
今回は幕末の14代将軍・徳川家茂について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「地味な将軍」って思われがちだけど、実は幕末でいちばん人望のある将軍だったんだ。一緒に見ていこう!
「幕末の将軍」といえば、徳川慶喜の影に隠れてしまいがちな徳川家茂。しかし、勝海舟はその死を聞いて「徳川家、今日滅ぶ」と日記に記しました。実は、家茂こそが幕末最大の人望を持ち、もしあと数年生きていれば歴史が変わっていたかもしれない——悲劇の将軍だったのです。
徳川家茂とは?
- 江戸幕府第14代将軍(在職1858〜1866年)。数え13歳で就任し、幕末の激動を生きた
- 公武合体策で皇女・和宮と結婚。夫婦仲は非常に良く、和宮は深く哀悼した
- 長州征討の遠征中、大坂城で脚気により数え21歳で死去。勝海舟が「徳川家、今日滅ぶ」と嘆いた
徳川家茂は、1846年(弘化3年)に生まれ、1866年(慶応2年)に亡くなった、江戸幕府の第14代将軍です。もともとは御三家のひとつ・紀州徳川家の藩主で、慶福と名乗っていました。それが13代将軍・家定の後継者に選ばれ、将軍になったのです。
家茂が将軍だった時代は、ちょうど黒船来航(1853年)のあとの大混乱期。開国するか攘夷(外国を打ち払う)かで国じゅうが揺れ、幕府の力が一気に弱まっていく——そんな幕末のド真ん中でした。
そんな難しい時代に、家茂はわずか数え13歳で将軍となり、20歳そこそこで世を去ります。在職はおよそ8年。短い生涯でしたが、その人柄と決断力で、勝海舟をはじめ多くの人に惜しまれました。

徳川家茂って、なんか地味なイメージがあるんだけど……将軍として何かしたの?

地味なんかじゃないよ!勝海舟が「この将軍がいなくなったら幕府は終わりだ」って嘆いたくらい、めちゃくちゃ人望があった人なんだ。13歳で将軍になって、21歳で亡くなる……そのドラマチックな生涯を、これから一緒に見ていこう!
幼少期——4歳で家督を継いだ孤独な紀州藩主
徳川家茂が生まれたのは1846年。父は紀州徳川家の当主・徳川斉順で、家茂は江戸の紀州藩邸で生まれ、幼名を菊千代といいました。父・斉順は家茂が生まれる直前に亡くなっていたため、家茂は1849年、叔父にあたる斉彊の養子となり、わずか4歳で紀州藩の藩主を継ぐことになります。
4歳といえば、まだ甘えたい盛りの子ども。それが「藩主」という55万石もの大藩のトップに据えられたのです。もちろん実際の政治は家臣たちが代行しましたが、幼くして大きな看板を背負わされた孤独は、想像にあまりあります。
📌 紀州徳川家とは、御三家(尾張・紀州・水戸)のひとつ。将軍家に後継ぎがいないときに将軍を出す「控えの間」的な存在です。8代将軍・徳川吉宗もこの紀州家の出身でした。

4歳で藩主か……まわりは大人ばかりで、ちょっと寂しいな。甘いお菓子だけが、ぼくの味方だよ。
紀州藩主時代の慶福(のちの家茂)は、聡明で素直な少年だったと伝えられます。後年まで続く甘いもの好きも、おそらくこの幼少期に育まれたもの。寂しさを菓子で紛らわせていた——そんな姿が目に浮かびます。やがてこの少年が、思いもよらず日本の頂点・将軍の座へと押し上げられていくのです。
将軍継嗣問題と14代将軍への就任
13代将軍・徳川家定は病弱で、子どもがいませんでした。そこで「次の将軍を誰にするか」をめぐって、幕府の中で大きな対立が起こります。これが将軍継嗣問題です。
対立したのは、次の2つのグループでした。
南紀派 vs 一橋派の対立ポイント
南紀派(井伊直弼ら):血筋を重視 → 家定に血が近い紀州藩主・慶福(家茂)を推す
一橋派(徳川斉昭・薩摩藩ら):難局を乗り切れる有能さを重視 → 一橋慶喜を推す
1858年(安政5年)、大老となった井伊直弼が主導し、慶福を14代将軍に決定。慶福はこのとき名を「家茂」と改めました。さらに井伊は、反対した一橋派の大名や志士たちを次々と処罰します。これが安政の大獄です。こうして家茂は、わずか数え13歳で将軍の座に就いたのです。

南紀派と一橋派って、何がそんなに違ったの?どっちも徳川家のことを考えてたんじゃないの?

「南紀=血筋・家茂」「一橋=実力・慶喜」って対で考えよう!南紀派は「将軍家に血の近い人を立てるべき」という考え方、一橋派は「こんな激動の時代、頭のいい人でないと無理」という考え方なんだ。井伊直弼が南紀派のボスで、安政の大獄で一橋派を徹底的につぶしたんだよ。
公武合体と和宮の降嫁
家茂が将軍だった時代、世の中では「天皇を敬い、外国を打ち払え」という尊王攘夷運動が激しさを増していました。井伊直弼が桜田門外の変(1860年)で暗殺されると、幕府の権威はガタ落ち。そこで幕府が打ち出したのが公武合体策でした。
📌 公武合体とは、「公」=朝廷(天皇家)と「武」=幕府が手を結んで、国難(開国・外圧)に対処しようとする政策です。今でいう「対立していた与党と野党が、危機のときだけ手を組む大連立」みたいなイメージ。
その目玉となったのが、和宮の降嫁です。和宮は孝明天皇の妹にあたる皇女。その和宮を家茂の妻に迎えることで、「朝廷と幕府はひとつ」という姿を世間に示そうとしたのです。1862年(文久2年)、和宮は京都から江戸へと下り、家茂のもとへ嫁ぎました。
とはいえ、これは完全な政略結婚。和宮には京都に決まった許婚(いいなずけ)もいました。「武家になど嫁ぎたくない」「京都に帰りたい」——江戸へ向かう和宮の心は、当初は反発でいっぱいだったと伝えられます。ところが、この結婚が思いがけず温かいものになっていくのです。
和宮との夫婦仲——相思相愛になった理由
政略結婚として始まった家茂と和宮。ところが二人の仲は、しだいに驚くほど睦まじいものになっていきました。鍵を握ったのは、家茂の細やかな気配りです。
家茂は和宮の好みをよく気にかけ、京都の上方文化に合わせた品々を用意したり、好物の甘いものを贈ったりしました。京都育ちで江戸の暮らしに馴染めずにいた和宮にとって、こうした心づかいは何よりの慰めだったでしょう。年齢も近く(家茂が1歳ほど年下)、二人は互いに心を開いていきました。

和宮どのに京の菓子をおくったよ!気に入ってもらえたかな……喜んでもらえるなら、何でも探してくるのに。
家茂が第二次長州征討のために江戸を発つとき、和宮は涙を流して見送ったと伝えられます。家茂はそんな和宮の手をそっと握り、「必ず帰ってくる」と約束したといいます。その言葉が最後の別れになろうとは、誰も思っていなかったでしょう。家茂が上洛で江戸を離れるときには、和宮が無事を祈る歌を贈ったとも伝えられます。そして家茂が亡くなったあと、和宮はその死を深く嘆き、生涯にわたって夫を弔い続けました。和宮が詠んだとされる哀悼の歌は、二人の絆の深さを今に伝えています。政略結婚から始まった夫婦が、最後には相思相愛と言えるほどの関係になっていた——これが幕末を彩る、ひとつの美しいエピソードなのです。

政略結婚なのに仲が良かったなんて、すごく意外!和宮はどんな気持ちで江戸に来たんだろう?

最初は「嫌だ、京都に帰りたい」って気持ちだったんだ。でも家茂が優しくて……好きなお菓子を持ってきてくれたり、細やかに気にかけてくれたりして、だんだん心が開いていったんだよ。甘いものが二人の橋渡しになったって、なんかいいよね!
229年ぶりの上洛と勝海舟との出会い
1863年(文久3年)、家茂は将軍として京都へ上りました。これは229年ぶりの将軍上洛という大きな出来事でした。なぜ「229年ぶり」がそんなに重要なのか——それは、長らく「幕府は朝廷より上」という関係が続いていたことを意味するからです。その将軍がわざわざ京都へ出向くというのは、幕府の力が弱まり、朝廷の発言力が強まったことの証でもありました。
📌 「229年ぶり」の意味:前回の将軍上洛は、3代将軍・徳川家光(1634年の上洛)のことです。それ以降、将軍が京都へ出向くことはほぼなくなり、「朝廷より幕府が上」という構図が長く保たれていました。家茂の上洛は、その時代の終わりを象徴する出来事だったのです。
この上洛をめぐる旅や海防の議論のなかで、家茂は幕臣・勝海舟と深く関わります。勝海舟は当時、日本の海軍を一から築こうと奔走していました。家茂は勝の進言を受け、神戸に海軍士官を育てる海軍操練所を設けることを決断します。若い将軍のすばやい判断に、勝海舟は強く感心したと伝えられます。

この若い将軍は、見込みがある……「神戸に海軍を作りたい」と申し上げたら、すぐに「やってくれ」とおっしゃった。こんなに腹の据わった将軍は、滅多にいるものではない。
上洛中の京都は、攘夷を叫ぶ志士たちであふれ、政治情勢は一触即発でした。そんな緊張のなかで、家茂は幕府の威信をかけて朝廷との関係修復に努めます。短い在京でしたが、若き将軍が必死に時代と向き合った日々でした。次の章では、その家茂を待ち受けていた、あまりにも早い最期を見ていきます。
長州征討と大坂城での最期
幕末、幕府にとって最大の頭痛の種が長州藩でした。激しい攘夷運動の中心となった長州を抑えるため、幕府は二度にわたって長州征討(長州征伐)を行います。家茂はその総大将として、自ら大坂城に入って指揮を執りました。
しかし第二次長州征討(1866年)の前後、長州は薩長同盟を結んで薩摩藩と手を組んでいました。装備でも勢いでも劣った幕府軍は各地で苦戦します。そんな最中、家茂の体を病が蝕んでいきました。死因は脚気。当時は原因不明の難病でしたが、現代でいうビタミンB1の欠乏症です。1866年7月20日、家茂は大坂城で数え21歳の若さで世を去りました。

まだ、やらねばならぬことがある……和宮どのに、もう一度会いたかった。
家茂死去の報は、幕府にとって大きな打撃でした。とりわけ深く嘆いたのが勝海舟です。勝はこの日の日記に「徳川家、今日滅ぶ」と書き記したと伝えられます。家茂という人望ある将軍を失ったことが、幕府そのものの終わりを意味する——勝はそう感じ取っていたのです。

……徳川家、今日滅ぶ。あの方がいなくなって、これから幕府はどうなるんだ。
「徳川家、今日滅ぶ」——勝海舟が家茂の死に際して記したと伝わる言葉
家茂のあとを継いで15代将軍となったのが、かつて将軍候補を争った一橋慶喜(徳川慶喜)でした。そして慶喜の代の1867年、大政奉還によって江戸幕府は幕を下ろします。勝の予言どおり、家茂の死は幕府の終わりの始まりだったのです。
徳川家茂の死因——脚気と虫歯だらけの歯の関係
家茂の死因である脚気は、ビタミンB1が不足することで起こる病気です。足がむくみ、動悸がして、ひどくなると心臓が弱って亡くなります。当時は原因がわからず、江戸の上流階級を中心に多くの人が苦しめられた病でした。
なぜ将軍が脚気になったのか。鍵は食生活にあります。家茂をはじめ江戸城の人々は、ビタミンB1を多く含む玄米ではなく、精白した白米を主食にしていました。さらに家茂は無類の甘いもの好き。後年、家茂の遺骨を調査したところ、残っていた31本の歯のうち30本までが虫歯だったことがわかっています。これは甘いものをいかに大量に食べていたかを物語る証拠です。
甘いもの・精白米中心の食事 → ビタミンB1が不足 → 末梢神経や心臓が弱る → 足がむくむ・動悸・衰弱 → 脚気で死去
現代でいえば、コンビニ食やスイーツばかりで野菜やバランスを欠いた食生活に近いイメージです。当時は「白米こそ贅沢な食事」と考えられ、ビタミンB1が豊富な玄米を将軍が食べることはほとんどありませんでした。

歯がほとんど虫歯って、想像するとちょっと痛そう……。甘いものが死につながっちゃうなんて、こわいね。

チョコや羊羹、砂糖菓子が大好物で、ブラッシングの習慣もない時代……ちょっとかわいそうだよね。でも、この「甘いもの好き」が家茂の人柄をよく表しているとも言えるんだ。次の章ではその性格を見ていこう!
徳川家茂の性格——スイーツ好きの甘えん坊将軍
家茂の人柄は、ひとことで言えば「温厚で気配りのできる、優しい将軍」でした。激しい権力闘争が渦巻く幕末にあって、家茂が周囲に見せたのは威圧でも策略でもなく、細やかな思いやりだったのです。和宮との夫婦仲が良かったのも、勝海舟が深く慕ったのも、すべてはこの人柄あってのことでした。
そして家茂を語るうえで欠かせないのが、なんといっても甘いもの好き。羊羹や金平糖、砂糖菓子に目がなく、義母にあたる天璋院(篤姫)や和宮にも、好物の菓子を贈っていたと伝えられます。また、開国後に日本へ入ってきたチョコレートをたいへん気に入り、大量に取り寄せたという逸話も残っています。そしてスイーツだけでなく動物も大好きで、城の庭で小鳥や小動物と戯れる姿が目撃されたとも伝わります。「甘えん坊将軍」——そう呼びたくなるような、親しみやすい人物だったのです。

「甘えん坊将軍」って聞くと最初はちょっと笑えるんだけど、でもさ……4歳でまわりは大人ばかり、13歳で将軍になって、激動の幕末を背負って……甘いものに癒しを求めるのは、当然かもしれないよね。

知れば知るほど、家茂って魅力的な人ね。21歳で亡くなったなんて、本当にもったいない……。

そうなんだよ。「地味な将軍」どころか、知れば知るほど好きになっちゃう人なんだ。次は家茂についてよくある疑問をまとめたよ!
徳川家茂をもっと深く知るためのおすすめ本
徳川家茂や和宮、そして幕末の将軍たちの実像をもっと知りたくなった方へ。ここでは、家茂や幕末をより深く味わえるおすすめの本を紹介します。

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よくある質問(FAQ)
13代将軍・家定に子がなく、後継をめぐって南紀派と一橋派が対立しました。大老・井伊直弼が主導する南紀派が勝利し、家定に血が近い紀州藩主・慶福(のちの家茂)が選ばれたためです。井伊は安政の大獄で一橋派を弾圧しました。
最初は政略結婚で距離がありましたが、家茂の細やかな気配りによって次第に良好な関係になったと伝えられます。和宮は家茂の死後もその死を深く嘆き、生涯にわたって弔い続けました。哀悼の和歌も残されています。
脚気(ビタミンB1欠乏症)です。1866年7月20日、第二次長州征討の最中に大坂城で数え21歳で亡くなりました。甘いもの好きと精白米中心の食生活が一因と考えられています。遺骨調査では残っていた31本の歯のうち30本が虫歯だったことも判明しています。
3代将軍・家光が1634年に上洛して以来、229年間も将軍が京都に来ていなかったことを指します。1863年(文久3年)に家茂が上洛したのは、幕府の権威が弱まり、朝廷の発言力が強まったことを象徴する出来事でした。
家茂が、幕府内でも珍しく即断力と人望を兼ね備えた将軍だったためです。その死は幕府そのものの終わりを象徴すると勝海舟は感じ取り、嘆きの言葉として日記に記したと伝えられます。実際、家茂の死の翌年に幕府は大政奉還で終焉を迎えました。
温厚で気配り上手、そして無類の甘いもの好き・動物好きとして知られます。激動の幕末にあって周囲に優しく、勝海舟からは「これほど腹の据わった将軍はめったにいない」と評されました。和宮との夫婦仲が良かったのも、この人柄ゆえと言われます。
まとめ
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1846年江戸で誕生(のちに紀州藩主・徳川慶福となる)
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1849年紀州徳川家の家督を継承し、4歳で紀州藩主となる
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1858年安政5年:将軍継嗣問題で南紀派が勝利。第14代将軍に就任し「家茂」に改名
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1862年文久2年:公武合体策として孝明天皇の妹・和宮と結婚(和宮降嫁)
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1863年文久3年:229年ぶりに将軍上洛。神戸海軍操練所の設置を決定
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1864年元治元年:禁門の変ののち第一次長州征討が始まる
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1865年慶応元年:第二次長州征討の準備のため再び上坂、大坂城に滞在
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1866年慶応2年:薩長同盟成立後、第二次長州征討で幕府軍が苦戦。脚気が悪化
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1866年7月大坂城にて脚気により死去。数え21歳。勝海舟が「徳川家、今日滅ぶ」と記したと伝わる
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1866年12月徳川慶喜が15代将軍に就任。翌年、大政奉還で江戸幕府が終わる

以上、徳川家茂のまとめでした!「地味な将軍」なんかじゃなく、幕末で最も惜しまれた悲劇の将軍だったよ。下の記事で幕末の流れや、ほかの幕末人物もあわせて読んでみてください!

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「徳川家茂」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「和宮親子内親王」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「神戸海軍操練所」(2026年6月確認)
コトバンク「徳川家茂」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「和宮降嫁」(国史大辞典・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
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