今回は、吉野作造が提唱した民本主義についてわかりやすく丁寧に解説していくよ
民本主義とは
民本主義とは、「国家の主権者は人民のために政治を行うべし」という考え方のことです。
・・・、この説明だけだと「だから何?それって当たり前なのでは??」って感じだと思います。
しかし、当時の日本にとって民本主義は実に画期的な思想でした。(だから教科書にも載っている!)
※なお、民本主義の思想を当たり前だと感じることができるのは、今の日本が民主主義の国だからです。
なぜ民本主義は画期的なアイデアなのか
日本は、明治維新の際に王政復古の大号令を出して以降、天皇を君主とした新しい国造りを目指していました。
一方で自由民権運動の高まりなどから、帝国議会を設けて、国民の声を政治に反映させる仕組みも用意しました。
しかし、国民の声が強く反映されて天皇の権力が脅かされることを恐れた政府は、帝国議会の権限を強く制限していました。
1890年、帝国議会の運用が始まると、帝国議会は、その時々の政局によって重んじられたり軽んじられたりを繰り返していました。
1913年、民意を無視し続ける桂太郎内閣に民衆の怒りが爆発。国会周辺で大規模なデモ活動が起こり、桂太郎が辞職に追い込まれる事件が起こりました。(大正政変)
結局のところ、政府と民衆の帝国議会に対する考え方に、大きな隔たりがあったのです。
帝国議会は、民衆たちの不満をガス抜きする場所にすぎない。
国の政策は、政府(官僚)が決定すべきで民意を聞く必要などない。
むしろ、民意が力を持つようになれば、天皇の権力が脅かされるわけで、これを許すわけにはいかない。日本は天皇主権の国家なのだからな。
俺たちは天皇陛下の力を脅かしたいなんて微塵も思っていない。ただ、この苦しい生活を少しでも良くしたいから、政府に対して声をあげているだけなんだ。なぜこんな簡単な事情をわかってくれない・・・!
政府が議会を無視するから、俺たちはデモという形で声をあげたんだ。議会が機能していれば、大正政変なんて起こらなかったはずだ。
と、政府と民衆の意見は水と油のように反発し、真っ向から対立しました。
どうすれば、この意見の溝を埋めることができるのか?
・・・ここで登場するのが民本主義です。民本主義は、水と油だった政府と民衆が歩み寄ることのできる可能性を秘めた画期的なアイデアでした。
民本主義を唱えた吉野作造
民本主義を唱えた吉野作造は、東京帝国大学(今の東大)の教授。
吉野作造は、1910年から欧米へ留学をしていました。そして、欧米の政治について理解を深めるうちに、民主主義にもいろいろな仕組みがあることを知ります。
民主主義と一言に言っても、様々な考え方があるのだな。
日本に相応しい民主主義とは、いったいどんな形であろうか・・・。
吉野作造は1913年に帰国。1914年以降、中央公論という雑誌に民主主義の在り方について、いくつかの論文を掲載しました。
この論文に載っていた思想こそが、民本主義です。
民本主義の思想
吉野作造は、よく使われている民主主義という言葉には、実は2つの意味が含まれていると考えました。
そして、この2つの意味を使い分けるため、その1の考え方を「民主主義」、その2の考え方を「民本主義」と呼ぶことにしました。
その1の考え方(民主主義)は、政府としては絶対に受け入れることのできない考え方です。
なぜなら、民主主義を採用するということは、国民が主権を持つべきであり、天皇が主権を持つことを否定するからです。
日本は天皇主権の国家であるから、政府が民主主義を否定するのも理解できる。
しかし、その2の考え方(民本主義)なら、政府と民衆は妥協点を見つけることができるのではないだろうか・・・?
と、吉野作造は考えました。
なぜかというと、民本主義は主権者が人民のために政治を行うことを求めているのであって、「誰が主権者なのか?」という点については誰でもOKだからです。
日本に民本主義を適用すると、「天皇(国家の主権者)は、人民のために政治を行う」となります。この考え方なら、政府が民意軽視の口実にしていた「民主主義は天皇主権を脅かすからダメ!」という理屈は通用しません。
さらに、民衆たちの「天皇の権力を脅かすつもりはなくて、ただ苦しい私たちのために政治をしてほしい」という切実な願いは、まさに民本主義が目指すべき姿そのものです。
つまり、
民本主義を採用することによって、政府が民意を軽視する理由としていた「民主主義は天皇主権を脅かす!」という理屈を完全論破することができ、
かつ、
民本主義の思想は、大正政変でデモを起こした民衆たちの望みそのものである
ということです。
もし政府が民本主義を受け入れてくれたら、政府は天皇主権を守ることができるし、民衆の声も政府に届くようになるはずです。人民のニーズ(声)を知らなければ、人民のための政治を行うことはできませんからね。
こうなれば、水と油だった政府と民衆がwin-winの関係を築くことだって可能かもしれません。
このように、民本主義は政府を論破する強力な武器となったため、広く民衆に受け入れられ、政治への民意反映を求める大正デモクラシーの大きな原動力となりました。
民本主義を実現するために
では、民本主義を実現するには具体的に何が必要なのか?
吉野作造は、政府が普通選挙と政党内閣(議院内閣制)を実現することが必要であると考えました。
当時は、一定の納税額がある人しか選挙権を持つことができませんでした(制限選挙)。俗な言い方をすれば、金持ちしか選挙権を持っていなかったということです。
これでは、帝国議会にしっかりと国民の声を届けることができません。まずは、納税条件を撤廃して、広く国民に選挙権を与えるべきだ!(普通選挙)と考えたのです。
普通選挙で国民の声が帝国議会に届くようになったら、次のステップに移ります。
次のステップとは、その声を実際の政策として形にすることです。これは政府(官僚)の仕事です。
しかし、1890年に帝国議会が設置されて以来、政府はたびたび帝国議会を無視した政策を続けてきました。(大正政変が起こったのもこれが原因です。)
いくら普通選挙で帝国議会に国民の声を届けても、政府に無視されてしまったら意味がありません。
吉野作造はこの問題を解決するには、選挙で選ばれた議員が政府の要職(大臣)を兼任する政党内閣を成立させることが不可欠だと考えました。
ここで1つポイントなのは、普通選挙や政党内閣という考え方自体は別に新しい発想ではないということです。
普通選挙を求める声は昔からあったし、政党内閣だって短命ながらも隈板内閣によって実現したことがあります。
吉野作造の凄いところは、これらを民本主義の思想と融合させた点にあります。
これまで漠然と訴えていた普通選挙・政党内閣の実現を、民本主義の思想で政府を完全論破した上で、「民本主義の実現には普通選挙・政党内閣が必要である」という一本筋の通った強固な理論で政府に訴える・・・ということができるようになりました。
簡単にまとめると、「民本主義のおかげで大正デモクラシーが大幅にパワーアップした」ということです。
黎明会と東大新人会
ここまでの話だと、民本主義は素晴らしい思想のように思えますが、政府はこれを信用しませんでした。
民本主義などという都合の良い話、信用できるか!
学者たちが何を言おうとも民本主義は所詮、大正デモクラシーを過激化する危険な思想に過ぎないのだよ。
1918年、大正政変を超える全国規模の超特大デモが起こります。米価格が高騰したことに不満を持った人々がデモを起こしたのです。(米騒動)
米騒動によって米の価格高騰は収まったことで、民衆の中にはデモ活動に自信をつける者もいました。
大正政変で桂太郎を辞職に追い込んで、米騒動でも民衆の力で米価格の高騰を防ぐことができた!
俺たちがみんなで団結して声をあげれば、その声は政治を動かす大きなパワーになるんだ!!
こんなイケイケムードの中、同じ1918年、吉野作造は同志を集めて黎明会という会を立ち上げ、世間に対して自らの思想を広める取り組みを始めました。
黎明会のメンバーには新渡戸稲造や、女性の選挙権を求めた与謝野晶子など、著名な人物の名前もありました。
さらに1919年、吉野作造の思想に共鳴した東大の学生たちが東大新人会と言う組織を結成して、黎明会を支持しました。
世には民本主義ブームが到来します。
民本主義ブーム終わる
黎明会・東大新人会が結成され、民本主義を求める声が高まるか・・・と思われましたが、1920年代に入ると、民本主義ブームは急速に終焉に向かうことになります。
なぜかというと、1920年代に入るとロシア革命の影響によって新たに共産主義ブームが到来したからです。
共産主義・社会主義については、以下の記事も参考になるかと思います。
1920年になると会員同士の意見の違いにより黎明会は解散。1921年には東大新人会が東大の学生団体に改組され、民本主義よりも共産主義の思想に傾倒していくようになります。
民本主義は、真っ向から対立する政府と民衆の意見をうまく取り込んだ画期的な思想でしたが、政府の弾圧や共産主義ブームによって下火となってしまいました。
※なお、民本主義の次に到来した共産主義ブームも、1925年に制定された治安維持法によって大弾圧を受け、結局、政府や議会制度の改革がなされることはありませんでした。むしろ民意は無視され、軍部の意見が尊重されるようになり、この状況は第二次世界大戦で日本が敗戦するまで続きました。
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