

今回は、1875年に起きた江華島事件と、その結果結ばれた日朝修好条規について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
江華島事件とは?読み方と概要をわかりやすく解説
江華島事件とは、1875年(明治8年)9月20日、朝鮮の江華島付近で、日本の軍艦「雲揚」が朝鮮の砲台から砲撃を受け、戦闘に発展した事件です。
この事件をきっかけに、翌1876年には日朝修好条規(別名:江華条約)が結ばれ、朝鮮は開国することになりました。

江華島事件って、日本が朝鮮を開国させるために起こした事件ってこと?

簡単にまとめると、昔アメリカがペリーの黒船で日本を開国させたのと同じことを、今度は日本が朝鮮にやったんだ。江華島事件は、日本が朝鮮の開国を実現させるための重要なきっかけになった事件だよ。
①日本は朝鮮に国交を求めたが拒否されていた
②1875年、日本の軍艦・雲揚が江華島で朝鮮の砲台から砲撃を受け戦闘に発展
③この事件をきっかけに、1876年2月26日に日朝修好条規(不平等条約)が結ばれ、朝鮮は開国した
江華島事件が起こった背景
江華島事件がなぜ起きたのか。その背景には、明治維新以降の日本と朝鮮の複雑な外交関係がありました。
■書契問題と征韓論の浮上
江戸時代、日本と朝鮮は対馬藩を窓口に国交を持っていました。
ところが1868年、明治維新が起こると問題が発生します。明治政府が朝鮮に送った外交文書(書契)に「皇」「勅」という文字が使われていたのです。

「皇」や「勅」の何が問題だったの?

当時の朝鮮は清(中国)の属国とされていて、「皇」や「勅」は清の皇帝だけが使う特別な言葉だったんだ。日本がこの言葉を使うのは「朝鮮の上に立とうとしている」と解釈されてしまったんだよ。
こうして朝鮮は日本の外交文書の受け取りを拒否。これが書契問題と呼ばれるできごとです。
朝鮮の態度に日本は怒ります。国内では「武力で無理やり朝鮮を開国させてやる!」という征韓論が浮上しました。
しかし征韓論をめぐって明治政府の内部で激しい対立が起き、1873年の明治六年の政変で、征韓論は白紙撤回されました。

武力で開国させる征韓論は中止になったけど、朝鮮の開国を求めること自体は変わらなかったんだ。今度は武力ではなく外交でなんとかしようとしたんだね。
一方、日本は朝鮮のバックにいる清との関係も整えるため、1871年に日清修好条規を結んでいます。
■大院君の失脚と情勢の変化
朝鮮側でも大きな変化がありました。
当時、朝鮮で実権を握っていたのは大院君という人物です。大院君は鎖国攘夷の立場をとり、日本との国交を強く拒否していました。
ところが1873年、朝鮮内部でも政変が起き、大院君は失脚。代わりに権力を握った閔氏政権は、日本に対してやや柔軟な姿勢を見せるようになりました。

偶然にも、日本で征韓論が中止された1873年、朝鮮でも日本に強硬だった大院君が失脚したんだ。このタイミングの一致は面白いよね。
■台湾出兵の衝撃
1874年、日本は台湾出兵を実行します。これは琉球漂流民が台湾先住民に殺害された事件への報復でしたが、朝鮮はこれに強い衝撃を受けました。
「台湾の次は、朝鮮に攻めてくるのでは・・・?」
そう警戒した朝鮮は、戦争を回避するため自ら日本との交渉を持ちかけます。しかし朝鮮内部で意見がまとまらず、この交渉は決裂してしまいました。

交渉が決裂してしまったことで、日本は「交渉で開国を求めてもダメなら、武力で威嚇して交渉を有利に進めるしかない」と考えるようになったんだ。これが江華島事件のきっかけになっていくよ。
江華島事件の経過(1875年9月)
いよいよ、江華島事件の経過を見ていきましょう。
■雲揚号の威嚇航行
日本は1875年の5月と6月、軍艦を朝鮮沿岸に派遣して威嚇行動を繰り返していました。
そして1875年9月、日本の軍艦「雲揚」(艦長:井上良馨海軍少佐)が、朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)の表玄関にあたる江華島付近の海域に進出しました。


江華島は朝鮮の首都のすぐ近くにある島。今でいうと、外国の軍艦が東京湾に乗り込んでくるようなもので、朝鮮からすればとんでもない挑発だよね。

■草芝鎮砲台からの砲撃
9月20日、雲揚は「飲料水を補給するため」として、小型ボートを江華島方面へ向かわせました。
ボートが江華島南東端の草芝鎮沖にさしかかったとき、島の砲台から突然砲撃を受けました。

日本側は「飲み水を求めて接岸しようとしただけなのに突然砲撃された」と主張しましたが、実際には日本が意図的に朝鮮の砲撃を誘発した可能性も指摘されています。日本は朝鮮との交渉を有利に進めるため、事件を利用しようとしていたとする見方もあります。
■永宗城の占領
翌9月21日、雲揚は江華島の砲台に接近して砲撃を開始。朝鮮側も応戦しましたが、砲弾は雲揚に届きませんでした。雲揚は砲台を焼き払います。
さらに9月22日には、陸戦隊22名を永宗島に上陸させ、永宗城を攻略。朝鮮側は35名以上が死亡し、大砲36門や小銃・槍などが雲揚に奪われました。


日本側の被害はわずか負傷者2名(うち1名が帰艦後に死亡)だったのに対し、朝鮮側は35名以上が死亡。圧倒的な軍事力の差が浮き彫りになった戦闘だったんだ。
江華島事件から日朝修好条規へ
江華島事件の後、日本はこの事件を外交カードにして朝鮮との交渉に臨みます。
■黒田清隆と井上馨の派遣
1876年1月、日本政府は黒田清隆を特命全権大使、井上馨を副全権とする交渉団を朝鮮に派遣しました。

黒田清隆は薩摩藩出身の軍人・政治家で、後に第2代内閣総理大臣となる人物です。
黒田らは6隻の軍艦を率いて江華島に向かいました。あえて軍艦で交渉に臨んだのは、朝鮮を軍事的に威圧するためです。

昔、アメリカのペリーが黒船で日本に来て開国を迫ったよね。黒田清隆はまさにペリーと同じ戦法を朝鮮に対して使ったんだ。歴史って繰り返すものだね・・・。
■交渉の経過と日朝修好条規の締結
交渉の目的は、朝鮮に鎖国をやめさせて開国させること、そして自由貿易を認めさせることでした。
朝鮮側の代表は申櫶と尹滋承。交渉が始まると、以下の理由から日本にとって有利に進みました。
こうして交渉は約1ヶ月でまとまり、1876年2月26日、日朝修好条規が江華府で調印されました。

あっさりと交渉がまとまった背景には、日本の軍事力に加えて、清や欧米列強の思惑も絡んでいたんだ。朝鮮は四面楚歌の状態だったってわけだね。
日朝修好条規の内容
日朝修好条規は全12款(条文)で構成された条約ですが、日本に有利な不平等条約でした。特に重要なポイントを見ていきましょう。
■「朝鮮は自主の邦」の意味
日朝修好条規の第1款には、「朝鮮国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有す」と書かれていました。

朝鮮が自主の国・・・って、良いことじゃないの?

実はこれ、日本の巧みな外交戦略なんだ。朝鮮を「自主の邦(=独立国)」と定義することで、清と朝鮮の宗属関係を否定したんだよ。清の影響力を排除して、日本が朝鮮に直接手を出しやすくする狙いがあったんだ。
■領事裁判権(治外法権)
日朝修好条規の第10款では、朝鮮は日本の領事裁判権(治外法権)を認めました。

領事裁判権っていうのは、朝鮮で日本人が犯罪を犯しても、朝鮮の法律ではなく日本の法律で裁かれるという権利のこと。今でいうと、外国人が日本で犯罪を犯しても日本の警察や裁判所が手を出せない・・・みたいなイメージだよ。
しかもこの領事裁判権は日本側だけに認められた片務的な規定でした。

「片務的」っていうのは、片方だけが義務や不利益を負うという意味だよ。つまり、日本人が朝鮮で犯罪を犯しても朝鮮の法律では裁けないのに、逆に朝鮮人が日本で犯罪を犯した場合は日本の法律で裁かれるという、一方的に不公平なルールだったんだ。
朝鮮にとっては非常に不平等な内容でした。
■関税自主権の欠如
同年8月に結ばれた付属の通商章程(貿易に関する細則)では、関税が免除されました。
つまり、朝鮮は輸入品に対して関税自主権(自国で自由に関税率を決める権利)を持てなかったのです。

「領事裁判権」と「関税自主権の欠如」・・・。実はこの2つ、かつてアメリカが日米修好通商条約で日本に押し付けた不平等の内容とそっくりなんだ。日本はペリーの外交手法だけでなく、不平等条約の中身までアメリカの真似をしたってわけだね。
■3港の開港
日朝修好条規では、朝鮮に3つの港を開くことが定められました。

日朝修好条規(日本→朝鮮):日本の領事裁判権を認めさせた/朝鮮の関税自主権なし/3港開港
日米修好通商条約(アメリカ→日本):アメリカの領事裁判権を認めさせた/日本の関税自主権なし/5港開港
不平等条約の「型」がそっくりなのは、日本がアメリカの手法を参考にしたためです。
江華島事件のその後
日朝修好条規を結んだ後、朝鮮をめぐる日本と清の対立は激しくなっていきます。
1882年、朝鮮で壬午軍乱(じんごぐんらん)が起き、大院君が一時政権に復帰。日本は軍事介入しますが、清も出兵してこれを鎮圧しました。
1884年には甲申事変(こうしんじへん)が発生。日本が支援したクーデターが清軍によって鎮圧され、日本と清の対立がさらに深まりました。
そして1894年、朝鮮で甲午農民戦争が起こると、日本と清がともに出兵。これがきっかけとなり日清戦争が勃発しました。

江華島事件と日清戦争には約20年の時差があるけど、江華島事件が日清戦争の遠因を作ったと言えるんだ。朝鮮の開国がきっかけで、日本と清の朝鮮をめぐる争いが本格化していったんだね。
テストに出るポイント&覚え方

テストで狙われやすいポイントをまとめたよ!
「いや(18)な無理(76)ばかりの日朝修好条規」(1876年)
不平等条約で無理ばかり押し付けた、と覚えましょう。
よくある質問
明治政府は朝鮮に国交を求めましたが、書契問題などで拒否されていました。征韓論が中止された後も朝鮮の開国を狙っていた日本は、軍艦「雲揚」で朝鮮沿岸を威嚇。その際に江華島の砲台から砲撃を受け、戦闘に発展しました。日本が軍事的挑発を行い、朝鮮側の反撃をきっかけとして開国交渉を有利に進めようとしたことが根本的な原因です。
「にっちょうしゅうこうじょうき」と読みます。別名「江華条約(こうかじょうやく)」とも呼ばれます。1876年2月26日に朝鮮の江華府で調印された、日本と朝鮮(李氏朝鮮)の間の条約です。
主に2つの不平等な内容がありました。①日本の領事裁判権(治外法権)を朝鮮に認めさせたこと(日本人が朝鮮で犯罪を犯しても朝鮮の法律では裁けない)。②朝鮮の関税自主権を認めなかったこと(関税が免除され、朝鮮は自国の産業を守れなかった)。いずれも日本にのみ有利な片務的規定でした。
江華島事件をきっかけに日朝修好条規が結ばれ、朝鮮が開国すると、日本と清(中国)が朝鮮への影響力を争うようになりました。壬午軍乱(1882年)・甲申事変(1884年)を経て対立が激化し、1894年の甲午農民戦争への両国の出兵がきっかけで日清戦争が勃発しました。
日本側は「偶然に砲撃された」と主張しましたが、日本が軍艦で朝鮮の首都近くの海域を威嚇航行していたのは事実です。朝鮮側から見れば自国領海に外国の軍艦が侵入してきた形であり、砲撃はある意味当然の防衛行動とも言えます。一方的にどちらが悪いとは言えませんが、日本が外交交渉を有利に進めるため意図的に挑発した可能性が高いと考えられています。
江華島事件のまとめ
最後に、江華島事件のポイントをまとめておきます。
- 1868年明治政府が朝鮮に書契を送るが、朝鮮が受け取り拒否(書契問題)
- 1871年日清修好条規を締結
- 1873年明治六年の政変で征韓論が白紙撤回。同年、朝鮮で大院君が失脚
- 1874年台湾出兵。朝鮮が日本への警戒を強める
- 1875年9月江華島事件。雲揚が朝鮮砲台から砲撃を受け、永宗城を占領
- 1876年2月日朝修好条規を締結。朝鮮が開国
- 1882年壬午軍乱。日本と清が朝鮮に介入
- 1894年甲午農民戦争をきっかけに日清戦争が勃発

以上、江華島事件と日朝修好条規のまとめでした。この後の朝鮮をめぐる動きが気になる人は、下の記事もあわせて読んでみてください!
Wikipedia日本語版「江華島事件」「日朝修好条規」「雲揚 (砲艦)」
コトバンク「江華島事件」「日朝修好条規」(日本大百科全書・世界大百科事典)
世界史の窓「江華島事件」「日朝修好条規」
国立公文書館「明治9年(1876)3月|日朝修好条規が結ばれる」
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