簡単にわかりやすく!誰でもわかる末法思想【浄土信仰の始まり】

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今回は、平安時代末期に信仰され、その後の日本の歴史に大きな影響を与えた末法思想(まっぽうしそう)という考え方について紹介します。

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末法思想とは?

末法思想とは、仏教における思想の1つ。思想と言っても凄いシンプルな考え方で「ブッダの教えは、ブッダ死後、時間が経つと次第に人々に行き届かなくなる!」というもの。かなりリアリスト思考な考え方です。

末法思想では、ブッダが亡くなった後の期間に応じて3つのフェーズがあると考えます。

ブッダが亡くなってから最初の期間は正法(しょうほう)の期間。人々にブッダの正しいが伝わり、悟りを開くことができる。

次の期間は像法(ぞうぼう)の期間。人々にブッダの正しい教えは伝わるが悟りを開ける者がいなくなってしまう時代。

そして、さらに最後にやってくるのが末法(まっぽう)の期間。ブッダの正しい教えも伝わらなくなり、悟りを開ける者も居なくなる時代。

ブッダの教えって「現世って苦しみだらけだよね?俺、苦しみのない世界を見つけたんだけど、その世界に行くには色々頑張らなきゃいけない(悟りを開かないといけない)んだ。だから、みんな頑張ろうぜ!」って感じなので、末法は仏教徒にとって絶望の時代の到来を意味しました。

像法の時代は、悟りは開けないけどブッダの教えは伝わるので、いわゆる「仏様のご加護を得る」というような発想ができました。現に奈良時代以降の日本は仏法によって国を守る鎮護国家という考え方がありました。

末法になるとそれすら叶わないわけで、人々は戦々恐々です。

正法・像法・末法のそれぞれの具体的な期間は様々な考え方があるのですが、日本では1052年に末法が到来すると考えられていました。

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日本と末法思想

では、1052年の日本は一体どんな時代だったのでしょうか?

この頃は各地の武士勢力が少しずつ力をつけ始めている時代で、1030年頃には関東地方で平忠常が反乱を起こし、1051年には前九年の役と呼ばれる蝦夷との戦争が東北地方で起こりました。(前九年の役は約10年間ほど続くことになります)

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このような社会情勢の不安さも末法思想に拍車をかけ、末法到来は多くの人々を不安にしました。

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貴族と末法思想

末法思想は多くの人々を恐怖に陥れました。しかし、当時の日本の仏教というのは民衆救済という側面はあまり持ち合わせておらず、そもそも末法の存在どどれだけの人々が知っていたのか?という点には疑問があります。

当時の仏教は、「仏法の力で国を守ろう!」という国策の意味合いが非常に強く、僧侶達も今でいう公務員みたいなもんです。すると、仏教に直に触れる機会が多いのは自然と朝廷に仕える高位の人たちに限られ、仏教信仰は貴族中心に行われていました。

なので、「多くの民たちが不安に怯えていた・・・」というイメージはもしかすると正しくないのかもしれません。900年代には空也上人によって民間布教が進められましたが、民衆たちが末法思想をどれぐらい理解していたのかもわかりません。

ちなみに、民衆に仏教が本格的に普及するのは鎌倉仏教で有名な浄土宗・浄土真宗から。平安時代の仏教と現代のように広く普及している仏教とでは、若干のジェネレーションギャップがあります。

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末法思想と阿弥陀(あみだ)信仰

仏教というのは本当に柔軟な思想を持つ宗教で、末法が到来すると「ブッダの教えで悟りを開くのが無理なら阿弥陀如来の力を頼って極楽浄土に向かえば良いのではないか?」という思想が広まるようになります。

仏教というの「ブッダの教えを理解し、実践すること悟りを開き、困苦のない幸せな世界(浄土)へ向かうこと」を目指す宗教ですが、「実は悟りを開けたのはブッダだけじゃないし、ブッダの教えだけが全てではないのでは?」という考え方があります。

悟りを開き浄土へ向かう方法は複数あるものの、私たち人間はブッダの教え以外に悟りを開く方法を知ることができない・・と考えられています。だからこそ、数ある仏の中でもブッダの教えが超重要視されるわけです。

そして、ブッダ以外に悟りを開いて浄土へ向かった者の中には、阿弥陀如来(あみだにょらい)という者がいました。

阿弥陀如来は、「どうすれば人々を救えるか・・・」を必死に考えぬき、「もし私が仏に慣れたら必ず人々を救ってやる!」という48つの誓いを立てます。これを四十八願(しじゅうはちがん)と言います。

阿弥陀如来は、四十八願を達成すべく厳しい修行を行った結果、悟りを開き浄土へ向かうことができました。阿弥陀如来が悟りを開いて向かった浄土は「極楽浄土」と呼ばれ、阿弥陀如来は極楽浄土で四十八願を実現し人々を救うために頑張っているわけです。

末法の時代が到来すると、「いくら頑張ってもブッダの教えがわからなくなってしまうのなら、四十八願の誓いを私たちも実践することで極楽浄土で皆を救おうとしている阿弥陀如来の力にあやかりたい!」という考え方が生まれました。これがいわゆる「他力本願」という思想です。

阿弥陀如来自体は昔から信仰の対象になっていたのですが、末法思想が広がると阿弥陀如来信仰が爆発的に広まりした。

それと同時に、「阿弥陀如来こそ最高の仏である!」という信仰も生まれ始め、これが浄土宗・浄土真宗へと繋がっていきます。

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末法思想と平等院鳳凰堂

末法思想の広まりにより、一気に人気となった阿弥陀如来。

それに呼応するように、この頃から阿弥陀如来にまつわる仏像や寺院が増えていきます。

先ほど話したように、末法思想は貴族らを中心として信じられていました。朝廷で絶大な権力を誇った藤原道長(ふじわらのみちなが)なんかも阿弥陀如来への信仰を深めていて、法成寺(ほうじょうじ)という壮大なお寺を建立したり、阿弥陀如来に関するお経を写経したりしていたと言われています。

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平等院鳳凰堂が建立されたのは1052年。まさに末法が到来した年です。お寺の中には阿弥陀如来像が本尊として安置されています。また、平等院鳳凰堂は極楽浄土の模倣して建立したと言われ、その建築様式や池や庭の配置も極楽浄土のそれそのものを再現したものでした。

末法思想が無ければ平等院鳳凰堂もないし、今頃10円玉に描かれている絵も別なものになっていたかもしれません。末法思想は、地味ながら日本の歴史に大きな影響を与えているのです。

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末法思想と浄土信仰の始まり

末法思想が日本の歴史に与えた影響の中でおそらく最も大きいものが、浄土信仰です。

既にお話ししましたが、末法が到来した1052年以降、仏教では「ブッダの教えを理解・実践する」だけではなく、「阿弥陀如来の救いの力の恩恵をどうすれば受けられるのか?」という発想が広がっていきます。

こうして阿弥陀如来を最も尊い仏と考え、信仰する浄土宗が生まれます。浄土宗は「阿弥陀如来の救いの力を得るには念仏にだけ専念すればいい、複雑な教理の理解や厳しい修行など必要ない!」という単純明快な教えによって、これまで仏教を深く信仰できなかった民衆たちに広く広がりました。

浄土宗は爆発的に民衆に広がりましたが、その背景には浄土宗の単純明快な教理の他に世の乱れによる社会不安もありました。鎌倉時代前の最大の社会不安は源平合戦ですね。

最初の方に話したように平安時代の仏教は基本的に国に管理されているので、爆発的に民衆に広がった浄土宗やその後に生まれる浄土真宗は弾圧を受けることになります。しかしそれでもなお、浄土宗や浄土真宗は現代でも広く信仰されています。

さらに阿弥陀如来への信仰は多くの日本語も生み出しています。例えば・・・あみだくじ!

あみだくじという名前は、その様子が阿弥陀如来の後光に似ていることに由来しています。もう1つは十八番(オハコ)。マンガで得意技とか必殺技によく使うやつですね!

オハコという言葉は、浄土宗や浄土真宗が阿弥陀如来の四十八願の中で一八番目の願を最も重要視していたことに由来しています。

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末法思想まとめ

ちょうど末法が到来すると言われていた頃の日本は、私有地(荘園)の増大で土地を巡る争いが増え、それに併せて武士が台頭し始めた時代でした。平安時代末期になると、朝廷内の権力争いに武士が介入するようになり、政争は複雑化。最終的には源平合戦という日本中を巻き込んだ大戦乱にまで発展します。

そんな混沌とした情勢にジャストタイミングで人々の不安を助長したの末法思想でした。

「末法思想が人々を不安に陥れた」というのは厳密には正しくなくて、当時の社会情勢と末法思想が相まって初めて浄土信仰のような新しい思想が生まれました。

もし、末法である1052年以降になっても日本がとても平和な時代だったら「あれ?末法でも実は仏法の力って衰えてないんじゃね?」って感じで浄土宗も生まれなかったかもしれないし、「あみだくじ」「十八番」と言った言葉もなかったかもしれません。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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