエピソードは有名です。戦場で剣を振るう一方で、宮殿ではフルートを吹き、哲学を論じる——そんな二面性を持った王でした。

本当は、フルートを吹き、哲学を語りながら静かに暮らしたかった。だが、私は君主だ。国を守るためなら、この手で剣を取るしかない——理性の時代に生きながら、剣を手放せなかった。それが私の運命だったのだ。

「啓蒙専制君主」っていうのは、今でいう「理想を持ったトップダウンの改革者」みたいなイメージだよ。国民の声を聞く民主主義とは違って、王が「上から」国をよくしようとするタイプの君主なんだ。フリードリヒ2世は、その代表的な人物として世界史の教科書に必ず登場するよ。ちなみに、同じ啓蒙専制君主にはロシアのエカチェリーナ2世やオーストリアのヨーゼフ2世もいるから、セットで覚えておくとテストで役立つよ。
ここまで七年戦争の流れとフリードリヒ大王の人物像を見てきました。もっと深く知りたくなった人のために、次の章ではおすすめの本を紹介します。
おすすめ本——七年戦争・フリードリヒ大王をもっと深く知るために

七年戦争やフリードリヒ大王についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を3冊紹介するよ!
フリードリヒ2世(大王)の生涯を、軍事と啓蒙の両面から追った中公新書です。七年戦争で三方を囲まれながら戦い抜いた指揮官としての顔と、「君主は国家第一の下僕である」と語った啓蒙専制君主としての顔——この2つが同じ一人の人物のなかでどうつながっていたのかを読み解いていきます。新書1冊で人物像をつかみたい人にちょうどよい分量です。
七年戦争を「フリードリヒ大王という人物」から理解したい人。新書サイズで一気に読み通したい高校生・社会人。
戦争そのものの経過を作戦レベルで追いたい人。本書は人物評伝が中心で、戦役の細かな記述は多くありません。
山川出版社の「世界史リブレット人」の1冊で、100ページ足らずの薄さながら、研究の到達点をふまえた記述が読めます。「祖国」と「寛容」という2つのキーワードから、プロイセンという国家がどうつくられたのかを整理してくれるので、教科書の記述と大学入試の論述をつなぐ橋渡しに向いています。
高校世界史の教科書レベルから一歩踏み込みたい人。論述対策でフリードリヒ2世の位置づけを整理したい受験生。
物語として読み物のように楽しみたい人。簡潔で学術寄りの文体なので、エピソード中心の本を探している人には向きません。
七年戦争のもう一方の主役、オーストリアのマリア=テレジアと息子ヨーゼフ2世を扱った同じシリーズの1冊です。シュレジエンを奪われた側が何を考え、宿敵フランスと手を結ぶ外交革命にどう踏み切ったのか。プロイセン側の本と読み比べると、七年戦争の構図が立体的に見えてきます。
フリードリヒ大王の本とセットで、オーストリア側の事情まで押さえたい人。外交革命の背景を深く知りたい人。
まず七年戦争の流れだけを短時間でつかみたい人。本書はハプスブルク家の統治改革が主題で、戦争の記述は限られます。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:2つの終結条約を相手方で区別しよう。「パリ条約=英仏間(植民地の処理)」「フベルトゥスブルク条約=オーストリア・プロイセン間(シュレジエン確定)」。外交革命は「仏墺同盟成立=ヴェルサイユ条約(1756年)」とセットで、七年戦争の開始年とまとめて暗記すると混乱しません。

パリ条約とフベルトゥスブルク条約、いっつも混同しちゃう……。どうやって区別すればいいの?

「舞台」で分けるのがコツだよ。パリ条約は、大西洋をまたいだ「海外植民地」の決着——イギリスとフランスが北米やインドの取り分を決めた条約。一方のフベルトゥスブルク条約は、ヨーロッパ大陸内の「シュレジエン問題」の決着——プロイセンとオーストリアの土地争いのケリをつけた条約なんだ。「海の外=パリ」「大陸内=フベルトゥスブルク」って覚えれば、もう迷わないよ。
七年戦争に関するよくある質問
七年戦争(1756〜1763年)は、プロイセン・イギリス陣営と、オーストリア・フランス・ロシア陣営が争った大戦争です。戦場はヨーロッパだけでなく、北アメリカやインドの植民地にも広がりました。3大陸を巻き込んだことから「史上初の世界規模の戦争」とも呼ばれています。
外交革命(1756年)とは、長年の宿敵だったオーストリアとフランスが同盟(ヴェルサイユ条約)を結び、同時にイギリスとプロイセンも同盟(ウェストミンスター協定)を結んだ、同盟関係の大逆転を指します。これによって、七年戦争の「英+プロイセン 対 仏+オーストリア」という対立構図が決まりました。
七年戦争は、ヨーロッパの陸戦だけでなく、北アメリカ(フレンチ・インディアン戦争)やインド(プラッシーの戦い)といった植民地でも同時に戦われたためです。ヨーロッパ・北米・インドという複数の大陸を舞台にしたことから、1914年の第一次世界大戦よりはるか前に起きた「史上初の世界規模の戦争」とみなされることがあります。
最も得をしたのはイギリスとプロイセンです。イギリスはパリ条約でカナダやインドでの優位を獲得し、世界的な植民地覇権への足がかりを築きました。プロイセンはシュレジエンを守り抜き、ヨーロッパの列強の一角として定着しました。逆に、フランスは植民地を大量に失い、財政も大きく傾く結果になりました。
七年戦争でフランスは莫大な戦費を費やしたうえに敗北し、財政が大きく傾きました。その後のアメリカ独立戦争への介入でさらに財政が悪化し、国民への課税強化が民衆の不満を高めます。この不満が積み重なったことが、1789年のフランス革命につながる遠因の一つになったとされています。
フリードリヒ2世(フリードリヒ大王、在位1740〜1786年)はプロイセン国王です。少ない兵で大国の軍を打ち破る軍事的才能を持つ一方、宗教の自由を認めるなど先進的な改革を進めた「啓蒙専制君主」でもありました。フルートを愛する文化人という一面もあり、七年戦争での粘り強い戦いから「大王」と呼ばれるようになりました。
まとめ——七年戦争で世界はどう変わった?
七年戦争は、日本ではあまり知られていないものの、世界史の流れを大きく変えた重要な戦争でした。最後に、この記事のポイントをふり返っておきましょう。
-
1740年オーストリア継承戦争開始・プロイセンがシュレジエンを奪取
-
1756年外交革命(ヴェルサイユ条約・ウェストミンスター協定)・七年戦争開始
-
1757年プラッシーの戦い——イギリスがインド支配の足がかりを得る
-
1757年ロスバッハの戦い・ロイテンの戦い——フリードリヒ大王が連勝
-
1762年ブランデンブルクの奇跡——ロシアが戦線離脱
-
1763年パリ条約・フベルトゥスブルク条約締結——七年戦争終結
-
1775年アメリカ独立戦争開始(七年戦争の戦費課税が遠因)
-
1789年フランス革命開始(七年戦争によるフランス財政悪化が遠因)

以上、七年戦争のまとめでした!外交革命・プラッシーの戦い・パリ条約のセットをしっかり押さえておこう。そして、フランス革命との因果連鎖まで見えてくると、世界史のできごとが一本の線でつながる面白さが味わえるはずだよ。下の記事でフランス革命やハプスブルク家の歴史もあわせて読んでみてね!
📅 最終確認:2026年7月 / 参照:山川出版『詳説世界史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「七年戦争」(2026年7月確認)
Wikipedia日本語版「外交革命」(2026年7月確認)
コトバンク「七年戦争」(ブリタニカ国際大百科事典・日本大百科全書)
コトバンク「フリードリヒ2世」(日本大百科全書)
山川出版社『詳説世界史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
Amazonのアソシエイトとして、まなれきドットコムは適格販売により収入を得ています。





