

今回はピューリタン革命(清教徒革命)についてわかりやすく丁寧に解説していくよ!「クロムウェルってどんな人?」「名誉革命とは何が違うの?」という疑問にもしっかり答えていくから、テスト前の人も、歴史を楽しみたい人もぜひ最後まで読んでみてね!
📚 この記事のレベル:高校世界史
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
🎯 共通テスト・大学受験対応
「ピューリタン革命」と聞くと、国王の横暴に立ち上がった人々が自由と議会を勝ち取った――そんな「民主主義のヒーロー物語」を思い浮かべるかもしれません。革命を指導したクロムウェルも、教科書では「議会を守った英雄」のように語られます。
でも、実はその結末はちょっと違います。国王を倒したクロムウェルは、最終的に自分自身が「王とほとんど同じ」独裁者になってしまったのです。自由を求めて始まった革命が、別のかたちの独裁で終わる――この皮肉な結末こそが、ピューリタン革命のいちばんの読みどころです。
この記事では、そんなドラマチックなピューリタン革命を、テストに出るポイントを押さえながらわかりやすく解説していきます。
ピューリタン革命とは?わかりやすく3行で解説
- 17世紀のイギリスで起きた市民革命。国王の専制に議会が反発し、内戦に発展した。
- 国王チャールズ1世が処刑され、共和制が成立。指導したのがクロムウェル。
- 清教徒(ピューリタン)が中心になったため「清教徒革命」とも呼ばれる。のちの名誉革命への土台となった。
ピューリタン革命とは、1640年代のイギリスで、国王の専制政治に議会が反発して起きた市民革命のことです。「清教徒革命」とも呼ばれます。1642年に国王派と議会派の内戦が始まり、1649年には国王チャールズ1世が処刑されました。国王のいない政治体制である共和制が生まれた、ヨーロッパ史でも極めて衝撃的な出来事です。
この革命を軍事面・政治面で主導したのが、議会派の軍人オリバー・クロムウェルでした。革命のあと、彼は事実上の最高権力者として国を率いることになります。

テスト前なんだけど、そもそも「ピューリタン」って何のこと?聞いたことはあるけど説明できないや…。

ピューリタン(清教徒)っていうのは、イギリスの中でもとくに信仰に厳しいプロテスタントのことだよ。カルヴァンの教えを受け継いでいて、「教会をもっと純粋(ピュア)にすべきだ!」って主張したから「ピューリタン(=純粋にする人)」って呼ばれたんだ。お酒や遊びを慎む、まじめで質素な人たち、ってイメージに近いよ!
当時のイギリス国教会は、宗教改革でカトリックから分かれたものの、まだカトリック的な要素を多く残していました。ピューリタンたちはそれに不満を持ち、より徹底した改革を求めていたのです。彼らは商工業者や地主(ジェントリ)に多く、やがて国王と対立する議会派の中心勢力になっていきます。この章では言葉の意味を確認しましたが、次の章ではいよいよ「なぜ革命が起きたのか」その原因を見ていきましょう。
なぜ革命が起きたのか?ピューリタン革命の原因

革命の原因は、ひとことで言えば「国王の専制」と「議会・宗教側の反発」の衝突です。とくに大きかったのが、国王が掲げた「王権神授説」という考え方でした。
■ステュアート朝の専制政治と王権神授説
1603年、スコットランド王だったジェームズ1世がイングランド王を兼ねて、ステュアート朝が始まりました。ジェームズ1世とその子チャールズ1世は、王権神授説を強く信じていました。これは「国王の権力は神から直接授けられたものだから、議会や国民が口出しできるものではない」という考え方です。

余の王権は、神から直接授かったものである。議会ごときが税のことであれこれ口を出すなど、許されることではない。余が決める。それで十分だ。

王権神授説っていうのは、今でいうと「社長は神に選ばれたんだから、社員や株主は文句を言うな!何でも社長が決める!」みたいな超ワンマン経営のイメージかな。これじゃあ周りが黙っていられないよね…。
イギリスには中世から「国王であっても勝手に新しい税をかけてはいけない(課税には議会の同意が必要)」という伝統がありました。ところが財政難だったチャールズ1世は、議会の同意なしに強引な課税をくり返します。これに議会が激しく反発したのが、革命の出発点でした。
■議会の抵抗と権利の請願(1628年)
1628年、議会はチャールズ1世に対して権利の請願を提出しました。これは「議会の同意のない課税や、理由のない逮捕をやめてほしい」と国王に求めた文書です。チャールズ1世はいったん受け入れたものの、翌1629年には議会を解散し、その後なんと11年間も議会を開かずに政治を行いました(無議会政治)。
さらに事態を悪化させたのが宗教問題です。チャールズ1世は、国教会とは別のプロテスタントを信じる長老派が多いスコットランドに、イングランド国教会の祈祷書を押しつけようとして反乱を招きます。この戦争の費用を集めるため、国王はやむなく11年ぶりに議会を開きました。ところが議会は協力するどころか、国王への不満を一気に噴き出させたのです。こうして対立は決定的になりました。次の章では、ついに始まる内戦の経緯を追っていきましょう。

📌 このとき日本では? チャールズ1世が処刑された1649年は、日本では江戸時代初期の慶安2年にあたります。翌1651年には徳川3代将軍・家光が死去し、同じ年に由井正雪らによる慶安の変(牢人による幕府転覆未遂事件)が起きています。海の向こうでは「国王の処刑」、日本では「将軍交代と幕府への反乱未遂」――同じ時代でもこれだけ違う、と覚えておくと年号が頭に残りやすいですよ。
革命の経緯:議会派 vs 国王派
国王と議会の対立はついに武力衝突へ発展します。1642年、イングランドは国王を支持する「国王派(王党派)」と、議会を支持する「議会派」に真っ二つに割れて内戦に突入しました。これがピューリタン革命の本格的な始まりです。

■清教徒革命の勃発(1642年)
議会派の中心となったのは、ピューリタンが多い商工業者や地主の人々でした。一方の国王派は、貴族や国教会・カトリックの保守的な勢力が支えました。戦いは当初、軍事に慣れた国王派がやや優勢でした。しかし議会派の中から、信仰に厚く規律の固い軍隊を組織した人物が頭角を現します。それがオリバー・クロムウェルでした。彼の率いる鉄騎隊は連戦連勝し、議会派を勝利へと導いていきます。
■議会派内部の分裂:長老派・独立派・水平派
ところが、国王派に勝ったあとの議会派は一枚岩ではありませんでした。「これからどんな国にするか」をめぐって、大きく3つの派閥に分裂します。穏健で国王との妥協を望む長老派、徹底改革を主張する独立派、そしてさらに急進的に普通選挙などを唱えた水平派(平等派)です。クロムウェルは、このうち独立派に属していました。

同じ「議会派」なのに、内側で3つにも割れていたのね。3つの違いがいまいちピンとこないわ…。

改革の「強さ」で並べるとわかりやすいよ!長老派=穏健(王様とも仲良くしよう)、独立派=中間(しっかり改革しよう)、水平派=急進(みんな平等に選挙権を!)って感じ。会社の方針会議で「現状維持派・改革派・大革命派」が言い争ってるイメージに近いかな。最終的に、軍を握っていた独立派のクロムウェルがこの主導権争いを制したんだ。
■チャールズ1世の処刑(1649年)
主導権を握ったクロムウェルら独立派は、妥協を望む長老派の議員を議会から追放し、国王チャールズ1世を裁判にかけました。そして1649年、チャールズ1世は「国家への反逆者」として公開処刑(斬首)されてしまいます。
「国王を裁判で裁いて処刑する」――これは、王の権力を神聖視していた当時のヨーロッパでは、とてつもない衝撃でした。各国の王たちは震え上がったといわれます。こうしてイギリスは国王のいない共和制となりました。革命の主役クロムウェルは、いよいよ国の頂点へと上りつめていきます。次の章では、そのクロムウェルの台頭と、彼の「独裁」を見ていきましょう。
クロムウェルの台頭と護国卿の独裁


神の意志に従うなら、たとえ国王であっても裁かれるべきだ。私は信仰と議会のために戦ってきた。……だが、いつの間にか、私自身が王と同じように国を一人で動かしていた。ヤベェ…これは私が倒したはずのものではないか。
共和制となったイギリスでしたが、政治はなかなか安定しませんでした。そこでクロムウェルは1653年、議会を武力で解散させ、自ら護国卿(Lord Protector)という地位につきます。これは事実上、国のトップとして強大な権力を握るポストでした。クロムウェルはここから、軍事力を背景にした独裁政治を行っていきます。
彼の政治はとても厳格でした。ピューリタンの価値観にもとづき、劇場を閉鎖し、賭け事や飲酒、日曜日の娯楽を厳しく禁止したのです。なんとクリスマスさえも「異教的な祭り」として禁止し、パトロールに出た兵士が市民の家からクリスマスのご馳走を取り上げる、という事態まで起きました。人々は「自由になったはずなのに、前より窮屈だ」と感じる場面も多かったといわれます。
■護国卿とは?「今でいう〇〇」
護国卿は、王ではないけれど王とほぼ同じ権限を持つ「国の最高責任者」でした。今でいえば、絶大な権限を持った「大統領」や「総理大臣」に近い役職です。ただしクロムウェルの場合は、議会の上に立ち、軍隊も握っていたため、実態は「選挙を経ない独裁的なリーダー」でした。だからこそ、革命のあとに別の独裁が生まれたと評されるのです。
■英雄か独裁者か?クロムウェルの評価
クロムウェルの評価は、今でも大きく二つに割れます。一方では「国王の専制を倒し、議会政治への道を開いた英雄」。他方では「議会を解散させ、自分が独裁者になった人物」。とくに彼が行ったアイルランド征服では、多くの住民が犠牲になったとされ、アイルランドでは今も憎まれる存在です。また、オランダに対抗して航海条例(1651年)を定め、貿易と海軍を強化したことは、後のイギリス繁栄の土台になったとも評価されます。

あれ、それってクロムウェルも結局、王様と同じことをしてるんじゃない?自由のために戦ったはずなのに、なんだか皮肉ね…。

まさにそこがピューリタン革命の核心なんだ。王様を倒したリーダーが、結局は王様みたいになっちゃう――。「専制を倒したつもりが、別の専制を生んだ」っていう皮肉な結末なんだよ。ナポレオンが皇帝になっちゃったフランス革命とも、ちょっと似た構図だね。
こうして強大な権力を握ったクロムウェルでしたが、彼の独裁は長くは続きませんでした。次の章では、クロムウェルの死後にイギリスがどう動いたか――「王政復古」とその後の展開を見ていきましょう。
王政復古とその後の展開

1658年、絶大な権力を握っていたクロムウェルが病死します。後を継いだ息子のリチャード・クロムウェルには父ほどの統率力がなく、政治はたちまち混乱しました。軍や議会の対立が再燃し、国は再びまとまりを失います。
そこで人々が選んだのは、なんと「王様を呼び戻す」という道でした。1660年、処刑されたチャールズ1世の息子がチャールズ2世として即位し、イギリスは再び王政に戻ります。これを王政復古といいます。あれだけの犠牲を払った革命の末に、結局もとの王政に戻ってしまった――この点もピューリタン革命の重要なポイントです。
■クロムウェルの「死体裁判」
王政復古後、クロムウェルには信じられない仕打ちが待っていました。1661年、すでに死んで埋葬されていたクロムウェルの遺体がわざわざ掘り起こされ、「国王殺しの罪人」として改めて処刑(死体の斬首)されたのです。切り落とされた頭部は長い間さらし者にされたと伝えられています。生前は国の頂点に立った人物が、死後に「死体裁判」にかけられる――王を処刑した者への報復がいかに激しかったかを物語る、ぞっとするエピソードです。

死体を掘り起こして処刑なんて…すごい執念だね。じゃあ革命って結局、全部ムダだったってこと?

いや、ムダじゃないんだ。一度「国王でも議会を無視できない」ってことを実力で示したのは大きかった。だから王政に戻っても、王様は前ほど勝手にふるまえなくなったんだよ。そしてこの経験が、のちの名誉革命へとつながっていくんだ。
復活した王政のもとでも、王と議会の緊張は消えませんでした。とくにチャールズ2世の弟ジェームズ2世は、カトリックを復活させようとする動きを強め、議会や国民の不信を買います。この不満が、やがて1688年の名誉革命の引き金になっていきました。次の章では、よく混同される「ピューリタン革命と名誉革命の違い」を整理していきましょう。
📌 名誉革命への伏線:王政復古後、ジェームズ2世のカトリック復興・専制への動きに議会が反発。これが1688年の名誉革命(無血で王を交代させ「権利の章典」を定めた)につながります。ピューリタン革命と名誉革命はワンセットで覚えるのがコツです。
ピューリタン革命と名誉革命の違いをわかりやすく解説
世界史でよく混同されるのが、ピューリタン革命と名誉革命です。どちらも17世紀イギリスで起きた市民革命ですが、その性格は大きく違います。一番の違いをひとことで言えば「血が流れたかどうか」です。まずは表で全体像をつかみましょう。
| 比較項目 | ピューリタン革命 | 名誉革命 |
|---|---|---|
| 時期 | 1642〜1649年 | 1688年 |
| 手段 | 武力革命・国王処刑 | 無血(名誉)革命 |
| 結果 | 共和政 → 護国卿の独裁 | 立憲君主制の確立 |
| 成果 | チャールズ1世処刑・王政の一時廃止 | 権利の章典(1689年) |
このように、ピューリタン革命は内戦をともなう激しい革命で、国王チャールズ1世が処刑されました。一方、名誉革命はほとんど血を流さずに国王を交代させたため「名誉ある(Glorious)革命」と呼ばれます。名誉革命では国王ジェームズ2世が国外へ逃れ、代わりにオランダからウィリアム3世とメアリ2世を新たな王として迎え、議会が定めた権利の章典を王が受け入れました。これによって「王は議会の決めた法に従う」という立憲君主制が確立します。
共通テストでは、この2つの革命を取り違える間違いが非常に多いポイントです。「ピューリタン革命は激しい武力革命、名誉革命は平和的な無血革命」――この対比を、年号(1649年の国王処刑 / 1688〜89年の権利の章典)とセットで覚えておきましょう。

ピューリタン革命と名誉革命、結局どっちがテストで重要なの?いつも区別がつかなくなっちゃう…。

どっちも大事だけど、セットで覚えるのがコツだよ!実は「名誉革命」が”名誉”って呼ばれるのは、その前に血が流れたピューリタン革命があったからなんだ。一度国王を処刑するほどの激しい争いを経験したから、2回目はみんな学んで平和的にやった――そう考えると、2つは別物じゃなくて1本の流れなんだよ。
ピューリタン革命の歴史的意義:近代民主主義の出発点
ピューリタン革命は、短期的には「王政復古」でもとに戻ってしまったように見えます。しかし長い目で見ると、その意義はとても大きなものでした。「国王であっても、議会や法を無視して国を動かすことはできない」――この考え方を、ヨーロッパで初めて実力で示したのがピューリタン革命だったのです。
この経験が名誉革命(1688年)と権利の章典(1689年)につながり、イギリスに議会を中心とした立憲君主制が根づいていきました。さらにその思想は海を越え、社会契約説を唱えたジョン・ロックらを通じて、18世紀のフランス革命やアメリカ独立革命にも大きな影響を与えます。「人々が自分たちで政治のあり方を決める」という近代民主主義の流れは、ここから本格的に始まったといえます。
つまり、ピューリタン革命 → 名誉革命 → フランス革命・アメリカ独立革命 → 現代の民主主義という大きな連鎖の最初の一歩が、このピューリタン革命だったのです。今、私たちが当たり前に思っている「選挙」「議会」「法による政治」のルーツをたどると、17世紀イギリスのこの激動にいきつきます。
もしチャールズ1世が王権神授説にこだわらず、議会の「権利の請願」を素直に受け入れていたら、内戦も国王処刑も起きなかったかもしれません。そうなれば、イギリスの立憲君主制への移行はもっと穏やかなものになっていた可能性があります。とはいえ、王と議会の根深い対立を考えると、いずれどこかで衝突は避けられなかった――そう見る歴史家も少なくありません。
📌 このとき日本では? チャールズ1世が処刑された1649年は、日本では江戸時代の前半。徳川幕府が3代将軍家光のもとで参勤交代や鎖国の体制を固め、安定した統治を進めていた時期にあたります。海の向こうのイギリスが国王処刑という大混乱に揺れていた頃、日本は「天下泰平」へと向かっていたのです。
ピューリタン革命の理解を深めるおすすめ本
ピューリタン革命についてもっと知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
とくに「ピューリタン革命と名誉革命の比較」は記述・選択問題の両方で頻出です。次の表で違いを最終チェックしておきましょう。
| 項目 | ピューリタン革命 | 名誉革命 |
|---|---|---|
| 年 | 1642〜1649年 | 1688年(権利の章典1689年) |
| 性格 | 武力・国王処刑 | 無血(名誉) |
| 中心人物 | クロムウェル | ウィリアム3世・メアリ2世 |
| 体制 | 共和政 → 護国卿の独裁 | 立憲君主制 |
📌 比較問題でよく出るポイント:①「無血で行われたのはどちら?」→名誉革命 ②「国王が処刑されたのはどちら?」→ピューリタン革命 ③「権利の章典が出されたのはどちら?」→名誉革命(1689年)。この3つを取り違えないことが得点のカギです。

覚えることが多くて大変…。一番テストで出るのはどこ?

ズバリ、「クロムウェル=護国卿」と「チャールズ1世が処刑された(1649年)」の2つ!あとは名誉革命との違いさえ押さえれば、この単元はバッチリだよ。年号は1642・1649・1660・1688・1689をセットで唱えると忘れにくいよ!
よくある質問(FAQ)
A. 1642〜1649年にイギリスで起きた市民革命です。清教徒(ピューリタン)が中心となった議会派が、専制を行う国王チャールズ1世と内戦を戦い、勝利しました。1649年には国王を処刑し、王のいない共和政を樹立した点が大きな特徴で、「清教徒革命」とも呼ばれます。
A. チャールズ1世が「王権神授説」を唱え、議会を無視した専制政治を続けたためです。議会との対立が内戦に発展し、議会派が勝利しました。妥協を拒む国王を「国家への反逆者」とみなした議会派は、1649年に裁判を経て公開処刑に踏み切りました。国王が裁判で処刑されたのは当時のヨーロッパで前代未聞の出来事でした。
A. ピューリタン革命で議会派を勝利に導いた指導者です。独立派の中心人物として活躍し、1653年には護国卿(Lord Protector)に就任して事実上の独裁政治を行いました。国王の専制を倒した英雄として評価される一方、議会を解散させ自身も独裁者になったこと、アイルランド征服での弾圧などから「もう一人の独裁者」と批判されることもあります。
A. 最大の違いは「血が流れたかどうか」です。ピューリタン革命(1642〜1649年)は内戦をともない、国王チャールズ1世が処刑された武力革命でした。一方、名誉革命(1688年)はほとんど血を流さずに国王を交代させた「無血革命」で、翌1689年に権利の章典が出され立憲君主制が確立しました。
A. 短期的には王政復古(1660年)でもとの王政に戻りましたが、「国王であっても議会や法を無視できない」という考え方が定着しました。この経験が名誉革命(1688年)と権利の章典(1689年)につながり、イギリスに立憲君主制が根づきます。さらにその思想は後のフランス革命やアメリカ独立革命にも影響し、近代民主主義の出発点になりました。
A. 一般には、1649年のチャールズ1世処刑と共和政の成立をもって革命の山場とします。その後の共和政・護国卿時代を経て、1658年のクロムウェル死去、そして1660年の王政復古(チャールズ2世即位)で一連の動きはいったん終わりを迎えます。「ピューリタン革命=1642〜1649年」と覚えるのが基本です。
まとめ:ピューリタン革命の歴史的意義
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1625年チャールズ1世が即位(王権神授説による専制)
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1628年権利の請願:議会が国王に提出
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1642年内戦勃発:議会派 vs 国王派(王党派)
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1649年チャールズ1世処刑・共和政(コモンウェルス)成立
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1653年クロムウェルが護国卿に就任・独裁政治を開始
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1658年クロムウェル死去・共和政が動揺へ
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1660年王政復古:チャールズ2世が即位
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1688〜89年名誉革命・権利の章典:立憲君主制が確立

以上、ピューリタン革命のまとめでした!「王様を倒したリーダーが、結局は独裁者になっちゃう」――この皮肉こそが、この革命を覚えるカギだよ。下の記事で名誉革命につながるフランス革命や、革命の背景にあった宗教改革・カルヴァン派についてもあわせて読んでみてね!
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』
Wikipedia日本語版「清教徒革命」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「オリバー・クロムウェル」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「名誉革命」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「チャールズ1世(イングランド王)」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「チャールズ2世(イングランド王)」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「航海条例」(2026年6月確認)
コトバンク「ピューリタン革命」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年6月確認)
山川出版社『詳説世界史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。







