今回は、1935年に起きた天皇機関説問題について、わかりやすく丁寧に解説していくよ
天皇機関説問題とは
天皇機関説問題とは、政党による政治を下支えしてきた憲法解釈の1つ『天皇機関説』が、軍部の圧力に屈した政府によって否定されてしまった事件を言います。
天皇機関説は、日本において議会を重んじて政党政治を行うための重要な憲法解釈となっていたため、天皇機関説の否定は、日本の政党政治の終わりを意味するとても大きな出来事でした。
そもそも天皇機関説ってなに?
本題に入る前に、天皇機関説について少しだけ紹介しておきます。
天皇機関説とは、大日本帝国憲法に定められている『天皇の統治権』はどのようなものなのか?という解釈を示した考え方の1つです。
大日本帝国憲法が制定された1889年当初は、「天皇は神に等しい国家を超越する存在であり、国家のありとあらゆる全ての権限を掌握している」という考え方が主流でした。(この考え方を天皇主権説と言います。)
ところが、1910年代に入って政治の民主化を求める声が強まります。(大正デモクラシー)
すると、天皇の権力と民主主義との歩み寄りが求められるようになり、両者を結びつける強力な理論として登場したのが天皇機関説でした。
天皇機関説では、天皇は国家を超越した絶対的存在ではなく、単なる国家の一機関に過ぎない・・・と考えます。
そして、統治権を持つのも国家であり、天皇は国家の一機関として、憲法の範囲内でその統治権を行使するに過ぎないのです。
この天皇機関説は、1912年に美濃部達吉という憲法学者が発表し、その後は大正デモクラシーの大きな原動力となったり、1920年代に行われた長期にわたる政党政治「憲政の常道」を正当化する理論の1つとして、日本の政治を支えるとても重要な考え方になっていました。
天皇機関説の詳細は以下の記事で詳しく解説しているので、気になる方は合わせて読んでみてくださいね。
天皇機関説問題が起きた時代背景
ところが、1930年代に入ると、天皇機関説を批判する声が強くなっていきます。
1930年代は日本にとって激動の時代でした。
・世界恐慌を発端として昭和恐慌が人々の生活に襲いかかり、
・政府がロンドン海軍軍縮条約を結んで海軍の軍縮が決定したり、
・関東軍が独断で満州の軍事制圧を目指した満州事変を起こしました。
そして、これら大きな問題に対する政府の対応に、各方面から強い不満が湧き上がってきます。
昭和恐慌で不景気になったのに、政府はちゃんと対策をしてくれない・・・。
政府は、海軍の意向を無視して勝手にロンドン海軍軍縮条約を結びやがった!
政府は協調外交(幣原外交)とか言って軟弱な外交を続けて、満州の権益を奪われそうになった!
だから俺たちが満州事変を起こしたんだ!!
最終的に不満の声は、こんな風に変化していきました。
政府の政策がダメダメなのは、政党政治が政争に明け暮れて腐敗しているせいだ!
政党政治とそれを支えている財閥を倒して国家を改造すべきだ!!
特に陸海軍の内部には、クーデターを起こして政治を変えようとする国家改造運動と呼ばれる活発になり、1931年頃から、政府や財閥の要人を殺害計画が企てられるようになります。
- 1931年3月
陸軍の青年将校中心としたテロ未遂事件その1
- 1931年10月
陸軍の青年将校を中心としたテロ未遂事件その2
- 1932年2月〜3月
右翼団体の血盟団によるテロ事件。要人2名が殺害される
- 1932年5月
海軍の青年将校によるテロ事件。首相の犬養毅が暗殺され、憲政の常道が終わる。
五・十五事件によって憲政の常道を物理的に終わらせることに成功した軍部は、次は思想面から民主主義的な思想を潰そうとする動きを見せるようになります。
こうした動きの一環として起きたのが天皇機関説問題です。
天皇機関説問題が起こったきっかけ
きっかけは、1935年2月18日、貴族院の菊池武夫という人物が、「天皇機関説は国家に対する謀反である!」と主張したことが始まりでした。
菊池武夫は、元陸軍軍人の貴族院議員。軍部と強い繋がりを持っていました。
菊池武夫は、南北朝時代、南朝に味方した肥後の菊池一族の末裔で、天皇を強く崇拝していました。
だから、神聖不可侵の天皇を国家の一部とみなしてしまう天皇機関説に反対だったんだ。
この批判の声を受けて立ち上がったのが、美濃部達吉本人でした。
1932年に貴族院議員になっていた美濃部達吉は、議会の場で菊池武夫に反論します。
天皇機関説は、天皇主権を否定したわけではない。菊池議員は断片的な知識だけで天皇機関説を反逆的思想と言っているが、それは勘違いだ。
一身上の弁明として、この場で私の学説(天皇機関説)について説明させてもらいたい。
演説が始まると貴族院の場は静寂につつまれ、美濃部達吉は約1時間にわたり雄弁を振るいます。
美濃部達吉が降壇したとき、貴族院では珍しく拍手が沸き起こりました。天皇機関説を単純明快に説いた美濃部達吉の演説は、人々の心に強く打ったのです。
この演説は「一身上の弁明」と呼ばれ、菊池武夫本人も「天皇機関説は天皇主権を否定するものではない」と意見を改めるほどの名演説でした。
美濃部達吉の名演説によって、天皇機関説問題は収束する・・・かに思えましたが、話はこれだけでは終わりません。
天皇機関説問題
菊池武夫が天皇機関説を受け入れても、その背後には軍部や右翼団体などこれを受け入れることができない人たちが多くいたのです。
当時、天皇機関説を疎ましく思う勢力はたくさんありました。
右翼団体・軍部は、先ほど説明したとおり政党政治を邪魔に思っていたため、その根拠となっている天皇機関説を廃止に追い込もうと考えていました。
そして学会の間でも、天皇主権説を唱える上杉慎吉が右翼団体を結びついて、美濃部達吉を批判します。
さらに、天皇機関説問題を利用して政権を奪取しようと目論む立憲政友会も、この動きに同調していきます。
1935年2月当時、首相だったのは海軍出身の岡田啓介。
岡田内閣は立憲民政党を与党とした内閣だったので、立憲政友会はこれを敵対視していたのです。
立憲政友会は、右翼・軍部と協力して、天皇機関説は誤りであると政府に認めさせ、その責任を追求することで内閣を解散に追い込もうと考えていたのです。
天皇機関説問題は、天皇機関説が正しいかどうか・・・という問題を超えて、『天皇機関説問題を利用して岡田内閣を倒してやろう!』という政争の具にされてしまったため、問題が大きくなってしまったんだ。
当初、岡田内閣は天皇機関説を認める方針を採っていましたが、名演説があった2月25日以降、政府や美濃部達吉への攻撃は日に日に激しさを増していきます。
立憲政友会「菊池武夫がやられたようだな」
右翼「ククク…奴は四天王の中でも最弱…」
軍部「美濃部達吉ごときに負けるとは面汚しよ」
1935年2月28日、衆議院議員の一人が天皇機関説は不敬罪にあたるとして、裁判所に刑事告発。美濃部達吉は取調べを受けることに。
※不敬罪:天皇の名誉や尊厳を傷つける行為に対して課せられた刑罰のこと
3月1日、菊池ら貴族院の有志たちが天皇機関説排撃することを決議。
※排撃:相手をしりぞけようと、非難・攻撃すること
3月5日、立憲政友会の有志が同じ決議を行い、8日には右翼団体が天皇機関説撲滅同盟を結成。
天皇機関説を批判する声が強くなると、次は陸軍大臣がその勢いで政府に対して天皇機関説を廃止することを強く迫りました。
天皇を崇める日本の国体と相容れない説(天皇機関説)を決して許してはならない!
さらに議会内でも、有志による決議だけではなく、3月20日には貴族院、22日には衆議院全体として天皇機関説を排撃することが決議され、4月9日には、美濃部達吉の書籍の発禁処分が下されます。
天皇機関説を支持していた政府は、軍からの圧力に加えて、議会という外堀まで埋められ、窮地に立たされることになります・・・。
国体明徴声明
1935年8月、政府はついに天皇機関説排撃の声に屈しました。
8月3日、岡田内閣は「国体明徴に関する政府声明」と呼ばれる声明を発表。
この声明で政府は、『天皇機関説は日本の国体に反する説である』とする公式見解を宣言。
この声明を受け、美濃部達吉は貴族院を辞職に追い込まれました。
10月になると政府は、再び声明を発表。2回目の声明では、政府は天皇機関説を国内から排除することを公式に明言。
※この2回にわたる声明のことを国体明徴声明と言います。
美濃部達吉の辞職、そして国体明徴声明によって、天皇機関説が日本から排除されることが確定しました。
天皇機関説が日本の政治に与えた影響
天皇機関説の敗北は、日本の歴史にも大きな影響を与えます。
天皇機関説は民本主義と両輪をなす、日本の民主的な政治を支えた大事な思想の1つです。
政府が天皇機関説を公式に否定したことによって、その両輪の1つが完全に破壊され、日本の政党政治は息の根を止められる結果となりました。
大学の講義から天皇機関説は消え去り、学校でも天皇を神として崇める教育方針が新たに打ち出されました。
天皇機関説問題によって天皇が神格化されることが確定すると、軍部の動きはさらに過激化していきます。
※大日本帝国憲法では軍部は天皇直属の組織と明記されていました。なので、天皇の権力・権威が増せば増すほど軍部の影響力も増す・・・と軍部の人たちは考えていたのです。
天皇機関説問題が起きた翌年(1936年)には、陸軍の一部過激派が、政府要人を暗殺した二・二十六事件を起こしているよ。
天皇機関説問題は、日本の政治が軍国主義化する大きなきっかけになったとても重要な事件だったのです。
コメント