
今回は名誉革命について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!高校世界史で絶対に出てくる重要テーマだから、原因・結果・権利の章典までしっかり押さえていこう!
📚 この記事のレベル:高校世界史
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
🎯 共通テスト・大学受験対応
実は名誉革命は、「名誉」という穏やかな言葉とは裏腹に、国王が政治的に孤立して逃げるしかなかった切迫した事件でした。
無血で実現した革命の裏には、国王ジェームズ2世の孤立・オランダ側の外交的野心・議会の周到な準備が同時にそろっていたのです。
「名誉」という言葉も実は勝者側が後から付けた称号で、当時のジェームズ2世にしてみれば「家族にも軍にも裏切られた屈辱の事件」でした。この記事ではそんな名誉革命の真相を、原因・経過・権利の章典までまとめてわかりやすく解説していきます。
名誉革命とは?
① 1688年、イギリス議会が国王ジェームズ2世を追放し、オランダのオラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)を新国王に迎えた政変。
② ほとんど血が流れずに政権交代が実現したため「無血革命」とも呼ばれる。
③ 翌1689年に権利の章典が制定され、議会が国王より上位に立つ立憲君主制が確立した。
名誉革命とは、1688年から1689年にかけてイギリスで起きた政変のことです。英語ではGlorious Revolution(栄光ある革命)と呼ばれ、日本語では「名誉革命」と訳されています。
国王ジェームズ2世のカトリック寄りで専制的な政治に不満を持った議会は、ジェームズ2世の娘メアリーとその夫であるオランダ総督ウィレムに「イギリスへ来てほしい」と要請しました。ウィレムが軍を率いて上陸すると、ジェームズ2世は支持を失い、フランスへ亡命することになります。
翌1689年、議会はウィリアム3世とメアリー2世を共同統治の新国王として迎え入れ、同時に権利の章典を制定しました。これにより、国王の権力を議会が法的に縛る立憲君主制がイギリスに誕生したのです。
大規模な戦闘や処刑がほとんどなかったことから、後の世代が「Glorious(栄光ある)」と呼んだのが「名誉革命」という呼び名の由来です。「名誉」とは、勝者側の議会派が「流血なしに自由を守った」と誇った言い回しだったということになります。

「名誉革命」って名前がついてるのに、革命なの?戦争があったの?なんで「名誉」なの?

「名誉」っていうのは、勝った議会側が「血を流さずに自由を守ったぞ!」って自分たちで付けた名前なんだ。実際は国王が逃げ出しただけだから、外から見ると地味だけど、政治の仕組みが大きく変わったから「革命」って呼ばれてるんだよ!
次の章では、その「無血革命」が起きるに至った背景——ジェームズ2世の専制政治について見ていきます。
名誉革命の背景と原因〜ジェームズ2世の専制政治〜

名誉革命の原因をひと言で言えば、国王ジェームズ2世の専制政治と、カトリック復活への動きに議会が我慢できなくなったことです。
そこに至るまでには、ピューリタン革命(1642〜49年)→ 共和制 → 王政復古(1660年)→ ジェームズ2世即位(1685年)という、約半世紀におよぶ政治的混乱がありました。順番に見ていきましょう。
■ピューリタン革命後の「王政復古」とは
ピューリタン革命では、議会派のクロムウェルが国王チャールズ1世を処刑し、イギリスは一時的に国王不在の共和制になりました。しかし軍人クロムウェルの厳格な独裁政治は国民にも不評で、1658年にクロムウェルが亡くなると共和制は急速に揺らぎ始めます。
そこで議会は、亡命していたチャールズ1世の息子チャールズ2世を呼び戻し、1660年に王政を復活させました。これを王政復古といいます。「やっぱり国王はいた方が落ち着くな……」と国民も議会も感じたためです。
チャールズ2世はカトリックに傾きながらも表向きはイングランド国教会を守ったため、議会との衝突は決定的には至りませんでした。問題が爆発するのは、弟ジェームズ2世がその後を継いでからのことになります。

一度は国王を処刑したのに、わずか11年で国王を呼び戻したのね……。イギリスって意外と国王が好きな国なのかしら?

イギリスが「国王好き」というよりは、クロムウェルの軍事独裁がキツすぎたんだ。クリスマスやお酒まで禁止されちゃってね……。だから「窮屈な共和制よりは国王の方がマシ」って空気になったんだよ。
■ジェームズ2世が議会と対立した理由
1685年、チャールズ2世の死後にその弟ジェームズ2世が即位します。ジェームズ2世は熱心なカトリック教徒で、即位早々からカトリック復活への動きを露骨に見せ始めました。
当時のイギリスでは、プロテスタント系のイングランド国教会が「国の宗教」として定着していました。そこに国王が公然とカトリックを推し始めたわけですから、議会と国民が警戒を強めるのは当然のことです。
ジェームズ2世は、軍隊や役所の重要ポストに次々とカトリック教徒を任命しました。これは、公職に就く者をイングランド国教会の信徒に限る審査法(1673年制定)に明らかに違反する行為でした。
さらに、ジェームズ2世は議会の承認なしに常備軍を増強したり、1687年に「信仰自由宣言」を出してカトリックや非国教徒に信仰の自由を認める法律停止権を行使したりと、議会無視の姿勢を強めていきました。
議会が怒った3大原因 ①カトリック官僚の登用(審査法違反)/②議会を無視した常備軍の増強/③信仰自由宣言(法律停止権の濫用)
議会と国民にとって最後の引き金になったのが、1688年6月の王子誕生でした。それまでジェームズ2世の次の王位はプロテスタントの娘メアリーが継ぐと考えられていましたが、王子の誕生によって「カトリック王朝が続いてしまうのではないか」という危機感が一気に高まったのです。

議会など気にしなくていい。余は神から授かった権力(王権神授説)でこの国を治めているのだ。カトリックも国教も、王である余が決めることだ……はずだったのだがな。
こうして議会の不満は爆発寸前まで膨らみ、ついに「ジェームズ2世を排除しよう」という決断にたどり着きます。次の章では、似た構図で起きたピューリタン革命と名誉革命の違いを整理していきましょう。
ピューリタン革命との違い

名誉革命とよく比較されるのが、その約40年前に起きたピューリタン革命です。どちらも「議会 vs 国王」の対立から始まった革命ですが、結末はまったく違うものになりました。
ピューリタン革命(1642〜49年) 武力衝突あり・チャールズ1世処刑・共和制樹立
名誉革命(1688〜89年) ほぼ無血・ジェームズ2世亡命・立憲君主制樹立
共通点は、どちらも「議会の権利を守るために国王の専制を倒した」革命だという点です。背景には、議会の同意なしに課税や宗教政策を進める国王に対する、議会派の根強い不満がありました。
違いは大きく分けて3つあります。① 暴力の有無(有血か無血か)、② 倒した後の政体(共和制か立憲君主制か)、③ 革命の主導者(議会派軍 vs クロムウェル/議会+外国の総督)です。
| 項目 | ピューリタン革命 | 名誉革命 |
|---|---|---|
| 時期 | 1642〜1649年 | 1688〜1689年 |
| 国王 | チャールズ1世 | ジェームズ2世 |
| 結末 | 国王処刑 | 国王のフランス亡命 |
| 暴力 | 大規模な内戦(イングランド内戦) | ほぼ無血 |
| 政体の変化 | 共和制 | 立憲君主制 |
| 主導者 | クロムウェルら議会派軍 | 議会+オランダのウィレム |
| 制定文書 | (短命に終わる) | 権利の章典(1689年) |

ピューリタン革命も名誉革命も「議会 vs 国王」の対立なのに、どうして片方は処刑で、もう片方は無血で済んだのかしら?

一番大きいのは、国王の立場の違いなんだ。チャールズ1世は最後まで「神から授かった王権」を譲らず戦い抜いたから、内戦になって処刑された。一方でジェームズ2世は、味方の軍まで離反しちゃって戦う前に逃げざるを得なかったんだよ!この「なぜ戦えなかったか」を、次の章でもっと詳しく見ていこう。
名誉革命はなぜ無血で実現できたのか?
名誉革命がほぼ無血で実現できたのには、大きく分けて3つの要因がありました。①ジェームズ2世の政治的孤立、②軍の離反、③オランダ・ウィレムの外交的思惑です。
ジェームズ2世は「国王=神から権力を授かった絶対者」という意識が強い人物でしたが、現実の足元では既に味方を失っていました。議会・国教会・軍部・国民——あらゆる勢力が彼から離れてしまったため、戦おうにも戦えなかったのです。
1688年6月、議会の主要メンバー7名はオランダのオラニエ公ウィレムに「軍を率いてイギリスに来てほしい」と密かに招請状を送りました。ジェームズ2世の娘メアリーの夫であり、プロテスタントの実力者だったウィレムこそ、議会にとって「正統性のある救世主」だったのです。
📌 11月5日上陸の象徴的な意味 ウィレムがイギリスに上陸した1688年11月5日は、かつてカトリック過激派がプロテスタントの議会を爆破しようとした「火薬陰謀事件」(1605年)の記念日でした。「プロテスタントの守護者が、まさにその記念日に来た」という劇的な一致は、ウィレム陣営の宣伝活動にも利用され、イギリス民衆の支持を一気に引き寄せました。準備万端の「計算された上陸」でもあったのです。
ウィレムが1688年11月にイギリス南西部に上陸すると、ジェームズ2世が頼みにしていたプロテスタント将校が次々と寝返り、最終的には腹心の軍司令官ジョン・チャーチル(後のマールバラ公)までもがウィレム側についてしまいます。実の娘アンも夫とともに父から離反しました。
軍と家族から見捨てられたジェームズ2世は、もはやイギリス国内に味方がいない状況に陥り、戦うよりも亡命を選ぶしかなくなったのです。フランス王ルイ14世という亡命先が確保できていたことも、決断を後押ししました。
逃亡中、ジェームズ2世は国璽(グレート・シール)をテムズ川に投げ捨てるという行動に出ます。国璽は政府の公式文書に押す印章で、「これを消せば議会も国を動かせない」という絶望的な抵抗でした。しかし議会はこれを「国王が玉座を放棄した(空位)」と解釈し、むしろ新国王を迎える口実にしてしまいます。歴史の皮肉と言えるでしょう。
■オランダ・ウィレムにとっての「外交的メリット」
もう一つ、名誉革命を無血で成功させた大きな要因が、招かれた側であるオラニエ公ウィレムの外交的事情です。「議会に頼まれたから親切でイギリスへ行った」というイメージが強いウィレムですが、実はもっと現実的な計算がありました。
当時オランダは、隣国フランス(太陽王ルイ14世)からの軍事的圧力に苦しんでいました。ウィレムはオランダ総督として、フランスに対抗する大同盟を作る必要があったのです。
もしジェームズ2世がフランスと組んでオランダを攻めれば、オランダは挟み撃ちになってしまいます。逆にイギリスをプロテスタント陣営に引き戻せれば、ヨーロッパ最大の海軍国を味方にして対フランスの大同盟を組むことができる——これがウィレムにとっての最大のメリットでした。
つまり名誉革命は、イギリス議会の招請とオランダの外交戦略がぴったり噛み合った結果として、軍事衝突をほぼ伴わずに成立したのです。「名誉」という穏やかな名前の裏には、こうしたしたたかな国際政治の計算がありました。

「革命なのに誰も死ななかった理由」をひと言でまとめると、ジェームズ2世が”戦えないほど孤立した”うえに、ウィレム側も”対フランスのために本気で来た”——この2つが同時に起きたからなんだ。だから戦闘なしで政権交代ができたんだよ!
こうして政権を引き継いだ新国王ウィリアム3世とメアリー2世は、議会との約束として「権利の章典」を受け入れることになります。次の章では、その内容と歴史的意義を見ていきましょう。
権利の章典の内容と意義

権利の章典(Bill of Rights)は、1689年に議会が制定した法律で、名誉革命の最大の成果と言われる文書です。ウィリアム3世とメアリー2世は即位の条件としてこの章典を承認し、王権を議会の枠内に置くことを公式に認めました。
もともとは即位前の1689年2月に議会が両者に提示した「権利宣言」が下敷きになっており、その内容を法律として確定させたものが12月に成立した権利の章典です。
権利の章典の主な内容(5つ) ①議会の同意なき課税の禁止/②国王による法律の停止・廃止の禁止/③議会内での言論の自由/④平時に議会の同意なく常備軍を持つことの禁止/⑤自由な議会選挙の保障
権利の章典が定めたのは、国王であっても法律より上には立てない、議会の同意なしに勝手なことはできない、というルールでした。これによってイギリスは、国王が政治の中心にいながら議会が実権を握る立憲君主制へと舵を切ったのです。
後に「王は君臨すれども統治せず」という有名な原則が生まれる土台も、ここに置かれました。現代のイギリス政治、そして広く言えばフランス革命やアメリカ独立にもつながっていく、まさに近代議会制民主主義の出発点と言えます。
📌 立憲君主制とは? 憲法(あるいは権利の章典のような基本法)によって国王の権力が法的に制限される政治体制のこと。国王はいるけれども、政治の実際の運営は議会と内閣が担うのが特徴。現代の日本の象徴天皇制も、広い意味では立憲君主制に分類されます。

権利の章典って、現代の日本国憲法の「税金は法律で決める」っていうルールと似ているように感じるわ。実は今の議会制民主主義のルーツがここにあるのね……。

そうそう、まさにそこなんだ!「税金は議会の同意がなきゃ取れない」「国王でも法律より上にはいけない」っていう発想は、今の民主主義国家にとっては当たり前のルールだよね。その”当たり前”を300年以上前に文章にした最初の文書が、この権利の章典なんだよ!
次の章では、こうして生まれた新しい体制がイギリス国内・そして世界全体にどんな影響を与えたのかを見ていきます。
名誉革命の結果と歴史的影響

名誉革命の結果、1689年2月にオラニエ公ウィレムはウィリアム3世として、妻メアリーはメアリー2世として、二人同時に即位することになりました。夫婦による共同統治はイギリス史上でも例外的な形ですが、議会との合意のもとに成立した点が大きな特徴です。
そして同年12月、議会は権利の章典を正式に法律として制定し、国王より議会が上位に立つ仕組みを完成させます。ここから先、イギリスの政治は「議会で決めたことに国王が従う」体制へと大きく舵を切っていきました。

議会の権利の章典は受け入れよう。ただ、私の本当の目的はフランスのルイ14世を抑え込むこと。イギリスの海軍を味方にできるなら、議会への譲歩など安いものだ……。
■イギリス国内への影響
名誉革命によってイギリス国内では、大きく4つの変化が起こりました。議会主権の確立・不文憲法の伝統・二大政党制の芽生え・寛容法による信仰の自由です。順に見ていきましょう。
まず最大の変化は、議会が国王より上位に立つ議会主権が確立したことです。国王は議会の同意なしに税を取ることも法律を停止することもできなくなり、政治の実権は完全に議会に移ります。これは現代のイギリス民主主義の出発点と位置づけられています。
次に、イギリス特有の不文憲法の伝統です。イギリスには「日本国憲法」のような単一の憲法典がなく、マグナ・カルタ(1215年)・権利の章典(1689年)・各種慣習法を合わせたものが「憲法」とされます。権利の章典はそのなかでも近代議会制の根幹をなす文書として、現在も効力を持っています。
また、議会の中ではジェームズ2世追放に賛成したホイッグ党と、王権を擁護したいトーリー党という2つの政治勢力がはっきりと分かれていきます。これがイギリス二大政党制の起源とされ、現在の保守党・労働党まで続く政党政治の原型になりました。
さらに1689年には寛容法(Toleration Act)が制定され、国教会以外のプロテスタント(非国教徒)にも信仰の自由が認められました。完全な信仰の自由ではありませんが、宗教的少数派を法的に保護する第一歩として大きな意義を持ちます。
国内への4つの影響 ①議会主権の確立/②不文憲法の伝統/③二大政党制の芽生え(ホイッグ vs トーリー)/④寛容法による信仰の自由
■世界への波及——フランス革命・アメリカ独立への影響
名誉革命の影響はイギリス国内にとどまりませんでした。市民の権利を法で守り、政府の権力を制限するという考え方が、その後の世界の革命運動に大きな影響を与えていきます。
名誉革命を思想的に正当化したのが、イギリスの哲学者ジョン・ロック(1632〜1704)です。ロックは1690年に『統治二論』を刊行し、「政府の権力は国民から信託されたものであり、政府が信託を裏切れば国民には抵抗する権利がある」と論じました。これが社会契約論の出発点となります。
ロックの思想は、その後フランスのモンテスキューやルソーら啓蒙思想家に影響を与え、フランス革命(1789年)の「人権宣言」やアメリカ独立宣言(1776年)の理論的基礎になりました。アメリカ独立宣言の冒頭にある「すべての人間は生まれながらに平等で、生命・自由・幸福を追求する権利を持つ」という文言は、ロックの自然権思想を色濃く反映しています。
つまり名誉革命は、単なるイギリス1国の政変ではなく、その後の近代民主主義のルーツとして世界史上の大きな転換点となったのです。「議会と権利の章典が王権を縛る」という発想が、世界中の市民革命に火を点ける思想的種火になりました。

イギリスの名誉革命がフランスやアメリカ、そして今の世界中の民主主義につながっているのね……。今の選挙制度や憲法のルーツが、こんなところにあったなんて驚きだわ。

そう、まさにそこなんだよ!「税金は議会で決める」「人権は政府より上にある」っていう今や当たり前の感覚が、名誉革命をきっかけにロック→モンテスキュー→ルソー、そしてフランス革命・アメリカ独立へと伝わっていった。世界史を勉強するときは、この”思想のリレー”を意識すると一気に理解が深まるよ!
📌 現代とのつながり 現在のイギリスは「立憲君主制」「不文憲法」「二大政党制(保守党と労働党)」という名誉革命由来の枠組みをそのまま受け継いでいます。日本の象徴天皇制も、広い意味では「君主は君臨すれども統治せず」という名誉革命由来の発想に近い設計です。300年以上前のイギリス政変が、今もなお現代の政治制度の骨格を形作っているわけですね。
次の章では、テスト・受験対策として押さえておきたい名誉革命のポイントを整理します。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。名誉革命はピューリタン革命とセットで出題されることが多いので、両者の違いを意識しながら確認していきましょう。
📌 暗記のコツ 「1688年=名誉革命/1689年=権利の章典」と年号を1年ずらしで覚えるのがポイント。ピューリタン革命(1642〜49年)→ 王政復古(1660年)→ 名誉革命(1688年)の3つの転換点を時系列でつなげて覚えると、流れがブレません。
| 比較項目 | ピューリタン革命 | 名誉革命 |
|---|---|---|
| 年号 | 1642〜1649年 | 1688〜1689年 |
| 追放された国王 | チャールズ1世(処刑) | ジェームズ2世(亡命) |
| 主導者 | クロムウェル | 議会+ウィリアム3世 |
| 流血 | あり(内戦) | ほぼなし(無血) |
| 結果生まれた政体 | 共和制 | 立憲君主制 |
| 関連する重要文書 | — | 権利の章典(1689年) |

結局、テストで一番大事なポイントって何?短くまとめてほしい!

一番大事なのは、ズバリ「1688年・無血革命・権利の章典で立憲君主制が確立」の3点セット!この3つさえ言えれば共通テストレベルなら高確率で正解できるよ!あとはピューリタン革命と混ぜないこと——これが鉄則だね!
よくある質問(FAQ)
名誉革命について、読者からよく寄せられる質問をまとめました。テスト前の最終チェックにも使えるようにポイントを絞って解説しています。
流血なしに実現したことを勝者側(議会派)が「名誉ある方法で解決した」と称えたためです。英語名のGlorious Revolution(栄光ある革命)の日本語訳が「名誉革命」になります。当事者のジェームズ2世から見れば「裏切られた」だけの事件ですが、議会派から見れば誇るべき成果だったので、勝者の視点で名付けられた名前というわけです。
ピューリタン革命(1642〜49年)は有血の内戦で、チャールズ1世の処刑と共和制樹立につながりました。一方、名誉革命(1688年)は無血で、ジェームズ2世のフランス亡命と立憲君主制樹立で決着します。どちらも「議会 vs 国王」の対立から生まれた革命ですが、結末と政体の方向性が大きく異なるのが最大の違いです。
主な内容は4点です。①議会の同意なき課税の禁止、②国王による法律の停止・廃止権の否定、③常備軍の設置には議会の同意が必要、④議会内での言論の自由の保障。これらによって国王の権力を法的に縛り、議会主権・立憲君主制の根拠となった文書です。共通テストでも頻出なので、最低この4点は押さえておきましょう。
大きく3つの理由があります。①ジェームズ2世がプロテスタント軍将校に次々と見捨てられて軍事的に孤立したこと、②娘婿のウィレム(後のウィリアム3世)が敵側に回り王朝の正統性まで奪われたこと、③フランス王ルイ14世のもとに亡命先が確保されていたこと——です。戦う条件も逃げる条件も同時に揃ったため、ジェームズ2世は戦闘より亡命を選びました。
ジョン・ロック(1632〜1704)の『統治二論』が名誉革命を思想的に正当化し、「国民が政府に権力を信託する」という社会契約論を確立しました。この思想がモンテスキュー・ルソーらフランス啓蒙思想家に影響を与え、フランス革命(1789年)の「人権宣言」やアメリカ独立宣言(1776年)の理論的基礎となります。名誉革命は、その後の世界の市民革命を準備した思想的な震源地と言えます。
まとめ
最後に、名誉革命の全体像を年表と要点で振り返ります。
- 1642年ピューリタン革命勃発(〜1649年)
- 1649年チャールズ1世処刑・共和制樹立
- 1660年王政復古(チャールズ2世即位)
- 1685年ジェームズ2世即位・専制政治・カトリック復帰
- 1688年名誉革命――議会がウィレムを招聘・ジェームズ2世亡命
- 1689年権利の章典制定・ウィリアム3世&メアリー2世共同統治
- 1689年寛容法制定――非国教徒への信仰の自由
- 1690年ジョン・ロック『統治二論』刊行――名誉革命を思想的に正当化

以上、名誉革命のまとめでした!「無血革命」っていう穏やかな名前の裏に、こんな政治的・外交的なドラマが隠れていたんだね。下の関連記事もあわせて読むと、市民革命の流れ全体がもっとクリアに見えてくるよ!
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』
Wikipedia日本語版「名誉革命」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「権利の章典」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「ジェームズ2世 (イングランド王)」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「ウィリアム3世 (イングランド王)」(2026年6月確認)
コトバンク「名誉革命」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「権利の章典」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説世界史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。




