今回は、1985年に起こったプラザ合意についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
プラザ合意とは
プラザ合意とは、ニューヨーク・プラザホテルにてG5が集まって決めた、為替レートを安定させるための合意です。会合は1985年9月22日に行われました。
当時は、ドルの為替レートが急上昇(ドル高)しており、この急上昇を食い止めて、為替を安定させるのがプラザ合意の目的でした。
プラザ合意はなぜ行われたの?
次に、「なぜG5が集まらないといけないほど為替レートが不安定(急激なドル高)になってしまったのか?」について見ていきます。
プラザ合意が成立した背景には、1980年代前半にアメリカ大統領・レーガンによって行われたレーガノミクスという経済政策が密接に関わっています。
1970年代、アメリカはスタグフレーションという現象に悩まされていました。
国民を苦しめるこの謎現象(スタグフレーション)を解決しようとしたのが、レーガノミクスです。
レーガノミクスの成果には今でも賛否両論があります。・・・が、結果的にスタグフレーションの解消には成功しました。しかし、その代償としてドルの価値が急上昇(ドル高)してしまうことになります。
ここまで、ドル高が悪いというスタンスで話を進めていますが、必ずしも「ドル高=悪!」ってわけでもないので注意が必要です。
ドル高が良いか悪いかは、その時々の国の経済事情によって変わります。
ただ、1980年代のドル高は、下手をすればアメリカ経済を崩壊させかねない「悪いドル高」だったのは、間違いありません。・・・その理由は、記事を読み進めていただけるとわかります。
急激なドル高でアメリカ経済崩壊の予感
レーガノミクスの政策の1つに、政策金利の引き上げがあります。金利を上げてお金の借りにくくすることで、通貨の流通量を減らすことが目的です。世に流れる通貨の量が減れば、物価の上昇を防ぐことができます。
1個100円のおもちゃが200円になるのが物価上昇です。
物価上昇は見方を変えると「100円の価値が下がった」とも言えます。今回の場合だと、100円の価値は1/2になっています。
そして、通貨の価値が下がる原因の1つに「流通する通貨量が多すぎる」というのがあります。
単純計算で、通貨量が2倍になれば、みんなの手持ちのお金も2倍になります。
みんなが昔の2倍お金を持っているなら、おもちゃの値段も2倍の200円になります。なぜなら、2倍までの値上げなら、みんなが感じる経済的な負担は昔と変わらないので値上げしても物が売れるからです。(これは単純な例で、実態はもっと複雑なはずです)
この物価が上昇する仕組みにストップをかけるのが、「金利をあげて通貨の流通量を減らす」という政策なのです。
ちなみに、通貨の流通量のことを経済の専門用語で「マネーサプライ」と言います。
しかし、政策金利引き上げ政策は、その副作用として急激なドル高を招くことになります。
アメリカ国内で金利が引き上げられたと言うことは、言い換えれば「アメリカの通貨ドルを保有して、誰かに貸せば高金利で儲けられる!」ってことです。
この儲け話に乗るため、世界中の投資家たちが一斉にドルを買い始めたのです。こうして、ドルの需要が高まると為替レートはドル高へ急上昇してしまいます。
レーガノミクス前の1978年には1ドル=176円だったものが、1982年11月には1ドル=277.65円にまで上昇。1983年半ばに1ドル 220〜230円で安定しますが、1985年には再び260円とドル高は高まっていきました。
このドル高は、アメリカの貿易に大きな影響を与えました。
ドル高だと、輸入品が安くなるためアメリカでは海外製品が広く流通するようになり、自国の商品が売れなくなります。また、アメリカでは輸入額>輸出額となり、貿易収支が大赤字となってしまいます。
アメリカが陥った財政赤字・貿易収支の赤字の2つの赤字は、経済の専門用語で双子の赤字と呼ばれています。
自国商品が売れないということは、言い換えると「アメリカの仕事が外国に奪われている」と言うことなので、これを改善するためアメリカは貿易収支の赤字解消を目指します。
具体的には、特定の国に対して輸入制限を求めたりしました。しかし、輸入制限は、相手国から見れば輸出の儲けが減ってしまう不利益な制限なので、国同士の関係が悪化する貿易摩擦も起こります。
おまけに、アメリカが赤字覚悟で軍事に資金投入しているおかげで、輸入品の需要が日に日に増し、貿易収支の改善は思うように進みません。
アメリカ財政は大赤字、おまけに貿易収支も大赤字でアメリカのお金が諸外国に次々と流れていく。世界各国は、この状況を見て「このままだと、ドルの為替が急変動してニクソン=ショックの時みたいに世界経済に悪影響を与えるのでは・・・?」と強い不安を持つようになります。
そこで、行われたのが5Gによるプラザ合意です。
ニクソン=ショックについて知らない方は、以下の記事も合わせて読んでみてください。
プラザ合意の内容
G5の国々は、「アメリカが双子の赤字に陥って為替が急変動した諸悪の根源は、ドル高にある」という共通認識を持っていました。
そこで、水面下で各国の間で交渉が進められ、1985年9月にG5がプラザホテルに集まって、次の内容について合意をしました。
日本とドイツの名前が具体的に挙がっているのは、この2国がアメリカへ大量輸出をしていたからです。
プラザ合意では円高に誘導される分、日本やドイツの輸出利益は減ります。その分の補填は内需拡大で賄う事が決まり、アメリカも双子の赤字を少しでも改善する事が求められました。
プラザ合意が世界経済に与えた影響
プラザ合意によって為替レートはドル安に傾きました。
アメリカは以前よりも輸出を行いやすくなり、逆にアメリカに大量輸出をしていた西ドイツや日本は輸出額が急減し、輸出に代わる新しい需要を掘り起こす必要に迫られました。
さらに、プラザ合意によるドル安誘導はやりすぎてしまい、1987年になると次は「ドルが安くなりすぎてしまった件」についてG7が集まってフランスのパリのルーブル宮殿で会議が行われました。(この会議で決められた合意のことをルーブル合意と言います)
アメリカは世界最大の経済大国であるだけに、急激ドル高→急激ドル安という為替の乱高下は世界中に大きな影響を与えました。
特にアメリカへの輸出に依存しまくっていた日本は、経済に大打撃を受けることになります・・・。
日本は不景気に突入!
日本は、プラザ合意による急激なドル安によって不景気に突入します。
1985年9月のプラザ合意直前のドル円の為替レートは、1ドル=240円。
それがわずか一年で1ドル=150円という急激なドル安(円高)となります。
輸出をする場合、お金の支払は現地通貨で行うのが普通です。つまり、日本がアメリカへ輸出するのなら、日本は輸出で儲けたお金をドルでもらうことになります。
1ドルの商品を輸出して日本が得られる利益は、わずか1年で240円から150円へと約60%も減っていることになります。
同じ数だけ商品を売っても、いきなり60%も売り上げが減るというのは企業にとっては相当きついです。
日本経済はアメリカへの輸出に依存していただけに、その影響は凄まじく、東京や大阪などでは倒産する町工場も相次ぎ、プラザ合意は日本経済に深刻な影響を与えました。(この時の不景気のことを、円高不況と言います。)
プラザ合意を乗り越えて、日本はバブルへ・・・
しかし、円高不況は長くは続きません。日本政府がすぐに対応を始めたからです。
政府は輸出額の減少を、以下に掲げるような内需(国内での仕事)で埋め合わせようとしました。
さらに、日本の中央銀行である日本銀行は政策金利を引き下げたり、富裕層の税率を下げるなどして、内需に向けた投資活動をしやすい環境を整えます。
こうして、内需向けの投資活動が活発になると日本の株式や土地などの価格が高騰。
銀行からお金を借りて土地を買い、その土地を担保にして更に土地を買ったりする企業も増加。地価の値段は急激に上がっていきました。
上がり続ける株価や土地価格を見て、多くの人がこう思います。
よくわかんないけど、株とか土地買っとけば絶対儲かるんだから、買わないやつは馬鹿。
寝てるだけで毎日お金が増えてるわww
こう考える人が増えると、株や土地は、実態よりもはるかに高い価格で取引されるようになり、景気は過熱気味に。
1990年になり、過剰な景気を止めるために日本銀行が動き始めると、実態とかけ離れていた株や土地の価格が大暴落。
日本の好景気(バブル景気)は終了し、日本経済は「失われた20年」とも言われる長い不景気へと突入していくことになります。
プラザ合意による円高不況を打開するために行った内需拡大の政策が結果的に過剰な好景気(バブル)をもたらしてしまった・・・、という点でプラザ合意は、「日本のバブル景気のきっかけになった」とも言われることがあります。
この記事を書いている時点で、ドルと円の為替レートは1ドル=約103円となっており、プラザ合意以降のドル高・円安の流れは今もなお継続しています。
プラザ合意はアメリカのために行われたものですが、日本経済に与えた影響は非常に大きく、日本の経済を知る上で、欠かすことのできない重要な出来事の1つとなっています。
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