

今回は榎本武揚について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!五稜郭で幕府軍を率いた反乱軍のリーダーが、なぜ明治政府の大臣になれたのか?その謎を一緒に解いていこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
五稜郭で幕府軍を率いて新政府に抵抗した「反乱軍のリーダー」が、降伏後にそのまま明治政府の大臣になった——。そんな人物が歴史上に存在したことを知っていますか?
普通に考えれば、政府に逆らった敗軍の将は処刑される運命です。ところが実は、榎本武揚は敵将・黒田清隆を感動させた”ある行動”によって処刑を免れただけでなく、その後は日本の近代化を支える最重要人物の一人へと変身を遂げたのです。
「敵だったのに、なぜ大臣に?」——この記事では、その答えを軸にしながら、榎本武揚という人物の生涯をわかりやすく追いかけていきます。
榎本武揚とはどんな人?
① 幕府に仕える幕臣の家に生まれ、オランダに留学して軍艦・開陽丸を持ち帰った幕府海軍の俊英。
② 戊辰戦争では五稜郭に立てこもり「蝦夷共和国」を打ち立てたが、敵将・黒田清隆の嘆願で処刑を免れた。
③ その後は明治政府に迎えられ、樺太・千島交換条約の交渉や北海道開拓に尽くし、複数の大臣を歴任して近代日本の礎を築いた。
榎本武揚は、天保7年(1836年)、江戸の下谷御徒町に生まれました。幼名は釜次郎といいます。
父は幕府に仕える幕臣(御徒目付)でしたが、榎本は次男でした。長男ではないため、本来なら家督を継ぐ立場にはありません。この「次男」という立場が、かえって彼を自由な学びへと向かわせます。
※幕臣(御徒目付)とは、幕府の組織に仕える武士のことです。旗本よりは格は下でしたが、将軍家に直接奉公する幕府の内側の人間でした。
幕末という激動の時代に、榎本は西洋の最新の学問を吸収し、やがて幕府海軍を背負う若きエリートへと成長していきました。そして時代が幕府から明治へと移り変わるなかで、「最後まで幕府とともに戦った男」として、また「明治政府を支えた外交官・大臣」として、二つの顔を持つことになります。
満72歳で亡くなる明治41年(1908年)まで、彼の人生はまさに「幕末から近代日本へ」という大転換そのものを体現していたのです。


大河ドラマでよく名前を聞くけど、榎本武揚って結局どんな人なの?幕末の人?明治の人?

実は「両方!」なんだよ。幕末に五稜郭で戦い、そのまま明治でも大活躍した珍しいタイプなんだ。一言でいえば「時代の波を乗り越えた実用主義者」だね。負けてもしぶとく、新しい日本のために働き続けた人なんだよ。
若き日の榎本武揚:幕臣の次男からオランダ留学へ
榎本は子どものころから学問の才能にあふれていました。まず江戸の昌平坂学問所で儒学などの伝統的な学問を学びます。
※昌平坂学問所とは、幕府が運営した最高学府のことです。今でいう「国立のエリート大学」のようなイメージですね。
しかし榎本が本領を発揮するのは、ここからです。19歳のとき、幕府が長崎に開いた海軍伝習所に入り、オランダ人教官から航海術や西洋の科学技術を学びました。
当時の日本は、ペリー来航(1853年)をきっかけに「西洋に追いつかなければ国が危ない」という空気に包まれていました。海に囲まれた日本にとって、近代的な海軍をつくることは最優先の課題だったのです。榎本はその最前線で学ぶ、選ばれたエリートでした。
そんな彼の優秀さを見込んだ幕府は、ついに大きなチャンスを与えます。それが、オランダへの留学でした。
榎本は文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)まで、約5年間オランダに留学しました。目的は、幕府がオランダに発注した新しい軍艦を受け取り、それを日本まで運んでくることです。
その間、榎本は造船技術・航海術・砲術といった軍事技術だけでなく、国際法(万国公法)まで深く学びました。当時の日本人としては、世界の最先端をじかに吸収した数少ない人物だったのです。
5年間の留学で、榎本は単なる軍人にとどまらない、幅広い知識を身につけました。船の造り方も、戦い方も、そして「国と国とのルール」である国際法も理解していたのです。
とくにこの国際法の知識は、後に彼の運命を大きく左右することになります。この時点ではまだ誰も気づいていませんが、ここで学んだ「万国公法」が、のちに榎本の命を救う伏線になっていくのです。

ここでの「万国公法を学んだ」っていうのが、後でめちゃくちゃ大事になるんだ。記事の後半でその理由がわかるから、ぜひ覚えておいてね!
開陽丸を率いて:幕府海軍の精鋭として
慶応3年(1867年)、榎本はオランダで完成した最新鋭の軍艦開陽丸を率いて、日本に帰国しました。
開陽丸は、当時の日本ではもっとも強力な軍艦でした。全長72.8メートル・排水量2590トン・大砲26門を備えたこの船は、蒸気機関と帆を組み合わせた最新設計で、まさに幕府海軍の切り札です。「この1隻さえあれば、新政府軍に決して負けない」——榎本がそう信じるのも無理はない、圧倒的な戦力でした。榎本はこの自慢の艦を率いる立場として、幕府海軍のなかで一気に頭角を現していきました。
やがて榎本は幕府海軍副総裁という、海軍のナンバー2にまで昇りつめます。30代前半の若さでこの地位に就いたことからも、彼への期待の大きさがうかがえます。


開陽丸って教科書でもチラッと見たけど、そんなにすごい船だったの?

すごかったよ!今でいう「最新鋭のイージス艦」みたいな存在だね。これ1隻で戦況をひっくり返せるくらいの主力艦だったんだ。だからこそ、榎本はこの船を新政府に渡したくなかったんだよ。
しかし時代は、幕府に味方しませんでした。慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見での戊辰戦争が始まり、新政府軍が次々と旧幕府勢力を打ち破っていきます。15代将軍・徳川慶喜は江戸城を明け渡し、旧幕府は事実上の降伏状態となりました。
新政府は、旧幕府の軍艦をすべて差し出すよう求めます。しかし榎本は、開陽丸をはじめとする艦隊を簡単に手放すことをよしとしませんでした。「旧幕臣たちの行き場を確保したい」という思いから、彼は艦隊を率いて品川沖を脱出します。
目指すは北の大地、蝦夷地(北海道)。榎本は、幕府に仕えた人々が新しく暮らせる居場所を北海道に築こうと考えたのです。こうして、彼の人生最大の戦いの舞台が整っていきました。
五稜郭の戦いと蝦夷共和国の建国
明治元年(1868年)の秋、榎本の率いる旧幕府軍は蝦夷地に上陸しました。そして新政府軍がまだ十分に展開していなかった隙をついて、函館とその拠点である五稜郭を占領します。
※五稜郭とは、函館にある星形をした西洋式の城(要塞)のことです。当時としては最新の防御施設でした。
このとき榎本のもとには、新撰組の副長として知られる土方歳三も合流していました。京都で新撰組を率いた歴戦の剣客と、オランダ仕込みの海軍エリート——タイプはまるで違いますが、二人は「最後まで幕府とともに」という一点で固く結ばれていました。
こうして旧幕府軍は蝦夷地の大部分を支配下に置きます。そして榎本たちは、ここで前代未聞の行動に出るのです。
■蝦夷共和国:日本最初の民主的な手法による総裁選挙
蝦夷地を制圧した榎本たちは、独自の政権を打ち立てました。これがのちに蝦夷共和国と呼ばれる勢力です。
驚くべきは、この政権の指導者を決める方法でした。榎本たちは、なんと投票(入札)によって総裁などの役職を選んだのです。これは「日本で最初の民主的な選挙」とも言われ、しばしば注目されるエピソードです。
投票の結果、榎本武揚が総裁に、松平太郎が副総裁に選ばれました。当時の日本では、リーダーは生まれや身分で決まるのが当たり前。それを「みんなの投票で選ぶ」という発想は、極めて異例だったのです。
ただし、注意したい点もあります。この選挙で投票できたのは旧幕府軍の幹部たちだけで、一般の人々が参加したわけではありません。そのため「現代のような普通選挙」とは性格が異なります。それでも、選挙でリーダーを選んだという事実は、榎本たちがオランダ仕込みの西洋的な発想を持っていたことをよく示しています。
📌 蝦夷共和国の「選挙」:投票によって総裁(榎本武揚)・副総裁(松平太郎)らが決まった。選挙で国のリーダーを選ぶという発想は、当時の日本では極めて異例だった。ただし投票したのは旧幕府軍の幹部に限られ、現代の普通選挙とは別物である点に注意。なお「蝦夷共和国」という呼び名は後世のもので、当時の正式な国家として国際的に承認されたわけではない。

負けそうな状況なのに、わざわざ選挙までして国を作ったのね。榎本ってどういう気持ちだったのかしら?

榎本は「ただの反乱」じゃなく、「行き場を失った旧幕臣たちの新しい居場所をつくる」という理想を持っていたんだ。だから、ちゃんとした手続きでリーダーを選ぼうとしたんだね。西洋を見てきた榎本らしい発想だよ。
■五稜郭の戦い:土方歳三と共に戦った最後の決戦
しかし、蝦夷共和国の運命は長くは続きませんでした。態勢を立て直した新政府軍が、明治2年(1869年)の春から本格的な反攻を開始します。
頼みの綱だった開陽丸は、その前年(明治元年11月)に江差沖で暴風雪によって座礁・沈没しており、すでに失われていました。海の戦力で劣る旧幕府軍は、しだいに追い詰められていきます。
明治2年5月、土方歳三は新政府軍との戦いのなかで銃弾に倒れ、戦死しました。最後まで武士として戦い抜いた土方の死は、旧幕府軍にとって大きな痛手となります。

追い詰められた榎本は、ついに降伏を決断します。部下たちの命を無駄に散らせたくない——その思いが、彼を冷静な判断へと導きました。明治2年5月18日、榎本は五稜郭を開城し、新政府軍に降伏したのです。これにより、約1年半にわたった戊辰戦争は完全に終わりを告げました。

この万国公法の本だけは、灰にするには惜しい……。黒田さん、これを日本のために役立ててくれ。俺は死んでもかまわないが、これだけは未来に残したいんだ。

この「降伏前夜に万国公法の本を敵に贈った」という行動が、榎本の運命を大きく変えるんだ。普通なら処刑される立場なのに……次の章で、その理由をくわしく見ていこう!
なぜ処刑されなかったのか?:黒田清隆との「万国公法」エピソード
政府に逆らった敗軍の将——本来であれば、榎本は処刑されてもおかしくありませんでした。実際、新政府の内部には「榎本を厳しく処罰すべきだ」という強硬な意見も多かったのです。
ところが、榎本は処刑を免れます。その鍵を握っていたのが、新政府軍の参謀として箱館に攻め込んでいた黒田清隆でした。
降伏の直前、榎本は自分がオランダ留学中に学んだ貴重な国際法の書物(「万国海律全書」など)を、敵である黒田のもとへ送り届けました。「自分は死ぬかもしれないが、この知識は新しい日本に必ず役立つ。だから戦火で失うのは惜しい」という思いからの行動でした。
この行動に、黒田は深く心を打たれます。敵でありながら、自分の命よりも「日本の未来」を優先する榎本の見識と人柄に、黒田は「こんな人材を死なせてはならない」と確信したのです。
黒田は、自らの頭を丸めてまで榎本の助命を新政府に嘆願しました。その熱意もあって、榎本は処刑をまぬがれ、約2年半の入獄を経て、明治5年(1872年)に特赦によって釈放されることになります。

なお、約2年半の入獄中も、榎本の探究心はまったく衰えませんでした。牢内で採集した小動物を観察・研究し、その成果を外部に論文として発表したと伝えられています。「敵の将軍でも、こんな人物を死なせてはもったいない」——黒田の直感は、まさに正しかったのです。
万国公法とは、国と国とが守るべきルール、つまり国際法のことです。幕末から明治にかけて、欧米列強と対等に付き合うために、日本にとって絶対に必要な知識でした。
当時、これを実際に理解している日本人はごくわずか。榎本はオランダ留学でこの最先端の知識を身につけており、それを「自分が処刑される前に日本へ残したい」と考えたのです。この見識こそが、彼の命を救う決定打となりました。

昨日の敵だろうが、今日の味方だろうが関係ない。日本のためになるなら、俺はなんでもやるよ。

「殺すには惜しい」って、黒田清隆は榎本の何がそんなにすごいと思ったのかしら?

黒田が感動したのは「敵なのに、自分の命より日本の未来を大事にする心」だよ。これからの日本には、こういう国際感覚を持った人材が絶対に必要だ——黒田はそう見抜いたんだ。そしてこの判断は大正解だったんだよ!
明治政府での活躍:敵から大臣へ
明治5年(1872年)、特赦によって牢から出た榎本武揚は、すぐに新政府に登用されます。つい数年前まで敵だった人物を、明治政府は重要な役職に迎え入れたのです。
これには、助命を嘆願した黒田清隆の強い後押しがありました。黒田は榎本の国際感覚と実務能力を高く評価しており、「敵だったかどうか」よりも「日本のために役立つかどうか」を重視したのです。
こうして榎本は、海軍をはじめ、外交・行政の第一線で活躍することになります。のちに海軍卿・文部大臣・農商務大臣・外務大臣など、数々の要職を歴任しました。「五稜郭で敗れた反乱軍の総裁」が、明治政府の閣僚にまで上りつめたのです。
では、榎本は明治政府で具体的にどんな仕事を成し遂げたのでしょうか。代表的な2つの功績を見ていきましょう。
■樺太・千島交換条約の交渉
明治8年(1875年)、榎本は樺太・千島交換条約の締結という、大きな外交成果を上げます。
この条約は、当時ロシアと日本の間で領有があいまいだった樺太と千島列島の国境を、はっきりと決めるためのものでした。樺太全島をロシアに譲る代わりに、千島列島の全島を日本が受け取る——という取り決めです。
榎本は駐露特命全権公使として、ロシアの首都サンクトペテルブルクで粘り強い交渉にあたりました。オランダ留学で学んだ国際法(万国公法)の知識が、ここで存分に生かされたのです。武力ではなく、外交によって国境問題を平和的に解決した点が、この条約の大きな意義でした。
📌 樺太・千島交換条約(1875年):樺太全島をロシアに譲渡する代わりに、千島列島全島を日本が取得した条約。榎本武揚が駐露特命全権公使として交渉をまとめた。武力ではなく外交で国境を確定させた点がポイント。

樺太・千島交換条約ってテストに出るよね。どっちがどっちになったか覚えにくいんだよなぁ。

「樺太(広いほう)はロシアにあげて、千島(島の連なり)は日本がもらった」と覚えるといいよ!年号1875年と「全権は榎本武揚」もセットで覚えておこう。
■北海道開拓と東京農業大学の設立
外交だけでなく、榎本は日本の国土開発にも力を注ぎました。なかでも力を入れたのが、北海道の開拓です。
かつて自分が「蝦夷共和国」を築こうとした北海道。榎本はその土地の開発に深い思い入れを持ち、開拓使などの立場から農業や産業の振興に取り組みました。かつての幕臣仲間たちが北海道各地に入植して開拓の担い手となった屯田兵制度も、こうした動きと深く結びついています。広大な大地を生かして国を豊かにする——それは、彼が早くから抱いていた構想でもありました。
さらに榎本は、農業を担う人材を育てることの大切さを痛感し、農業教育の普及にも尽力します。明治24年(1891年)に設立された育英黌農業科は、のちの東京農業大学の源流とされ、榎本はその設立に深く関わった人物として知られています。

軍人・外交官のイメージが強い榎本だけど、実は「農業で国を豊かにする」という現実的な発想も持っていたんだ。今の東京農業大学につながっているなんて、ロマンがあるよね!

大砲や軍艦だけが国を支えるんじゃない。土を耕し、人を育てる。それこそが、これからの日本を本当に強くする仕事だ。
このように榎本武揚は、幕末の「敗者」から一転して、外交・行政・教育のあらゆる分野で近代日本の土台づくりに貢献しました。最後に、ここまでの内容を試験対策とまとめで整理しておきましょう。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:榎本武揚は「幕末で負けたのに明治で大臣になった人」と覚えるとブレません。樺太・千島交換条約は「樺太(広いほう)を渡して、千島(島の連なり)をもらった」で整理するとスッキリ覚えられます。

結局、一番テストで聞かれるのってどこなの?

共通テストなら「樺太・千島交換条約」が最頻出だよ!年号(1875年)と「全権は榎本武揚」をセットで覚えておこう。蝦夷共和国の「投票で総裁を選んだ」という切り口は、記述・論述問題でも使えるネタだよ。
榎本武揚についてもっと詳しく知りたい人へ

榎本武揚についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!速習派から読み物派まで、目的に合わせて選んでみてね。
戦後の著名な劇作家・安部公房が描いた榎本武揚の評伝小説です。幕末から明治を生き抜いた「実用主義者」の全体像が短くまとまっており、まず1冊で榎本を理解したい人に最適です。
試験前に概要だけ押さえたい人 / 読みやすい文章で榎本を知りたい人 / 中高生・初心者
史料に基づく詳細な史実を求める人 / 榎本の外交・政治家時代を深く知りたい人
歴史家・加茂儀一が一次資料にあたりながら書き上げた本格的な評伝です。榎本の人物像を学術的かつ丁寧に描いており、五稜郭から明治の外交まで幅広くカバーしています。榎本武揚を真剣に知りたい人にとって定番の1冊です。
榎本武揚をしっかり調べたい人 / レポート・論文に使える本を探している人 / 高校生〜大人
サクッと読み終えたい人 / 小説のように物語で楽しみたい人
歴史小説家・童門冬二が描く、榎本武揚の一代記です。五稜郭の戦いから明治政府での大臣就任まで、ドラマチックな視点で人物像に迫ります。「難しい本は苦手だけど、榎本の人生を楽しみたい」という人に向いています。
物語として楽しく読みたい人 / 幕末・明治の人間ドラマが好きな人 / 読書が好きな一般読者
史実の正確さを重視する人 / 学術的な内容を求める人
よくある質問(FAQ)
榎本武揚(1836〜1908)は、幕末から明治にかけて活躍した幕臣出身の軍人・外交官・政治家です。幕府海軍副総裁としてオランダから軍艦・開陽丸を持ち帰り、戊辰戦争では五稜郭にこもって「蝦夷共和国」を建てましたが敗北しました。降伏後、敵将・黒田清隆の助命嘆願で処刑をまぬがれ、明治政府に登用されて外務大臣などの要職を歴任した、波乱万丈の人物です。
榎本武揚は戊辰戦争の末期、旧幕府軍を率いて北海道に渡り、五稜郭を拠点として占拠しました。ここで「蝦夷共和国」を建国し、自らが総裁となります。しかし新政府軍の総攻撃を受け、明治2年(1869年)の箱館戦争で敗北・降伏しました。五稜郭は、榎本にとって最後の戦いの舞台となった場所です。
蝦夷共和国は、戊辰戦争のさなかの1868〜1869年に、榎本武揚ら旧幕府軍が五稜郭を拠点として北海道に築いた政権です。役職を投票で決めたことから「日本で最初の民主的な選挙が行われた」とも言われ、榎本が総裁に選ばれました。ただし国際的に正式な国家として承認されたわけではなく、新政府軍に敗れて半年ほどで消滅しました。
新政府軍の参謀だった黒田清隆が、榎本の助命を強く嘆願したからです。降伏の直前、榎本はオランダ留学で学んだ貴重な万国公法(国際法)の書物を、敵である黒田に「日本のために役立ててほしい」と贈りました。その見識と人柄に感動した黒田は「殺すには惜しい男だ」として、自ら頭を丸めてまで助命に動いたのです。約2年半の入獄の後、榎本は特赦によって釈放されました。
最大の功績は、1875年に駐露特命全権公使としてロシアと「樺太・千島交換条約」をまとめ、両国の国境問題を外交で平和的に解決したことです。そのほか、北海道の開拓事業や農業教育の普及にも力を注ぎ、東京農業大学の源流となる学校の設立にも関わりました。海軍卿・文部大臣・農商務大臣・外務大臣など、数々の要職を歴任しています。
もともとは、箱館戦争で戦った「敵どうし」でした。しかし黒田は榎本の国際感覚と人柄に感銘を受け、その助命を嘆願した恩人となります。釈放後の榎本は明治政府で活躍し、黒田とは同じ政府の同僚として協力する関係になりました。敵から恩人、そして同志へと変わっていった、印象深い関係です。
二人は、蝦夷共和国でともに戦った仲間です。榎本が総裁を務める政権で、土方歳三は陸軍奉行並として軍事の中心を担いました。新撰組出身で武勇に長けた土方と、国際感覚を持つ理論派の榎本は、好対照の名コンビでした。土方が箱館戦争で戦死したことも、榎本が降伏を決断する一因になったと言われています。
まとめ
最後に、榎本武揚の生涯のポイントをふり返っておきましょう。

以上、榎本武揚のまとめでした!幕末で負けた側の人間が明治政府の大臣になるなんて、まさに波乱万丈の人生だったよね。五稜郭や戊辰戦争についても、下の記事であわせて読んでみてください!
- 1836年江戸・下谷に幕臣(御徒目付)の次男として生まれる(幼名:釜次郎)
- 1862年オランダへ留学(〜1867年)。軍事・造船・国際法(万国公法)を学ぶ
- 1867年軍艦・開陽丸とともに帰国。幕府海軍副総裁に就任
- 1868年戊辰戦争のなか、品川沖から旧幕府艦隊を率いて北上し蝦夷地(北海道)へ
- 1869年蝦夷共和国の総裁に選出。箱館戦争(五稜郭の戦い)で敗北・降伏。土方歳三が戦死
- 1872年黒田清隆の嘆願もあり特赦。釈放され明治政府に登用される
- 1875年駐露特命全権公使としてロシアと樺太・千島交換条約を締結
- 1880〜90年代海軍卿・文部大臣・農商務大臣・外務大臣などを歴任
- 1891年東京農業大学の源流となる農業教育機関の設立に貢献
- 1908年72歳で死去。幕末から明治を駆け抜けた実用主義者の生涯を終える
📅 最終確認:2026年6月
📖 本記事は山川出版『詳説日本史』(2022年版)に基づいています。中学歴史・高校日本史どちらにも対応しています。
Wikipedia日本語版「榎本武揚」(2026年6月確認)
コトバンク「榎本武揚」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。





