今回は、鎌倉仏教全般(まとめ)について、わかりやすく丁寧に解説していきます。
鎌倉仏教とは
鎌倉仏教は、鎌倉時代に登場した日本の新しい仏教スタイルのことを言います。
平安時代以前の仏教と大きく違うのは、仏教が庶民層まで広がって、信者が爆発的に増えた点です。
なぜ鎌倉仏教が生まれたの?
簡単に言ってしまうと、平安時代の仏教がオワコン化していたからです。その理由は大きく2つあります。
それぞれ、詳しく見ていきます!
腐敗する南都北嶺
平安時代、仏教界で大きな力を持っていた勢力は2つ。
南都六宗は、華厳宗・三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗の6つの宗派の総称です。
南都六宗は、学問として仏教を学び・研究することを重要視しており、お互いに知識を共有し、支え合うような関係だったと言われています。
六宗全体が1つの集団のようだったので、南都六宗とひとくくりにされています。
この2つの勢力を合わせて南都北嶺と呼びます。
南都北嶺は、権力者と癒着をしたり、強訴と呼ばれる方法で貴族や朝廷を脅したりして、領地(荘園)の拡大や金儲けに走ります。
南都六宗の上層部は、仏教信仰よりも政治に夢中になり、日本の仏教は腐敗してしまいました。
一方で、南都北嶺の僧侶の中には、「腐敗した仏教を立て直そう!」と真剣に仏教に向き合う者もいました。この仏教立て直し運動が形となって現れたのが、鎌倉仏教なのです。
末法の到来
少し語弊があるかもしれませんが、仏教とはざっくり言えば「お釈迦様の教えを理解・実践して、悟りを開いて苦しみのない世界(浄土)を目指す!」という教えです。
一方で、仏教では「お釈迦様の死後、長い時間が経過すると、人々はお釈迦様の教えを理解できなくなってしまう・・・」という考え方もありました。
人々がお釈迦様の教えを理解できなくなってしまう時代のことを末法と呼び、日本では1052年が末法のスタートだと考えられていました。
末法が到来したことで、「お釈迦様の教えだけでは、浄土には行けない・・・」と多くの人が思います。
そして仏教業界では、末法に対応した新しい信仰のあり方を模索する動きが活発になりました。
具体的な動きとして、お釈迦様よりも阿弥陀様を信仰する風潮が強くなりました。この風潮は鎌倉仏教にも大きな影響を与えています。
※なぜ阿弥陀様を信仰するようになったのかは下の記事を参考に読んでみてください↓
おまけに、源平合戦で東大寺が戦火で焼失した(南都焼き討ち事件)ことで、人々の絶望はより一層増すことになりました・・・。
天台宗から独立した6つの新宗派(鎌倉新仏教)
上で述べた平安仏教の問題を解決するため、南都北嶺の中でさまざまな動きがありましたが、特に動きが大きかったのが、「北嶺」の天台宗でした。
天台宗から独立して新しい宗派を立ち上げる僧侶が続出したのです。こうして登場したのが鎌倉仏教です。
大企業から独立して生まれたベンチャー企業みたいなイメージですね。
次に鎌倉仏教と呼ばれる6つの宗派とその開祖について簡単に紹介していきます。
【補足】それぞれの人物の詳細は、別記事にまとめてあります。リンクを貼っていますので、気になる方は合わせて読んでみてくださいm(_ _)m
法然が浄土宗を開く(1175年)
法然は、「末法の時代でも、阿弥陀様の力を借りれば浄土に行ける」と考えました。
そして、阿弥陀様の力を借りるには、阿弥陀様のことを信じながら「南無阿弥陀仏」とひたすら念仏を唱えれば良いと考えます。
この考え方のことを専修念仏と言い、法然は専修念仏に特化した新しい宗派「浄土宗」の開祖となりました。
法然は、浄土宗の理論を「選択本願念仏集」という著書にまとめています。
浄土宗は、「念仏を唱えればOK!」というとてもシンプルな教えなので、信者が爆発的に増加。これを危険視した南都北嶺の旧勢力から激しい弾圧を受けることになります。
栄西が臨済宗を開く(1191年)
天台宗の僧侶だった栄西は、腐敗した天台宗を立て直すため、宋に渡りました。
そして、宋で禅の教えに出会い、帰国後は禅の教えを中心に天台宗を立て直そうとしました。しかし、天台宗は栄西を異端児とみなし、これを弾圧。
栄西は弾圧を避けるため、天台宗に敵対する意志がない旨を「興禅護国論」という著書にまとめましたが、効果はありませんでした・・・。
そこで栄西は独立し、禅宗の1種である臨済宗を開きました。臨済宗は武家に人気があり、鎌倉幕府の支援も受けながら、着実に信者を増やしていきます。
臨済宗は、師弟関係をとても大事にします。臨済宗では、師が悟りを開くために必要な難問を弟子に提示し、弟子はこれに答えることで悟りへの道を切り開きます。
この師匠と弟子の問答は、座禅をして心を無にした状態で行われ、この問答のことを考案問答と言います。
親鸞が浄土真宗を開く(1224年)
天台宗の僧侶だった親鸞は、浄土宗の教えに惹かれ法然の弟子となりました。法然死後は、浄土宗の教えに親鸞オリジナルの思想をミックスさせた浄土真宗を開きます。
基本は浄土宗と同じですが、親鸞は念仏そのものよりも「阿弥陀様を信じる心」を重んじ、さらにこう考えました。
阿弥陀様は、どんな人でも浄土へ救いあげてくれる偉大な仏様。
だから、煩悩まみれで仏教を信仰する気が全くない人ほど、本来なら阿弥陀様のことを信仰するべきなのだ!!
この親鸞の思想のことを、悪人正機と言います。「悪人」とは、悟りの境地からかけ離れた煩悩まみれの人のことを指します。
この親鸞の理論だと、「仏教に縁のない人ほど、浄土真宗を信ずるべき」ということになります。この理論は、農民や地方武士など仏教に無縁な人々に浄土真宗を布教させる大きな原動力となりました。
親鸞は、自らの思想を「教行信証」という著書にまとめており、教行信証には浄土真宗の真髄が書かれています。
道元が曹洞宗を開く(1227年)
仏教を極めたい道元は、比叡山の修行では物足りず、栄西が開いた建仁寺というお寺で禅マスターになることを決意。宋に渡って禅を学び、禅宗の1種である曹洞宗を開きます。
曹洞宗は、日々の行いそのものが修行であり、悟りを開くためのヒントだと考えます。臨済宗と同じく座禅を重要視しましたが、曹洞宗の場合は、「座禅をして〜〜する」ではなく、「座禅する行為そのもの」が悟りを開くために重要だと考えました。
なので、曹洞宗では座禅そのものが悟りを開くための修行の一種であり、この修行を只管打坐と言います。
テレビなどで、お寺で座禅を組んで姿勢が崩れたら竹刀で叩かれるシーンを見たことがある人もいるかと思いますが、あのイメージです。(本場の修行は、全然違うと思いますが・・・)
道元は自らの思想を「正法眼蔵」という著書にまとめています。
日蓮が日蓮宗を開く(1253年)
日蓮は日々の勉学・修行の中で、天台宗で最も重要な経典である「法華経」こそが最強だと考えました。
法華経の教えさえ信じれば、そのほかの修行は一切不要。悟りを開くために必要なのは、法華経の教えを信じて「南無妙法蓮華経」と口に出して唱えることのみ。
※「妙法蓮華経」は法華経の正式名称です。
この独自の理論で、日蓮宗を開きました。日蓮宗が大事にする「南無妙法蓮華経」というフレーズは、題目と呼ばれています。
日蓮は、法華経を信じない浄土真宗や禅宗(臨済・曹洞)を邪教と考えて厳しく批判。批判を「立正安国論」という著書にまとめて、鎌倉幕府にこれらの宗派を支援しないよう訴えました。
・・・が、逆に鎌倉幕府が日蓮を危険分子と判断し、日蓮を弾圧することになります。
一遍が時宗を開く(1274年)
一遍も、法然・親鸞と同じく「阿弥陀様を信じて念仏を唱えれば浄土に行ける」と考えました。
しかし、世の中には仏教や念仏に興味のない人がたくさんいます。
そこで一遍は考えます。
「みんなが念仏を唱えるようになるには、どうすれば良いか?」
そして、一遍はある結論に辿り着きました。
一遍「そうだ!踊っている最中に念仏を唱えれば、パーティーみたいでみんな参加してくれるんじゃないか!?」
こうして、一遍は時宗を開きました。同じ念仏でも浄土宗・浄土真宗と違って、踊りながら念仏を唱える踊念仏が大きな特徴です。
「念仏こそがすベて!」と考えた一遍は、亡くなる前に著書を焼いてしまったため、一遍の著書は残っていません。
南都六宗では改革が始まる
これら新興宗派の登場は、南都北嶺にも大きな影響を与えます。
南都北嶺の「北嶺」である天台宗は、これらの新興宗派を敵とみなし、弾圧を繰り返しました。
「南都」の南都六宗も、新興宗派を良く思わずこれを弾圧しますが、中には新興宗派の影響を受けて、南都六宗のあり方を見直そうとする動きも活発になりました。
この改革の動きの中で特に有名なのが、貞慶・明恵・叡尊・忍性の4人の僧侶たちです。
貞慶(法相宗)【1155年〜1213年】
法相宗には、「世の中には5つの素質があり、それぞれの人間に生まれながらその素質が与えられている。そして、その素質によって悟りを開けるかどうか決まる」という考え方があります。(五性格別と言います。)
しかし、これでは生まれた瞬間に悟りを開けるかどうか確定してしまうわけで、あまりにも現世に救いがありません。そこで貞慶は、法相宗に「誰でも悟りを開ける」という大乗仏教の思想を取り入れました。
明恵(華厳宗)【1173年〜1232年】
明恵は非常にストイックな僧侶であり、机上の理論になりがちだった南都六宗(のうちの華厳宗)の教えを自ら実践してみせました。華厳宗が「絵に描いた餅」でないことを自ら示したのです。
また、貞慶と明恵の2人は、戒律(僧侶が守るべきルール)を尊重して、腐敗した南都六宗の立て直しを図りました。
叡尊(律宗)【1201年〜1290年】
叡尊は、律宗と真言宗を融合させた真言律宗を作りました。
また、明恵・貞慶を受け継いで、叡尊も戒律を重んじました。それだけではなく、叡尊は貧しい人や病人などに対して幅広い慈善活動を行いました。
この慈善活動は、民衆や朝廷から高い評価を受け、閉鎖的なイメージのあった南都六宗のイメージUPに多大な貢献をすることになります。
忍性(律宗)【1217年〜1303年】
忍性は叡尊の弟子であり、叡尊の活動を引き継ぎました。
忍性は慈善活動の一環として、奈良に「北山十八間戸」という救済施設を建てて、多くの人を助けています。
参考URLwikipedia「北山十八間戸」
鎌倉仏教のまとめ
宗派の系統 | 宗派 | 開祖 | 著書 | 信仰のキーワード |
---|---|---|---|---|
浄土系 | 浄土宗 | 法然 | 選択本願念仏集 | 専修念仏 |
浄土系 | 浄土真宗 | 親鸞 | 教行信書 | 悪人正機 |
浄土系 | 時宗 | 一遍 | なし | 踊念仏 |
禅宗系 | 臨済宗 | 栄西 | 興禅護国論 | 考案問答 |
禅宗系 | 曹洞宗 | 道元 | 正法眼蔵 | 只管打坐 |
独自系 | 日蓮宗 | 日蓮 | 立正安国論 | 題目 |
所属宗派 | 人物 | 特徴・功績 |
---|---|---|
法相宗 | 貞慶 | 戒律を立て直し、法相宗に大乗仏教の思想を取り入れた |
華厳宗 | 明恵 | 戒律を立て直し、華厳宗を机上の理論にせず、自ら実践してみせた。 |
律宗 | 叡尊 | 戒律を重んじ、慈善活動を行い、朝廷・民衆から高い評価を受ける |
律宗 | 忍性 | 叡尊の弟子であり、叡尊の活動を受け継ぐ。 慈善施設として奈良に北山十八間戸を建設して多くの人を助けた。 |
いろんな用語が登場して大変ですが、全部丸暗記しようとせず、1つ1つ少しずつ理解していくのが1番の近道です。
コメント