

今回はペリクレスについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「民主主義の父」として教科書に載っているけど、実は意外な一面もある人物なんだ。ぜひ最後まで読んでみてね!
📚 この記事のレベル:高校世界史
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
ペリクレスとは?3行でわかるプロフィール
実はペリクレスは、「民主主義の完成者」として教科書に載っているにもかかわらず、自らは30年近く権力の頂点に立ち続けた”民主的独裁者”でした。しかも彼が作り上げた民主政は、女性・奴隷・在留外国人を完全に排除した、ごく限られた市民男性だけのものだったのです。
この矛盾こそが、ペリクレスという人物の最も面白いところ。「偉大な民主主義者」と「独裁的な権力者」という二つの顔を同時に持っていたのです。まずはその基本プロフィールから見ていきましょう。
- 紀元前495年頃〜前429年。古代ギリシャ・アテネの政治家・軍人。名門アルクメオン家の出身
- 最大の業績はアテネ民主政の完成。陪審員の抽選・給与制を導入し、無産市民も政治に参加できる仕組みを整えた。パルテノン神殿の建設も主導
- 現代民主主義の原型を作った人物として評価される一方、30年近く権力を独占し、デロス同盟の資金を流用した「光と影」を持つ

テスト前なんだけど、ペリクレスって結局何した人なの?名前は聞くけどよくわからなくて…。

一言で言うと「古代ギリシャのアテネで民主主義を完成させた政治家」だよ!紀元前5世紀の人で、今から約2,500年前の話なんだ。テストでは「民主政の完成」「デロス同盟」「ペロポネソス戦争」の3つのキーワードをセットで覚えておけばバッチリだよ!

ペリクレスは、紀元前495年頃にアテネの名門アルクメオン家に生まれました。父は政治家・軍人のクサンティッポス、母方はアテネ民主政の礎を築いた改革者クレイステネスの姪の子(姪孫)にあたるという、まさに名門中の名門です。
若い頃から哲学者アナクサゴラスに師事し、深い教養を身につけます。政界に入ったのは紀元前463年頃とされ、まず民主派の指導者として頭角を現します。当時アテネは、軍事力で名を馳せた保守派のキモンとの激しい権力争いの中にありました。
紀元前461年、ペリクレスはオストラキスモス(陶片追放)という制度を使ってキモンを国外に追放し、アテネの政治的主導権を握ります。そこから約30年間にわたって、彼はアテネ民主政の中心に立ち続けるのです。

ところで、ペリクレスの肖像はなぜいつも兜をかぶっているの?と思ったことない?実は古代ギリシャの喜劇作家たちから「タマネギ頭(頭が細長い)」とからかわれていたと伝わっているんだ。そのため肖像では常に兜をかぶって頭の形を隠したとも言われているよ。2,500年前の「外見コンプレックス」——なんか親近感わかない?
オストラキスモス(陶片追放)は、独裁者になりそうな危険人物を民主的に国外追放するための制度です。市民が陶器の破片(オストラコン)に追放したい人物の名前を書いて投票し、6,000票以上かつ最多得票者を10年間国外に追放することができました。
ペリクレスはこの制度を巧みに活用し、紀元前461年頃に政敵のキモンを追放することに成功。権力基盤を一気に固めました。
ペリクレスが成し遂げた「民主政の完成」とは
ペリクレスが登場する前、アテネにはすでに民主政の萌芽がありました。紀元前594年のソロン改革は財産による政治参加の区分けを設け、紀元前508年のクレイステネス改革は血縁ではなく地縁(部族制)による民会制度を作り上げました。
しかしこれらの改革にはまだ限界がありました。公職に就けるのは財産のある市民に限られ、貧しい無産市民は政治から排除されていたのです。ペリクレスはここに大胆に手を入れ、真の民主政を完成させます。彼が行った3つの制度改革を見てみましょう。
制度改革①:公職の抽選制拡大(無産市民も参加可能に)
それまでは財産のある市民のみが公職に就けましたが、ペリクレスはアルコン(執政官)以外の公職もほぼすべて抽選制に切り替えました。つまり貧しい市民でも「くじ引き」で国家の重要な職に就ける仕組みを作ったのです。これは今でいう「完全な機会均等」に相当する革命的な変化でした。
制度改革②:陪審員・民会出席への手当支給(給与制の導入)
「機会均等にしても、貧しい人は仕事を休んで政治に参加できない」——この問題をペリクレスは日当制の導入で解決しました。陪審員として裁判に参加した市民には報酬が支払われ、民会(市民集会)への参加にも手当が出るようになったのです。これにより、貧しい無産市民でも実際に政治に参加できるようになりました。
今でいう「裁判員制度に参加したら日当をもらえる」のと同じ発想と言えるかもしれません。
制度改革③:民会(エクレシア)の権限強化
ペリクレスは民会を最高議決機関として位置づけ、戦争・外交・立法・財政など国家の重要事項をすべて民会で決定する仕組みを整えました。成人男性市民なら誰でも参加・発言・投票できる民会が、アテネの最高権力を握ったのです。

民主主義の父って聞くけど、ペリクレスが作った民主政って現代の民主主義とは違うの?

大きく違うよ!ペリクレスの民主政に参加できたのは「成人男性市民」だけで、女性・奴隷・在留外国人は完全に排除されていたんだ。当時のアテネ人口の中で実際に政治に参加できたのは全体の約10〜15%にすぎなかったと言われているよ。現代の「すべての大人が選挙に参加できる普通選挙」とは根本的に違うんだね。
パルテノン神殿とアテネの黄金時代

政治改革と並んで、ペリクレスのもう一つの大きな業績がアクロポリスの再建事業です。紀元前479年のペルシャ戦争でアテネが壊滅的な被害を受けた後、ペリクレスはその復興を一大文化プロジェクトとして推し進めました。
中心となったのが、紀元前447年に着工したパルテノン神殿の建設です。女神アテナを祀るこの神殿は、当時の最高の建築技術と芸術が結集した傑作で、彫刻家フィディアスが制作総監督を務めました。神殿内には金と象牙でできた巨大なアテナ像が安置され、アテネの繁栄と権威を象徴しました。
ペリクレスは単なる政治家にとどまらず、知識人のパトロン(支援者)でもありました。哲学・歴史・芸術あらゆる分野の第一人者が集まったアテネは、この時代に地中海世界全体の「知の中心地」となったのです。ペリクレスが葬礼演説で「我々の都市はギリシャの学校である」と宣言したほど、その影響は計り知れないものでした。
📌 ペリクレスの周囲にいた知識人たち:哲学者ソクラテス(ペリクレス存命中からアテネで活動)・歴史家ヘロドトス(ペルシャ戦争を記録した「歴史」の著者)・哲学者アナクサゴラス(ペリクレスの師)・彫刻家フィディアス(パルテノン神殿のアテナ像制作)がペリクレスのアテネに集まり、「知の都」を形成した

我々は美を愛しながらも、精神の弱さに陥ることはない。知恵を愛しながらも、それが軟弱さに通じることはない。富は行動の基盤として利用するものであり、自慢の種ではない。
この言葉は、ペリクレスが葬礼演説で語ったアテネ市民への賛辞です。「知的でありながら強い。美しいものを愛しながらも精神的に鍛えられている」——これがペリクレスの理想とした市民像であり、アテネの黄金時代を象徴する精神でもありました。
「光と影」―デロス同盟の資金と市民権の限界
問題①:デロス同盟の資金流用疑惑
デロス同盟とは、紀元前478年にペルシャに対抗するためアテネを盟主として結成されたギリシャ諸ポリスの軍事同盟です。加盟ポリスは毎年アテネに資金(軍資金)を拠出していました。
問題は、ペリクレスがこのデロス同盟の資金をアクロポリス再建(パルテノン神殿など)の建設費に流用したことです。「これはペルシャ対策の軍資金だ!アテネが勝手に使うのはおかしい!」と同盟諸ポリスから強い批判の声が上がりました。
しかしペリクレスは民会でこう反論します——「アテネがペルシャの攻撃からギリシャを守っている。その代価として資金を使うことの何が問題か?」。この強引な論理で批判を抑え込みましたが、これがアテネへの反発を生み、やがてペロポネソス戦争へとつながっていきます。
問題②:市民権法が生んだ矛盾―アスパシアとのエピソード
紀元前451年、ペリクレスは市民権法を制定します。この法律の内容は「両親ともにアテネ市民の子のみが市民権を取得できる」というものでした。外国人との混血による市民権の希薄化を防ぐためとされています。
ところがこの法律は、ペリクレス自身に思わぬ矛盾をもたらします。彼の愛人(事実上の妻)アスパシアはミレトス出身の外国人女性でした。彼女はアテネの知識人サロンを主宰するほどの知性を持ち、ペリクレスの政治的パートナーとも言える存在でしたが、自分が作った市民権法のせいで市民権を持てないのです。
さらに二人の間に生まれた子供も、この法律によっては市民権を持てない状況でした。ペリクレスは後に特例として自分の子に市民権を認めるよう民会に請願していますが、これはまさに「自分が作ったルールで自分が困る」という皮肉な矛盾です。


実はアスパシアには、ペリクレスの深い愛情を物語るドラマチックなエピソードがあるんだ。紀元前432年頃、アスパシアは「不敬罪」で告発された。このとき、鉄壁の政治家ペリクレスが法廷に立ち、市民の前で涙を流しながらアスパシアを弁護したんだよ!古代の作家プルタルコスはこれを「ペリクレスが他のことで泣いたとは聞かない」と記録している。冷静沈着な権力者が、愛する女性のためだけに涙を見せた——この逸話、なんか胸に響かない?

民主主義なのに、女性や外国人は参加できないの?それって民主主義じゃないんじゃ…?

鋭いね!現代の感覚ではそのとおりで、ペリクレスの民主政には大きな「限界」があったんだ。女性・奴隷・在留外国人は政治から完全に排除されていた。でも当時の基準で考えると、「貧しい男性市民も政治に参加できる」こと自体がものすごく画期的だったんだよ。歴史を評価するとき「当時の基準」と「現代の基準」の両方で考えることが大事なんだね!
ペロポネソス戦争と「最後の演説」
ペリクレスの晩年を彩るのが、ペロポネソス戦争(紀元前431〜404年)です。これはアテネとスパルタを中心に、ギリシャ全土を二分した大戦争です。
なぜ戦争が起きたのか——その背景には、アテネの急速な台頭に対するスパルタの危機感がありました。海軍力と商業力でデロス同盟を事実上の「アテネ帝国」に育てたペリクレスに対し、陸軍国スパルタは「このままではギリシャ全体がアテネに支配される」と恐怖を抱いていたのです。
📌 アテネとスパルタの比較:アテネ=海軍国・民主政・商業中心・デロス同盟の盟主 / スパルタ=陸軍国・寡頭政(少数の有力者が支配)・農業中心・ペロポネソス同盟の盟主。この2大国の対立がギリシャ世界を二分した
戦争が始まると、ペリクレスは「籠城策」を採用します。スパルタは陸軍が強く、野戦では勝てない——そこでペリクレスは市民を城壁内に収容し、海軍でスパルタの補給線を断つ長期戦略を選択しました。陸上での決戦を避け、アテネの強みである海軍力を活かす戦術です。
紀元前431年の冬、戦争で亡くなった兵士たちを弔う追悼式で、ペリクレスはアテネの歴史に残る名演説を行います——これが葬礼演説です。
「我々の政体は民主主義と呼ばれる。なぜなら政権が少数者の手にではなく、多数の民衆の手に握られているからである。……我々の都市は、ギリシャの学校である」
——トゥキディデス『戦史』第2巻34〜46章(葬礼演説)より(意訳)
この演説でペリクレスは、アテネの民主政の優位性を力強く宣言しました。「我々は法の前に平等であり、個人の才能が社会的地位よりも尊重される。我々は自由に議論し、自由に行動する」——2,500年を経た今でも、民主主義を語るときに必ず引用される名演説です。
しかしこの輝かしい演説の翌年(紀元前430年)、アテネには悲劇が訪れます。籠城による過密状態の中で疫病が大流行したのです。詳細は不明ですが、腸チフスや天然痘に似た感染症とされており、アテネ市民の4人に1人が死亡したとも言われています。

そしてペリクレス自身も紀元前429年にこの疫病に感染し、死去します。享年66歳頃。偉大な政治家は、自らが起こした戦争の中で倒れました。

葬礼演説って、現代の私たちにも通じることが書いてあるんですか?

通じるどころか、政治学者や哲学者が今でも引用する「民主主義の基本文書」なんだよ!「なぜ民主主義は独裁より良いのか」「自由とは何か」「個人と国家の関係はどうあるべきか」——これって2026年の今でも全く同じ問いだよね。ペリクレスは2,500年前に、この問いに対する一つの答えを示したんだ。
ペリクレスへの評価―なぜ「偉大」なのか
ペリクレスはなぜ、2,500年経った今でも「偉大な指導者」として語り継がれるのでしょうか。その答えは、同時代人であったトゥキディデスの評価に凝縮されています。
歴史家トゥキディデスは『戦史』の中でペリクレスをこう評しました——「ペリクレスは言葉でも行動でも市民を自在に導いた。権力を乱用することなく、民衆の感情を自制させることもできた。民主政の指導者というより、事実上の最高市民として統治した」と。この評価が端的に示すように、ペリクレスは民主政という制度を使いながら、その中で突出した個人として君臨したのです。
現代の歴史学者もこの評価を引き継いでいます。特に注目されるのは現代民主主義への影響です。アメリカ独立宣言やフランス革命の思想家たちが古代ギリシャの民主政を参照し、ペリクレスの葬礼演説を「民主主義の原型」として引用しました。アメリカのリンカーン大統領が語ったとされる「人民の、人民による、人民のための政治」という表現も、ペリクレスの葬礼演説の精神を受け継いだものとされています。
📌 批判的な評価:①30年近く最高実力者の地位を占め続けた「独裁的側面」②デロス同盟の資金をアテネ建設に流用した「帝国主義的運営」③市民権法で女性・奴隷・外国人を政治から排除した「民主政の限界」——これらの批判は現代の研究者からも根強く指摘されている
ペリクレスの権力の源泉は、選挙で毎年選ばれる将軍職(ストラテゴス)にありました。彼は前443年から没年前429年まで15年間連続でこの選挙を勝ち続け、前461年のキモン追放から数えれば約32年間にわたって事実上アテネのトップに立ち続けたのです。民主的なプロセスを通じた権力集中——これが「民主的独裁者」と呼ばれる所以です。
📌 もしペリクレスがいなかったら?:ソロン・クレイステネスの改革が基盤を作ったとはいえ、ペリクレスなしには「陪審員手当」「公職の抽選制拡大」は実現しなかったかもしれない。パルテノン神殿も存在せず、アテネが「知の都」となることもなかっただろう。一人の傑出した指導者が歴史を大きく変えた典型例と言える

ペリクレスは「偉大な指導者だが独裁的でもあった」という二面性を持つ人物なんだよね。教科書では「民主政の完成者」としてシンプルに書かれているけど、その光と影を両方知っておくことが大事!次の章では、テストで絶対押さえておくべきポイントをまとめるよ。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「ペリクレス=前5世紀アテネ」「デロス同盟=前478年(ペルシャ戦争後)」「市民権法=前451年」「パルテノン神殿建設開始=前447年」「ペロポネソス戦争開始=前431年」の年号を時系列で覚えよう。論述問題では「民主政の光と影」(業績 vs 限界)を両方書けるようにしておくこと。ソロン改革(前594年)→クレイステネス改革(前508年)→ペリクレスの完成という民主政の発展3段階も頻出パターン

テストで一番大事なのってどこですか?全部覚えられなくて…。

まず「ペリクレス=アテネ民主政の完成者」「デロス同盟=アテネが盟主」「ペロポネソス戦争=スパルタとの戦い・前431年開始」この3点は絶対押さえて!次に余裕があれば「市民権法」と「葬礼演説」を覚えると論述問題にも対応できるようになるよ!
ペリクレスについてもっと詳しく知りたい人へ
ペリクレスとアテネ民主政をさらに深く知りたい方へ、おすすめの書籍を紹介します。
よくある質問
ペリクレス(前495年頃〜前429年)は、古代ギリシャのアテネを率いた政治家・軍人です。アテネ民主政を完成させた人物として知られ、公職の抽選制拡大・民会出席への日当制導入・民会の権限強化という3つの制度改革を行いました。また、デロス同盟の資金を活用してパルテノン神殿を建設し、アテネを「地中海の知の都」に育て上げました。ペロポネソス戦争の開戦後、葬礼演説で民主主義の理念を高らかに宣言しましたが、疫病により前429年に亡くなっています。
ソロン・クレイステネスが基盤を作った民主政を、ペリクレスがさらに推し進めたからです。特に「公職への抽選制拡大」で貧しい無産市民も公職に就けるようになり、「日当制の導入」で実際に政治参加できる仕組みが整いました。これにより、財産に関わらずすべての成人男性市民が政治に参加できる体制が完成したとされます。ただし女性・奴隷・在留外国人は排除されており、現代的な意味での普通選挙とは異なります。
主に3つの問題点が挙げられます。①参政権が「成人男性市民」に限定されており、女性・奴隷・在留外国人(メトイコイ)は完全に排除されていた点。②ペリクレスが市民権法(前451年)で「両親ともにアテネ市民の子のみ」に市民権を限定し、排除をさらに強化した点。③デロス同盟の資金をアクロポリス再建に流用するなど、同盟ポリスに対して帝国主義的な姿勢を取った点。当時としては画期的でしたが、現代の民主主義の観点からは大きな限界がありました。
ソクラテス(前470年頃〜前399年)はペリクレスよりやや若い世代で、ペリクレスの存命中からアテネで哲学的活動をしていました。直接の師弟関係ではありませんが、二人はアテネの黄金時代を共に生きた同時代人です。ペリクレスの師は哲学者アナクサゴラスであり、ソクラテスとペリクレスが個人的に親交があったという直接の記録はありません。ただし、ソクラテスの弟子プラトンはのちにアテネ民主政を批判しており、ペリクレスに対しても複雑な評価を行っています。
ペリクレスは戦場で討ち死にしたのではなく、疫病(アテネの疫病)によって亡くなりました。前431年のペロポネソス戦争開戦後、ペリクレスはスパルタの強力な陸軍に対して「籠城策」を選択。農村の住民を城壁内に収容したため、過密状態となったアテネに前430年ごろから正体不明の疫病が大流行しました。市民の4人に1人が死亡したとも言われ、ペリクレス自身も前429年にこの疫病に感染し、66歳頃で亡くなっています。
葬礼演説(Funeral Oration)は、前431年のペロポネソス戦争第1年の戦死者を弔う追悼式でペリクレスが行った演説です。歴史家トゥキディデスの『戦史』第2巻に収録されており、「我々の政体は民主主義と呼ばれる。なぜなら政権が少数者ではなく多数の民衆の手にあるからだ」「我々の都市はギリシャの学校である」などの言葉で知られます。民主主義の理念・個人の自由・国家への責任を説いたこの演説は、現代でも民主主義を語るときに引用される歴史的名演説です。
まとめ:ペリクレスが残したもの

以上、ペリクレスのまとめでした!「民主主義の父」という一面だけじゃなく、独裁的な側面や限界も合わせて理解することが大切だよ。下の記事でフランス革命やナポレオンなど、民主主義の歴史を引き継ぐトピックもあわせて読んでみてね!
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前495年頃ペリクレス誕生(アテネ・アルクメオン家)
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前463年頃政界デビュー(キモン弾劾・エフィアルテスとともに民主政推進)
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前461年キモンのオストラキスモス(陶片追放)に成功・主導権掌握
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前454年デロス同盟の財宝をアテネへ移送
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前451年市民権法制定(両親ともアテネ市民の子のみ市民権を取得)
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前447年パルテノン神殿建設開始(フィディアスが制作総監督)
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前431年ペロポネソス戦争開始・葬礼演説(トゥキディデス『戦史』収録)
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前429年疫病によりアテネで死去(享年66歳頃)
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』
Wikipedia日本語版「ペリクレス」(2026年5月確認)
コトバンク「ペリクレス」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
トゥキディデス著・小西晴雄訳『戦史』岩波文庫
山川出版社『詳説世界史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。





